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二幕。


        二幕。



 翌朝。ボロ長屋で目覚めた僕は、薄い蒲団を片づけてから顔を洗い、寝巻から着物を替えた。そこでようやく、外が騒がしいせいで睡眠が妨げられたらしいことに気付く。蒲団に続き壁も出入り口の扉も薄っぺらな僕の部屋は、防音効果など最初から期待出来る構造ではない。

 扉を開けて表に出ると、長屋のみんながそこかしこで数人単位で固まって、ひそひそと声をひそめた噂話をしていた。近くの固まりの中に居た、隣に住んでいる(しげ)さんに近付くと、重さんは嬉しさと心配が入り混じったような嫌な表情をしてみせる。

「どうしました? 長屋の家賃が下がったりしたんですか?」

「下がっても万年金欠の俺は払えんよ。いや、ごろつきの一人がぶっ殺されたらしいんだよ」

「ごろつきが?」

「おお。竹細工つくってる喜平(きへい)って居るだろ。あいつが今朝早くに材料取りに隣町との境にある山ん中行ったら、ごろつきがなます斬りにされて転がってたそうだ。全身ずたずたで、ごろつきは刀を抜くことすら出来てない状態だったんだと。そいつ最近隣町からこっちに追ん出されてきた奴なんだけど、なんで山の中なんかに居たんだろうな」

 それと、下手人(げしゅにん)はわかってない上に物盗りでもない、と言って重さんは渋い顔になった。僕は途中まで話半分に聞いていたものの、重さんが「刀を抜くことも出来てない」と言ったところで、何やら頭にひっかかるものがあった。徒党を組まなきゃ戦えない代わりに、頭数さえ揃えば無闇やたらと刀を抜きたがるごろつきが、一人で山の中に居て、しかも刀を抜くことも出来てないとは。

「……ごろつき同士の仲間割れか何かですかね? 仲間だと思ってたから、刀を抜くことを考える暇もなく後ろからざっくり。とか」

「いや、そいつ以外のごろつきどもは、昨晩荒れた様子で自分たちのねぐらの中でうめいてたそうだからそれは無いだろうよ。なんでうめいてたのかはよくわからないんだけど、あいつらぶっ殺すー、一族郎党皆殺しじゃー、俺の前歯どうしてくれんだー、とか叫んでたらしい」

 覚さんと光衛門さんにボコボコにされてた奴らか、と思い当たった。前歯のくだりで。

 確かに彼らは、あの怪我じゃしばらくはまともに動くことすら出来ないだろう。ということは仲間割れの線も薄い……まさか、光衛門さんたちがトドメを刺しに? でもまずあの人たち真っ当な刀は持ってなかったか。理由もないだろうし。

「お前さん、今日は隣町にも診療に行くんだろ?」

 思考を巡らしていたところに話しかけられて、僕は顔を上げた。重さんは渋い顔のまま僕を見ていて、たぶんそれは、心配を表していたのだろう。

「本当に気をつけろよ。あ、あと俺の診療のツケはまた今度な」

「……あなた税とかちゃんと払えてます? まあ忠告だけは耳に入れておきますけど」

 僕は商売道具を包んだ風呂敷を片手に長屋の通りから歩きだした。


 僕が今歩いている隣町へと続く道も、その昔は賊の出没する危険な場所であったらしい。山に作られた道である以上仕方のないこととはいえ、見通しの悪い曲がり道や細い道が多いと、人攫いから物盗りまで様々な種の悪党がはびこるそうだ。

 とはいえ今現在は門左衛門さんが町の人たちと協力して道を整備したためそのようなこともそうそう無く、今朝がた起きた人死にはここ数年なかった珍しいことだ。しかし、物盗りをするでもなく人をずたずたにするというのは、合理性に欠ける分余計に面倒なことと思える。盗られて困るものは無いから安心、という考えが通用しないのでは、たとえ僕であっても用心が必要になってしまう。ああ面倒だ。

「隣町に行くなんて久々ね」

「まず家から出るのが久々だろ、お前……というかなんで僕が出かけることがばれてるのさ?」

 表通りをしばらく歩いて隣町への道に出ると、僕の後ろで足音がするようになった。振り返ると余所行き用なのか少し柄の入った布をかぶった白が居て、僕は溜め息をつきながらあいつの歩幅に合わせてやることにした次第である。

 話しかけられたので問い返すと、布のせいで相変わらず表情が読めない白だが、長年の経験から首をかしげたような気配を感じる。何が疑問なんだろう。

「気づいてなかったの? わたし、時々八兵のあとをつけて散歩してるんだよ。だからいつどこへ行くのかも、どこで何をしてたのかも大体把握してる」

 びっくり、僕の私事は筒抜けに晒されていたようだ。

「おいこの引きこもり、外出は久々じゃなかったのか」

「一度だって引きこもりだって自認した覚えは無いよ。それとわたしが言ったのは〝外出は久々〟じゃなくて〝隣町に行くのは久々〟だね」

「……ああそう。ってことは、ごくまれに外で出くわすことあったけど、たまたま出歩いてたわけじゃなかったんだな」

「うん」

 横を歩く白は頭にかぶった布を微かに上下させてうなずいた。重度の引きこもりだと思い続けてたけど、案外、行動範囲広いんだな。家にいるのにどこから情報を仕入れてくるのかとも思い続けてたけど、自分の脚で集めてたわけだ。

