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二幕の弐。


        ◇


「おかえり」

「ごめん遅くなった」

「本読んでたから怒ってないよ」

「読んでなかったら怒ってるのかよ」

 表情を繕えているか心配だった僕は、薄暗くなって見づらい中、井戸からくみ上げた水に顔を映して表情の出来栄えを確かめてから宿に戻った。表情は上出来には程遠かったが、いつも布をかぶっている白相手ならなんとかごまかせると思いこむと踏ん切りがついた。

 でも部屋に入って、蒲団の上に寝転んで本を読んでいた白と目が合った瞬間、「疲れてるね」と目でものを言われた気がして、僕の思いこみは浅はかだったことを悟った。それでもなお僕は何事もなかったフリを続けようとしたが、軽口も長くは続かなかった。沈黙が満ちることだけは避けたかった僕は、せめて何か言おうとしたが、言葉は口まで上らない。

 白には心配させたくない。だったら、いつものように振る舞えば(、、、、、)いいだけなのに。

「……これ」

「は?」

 反射的に問い返すと、白は戸惑いつつも間を潰すように自分が読んでいた本を掲げて、僕に近付くと手渡してくる。目を落とすと手に乗せられていたのは僕が渡した……春画本だった。いや、なぜ、今この時に。白はわずかに、顔を赤くしている。

「ずっとこれ読んでたの」

「あ、あれ? 貸し本屋、行ってないのか」

 こくりとうなずいて顔を背ける。

「いくら春画本でもとりあえずは読んであげないと可哀想かな、と思って」

「……律儀だな白は」

「普段なら読まないけど。八兵がくれたものだから」

 八兵がくれる物ならなんでもいいから、と加えて、すすっと立ち上がる。僕の横を抜けて、扉の前に立った。こちらを見上げて小さく、頭を下げる。衣擦れの音がした。

「ごめんね」

「なにが?」

「前もらった本は……あの人に捨てられちゃったの」

 申し訳なさそうに、布の隙間から僕を見る目は、ひどく辛そうに思えた。同時に門左衛門さんが昨日会った際にそのようなことを言っていたのを思いだし、もう何度めになるかわからない恨みごとを心中に垂れ流した。ちくしょうめ。

 あの人はいつも、そうなのだ。白の部屋を埋め尽くす蔵書を、少しずつ端っこの方から削り取って捨てていく。直接的に何かするのではなく、間接的な嫌がらせを積み重ねていく。

 ああ、あの人は、本当に。本当に、白のことが嫌いなんだろうな。ちくしょうめ。

「お前が悪いわけじゃないんだから、謝るなよ。本ならまた買ってやるさ、欲しいのあったら言ってくれ。僕が探してきてやるから」

「……ありがと。でもこれ、話自体はおもしろかったよ。だからまた次に買う時も、八兵が選んでみてほしいな。八兵の感性に任せると、私好みの本が見つかりそうだから……ああでも、今度はあの、えと、そういう場面がない本にして」

 珍しくしどろもどろになった白に、もう買わないって、と返しながら笑おうとした。でも門左衛門さんに抱いた感情のせいか、それともまだ先ほどまでの時路さんとのやりとりをひきずっているのか、僕の顔の筋肉は正常に動いてはくれない。ぎしぎしと、頬の肉が凝り固まるような感触だけががらんどうの体の内に響いて、居たたまれない心地になる。軽いやりとりはまだ出来ない。重苦しい顔が崩せないうちは。

 視線を頬に感じて、見下ろせば白と目が合う。さすがに隠しても無駄だと悟った僕は表情を取り繕うことをやめて、「今ちょっと顔が疲れてるんだ」と言い訳じみたことを語った。白はそう、とだけ呟き、ちょっと考え込んで、かぶった布をちょっとずらす。いつも隠れているその姿が、露わになった――。

 息を呑む。いつだってそうなのだけど、白の姿を直接見ると僕は固まってしまう。目の前の瞳は燃える輝きを静かに湛えて僕を見上げ、そのまま目を合わせて、ほんのわずかな間、まばたきすらせずに向き合った。互いに、見開いていた目が乾いて痛くなるくらいまで。

「いいんだよ」

 白が言う。

「八兵は、どんな顔してても」

 近付いた吐息が目の表面を乾かした。ようやく僕が目をしばたくと、白は雪がほどけたような淡い笑みを小さく浮かべて、再び布をかぶってしまう。彼女が投げかけた言葉はどう受け止めればいいのかよくわからず、僕は驚かされたという結果だけを持たされ、半笑いで溜め息をついた。そんな僕の手を引く白。

「じゃあそろそろ、夕ご飯食べに行こうよ」

 僕の顔について特に何を問うでもなく、僕を引っ張って部屋の外に連れ出す。……僕の秘密は、気付かれていないのか。気付いていて見ないフリをしているのか。ともかくも、僕みたいな不気味な存在に、何も言わずにおいてくれる。白だけは、いつもと変わらない対応を見せてくれた。僕はそのことが単純にうれしくて、肩に担いでいた風呂敷をおろして、微笑みかける。今はさっきより少し、良い表情が出来ているような気がした。


「月見うどんとてんぷらうどん、ひとつずつ」

「はいよ、月見とてんぷらー」

 大通りに面したうどん屋に入り、僕と白は隅の席に向かい合わせに座った。室内でも布をかぶって離さない白を見た店主とお客は少し訝しげな目をしていたが、怪我の痕を隠しているとでも思われたのか、程なくして興味は逸れた。僕は布の奥へ湯呑みを傾けている白を見つつ頬杖をついて、ぐるりと店内を見渡した。古そうな割に小奇麗な店ではあるけど、さして客入りが良いわけでもない。なんとも儲かっていなさそうな店だ、などとは万年金欠の僕に言えたことではないだろうが。