「本当は外であんまり会わない方がいいんだけど。昨日八兵がごろつきに絡まれてたのを知って、やっぱりついてった方がいいかなと思ったの。隣町へ行くなら、そんなにこの町の人には見られないでしょ」

「会わない方がいい、って……ああ、僕の評判が悪くなるってこと?」

「そ」

 短く答える白。確かにこの町では白のことを悪い意味で知ってる人も多いし、関わっていると門左衛門さんを筆頭に色々と嫌なことを言われるわけだけど。本人の口からそういうことを言われると、余計に反発してやりたくなるのはなんだろうね。

「いまさらだろ。どうしても商売やりづらくなったら、その時は他の町に行けばいいさ」

「ふうん」

「大体、お前は僕についてきていったい何をどうするつもりなんだ?」

「ふふん。昨日は助けに入るのに遅れたけど、今日はそんなへまはしないよ」

 もぞりと布が動く。かぶってる布はかなり大きいため、白の膝くらいまでは余裕をもって覆い隠しているのだが。その隙間から、ひやりとした鈍いきらめきが覗いた。白は得意げだ。

「いざとなったらこれで守ってあげる」

「刀……勝手に持ってきていいのか?」

「蔵にあと幾振りかあったはずだし、問題ないと思う」

 つぶやいて白は布の奥、背の方に回して刀を隠す。

 わりと背の低い僕よりもさらに頭一つ小さい、かなり小柄で華奢なナリをしている白だが、実は剣の腕には目を見張るものがある。だから確かにこいつがついてきてくれるなら、僕の身の安全は保障されたも同然なのだが……あくまでも守られるのは僕の身だけなのだ。

「剣の腕は信用できるけど、お前は手加減が出来ないんだよなあ」

「仕方ないじゃない」

 呆れたような僕の物言いにむっとしたのか、白は向こうを向いてしまう。

 ――たとえば覚さんなどはよほどの馬鹿力なのか、鉄刀を得物として用いたりしていたが。白はそういう〝力を頼りとした〟戦い方が出来ないのだ。もちろん覚さんも、鍛え上げた技術に立脚する剣術ではあるのだろうけど……白は僕よりも非力で、腕も短いから間合いも狭い。となると、勝つためには切れ味と速さをもった一撃必殺、抜刀術に頼ることとなる。覚さんのような打撃技では力が足りず、また間合いが狭いために一撃で仕留めなくては次が危ういからだ。

「まあ、刀抜くのは最終手段ということにしてくれ」

「そうね。わたしとしても疲れるから、あんまり刀は振りたくないし」

「厄介事に巻き込まれないで帰れるといいな。あ、仕事終わったら貸し本屋にでも寄ってく?」

「もちろん。あと、ごはんも食べていこうよ。どうせまた、朝も食べてないんでしょ」

 少しだけ上機嫌になった白は僕より一歩先んじて進む。確かに言われてみれば、また朝食を食べ忘れてたけれども……ううん、ご飯か。昨日も夕飯は外で食べたけど、支払いは僕じゃなかったから食べる量に制限はしなかったな。けど今日は白の分も払うことを考えると、出来るだけ安く済ませたいところだ。ううむ。

「なに悩んでるの」

「いや、僕の現在の懐事情を鑑みつつ食事の件を前向きに検討するか否かの検討をね」

「安心して。刀と一緒にお金も持ってきたから」

「おいそれ親のすねをかじってきたんだろ。今さっきかじりたてだろ」

「まさか。あの人は顔も態度も財布の紐も硬くて硬くて、とてもかじれたものじゃないよ。ばれないようにうすーく削ってきただけ」

「鰹節みたいに言うな」

「ともかくも、このお金は好きに使っていいの。元々お金なんて天下の回りものなんだから」

「そりゃそうだけどさ。って、おい、お前、ちょっと!」

 白が取り出した巾着袋は「じゃらり」という音だけでも分かるほど大量のお金が詰まっていて、僕は慌ててそれをしまわせた。ちらりと袋の口から覗いた中身に金色が五、六枚見えたのは、タヌキか何かに化かされたのだと思いたい。あれは全部葉っぱだったのだ、おそらく。

 生まれて初めて見た大金に戦慄する僕は周りに人気(ひとけ)が無いかと窺うが、白にあとをつけられていたことにさえ気付けなかった僕に気配を察知出来るはずもなく、肩を落とす。白はさも愉快そうに僕を見て、目元まで隠す布の隙間から瞳を覗かせた。

「だいじょうぶ。周りに誰もいないってわかってるからこそ取り出したんだから」

「そういうことは先に言ってくれよ。大体なんだぁ? その額。僕らは江戸っ子じゃないんだぞ。宵越しの銭は持たない、なんて言葉は戯言だって断ずるべきなんだよ」

「なら八兵が持って帰ればいいよ」

「そんな大金持ってたら態度ですぐばれてごろつきに囲まれるって……」

 お前が貸し本屋で好きなだけ借りるのに使えよ、と言いかけて、ふと思い出す。そういえば昨日買ってこいと頼まれてた本は、今持ってる風呂敷に商売道具と一緒に包んだままだったっけ。

「そういや白、お前に昨日頼まれた、」

「本買っておいてくれた?」

「え? あとをつけてたなら、買ったのを見てただろ?」

「わたしは四六時中追いかけてるわけじゃなくて、気が向いたら行き先を同じにしてるだけだもの。わたしが知ってるのは宿の中に入ってごろつきに絡まれたのと、なんか変な三人組と食事処に行ったことくらいだよ」