「でもうどんなんかで良かったのか?」

「うん。うどんは普段食べないし」

「そりゃそうか。普段はいいもの食べてるもんな、お前」

「いいもの……では、あるけど。あの家の中で食べたものの中でおいしいと思ったものは一つもないよ。八兵が買ってきた団子の方がよっぽどおいしい」

「お前、舌まで変わり者だな」

「八兵ほどじゃない」

 僕はこれまで変わり者などと失礼なあだ名で呼ばれた覚えはない。でもいつかそう呼ばれた場合は否定しきることが出来ないだろうことが悲しい。

「大体、八兵はうどんを食べれるくらいにしかお金持ってないだろうな、と思ったからわたしはここに入ったのに。気遣いを気遣いで返されると、なんかすごいむかつく」

「独り合点していらん気遣いして勝手にむかつくな。ふん、僕だってお前みたいに、うどんにてんぷら乗せるくらいの余裕はあるさ」

「あっそう。じゃあ頼もうよ。……すいません、さっきの月見うどんに天かす山盛り追加で」

「せめてタネのあるもの頼めよ! 中身すかすかじゃないか!」

 店主はいい笑顔で白の注文に頷いてしまった。僕の叫びはむなしく響き、運ばれてきたのはたぬき月見うどんになってしまっていた。ふつう月に乗っかっているのはうさぎだろう。そこどけ、たぬき。ところが箸で払っても払っても、月もうどんも見えてこない。おい、どれだけたくさん載せたんだ。

「……そんなに天かす嫌いなの?」

「別に、嫌いじゃないけど……こう、山盛りになって表面を占拠してるのを見ると萎える」

「てんぷら、ほしい?」

「お前の食べかけじゃないかよ。しかもそれ、ほとんど衣だろ。貧乏人いぢめて楽しいのか」

「別に。楽しくはないけどそこはかとなくそうせざるを得ないような気がして」

「義務感にでも駆られてるのかお前は」

 天かすをざらざら喉に流し込みながら汁をすすった僕は、器の縁越しに白を見つめた。机の上に置かれた器に覆いかぶさった白がうどんをすする音だけが布の奥から聞こえていて、若干不気味である。ふうと息を吐いたのが聞こえると、ぼそぼそと喋るのが聞こえた。

「もしかするとなにかの義務感に駆られて、この町までついてきちゃったのかもね」

「天啓でもあったのかよ……」

 もともと天啓なんて、告げる奴がろくでもないんだから、語られる内容も同じくらいろくでもないひどいもんなのだと教えておいてやりたい。

「ところで八兵、本当にお金は大丈夫なんだよね?」

「しつこいなお前も。蓄えはないけど日々生きるのに困らない程度には持ってるって」

「なら、いいけど。税も払えない人、最近多いらしいから」

「昨日会った茶屋の主人も同じようなこと言ってたな。大丈夫、僕の場合先代の名前が売れてたおかげで黙ってても仕事は飛び込んでくるし、食いっぱぐれることはないだろ」

「人が言わなきゃ食べることをしょっちゅう忘れる人が、よくそんな自信を持てるよね」

「いやあ、眠ることは忘れてても限界になったら勝手に体が眠ってくれるからいいんだけどさ、食べることは自分からやらないといけないのが面倒くさいんだよな」

 あ、メンドクサイって言っちゃった。じろりと僕を睨む白の視線が鋭くなった気がしたので、顔を隠すように器を持ち上げて汁をすすった。鰹の出汁がいい味を出していた。

「……まあ、そこそこでいいんだよ、そこそこで。僕の今年の目標は『目指せ、中の中』」

「小さい目標ね」

「じゃあ『年内に蒲団を買い替える』」

 今度は半分本音、というか、願望。さすがに来年も畳より薄いせんべい蒲団で冬を越したくはないからなあ、という思いからのものであるのだが。

「しみったれてる」

 ささやかな目標は一刀両断された。

「庶民にあんまり高い目標掲げさせるな。大体、そういうお前こそ何か目標はあるのかよ」

「……現状維持かな」

「夢も希望も無いな」

「それは違うよ。あくまでも現状維持は目標であって、夢と希望はまた別にあるの」

 熱っぽく語る白。しかし夢と希望って言葉を使うと、達成が困難な物事であると定義したように思えて仕方ないな。それとも、そう理解した上で言ってるのか。どちらにせよ少し笑えた。

「なら、どんな夢だ?」

「言ったら笑うと思うから言わない、って返すつもりだったけど。八兵もう笑ってるからどうしよう。とりあえずそう、抽象的に言うと」

「具体的に言えよ」

 そう促すと、白はちょっと考える姿勢を見せた。具体的な願望があるわけではなかったらしい。しばらくうどんの器の底を睨んで何事か考えを巡らして、なお納得するそぶりは一切表れず、白は一度ちらと僕の顔を窺った。僕は既に笑うのをやめていた。

「……幸せになりたい、かな」

 ちっとも具体的じゃない。しかもそれは、それこそ希望に満ちあふれた夢と言う奴で。

 言った本人の方が、苦々しげに笑いそうになっていた。

「今はおおむね満足だから、それなりに幸せなんだろうとは思うけどね」

「じゃあ、夢って言って遠ざけるほどじゃなくて、目標に近いんだろ」

 僕の言葉にびっくりしたような顔をして、白は目標、と口の中でつぶやく。そしてなにやらその言葉を気に入ったのか何度か口にして、薄く、微笑んだ。

「そうかな。そうだと、いいけど」

「どっちなのかはお前の幸せがなんなのかにもよる。部屋と本の山さえあればいいって言うならもうこれ以上はないだろうし」

「だーかーら、前も言ったでしょ。本はあくまでも暇つぶしに過ぎないんだよ、って」

「そういえば僕の前で本読んでたことってほとんどないな」

「………………うん」

 あれ? なんで突然声が小さく? まあいいか。

「は、八兵こそ。なにか夢とか、ないの?」

「夢? ゆめ、か」

 叶うかどうかわからないそんなことに気を回す余裕なんて僕にはないからな。蓄えもないし、日々生きるのに精いっぱいだ。だから短期的な目標、つまり蒲団を買い替える、程度のことしか思いつかない。夢も希望もないのは僕の方だ。