 どうやら僕の私事はなんでも筒抜けというわけではなかったらしい。と、いうことは、僕が買った本の内容も知らないわけだ――――ふむ。どうしたものかな。白をびっくりさせてやろうと思ってこんなものを買ってしまったわけだけど、いざ渡そうと思うとなんだかな……だってこれ春画本だよ。いろいろ過激な内容なんだよ。渡してもいいんだろうか。

「いや、あのさ。実を言うと僕の感性で選んじゃったから、白にはあんまり面白くないかもしれない」

「? わたしは何でも読むし、別にそう大したこだわりはないよ」

「で、でも家に置いてきちゃったからさ」

「うそ。紙と墨のにおいがする……」

 そんな馬鹿な。あ、ちょい、まてやめろ風呂敷返せ。

「題名は〝風車〟ね。ふう、ん…………へえ」

 表紙に白魚のような指先をかけ、めくり、文章をゆっくりと読んでいく。最初のうちは導入部分のため何も変なところはなかったようだが、物語が進むにつれて徐々に白の顔色が変わっていく。歩きながら読んでいた白は見開きで挿絵が入った辺りでぴたりと立ち止まり、僕の後ろで仁王立ちした。狭い山道いっぱいに、白の怒気らしきものが広がっていくのが目に見えるようだった。静かに本を閉じると、白は僕に語りかける。

「これが八兵にとって〝良さそうな〟ものだったわけね」

「ちがう、店の主人におすすめって言われたからで」

「さっき自分の感性で選んだって言ったばかりでしょ」

 迂闊な言い訳をしてしまった。白の目線が痛い。しまったなあ、なんでこう僕は人をおちょくったようなことしか出来ないんだろう。

 人の気持ちがわからないからか。

「…………」

 無言でこちらを見つめる白の目は布の奥ですごい威圧感を放っていた。気圧されて逃げ出したくなる僕だったが、なぜか白が視線を合わせようとはしていないことに気付く。気になったのでこちらから屈んで目線を合わせると、何かに弾かれたように慌てて白はうつむいた。なにさ、その態度は。

「……もういい。早く町に行こう」

 ずんずんと先を歩きはじめる白は、本を自分の風呂敷の中にしまっていた。結局読むのか、と聞きたくなったけども、刀を持ってる人物相手におちょくる度胸はさすがの僕にも存在していなかった。後ろに続いて歩く。

「そうしてくれると助かる。まだ日は高いけど、早めに宿もとっておかないといけないしな」

「宿?」

「だって多分遅くなるし、そうなったら暗い中で山越えしなくちゃいけなくなるだろ。いくら小さい山だとしても、そりゃ危ないからさ」

 僕は至極まっとうなことを言ったつもりだったが、白はまた黙り込んで歩幅が小さくなる。

だから、なんなんだよその態度は。

「……別にその本みたいに夜這いなんかしないって」

 横を追い抜きざまにそう言うと、後ろから尻をしたたかに蹴りあげられた。


        ◇


 隣町は僕らの住んでいる町、八尾町(やおちょう)よりもいくらか規模は小さく、流行や発展からは取り残された感じがする町だ。けれどその分賭場や裏通りなど、日に当たらない、当てられない場所の多い後ろ暗い町となっている。まあ八尾町の場合、門左衛門さんという大きな抑止力があるためにそうした後ろ暗さを排除できたのだと言うべきなのかもしれないが。

 ところが夕暮れ時の町に着くと、僕はなんとなしにこれまで幾度か訪れた時とは違う印象を受けた。なんというかこう、空き地の雑草がいつの間にかすっかり刈り取られていたような。解放感を感じさせるとも言い難いのだが、奇妙な清潔感がそこにはあった。

「とりあえず先に宿とっておくぞ。あ、断っておくけどあまり良い宿じゃないからな。薪と部屋だけ提供してもらえる、木賃宿(きちんやど)ってやつだ」

 山道歩きでだいぶ疲れ気味の白に言うと、強気にふふ、と鼻で笑って返される。

「だい、じょうぶ。普段、わたしがどんな部屋で寝てるか、知ってるでしょ」

 ぜえはあと荒い呼吸を整えている白を見て、奴の部屋を思い出した。そういえばそうだった。ほとんどの空間に僕の腰くらいまでの高さで本が積まれている、恐ろしく閉塞感のある六畳間でこいつは寝起きしてるんだった。まあまずあれほど広い家の中で、正統な血を継ぐ娘に六畳間しか与えられていないというのが信じられない話ではあるのだけど。

「じゃあ二人で一部屋でも文句言うなよ。……だからなんもしないって言ってるだろ。無言で叩くなよ。お前僕がどういう意図で春画本渡したと思ってるんだよ」

 ようやく息を整えたらしい白はむっとした雰囲気を醸し出しながら、ぼそりと僕に言った。

「……こういうことを今夜お前にしてやるから、覚悟しとけよ。って意図だと」

「もう少し信用してくれよ」

「わかった。信用するから今夜は手足縛って寝て」

 あの店の主人を心底恨みたくなってきた。ついでに特に関係は無いけど光衛門さんをぶん殴りたくなってきた。あの人にこの春画本を預けていさえすれば、僕がこんな風に白から白い目で見られることもなかったのに。