 だとしても直接そう伝えるのも気が引ける。

「今おおむね幸せだから特にないかも」

「そう。それなら、二人ともこれからも平穏無事でいられるといいね」

「まったくだ」

 器をことりと卓に置いて、僕と白は笑った。


        ◇


 森を背にして建つオンボロ宿に戻って、風呂に入る。この町まで来るために山道歩いて汗をかいていたので、さっぱりしてから眠りたいところだった。お代を支払って買った薪を前に、僕は火をおこした。火打石をかつかつと打ち合わせ、(もぐさ)という、ヨモギを乾かして作る綿のようなものに火を移す。

 これ一応お灸の時に使う奴なので、あまり無駄遣いしたくないんだが。火の粉が散って点った火種を松の葉に移し、小枝の下にくべる。ぱちぱちと火が弾ける音がして、みるみるうちに火は炎にまで成長した。竹筒で息を吹いて炎を育てつつ、徐々に太い薪へ燃え移らせていく。

「これだけやれば、消えないようにだけ注意してればいいだろ」

 あとは湯加減がちょうどよくなるまで待つだけ。屈んだ姿勢のまま上を見ると、風呂場の小窓からはまだ湯気の気配はない。もうだいぶ辺りは暗くなってきているので、早めに済ませたいところだ。仕方なく、火力を上げるために、くべた薪の位置を動かしたり薪を追加したりする。ふふん、この辺に来るまで僕は先代と共に各地の湯治場などをぶらついていたので、釜炊きの真似ごとも堂に入ったもんなのである。

 しばらく続けると、上の小窓から湯気が出てきていた。とっぷり火が暮れてしまったので目で見ることは出来なかったが、手をその辺りにかざすと水気を感じる。

「しろー、もう入れると思うぞー」

「ん、わかった」

 風呂場の前で待っていた白に呼びかける。ちゃぷちゃぷと、湯加減を確かめる音が壁越しに聞こえた。次いで、帯をほどく音と、少し遅れて着物の落ちる音。どうやら湯加減はよかったらしい。僕は燃える薪の山を崩して炎を小さくし、それ以上湯の温度が上がらないようにした。崩れて爆ぜた火の粉の嵐で近くが照らされ、僕の影が闇に伸びる。

 とぷん、と軽く小さなものが湯に沈む。ふう、と溜め息が聞こえて、それっきり。ぱちぱちと火が踊る音と、どこかで野犬の遠吠え。聞こえるものは少なく、わずかな沈黙の間隙にだけ水音が聞こえた。火加減を放っておくのは躊躇われたので、僕は火の横、壁に背をつけ座り込んだ。正面には鬱蒼と森が広がっている。薪を持ってくるにはちょうどいいのだろうけど、真っ暗な闇が蠢いているそこは僕の目には少し危なげに映った。

「あんまり長くつからないでくれよ。冷めた湯につかるのは嫌だから」

「なら一緒に入る?」

「心にもないくせに、定番のお誘いだなあ。お熱いことで」

「……八兵が冷めてるもの」

 ぼそっとした白の声はよく聞こえなかったが、よくあることなので気にしなかった。

 見上げた空は星がぱらぱらまたたいていた。遥か昔、あの森の中で倒れ伏していた時にもこんな星空だったような気がする。そのあと〝奴〟と出会い。僕の世界の全ては一変して、それでも今日まで生きてきた。そして今日になって、同類に出会った。

 二度と顔を見たくない同類。まさに僕そのもの、僕と同じ顔をしてみせた時路さん。あの人は言った。『奴も私たちと同じ人間は両手足の指で足りる程度にしか作っていない』と。つまり時路さんも僕と同じく、あの闇色の目をした〝奴〟によって考えを植え付けられ、人生を狂わされた一人だ。そう、あの人だって頭の中はぐしゃぐしゃにかき回されてしまっているんだ。

 けれどあの人は僕とは違って、どこか、何かやりがいを感じているかのように人と接し、教えを与える立場にまでなっていて。見ていて、何か嫌な気分になる。

 ただ、嫌な気分になるのが自分のせいだとはわかっている。

 自分と同じような人に見えても、あの人は僕とは違う。勝手に僕は自分との共通項を見出してあの人を嫌おうとしたけど。結局僕が嫌いなのは自分自身で、自分に無いものを持つ人間が妬ましいだけだ。

 今日まで僕は〝奴〟と出会ったことでこんな人生になってしまったと思い続けてきたけど、〝奴〟との出会いの有無なんて関係なく、本当は僕が僕だからこんな人生になってしまったに過ぎないのかもしれない。時路さんに八つ当たりしても仕方がないことを、いい加減に理解しなくてはならないのだろう。

 まあ、お互いのことを恐怖の(、、、、、、、、、)対象として見ている(、、、、、、、、、)僕らだ。二度と会うことはないだろうが。

「八つ当たりは、やめとこう」

「誰に?」

「誰にでも」

「へえ。いい心がけだね……。さて、明日起きたらごはん食べに行って、それから貸し本屋に行こうね。あと昼を食べてからゆっくり帰る。いい?」

「もちろん」

 快諾すると、んー、と伸びをしたような声が聞こえて、じゃぷんと水がはねた音。体が温まって気分が良くなってきたのか、ふんふんふにゃふんと鼻歌が聞こえてきた。僕も少し気分がよくなる。明日くらいはのんびり過ごすのもいいかもしれんね、と考えつつ、上を見上げた。

 ぱちりと爆ぜる薪。一瞬辺りが強く照らされる。僕から右手へと伸びた影は、他の何かの影に当たってそれ以上伸びることを押しとどめられた。

「へ、」

 ぞぐん、と地面から土が削ぎ取られる。とっさに左へと飛んだためかわすことが出来ていたが、反応していなければ頭蓋を削ぎ取られていた。えぐれた地面の向こうを見る。

 ばぢっと爆ぜ飛ぶ火の粉で、相手の手に刀らしき得物が握られていることが影絵のように映し出される。じり、と後ずさりすると、次の瞬間には距離を詰められた。ぐるっと踵を軸に体を反転させて、僕は全速力で逃げ出した。

「っうおわっ!」

 瞬間、通りへと繋がる左側の道から棍棒を携えた伏兵登場。進路を塞がれた僕は、仕方なく右に折れて森の中へと飛び込んでいくこととなる。じぐざぐに走って、闇にまぎれて雲隠れだ。木々の間をすり抜け、茂みを飛び越し、蒼い闇に取り巻かれる中で必死に人里の方を目指す。ところが道を選べば選ぶほどに伏兵が登場し、僕の針路は何度も変更させられた。

 そうして走らされることしばし、ようやく脚を止めることを許された僕。つかの間の休憩に、しかし安息はない。未だ緊張は走り続けている。

 ……こりゃまずい。人気の無い方へと徐々に誘導されている。途中から僕は相手の意図が読めてきて、走りやすい道とか人里の方向への道とかに伏兵を仕込んでいると感づいた。だからその道を選ばないようにして、おかげで今はこうしてわずかな間でも身を隠すことが出来ているが、取り囲まれるのは時間の問題だ。こうしている間にも、武装した人間がうろうろと周りに増えてきている。

「お命頂戴、なんて言われるような悪事働いたっけなあ」

 ぼやきながら、周囲の人を指折り数えた。もう辺りがすっかり暗い上に相手方も皆黒っぽい着物を着ているようなので見えづらいことこの上ないが、月明かりを頼りに探して、十四、五人は見つけることが出来た。すれ違うたびに、仲間同士で「いたか」「いない」みたいなやりとりをしている。

 くそ、僕がそんなにお金を持っているように見え…………しまった、持ってるじゃないか。白が無駄に多めに持ってきたお金も、今僕が懐にしまいこんでいるんだった。余分なお金が争いを招いたのか。嫌だなあホント、お金は無いと心配だけどあっても苦労する。

 そうだ心配と言えば、白の方にもこいつらの仲間が出向いたりしてないだろうか、それだけが心配なんだが。

「……やっぱ、戻らなきゃな」

 わらわらと動く金目当ての夜盗と思しき連中を見下し、僕はゆっくり立ち上がった。人員は今やほとんどこの一帯をうろついているらしく、逆に言えばここさえ突破すればどうにか逃げることも出来そうだ。そもそも長時間隠れていられる場所でもないし。

 懐に手を突っ込んで、寛永通宝を三枚ほど取り出すと空に向かって放り投げた。少しの間をおいて落ちてきたそれがちゃりーんと音を立てると、僕を探していた連中の動きが止まる。音の出所を耳で辿ろうと無防備な瞬間をさらけだした。

「探せ」「音がした!」「どこにいる」「きっと近くにいるぞ!」

 最後に言った人、大当たりだ。

 僕は身を隠していた木から飛び降り、真上から思い切り体重をかけて相手の肩を踏み潰した。ぎゃあと小さくなっていく悲鳴と共に足下の男は膝から崩れ、地面にめりこんだそいつをさらに蹴り転がして足止めに使い、人の波が押し寄せる前に走り出す。またも一時の沈黙があって、そのあとに皆怒りに湧いた。怒声が響き渡って、殺気がむんむんと立ち込める。皆それぞれの得物を高く振り上げる。

 正面から来た一人が、袈裟がけに刀を振り下ろしてくる。でも所詮素人の付け焼刃という感が否めないお粗末な一太刀で、何の武術の心得も無い僕でも冷静に見切ってかわすことが可能だった。重心がぶれすぎた隙の多い一太刀は、前転して相手の脇を過ぎた僕の遥か頭上を通り過ぎた。起き上がるとすぐさま僕は走り、宿の方へ急いだ。

 森の中を駆け回り、しばらくすると視界の彼方にまだ完全に消えていなかった風呂釜の火を見つける。ひたすらにそれを頼りにして僕は走り、風呂場の小窓に飛びついた。

「し、」

 ろ、と名前を呼ぶ前に僕は頭を横に振った。同時に、小窓の縁が切っ先で斬りつけられた。

 一瞬の間をおいて、確認のようにおずおずと声がかけられる。

「……あ、八兵?」

「そうだよ八兵だよ。無事で、何より」

 僕の首も無事で何より。暗くて見えにくかったろうし、臨戦態勢に入っていたのはよくわかりますがもう少し攻撃対象の見極めは出来ないでしょうか、白さん。壁際に退避しながら僕は呼吸を整えた。

「……あ、助平(すけべ)

「そういう意味で息切らしてるんじゃないっての」

 ごめん、たしかに見えたけど、描写しきれるほど見えてないから。切っ先の方が印象強い。

「とにかく表から出てこい。大通り使って逃げるぞ」

 うかうかしてるとせっかく稼いだ時間をふいにしそうだったので、呼びかけてすぐ僕も表から宿に飛び込む。宿の主人も不在、他に客もいないようだったので、荷物を包んだ風呂敷だけ引っ掴んで廊下に出ようとしたが、その前に部屋の中に違和感を覚えた。白の刀が、枕のそばに置いてあった。