 いや、別に今のは洒落じゃないぞ。冷めた目で僕を見るな、白。というか心を読むな、白。

 埃っぽい宿の主である老人は「枕二つにふとんは一つでよろしいですか?」といらんおせっかいをしてくれた。白にまたも蹴られそうになったので、僕は急いで「ふとんも二つ」と頼んだ。料金が少し上がってしまったことを考えると、ふとんはひとつだけ頼んで僕は床で眠ればよかったような気もする。

「ひとまず裏通りの方行くか」

 のれんをくぐって宿から出て、僕は白に呼びかけた。

「いきなり危なそう」

「そりゃあ、まあ」

「わたしも有事に備えておくね」

 刀をつかんだような気配を感じて、お前の方が危なっかしいと口に出しそうになる。

「危ないといえば危ないけど、いきなり斬りかかられたりすることはそうそう無いよ。それでもやっぱり殴り合いの乱闘くらいはそこそこ起こるらしいから、ひどい打ち身とか腰痛の奴のために鍼灸師は要り用なんだけどさ」

 腕っ節の強さや剣の腕で鳴らしているような輩は健康な体が第一だ。だから裏通りを根城としているそうした奴らも、僕にとっては大事なお客なのである。

「あ、それとな。もし斬り合いになったとしても、刺青(いれずみ)してる奴がいたら刺青の上を斬らないようにしろよ」

「どうして?」

「呪紋とか刻んでる奴もいるから、そういう奴は斬ると呪われたりする。命にかかわる呪いを持ってる奴は滅多にいないけどな」

「なんでそんなの彫るの」

「〝この刺青はもしかしたら〟と思わせて簡単には武士に斬られないようにする、庶民の護身術って奴らしい。一人の本物を疑って、百人の偽物が切り捨てご免と言われずに済むかもしれないってことさ」

 噂による一種の結界術の類である。助さんが昨日見せてくれたような物理的なものではないが、人々が大昔に初めて身に付けた〝術〟というものは本来そうした目に見えない形で発揮されていたのだ、と僕を育てたあの人は言った。詳細は知らずとも人々の間に流布している数々の術や教えの源流はすべて、物事の在り様を意志で確定する〝(しゅ)〟なのだと。

「わかった。なら刺青の無さそうなところだけ斬るよ」

「斬り合いにならないのが一番だけどな」

 刺青と言ったら背中、肩、腕なんかに彫ってあることが多いのでそこだけ斬らないのは難しいと思うのだが、白ならそれが出来てしまいそうな気もするのが怖いところだ。

 話しながら歩き続けると、表通りと比べて明かりが薄くなっていく。やたらと(ひさし)が長いために日が遮られているのだ、と僕は気がついた。ここは闇がわずかに濃く、密になっている。辺りを見回すと、うらぶれた姿のボロ長屋が延々と彼方まで続いていた。人々もその風景と同様に疲れた様子でじっとうずくまっていたりするのだが、そこに居るのはなんだかそれだけのモノではない感じもした。

 じろじろと僕ら二人を見つめる視線がそこかしこから浴びせかけられていて、ひるんだ僕は白の手を引いてそそくさと前に進む。千本鳥居のように進んでも進んでも景色が変わらないというのは予想外に僕の神経を参らせた。

「……なんか薄気味悪いな。手早く仕事を終わらせよう」

 うなずく白を引きこむようにして、目的の家の中に入り込む。通りに入って三度目の十字路の角と言っていたので、たぶん合っているはずだ。二人で立つにも狭い土間で僕は家主を探し、奥でふとんに正座している影がそうだろうと目星をつける。

 しかしさらに奥には壁を背にして寝そべり、僕らに奇妙な印象を投げかけてくる男がいたので、どちらが患者か、と一瞬迷う。けれど寝そべっている男の細かな動きからは体の異常は感じられず、逆に正座している男は動かずじっと痛みに耐えている様子が見受けられたので、僕は手前の正座している男に話しかけた。

「鍼灸師の八兵と申します。往診に参りました」

「おう、頼むぜい」

 正座男は切り傷と共に打ち身が多く刻み込まれた体を見せつけてきた。ここに来ても刃物のある喧嘩かよ、と溜め息が出たが、正座男(の、自慢話)によると単なる喧嘩ではないらしい。

「名誉の負傷よ。盗賊どもを追っ払ってやった」

「賊?」

「この辺一帯を取り仕切ってた賊どもさ。目に余るような窃盗行為ばっかしてくる奴らでよ、ほとほと困り果ててたんだが。思い切ってみるもんだな、実際戦ってみりゃ、そうおっそろしい奴らでもなかったよ」

「……賊は、死んだんですか?」

「いんや、殺しゃしてないと思うけど。大体俺たち町人じゃ、得物っつっても限られてくるし。竹槍やら鍬やら鋤やら程度さ」

 それでも死ぬときゃ死ぬだろう、と思うけど。男はいやに上機嫌なので、水を差すのは悪いと思い特に何も言わずにおいた。

 同時に、町に入って感づいた違和感の正体にも気付く。この町は以前はもっと荒れた、言ってしまえば賊がうろつきそこらへんでたむろするような場所だった。ところが今はそうした雰囲気が一掃されているために、違和感となりえたのだろう。

「賊は全員追い出したわけですか」

「全部ってわけじゃないやな。でもでかい顔はさせない程度にこらしめてやった。おかげでここは奴らにゃ住みにくくなったろうから、幾らかはおそらく、そっちの町に流れたんじゃないかな。すまんね」