 風呂場に踏み込むと、先ほどは一瞬しか見なかった上に暗闇だったためわからなかったが。床が血にあふれ、その真ん中で男が一人倒れていた。おそらく白は襲われた瞬間に刀を奪い取って、相手を切り捨てたんだろう。そう推測を立てて床から顔を上げようとすると、きつい声音が浴びせかけられる。

「またのぞき?」

「っと、悪い」

「冗談だよ。もう血も洗い流して着物も着てる。早く逃げなきゃまずいんじゃない?」

 顔を上げると、男から奪い取った刀を着物と帯の間に差して、あたまに布をかぶり終えた白がいた。白は血を踏まないように、男の背を踏みつけてから跳躍して僕の横に降り立つ。まだ生きているのか、男は息が詰まったようなくぐもった声を出した。

「言われた通り、刺青がありそうだった脇腹とか背中は斬ってない。刺青が無いのが見えたから、手足だけ斬っといた」

「そっか」

「行こ」

「うん」

 ……心配する必要はまったく無かったな。白の剣の腕をすっかり失念していた。といっても白に奴らの相手を全て任せてしまうのはまずいので、並んで表通りに飛び出した僕らは、さっきの連中に追い付かれないようにひた走る。

同心(どうしん)がいるところに逃げ込もう。正面切ってやりあうのは面倒だ」

「詰所ってどの辺りにあるの?」

「このまま真っすぐ行けば左手にあるはずだ。夜中に大捕り物になるとは思うけど、たまにはしっかり仕事してもらうことにしよう」

 後ろからは地面を踏みならす音と共に連中が大挙して押し寄せてきており、さほど脚が速いわけではない僕と白は追い付かれないために全力を出した。まだ温かい春の夜風が、僕らの傍らを通り抜けて後ろまで過ぎていく。やれやれ、こんなにのどかな夜なのに、物騒なことってのはあるところにはあるもんだねえ。

 やっとのことで土間に駆け込んだ僕と白は、奥の座敷まで土足で失礼して、助けを求めた。

「すいません! 変な暴漢たちに追われてるんです! 助けてください!」

「……はい?」

 煙管を吸いつつこちらを向いた同心は八人ほど居た。もう足音は背後まで迫っていて一応こっちも切羽詰まっていたので、声を荒げてもう一度だけ言う。

「だから、いまも後ろまで得物を携えて追って来てるんです! もうここに踏み込んできそうなんです!」

「はあ……」

 なんともはや、気の抜けた返事だった。もう夜も更けてきているというのに、いつまでこいつらは昼行燈(ひるあんどん)なんだ。近付く足音は意にせず、むしろ僕たちが土足で上がりこんでいるということに対して腹を立てている様子さえ見受けられた。

 八人の同心はおもむろに立ち上がり、すらりと刀を抜いた……いや、そんな、ばかな。僕と白は壁を背に、出入り口のある左手を追っ手に、右手を同心に阻まれた。同心の一人が言う。

「……追われているなどとのたまっていますが、あなたたちの方が怪しいのですよ。血のにおいを漂わせていて、物騒な感じがする」

 声音に敵意を含ませる同心たち。言い分としてはごもっともだったが、申し開きすら聞かずに刃傷沙汰に発展させようというそっちの方が物騒だと主張したい。ところがふと、そんな彼らの表情を見て、僕は気付く。少しだけボケたような表情。うらぶれた、疲れた様子……

 それは昼、裏通りに入った際に、僕らに向けられた表情、視線にあまりにも酷似していた。不気味さ以上に、不可解だという気持ちがわき上がる。だが考え事をしている余裕はない。今まさに僕ら同様土足で踏み込んできた連中も、刃を抜いたところだった。

 よくよく明かりの下で見てみると、この連中も同心たちと同じ表情を浮かべている。なんだ、この町はこんなんばっかりか。それに刀だけでなく、鋤や鍬、竹槍などの道具を得物にしている奴も多いが……夜盗じゃなかったのか? この町の、住民……? ええい、よくわからない。 

 なにはともあれ同心も含めると二十人以上を相手にしなくてはならないのだ、白もあまり手加減している暇はないだろう。

「やるしかないみたいだ。けど逃げること最優先で」

「やってみる」

 僕の前に進み出て、お得意の抜刀術の体勢を維持したまま連中へとにじりよる白。僕よりめっぽう腕が立つので当然の位置と言えたが、それにしたって守られる立場というのは、男として情けない気もした。

「仕方ないじゃない、八兵わたしより弱いもの」

「心を読むな。時路さんを思い出して不愉快になる」

「はいはい。じゃ、始める、よっ」

 言葉を言い終える前に、白は右側の最前列に居た同心に斬りかかった。左側の連中の方が人数は多いため、切りぬけようともがいてる間に後ろから襲われると考えてのことだろう。加えて同心の方がある程度剣術を修めているため、背を向けて相手するには怖いところがあるだろうし。まずは不安の芽を摘むべく迅速に攻める、兵法に則ったのだろう。

 比べて僕は専守防衛というか、襲われない限り動けない、後の先をとる戦法しか採用できない。なにせ僕も素人だ、攻撃することに関しては下手くその極みと言える。だからこちらから仕掛けることは出来ず、左側からの連中が攻めてくるまでじっとしているしかなかった。

 焦らずとも機はすぐに訪れる。白の背を狙おうとした奴もいたが、連中のうち数人は倒しやすそうだと判じたのか、無手で得物を持っていない僕に襲いかかってきた。認識としては大方間違っていないものの、連携が取れていないのならさほど怖くはないな。

「うおおおおおお!」

 叫ぶ男は文字通り、一番槍。竹製だったけど。

 彼の荒い動きと呼吸を見れば、どのように機を窺って攻撃をしようとしているのかはすぐわかった。動きの拍子と機を読めれば、かわすことは容易い。僕は攻撃の行われる半呼吸前に左側へ飛び込んだ。相手の表情が驚愕に変わる。舐めてくれてたな。

 これでも鍼や指圧を軸として、人体の動きとそれを阻害する症状について半生をかけて学び続けてきた僕だ。観察すれば、どこをどのようにどの瞬間に攻撃してくるかは大体読める。振りかざされる武器に恐怖しなければ、これくらいは出来るのだ。

「御免」

 腰に差してた煙管には、避ける前から触れていた。火皿から雁首までを人差し指中指親指の三本で軽く握り、右腕を横薙ぎに振りぬく。羅宇(らう)から引き抜かれて現れたのは、針のように細い仕込みの刀身だ。三寸ばかりの白刃は切れ味凄まじく、狙い違えて相手の右肘を切り裂いた。

 ……本当は手首狙ってた。でも指を動かす神経を断ち切ったので、得物は握れまい。

「卑怯な、仕込み煙管か!」

「たった二人の相手するのに五倍以上の人数引き連れてる奴が何言ってんだよ」

 横薙ぎの一太刀を屈んで避け、南無三、とつぶやいて男の睾丸を田楽刺しに貫いた。途端に真っ青な顔をして脂汗を流し始めたそいつの襟元を掴んで盾にし、僕は残りの十数人に向かって叫ぶ。

「おらおら、こいつ殺されたくなかったらそこどけそこどけ」

 殺す気はないけど、死にたいくらいの激痛に見舞われているのであろう男には心底同情する。介錯が欲しければ仲間に頼むといい。

 ともかくも僕の発言は連中の間に迷いを生み、攻めるか引くかを悩ませ始めた。……いくら動きが読めるとは言っても、二人同時に斬りかかられたら僕はどちらを観察するか迷ってる間に斬られることになるからな。

 というわけで一対一ならともかく、混戦時はこうした手を用いるのが僕の常道だ。別に卑怯じゃあない。ぐりぐりと刃を捻って男をひいひい言わせて相手方の戦意を削ぐのも戦略だ。急所を田楽刺しにされてる彼には申し訳ないとは思うが卑怯ともなんとも思わない。二つあるからきっと大丈夫さ。

 と、背後で金物が砕ける音がした。盾の向こうの連中に注意を払いつつも急いで振り返る。すると目に飛び込んできたのは、白の劣勢だった。無手の白を襲っても返り討ちにされたほど弱い奴の所持品だっただけはあり、刀はかなりの安物だったようだ。相手の一撃を刀身の刃と峰の間に当たる小高くなった部位〝(しのぎ)〟で受けたら、折られてしまったらしい。刃渡りが半分以下になってしまって、ほとんど使い物にならなくなる。

「折れた」

 ぽつんとそんな言葉を漏らす。いいから前向け敵を見ろ、と僕は叫びたくなる。同心の一人が(とはいえ既に同心六人、それ以外にも三人が床に倒れていた、どんな早業だ)、大上段に刀を振り上げた。

 いや、大上段に上がりきる前に白は動いていた。折れた刀を相手の顔面へと投げつけて牽制、防ごうと刀を眼前に構えた瞬間に踏み込み。相手の腰に提げられていた脇差を、右の逆手で以て引き抜き、真上に斬り上げる。同心の左腋(ひだりわき)の下が真っ赤に染め上げられた。

「――〝裏剥(うらはぎ)〟――」

 囁くように技の名を告げる白。次いで、最後の同心が白の背後で袈裟がけに刀を振るおうとした。白は瞬時に逆手から順手へ、柄頭いっぱいまで握るように持ちかえた。切っ先を左肩越しに自らの背後へ向け、踵を返して突進する。

 その脇差の、鍔と柄の間にある縁に、袈裟切りの一太刀その切っ先が到達した。受けた、しかしここからどう反撃に、と僕が思った時には――すべての動作が終わっていた。柄頭を前方へ押し出し、柄の上に刃を乗せたまま相手の懐に滑るように入り込む。前に出した左足で突進の力を余すところなく受け止めて、白は右へ切るように腰を入れた。ちょうど、左半身で体当たりを仕掛けるように。

 当然、左肩の上に刀身が乗せられていた白の脇差は浮き上がる。すると、鍔を中心にして切っ先がぐるりと半回転した。脇差を持った右手を引きながら、左肩を跳ねあげたのだ。回転に巻き込まれ、柄の上に乗っていた相手の刀は遥か下方へと巻き落とされる。柄頭近くを握っていたので、滑ってきた相手の刃で白の指が斬り落とされることもない。たっぷりと勢いを乗せられた斬撃は、相手の右腕を二の腕の中ほどで切断した。

「――〝鍔座目(つばくらめ)〟」

 ……ホント、心配して損するな。

 鬼神のごとき強さで辺りを蹂躙しつくした白は、次なる獲物を求めるかのように、出入り口を塞ぐ連中に目を向ける。布の奥に輝く獰猛な目に睨まれて、明らかに彼らは臆した。僕の人質戦術があったことなど、もうすっかり忘れてしまったかのように。

「来るなら――」

 白の静かな囁きはどよめきに打ち勝ち、連中を黙らせた。さらに手にした脇差を投げつけ、それは連中の最前列に居た奴の足下に突き刺さる。悲鳴が上がる。すぐに黙る。落ちていた大刀を拾い上げた白は、刀を鞘に納めつつ僕の前に進み出て、前の言葉に続けた。