「いえ……そういうのは持ちつ持たれつだと思いますよ」

 追い出された賊にしたって、結局のところ門左衛門さんに目をつけられないよう、斬られないようにしなくては生きてゆくことさえまともに出来ない。状況としては大して変わらないんじゃないだろうか。

「それにしたって、ずいぶんと怪我多いですよ。ひどいものは無いからいいものの、相当我慢したでしょう」

 怪我が多くて、これでは気の巡りは滞るどころか遮られてしまいかねない。青黒く変色した部分のある肌や長い切り傷を見るに、軟膏などの傷薬も処方するべきと言えた。ちょっと時間がかかりそうだ。

「白、こっちに」

「……ん?」

 家に上がらず土間に腰かけていた白に呼びかけ、「先に宿に戻っていてくれ」と言おうとしたのだが。なぜだか知らないが、鈍い僕でもわかるくらいにぴりっとした気配を突き立ててくる。家主も気付いたのか微妙に腰を上げようとしたので僕は上から押さえ込んで鍼を打ち、白を手招きして呼び寄せると囁き声で尋ねた。

「……なんで殺気出してるんだ」

「八兵には向けてなかったよ。急に話しかけられたから、消し忘れただけ」

「はあ? まず誰に向けてたのさ」

「奥の人」

 言われて、振り返る。奥で寝そべっていたはずの男はいつの間にやらあぐらをかいて座っていて、相変わらず奇妙な印象をこちらへ投げかけていた。

 ただ奇妙と一口に言っても、どのようにおかしいのかは、言い表すことが出来ない。先ほどの、「町へ入った時の違和感」とは別の感じ。薄く何かが香っているのに、その香りが何から発せられているものなのかが思い出せないような不快感だ。どこからその感覚が流れこんでくるのかわからず、じ、と一瞥するように男の体を下から上へと見やると、最後に男と目があった。

ばつが悪くて視線を逸らす。

 と、途端に、ゆるゆると僕の中の不快感が解かれ、薄れて……あれ? おかしいな。いや、おかしくないのか。だから不快じゃなくなったんだし。

 顔を上げると、男は額に巻いた手ぬぐいの下にある細い目と眉をしならせて、おかしそうにこちらを見つめていた。

「私がなにかおかしなことでもしでかしたのかい?」

 少し高い、少年のような声だった。けれど、おかしいところなど一つもない。自分でもなんであんな考え方をしたのか、さっぱりわからない。だのに、後ろの白を振り返ると、未だ奴は男の方を睨んでいた。白はどこかおかしいところでも見つけたのだろうか。

「……こいつ、昨日うちに来てたの」

「橘家に?」

「なんだ、あんたら時路(ときじ)先生のお知り合いか?」

 問いかけにはうなずく。僕の下にいる男が言う〝先生〟との呼び名がなにを意味するのかは知らないが、時路という名前には覚えがあった。昨日門左衛門さんが、診療時間に遅れてまで碁を打っていた相手だ。時間に遅れて来られたことに少しいらっとしたので覚えている。

「知り合い? いや私は彼らのことを存じ上げていないわけだけども」

「知り合いじゃないですよ。ただ、こっちの彼女が一方的にお姿を拝見したことがあるだけです」

「ああそうなのかい。私はてっきりどこかで知らぬ間に人様の噂になるようなことをしてしまっていたのかと。心配して損したね」

 おかしそうに時路さんは唇を吊りあげた。そこですかさず男が、説明代わりの紹介を挟む。

時路景時(ときじかげとき)先生だ。俺たちに剣術や学問を教えてくれている」

「剣術は真似ごと程度。学問にしたって寺子屋もどきと言っておくべきものだよ。先生などと呼んでいただくほど大したものではない」

 謙虚な物言いで頭をかく。けれどよく見てみると身のこなしはとても剣術を修めたものとは思えないし、おそらく本当に真似ごと程度なんだろう。

「とはいえ請われれば拒むほどの理由もないものでね。恥ずかしくも浅学非才で未熟者の身ながら教えを授けているよ。きみたちもどうだい?」

 にこりとした薄い笑みを見て、僕は胸にもやもやしたものを感じた。

 光衛門さんとはまた違う軽薄さが表情と言動の端々から香って、はっきり言ってあまり好きになれない種類の人間だと思ったのだ。光衛門さん(あっち)は気に食わないと思うことはあれど、明け透けになんでも口に出す分表情に裏がなかった。けど時路さん(こっち)はなんだか――

「残念ですが、お断りしておきます。僕らは隣町に住んでいますので、ご教授いただくためにここへ通うにはちょっと遠いんですよ」

「そうかいそれは残念至極だ。またの機会がきみと私の間に訪れることを祈っておくとしようかな」

 ――なんだか、「装っている表情しか見せない」ことによる、上っ面だけの擬態らしきものを感じさせられる。分厚い面の皮に、一枚薄皮をかぶせているような。

「……きみはなかなかひどいことを心中で呟いているのだね」

「え?」

「こう見えても私は心から笑っているつもりなんだ。それとついでに述べておくのなら私が得意としている学問は人の心の動きの掌握を目指すものなのでね。考えを悟られたくなければ胸の内にそっと秘め隠しておくことをおすすめする」

 ……それは学問じゃなくて心理術という奴じゃないのか?