「――斬るよ」


 誰もが理解した。

 投げつけられた脇差より先に踏み込むことは、絶対にしてはならないと。

 しかし、それでもなお彼らを突き動かす何かがあるのか、引くことだけはない。呆れたように肩をすくめた白は、脅すためにどん、と床を踏みしめた。恐れ慄く連中の空気が、こちらにまで伝わってくる。けれど引かない。彼らの目がその意志を物語る。

 しばらく経って結局、白は溜め息をついて、壁際まで移動した。こんこんと壁を叩いて薄い部分を探りあて、一瞬のうちにして三角形をした新たな出入り口を斬り開く。僕は既に失神してしまっていた男の体をその場に放り捨て、手ぬぐいで仕込みの刀身を拭いながらその出入り口を抜けた。振り返ると連中は、白がいなくなっても放心したようにその場から動けずにいた。

「……なんだったんだろ、あいつら」

 僕は辺りに誰か潜んでいないかと首を左右に振りながら白の前を走り、白は背後への警戒を怠らないようにしながら僕についてきた。暗い中、闇に目が慣れるまで少々かかったものの、今のところ裏通りに目立った人影はない。

「わかんない。けど、夜盗ってわけでもなかったね」

「見た目だけで判断するなら、な。ひょっとしたら油断させて近付くために身なりを整えた賊だった、って可能性もある。といっても、同心が一般人の僕らを襲うような町だったって時点で、どっちでもよくなったよ」

「町全体が危なそうだものね」

 黙って頷いた。同心を頼りに出来ないような町で治安の良さを信じるのはちゃんちゃらおかしい。今はここを離れた方がよさそうだ。

「でもなあ。先に抜いたのが向こうであるとはいえ、僕もお前も同心に手をだしちゃったんだよな」

「あっ、という間に有名人ね」

「明日には人相書き配られてるかもしれないぞ」

「わたしの顔どうやって描くの」

「さあ。背丈と服装だけ描くんじゃないか」

 白の布みたいに僕も頬かむりでもしてればバレなかったか。いや、それで詰所に飛び込んでくる奴ってますます怪しい……。くそ、どうせ現状以上の状況は求められないんだ、過去を振り返って嘆くのはよそう。

「とりあえず山の中に逃げるぞ」

「だいじょうぶ? 危なくない?」

「熊とかいるかもしれないけど、今は人間の方が危ない。幸い今日は星も見えるし、方角を見失うことはないしな」

「山狩りされたらどうするの」

「その時はあまりこっちの町の人には知られてない道がある。竹細工職人の知り合いが山に入る時に使ってる道なんだけどさ、そこを使って山を降りよう」

 裏通りを走り抜けて、僕と白は再び大通りに出た。振り返って詰所の方を見ると、大人数で固まっている影が提灯など明かりを手に、二手に分かれて動きだしていた。こちらの道と、反対側にある道。町に入るための入口のどちらから逃げていても捕えるつもりなのだろう。息を切らしはじめた白の手を引いて、僕は山道を駆け上がった。真っ黒な闇があっという間に辺りを取り囲んで、町の、人の住んでいる気配が消え去った。こうなると踏み固められた地面の感触だけが頼りで、多少夜目が利いても足取りは危なっかしくなる。

 何事も起こらず走り抜けられることを願い、道を登りきると今度は下り。体が軽いせいか白は僕より加速して前に躍り出たが、急な曲がり角で危うく崖に突っ込んでしまいそうになったので元の道に引っ張り戻した。山道はまだ僕の方が慣れてるので、後ろに下がっていてもらう。

 しばらく走って、僕は右手に草むらの切れ目を見つけた。立ち止まって上を見て星の位置、ひいてはそこから割り出される方角を確かめながら、僕は切れ目に入り込み人の通る道をわざと外れる。けもの道に入ると、白の背丈を越えるような草木がわさわさと枝葉を揺らした。

「布が邪魔で、足下、よく見えないよ」

「外すと髪を枝に引っ掛けるからやめとけ。お前ものすごく髪長いんだから」

 静けさが薄く引き延ばされた森の中、まだ人の声や足音などは聞こえない。だがなるだけ距離を取って、いざという時に備えなくてはならなかった。まだこの程度の距離では、休憩して体力を回復出来るほどの時間を稼げていない。僕の背に吹きかけられている白の息は、歩調は徐々に落としているのに荒くなる一方だが。

 時折立ち止まって、僕は月明かりを頼りに道に残る獣の足跡やフンを見て、この道に危険がないかを確かめる。その間わずかにでも白を休憩させてはいるものの、あまり効果は見られなかった。

 ――白が相当な剣の腕を持つにもかかわらず僕があの場を退避することを選んだ理由がこれだ。ほとんど引きこもりであるこいつには、剣術を扱いきれるほどの体力というものが欠けているのである。多人数を相手取って戦闘が長引けば、じり貧になって追い込まれてしまうのだ。

 まあ、僕一人だったら最初から追い込まれてるんだろうけど。そしたら開戦直後に人質を取るんだろうな。

「そこ、木の根が張ってるからつまずかないようにしろよ」

 後ろに呼びかけつつ僕は歩く。近くの木の幹を見渡しても、熊が縄張りを示すためつけた傷などは見受けられない。幸いにも今のところは猛獣と出くわすような道ではないようだが、神経を研ぎ澄まして索敵を続ける。人間にも、森の住民にも見つからない方がいい。風のざわめきの他に何も聞こえないことが、逆に不安を掻きたてた。