「よりよい人間関係を築くための技だよ。学問というものは人々の日々生活において役立つ物であるべきだろう? ならばこそこれはもっとも必要とされる分野の一つだと思うね」

「僕はたった今あなたと人間関係を構築することを放棄したくなったわけですが」

「つれないね」

 時路さんは屈託のない笑みを浮かべた。もういい歳だろうに、童のように意味のない笑みを浮かべるこの人を不気味に感じた。こそこそと、白に耳打ちを続ける。

「とりあえず白、先に戻ってていいよ。どこか貸し本屋にでも寄ってから宿に行ってくれれば、ちょうど僕と夕飯食べに行くくらいの頃合いだろうし」

「……なんか心配」

「何が心配なのかわからないんだけどな。怪しいだけだろ」

「わたしもよくわかんない。けど普通の人じゃ、無い気がするの」

「普通っても、ね……」

 境界があいまいな、一番使いどころが難しい言葉で言われてもな。

 基準が不明確じゃないか。僕にとっても、お前にとっても。

「でもお前がそうまで言うなら何かあるのかもしれないし、警戒はしとくよ」

 白はまだ何か言いたそうにふるふるとかぶった布を揺らしたが、最終的には自分の気のせいだと思ったのか、くるりと後ろを向いて出て行った。僕は施術を再開し集中する。ええと、肩のこりもあるから鍼は附分に打とう……水仙の球根の湿布薬も出すか。

「きみ。ねえきみ」

 でも時路さんは一度開いた口を閉じる気がないようだった。

「……なんですか」

「今の娘は門左衛門さんの娘さんかい」

「ええ。親とはあまり似てませんけど確実にそうですよ。あいつの家に出向いた時に出くわしたこと、ありませんでしたか?」

「なかったかな。話題にのぼったことは一、二度あったけれども。あー…………まあ……なんというか……。あの年頃の娘さんは難しいということだろうね」

 よどみなく喋っていた時路さんは、そこで初めて迷いを露わにした。その露骨な態度だけで僕はこの人も白の〝あれ〟と呼ばれる由縁を知っているのだと感じた。とことん、門左衛門さんは白を嫌っているんだろう。わざわざ来客にまで話すようなことじゃないだろうに。

 胸がむかつくような気がしたが、鍼を打つ手は止めなかった。それでも何か伝わるものがあったのか、鍼を打たれている男は体を反らしてこちらを見ようとしていた。手元が狂うからやめてくれと僕は告げ、その後黙々と作業する。

「なんというか大変なのだろうね。ああいう容貌に生まれついてしまうというのは。いやむしろ大変とは不幸不運を背負ってしまったが故の大変なのかな? だとすれば大きな変事というのは間違いか」

 ところが僕が黙れば黙るほど、時路さんはまくしたてるようにぺらぺらと喋る。うるさいくらいだったので、きっと睨むように視線で射すくめると、時路さんはふざけてはいなかった。細い目でこちらを見て、眉をわずかにも動かすことなく、大真面目な顔で話していた。むしろこちらがどうしたものかと戸惑ってしまう。

「……彼女がここに居なくなったからってあまり話題にしないでください。あいつだって好きであんな風に生まれてきたわけじゃないんですから」

「まあそうだねえ。確かに当人が居ないところで陰口のように話すのは不躾というものだしこれは私が悪かったようだ。ただ私が彼女のことを話した理由はだね。実のところきみと話してみたかったからなんだ。そのために共通の話題として持ち出しただけなんだよ」

「はあ」

 僕はさほどあなたと話したいわけじゃないけど。

「そんなことは百も承知で二百も合点さ。しかし私はきみへの興味を抱くことを禁じえない」

「あなた男色(なんしょく)ですか」

「いや私は女色(にょしょく)だけれども。まさかきみはそうなのかい?」

「違います」

 昨日の光衛門さんを思い出して言ってみたものの、慣れないことは言うもんじゃないな。すぱっと切り返されて、どうしたものかわからなくなってしまった。

「隠さずとも個々人の性癖にとやかく言うほど私は口うるさい方ではないよ。でももしきみがそうなら……とりあえず私を狙うのはやめてほしいと告げるだけなんだが……今はそんなこともどうでもいいかな」

「あなたはどうでもいいかもしれませんが、一応強い否定の意を述べておきますね」

 変なうわさが広まって仕事が少なくなったらどうしてくれる。今施術してるこの人にもあとできちんと誤解を解いておかないと。

 がんばろう、という決意を固めつつ、やはりこの人は好きになれない人間だという認識も固める。唇を歪めていやな気分を表した僕を、時路さんはさも愉快そうに見ていた。

「巡り合わせというのは奇妙なものだ。けれど無視できないだけの力を以て時折人の前に舞い落ちる。今日こうしてこの場で私ときみが出会って私がきみに何かひかれるものがあったというのも巡り合わせと言うところかな」

「良いものか悪いものかは別として、そういうところでしょうね」

「はははは素直で正直な答えをどうもありがとう。でも事柄としてどうなのかということはさておき私は巡り合わせという言葉はとても良いものだと思っているのだがどうだい? 私はこの言葉を〝巡って合わさる〟つまり人間は誰かに巡り会うことでそれまでの自分と違う何かを得て。得たものが自らと合わさることで己は変わっていくという意味でないのかと思っているのだよ。変わらぬものは何もないと」

「諸行無常、ですか?」

 反応を返すと、いかにも物を教える立場の人間らしい表情を浮かべて、時路さんは掌を開いた。そこには何もなかったが、開いた両の掌をそれぞれ上と下に動かして、時路さんは僕と目を合わせる。