 夜の山は人を飲み込む。暗闇は判断をたやすく惑わせ、人の住む場所から遠ざける。早いとこ人の通る道に出て、安心を得たいものだと思った。

「っと。ここは頭下げていけ、蜘蛛の巣が」

 でっかい女郎蜘蛛を避けるべく、僕は屈みこんで後ろを向いた。

 白がいなかった。

「あれ?」

 来た道は分岐していなかったはずだ。慌てて戻ると、さっきの木の根より前のところですっかりばてた白がしゃがみこんでいた。脇腹を押えて荒い息を落ちつけようとしており、鞘に納めた刀を杖のようにしている。

 そういえば八尾町から出て歩いてきた山道でも、終盤はぐったりしていた。ましてや今のけもの道は地ならしすらされていないデコボコ道なのだから、疲労が溜まるのも早くて当然か。

 夜空を見上げる。星と、彼方の山の頂上との位置関係から経過した時間を割り出した。多分今は、戌の刻を少し過ぎたくらい。悪路であることと白を連れていることからある程度歩調が落ちていることを計算に入れても、目的地にしている山小屋まではもう少々だろう。……僕はまだ体力が残ってるし、この先で休めるなら、多少運動しても大丈夫かな。その場にしゃがんで、白に背を向けた。

「乗りな」

「……じゃあ歩く」

「じゃあってなんだおい、人の好意をむげにして」

 しかし刀を引きずりながら歩き出した白は、数歩進んで木の根に引っ掛かって転んだ。

さっきの注意聞こえてなかったのかよ。そしてそのままの体勢でぼそっとつぶやく。

「八兵」

「僕、注意はしたからな」

「いたい」

「注意はしたぞ」

「注意一秒、怪我一生、だね……。顔に引っかき傷が。どうしてくれるの」

「自分の食いぶちは自分で稼ぐ、って条件つきなら傷ついてても貰い手になってやるから安心しろ」

 僕がそう声をかけると、少し肩を震わせたあと、立ち上がってすたすたと歩き出した。どうやら無事らしい。この調子なら蜘蛛の巣にもひっかかるかな、と少し期待しながら僕は黙っていた。だが白の背が低かったために屈む必要さえなく、素通り出来てしまった。つまらない。白は蜘蛛の巣の向こうからこっちを見据えながら、やけに上がり調子の声で僕を呼ぶ。

「なにしてるの、置いてくよ」

「お前……僕がどこ向かってるのか知らないくせに」

「道なりに進めばいいんじゃないの?」

「だいたいはそうだけどな。というかあんまり無理するなよ。疲れたらおぶってやるから」

「疲れたら、ね」

 さっきまでばてていたくせによく言う。追い付いて、僕は白の横に並んだ。森の中は相変わらず静かで、行けども行けども景色が変わらないような気もしたが。蜘蛛の巣を過ぎて少し歩くと、見覚えのある道に出ていた。白が僕の顔色を窺う。拍子ぬけしているツラを拝めていることだろう。

「……なんだ、もうこんなとこまで来てたのか」

「やっぱり? 開けた道が見えてたからそうじゃないかと思った」

 弾む白の語調で、急にすたすた歩き出した理由を理解した。僕が辺りを見渡すと、少し下ったところに木で組み上げた簡素な山小屋も発見する。油断は出来ないものの、ようやく人心地ついた気がした。肩の風呂敷を背負いなおす。

「八尾町まではここまでの道のりの半分くらいで着く。その前にあの小屋で休んでいこう」

「ん、賛成」

 ここからは下りばかりなのでその点も注意しなくてはならないだろう。僕と白は斜面を滑るようにして降りた。小屋の傍らには炭焼きための窯がぽつんと建てられており、他には何もない。僕は戸に手をかけ、すっと横に引いた。

 すると、中からぶわりと生臭いにおいが漏れだした。

「え……」

 小屋の奥は月明かりが差さないためよく見えない。けれどそこに、確かに何かがある。手前の土間に視線を下げると、小屋の奥から流れてきた何かが溜まって池のようになっており、黒々と淀んだ色を反射していた。もう一度顔を上げる。森の闇でなく小屋の闇に慣れてきた目は、奥にあるものが何なのか捉えようとした。わずかな月明かりで、その輪郭を見る。投げだされた肢体、内臓と共に真一文字に斬り分けられた胴体、断末魔の叫びをあげたのであろう顔――

 そこまで僕が見たところで、顔をしかめて臭いに耐えていた白が、戸をぴしゃりと閉じる。中を眺めていた僕が奥に在るものの生死を確かめていたとでも思ったのか、白は首を横に振った。

「小屋の奥から土間まで。ここまで血が出てるんじゃ、もう絶対に助からない」

「まあ、そう、だろうな」

 戸を閉めたことで臭いがいくらか和らいだ。とはいえ入口近くに留まると着物に臭いが染み付きそうだったので、僕らはさっきの窯のそばまで移動した。人が座ることを想定して置かれている切り株と石に、それぞれ腰を下ろす。僕は頭の中で今見たものを反芻して、なにやらもやもやとした、確信になりきらない思いが生まれたことについて考えた。

「……んー」

「どうしたの?」

「いやぁ……知ってる顔だったような、そうでもないような気がして」

「確かめてみる?」

「臭いものにはフタ、だろ。あんな臭いもう一度嗅ぐのはいやだ。ちゃんと思い出すよ」

 と言ってみたものの、さっぱり思い出せない。そもそも知り合いは多いけど縁は薄いからな、僕。わりと会うことの多い人だったような気も……しないでもないような。仕事で会う患者?じゃなくて。食事処の常連? でもないな。あと残ってるのは……長屋?

「あ」

「思い出した?」

「うん。そうだそうだ、あの人だ。しかしあんな姿だと、なかなかわからないもんだな」

 あの人、とても死にそうにない人だったのになあ。

 今朝までは元気だったのに、重さん。

 まだ、ツケを払ってもらってなかったのに。

 隣に住んでいた気のいいおじさんのことを思い出せて、僕のもやもやはすっかり解消された。



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