「盛者必衰にして生者必滅が巡り合わせというものの本質だと私は思っていてね。誰かに出会うから人は衰え誰かに出くわすから人は死ぬ。間接的か直接的かは別として」

「説明されたせいでなんだか良い言葉とはとても思えないようになってきたんですが……それって何もかも他人のせいってことじゃないですか」

「どうかな? これまた逆も然りだよ。隆盛にある者が堕すればその者が持っていた富は分散して他の誰かへと向かうかもしれない。富にありつけたとすればそれもまた〝巡り合わせ〟だ」

「他人のせい、は他人のおかげ、とも言えると。要するにぐるぐる回っていると」

「回している奴がいるのだよ」

 片手をおろし、僕に向けて人差し指を立てるとくるくる回して見せる。童がとんぼを捕まえようとする時の動作に似ていて、僕も目が回りそうだった。今度こそ手元が狂ってしまいそうだったので、慌てて視線を下げる。……変な人だ。奇妙な印象はなくなったけど、変な人だ。

 あまりにも奇妙な話をしているからか、施術されていた男は居たたまれない様子で僕と時路さんを交互に見やっている。なんだか可哀想に思ったので時路さんにはきつく言って黙ってもらい、手早く鍼を打って仕事を済ませる。このまま続けて失敗でもしたら、信用で成り立つこんな商売はあっという間に廃業になってしまう。溜め息をついて、慎重に指先を動かした。


 必要な作業を済ませて湿布を渡してお代を受け取り、僕は即刻この場を立ち去ろうとした。ところが、後ろからついてくる時路さん。宿への道のりの間、ついてくるつもりらしかった。

「どこまで話したかな」

「輪廻転生の話でしたっけ?」

「似たようなものだけれど回している奴の話だよ。そいつが巡り合わせの采配を振りこの世の全てを回しているというお話さ」

 適当な返しをした僕の方が呆れるほど壮大な話だった。考える気にもなれず思考放棄した。

「そして同じ環の中に居るなら私は回る側よりも回す側に加担したいと思っていてね」

「へえー。だから剣を教えたり寺子屋やったりしてるんですか?」

 僕の言葉が意外だったのか、きょとんとした後に時路さんは大笑いした。馬鹿にした笑いとかそういうものではないようだったので好きにさせておいたが、理由がつかめないとやはり釈然としないものが残った。ひとしきり笑った時路さんは一人で一、二度頷いて何かをつぶやくと、なぜか僕に頭を下げる。とことん、一挙一動の意味が解らない。説明不足もいいとこだ、よくこれで先生やってられるな。

「いやありがとう自分のことが少しわかった気がするよ。なるほど確かにそう考えてみると私はその考えの下に人へ物を教えているのかもしれないな……うん。うん」

「自分で自分のことわかんないんですか」

「うん? ううーん。実を言うとその通りだね。別段記憶を失くしているなどという事情があるわけではないのだが明確に自分を定義することは出来ないから。これと定められた現実感がないというのかな。私は私であるけれどその考え方意外にも私という意識が存在しているような気もしていてね。以外でなく意外。そこを以て外とするのでなく単純に意の外という意味で」

「なに言ってるのかよくわかりませんけど。他人の中に自分の意識があるとでも言いたいんですか」

「おお言いえて妙なりだ――いやでも少し違うか。…………そうだな。他人の意見と自らの意見が同じである時。大陸にもこの国と同じような伝承があると聴いた時。こうなってほしいという願いが現実になった時」

 思案して出した考えに、同意を求めるかのようにこちらを見る。けれどさっきから時路さんの言っている言葉はどうにも僕の中では理解しえない、彼だけで納得しているようなものばかりだったので、僕は閉口する。時路さんは勝手に続けた。

「そうしたこの世界の在り様が自分の考えと繋がっていると感じられるような瞬間に自分と他人の繋がりを認識する」

 他人と、自分。繋がりと言われても、なんともはや。嘲る表情がわずかに浮かぶのは止められず、実際その顔で僕と時路さんは目が合った。彼は、笑っていなかった。僕は少しひるむ。ひるんだ隙に時路さんはゆるゆると、笑わない表情から色を変える。

 いや。色を、失くした。

「……驕り、じゃないですか。自分の定義のために他人を使うだなんて」

「他人と引き比べなければ自分がどこに居るのかなんてわかりはしないよ。驕りという虚勢を張って逃避であることを隠しているのは申告しておくけれど」

「逃避?」

「逃避もするよ。だって恐ろしいじゃないか。この世の人々ではどれほど引き比べてみたところで自らを定義するには違いがすぎるのだからね。達観して驕ったようにでも見せかけておかなければとてもとても……己がまともでないことを自覚していられないよ」

 ざくりと言葉が突き刺さった。まともでない。それは今更すぎて自覚することを忘れてしまいそうだった言葉ではなかったか。ぱっと顔を上げる。そこにある時路さんの顔は、

「私は――多分ただ単純に。自分のことがなんだか。薄っぺらにしか感じられないのさ」

 時路さんの顔は、笑っているように見えなかった。てろりとぬめりを帯びて光る赤い口元は確かに弧を描いていたのに、愛想笑いとさえ思えないほどに感情が削り取られていて、ひどくむなしい心地にさせられた。……ああ。すぐにその顔をやめてほしい。僕の中で不安が増していく。きっとこの不安も時路さんには読みとられている。

 そしてこうなることがわかっていたからこそ彼はその顔をしてみせたのだと気づいて、ぞわぞわと僕の心の臓は震わされた。

「さてここからがきみに伝えたかった唯一つの言葉だ。このためだけに私はきみに話しかけたと言っても過言ではないよ。おやおや何を慌てているんだい? 怖いものでも見えたのかい? それともなにかな。私のこの顔が怖いのか(、、、、、、、、、、)?」

 怖くは、無い。でもそれでも、生理的な嫌悪がこみ上げる。その嫌悪感からわなわなと体を震わす僕がなにごとか口にするのを、時路さんは待っていた。けど僕は何も言えなくて、いささかがっかりしたように時路さんは自分の口を開いた。何を言われるのかと思い、ぞっとする。だというのに、嫌で嫌で仕方がないこの気持ちの中、なおも目を逸らせない。その理由は……怖いもの見たさに、違いない。

なんだ、やっぱり怖いのか。でも見るのか。

 そうした蛮勇には必ず、後悔の念が付きまとうものだというのに。わかっているのにやめられない蛮勇か。ここに残ることを決めた過去の僕の馬鹿さ加減を呪った。

 しかし、ひとつだけ過去の自分の行いに感謝する。白を、この場に残しておかなくてよかった。――本当に、こればかりは見せるわけにはいかない。真正面にある、今日初めて会ったばかりの人間の、初対面なのによく知っている表情を見ながら思う。

 今の僕を、白には見せたくない。ましてや、僕の前にいるこの顔と見比べさせることなど絶対にさせるわけにはいかない。

「言っておくけれど私()怖いよ。もちろんきみ()――」

 赤い口元は震える。……ああ。やめてくれ。繋がってしまった。ついさっき彼が言ったとおりに、僕と時路さんはたったいま繋がってしまった。もうその言葉の先は、さっきまでの白との会話よりも鮮明に思い浮かべることが出来てしまう。

 でも口に出されなければ無いのと同じだ、無かったことと同じだ。だから、だから頼むよ、その先は――


「――私と同じ気持ちだろう?」


 僕の目の前にある彼の顔は、

 不出来なお面や人形の表情とまったく同じで。

 それはつまり顔を取り繕うことに慣れていなかった頃の僕の表情と、

 寸分たがわぬものだった。


「その目その顔その反応を見るに間違いないね。私が先ほど言ったこの世全ての采配を振りこの世を回している奴とはすなわちきみも出会ったことがあるのであろう奴だ。人が奴を何と呼ぶかは多すぎて数え切れないだろうが奴自身が己を呼ぶ時の名称は常に一定しているよ。きみも出会ったのなら聴いたのではないかな」

 久しぶりに思いだした、本当の恐怖。考えてみれば時路さんのこの冗長な語り口、態度、雰囲気。全てがどことなく奇妙に感じたのは全て、幼き日のあの記憶と酷似していたからじゃないのか。なぜ今まで気付かなかった。気付こうとしなかったのか。怖いから。

 ――怖い。奴は未だに僕の恐怖の象徴である。乗り越えられたはずもなく、僕は今も表情を奪われたままだ。取り繕うのが上手くなっただけで。なにひとつ取り戻せちゃいない。

「……ああ、そういうことですか」

「うん?」

「つまりあなたは、僕と同じで。他人と自分の境目がわからないんでしょう」

 うん、と言って今度は頷いた。異母兄にでも出会ったらこんな気分なんじゃないか、と僕は吐き気を催す。なぜ、こんなところで出会ってしまうのか。巡り合わせの悪さをこそ嘆こう。

「だからこそ私はきみと話をしてみたいと思ったのさ」

 友好的な言葉へ、にこりともしないことで僕は答える。いつの間に立ち止まっていたのかわからない。誰もいない通りの中で向き合う、僕らがいた。

「なるほど。確かに、僕とあなたは理解しあえる関係でしょうね……」

 こんな出会いは他にないだろう。それこそ、普通に生きていくことが出来ていたなら絶対にあり得ない状況だ。けれど僕らは普通じゃない。あの人外の存在により、普通でいられる素養を奪い取られている。自分で自分がわからないし、他人との境界もあいまいだ。だから時路さんが自分の定義が出来ないというのも頷ける。

「互いにこのような出会いをすることは稀だろう。奴も私たちと同じ人間は両手足の指で足りる程度にしか作っていないと言うし……数少ない価値観を共有出来る〝友人〟になれたらと思うのだけれどもどうだい?」

 ここでようやく、時路さんはあの顔を引っ込めて再び表情を作った。このことで息苦しかったこの場の空気はいくらか変わったが、薄皮一枚の表情であることを知っているのなら大した差は無い。圧迫感は無くなっても気持ち悪さはこびりついたままだ。作った笑顔をふりかざして、仲良くしようなどと提案してくる時路さんの顔にこそ、その気持ち悪さは色濃く表れていた。この気持ち悪さは、時路さんの言動と考えの間の矛盾にある。

 友人などという言葉は僕らが関係性を作ることを考えるには、他に言いようがないからそう言うに過ぎない。僕も時路さんも一人で生きていくし、一人で死んでゆく。友人なんていなくとも。なのに、なんで関係を結ぼうとするのか。

「なぜ」

「んん? なぜと問うかい。なんだろうね。まあその理由まで深読みしてくれた上で考えてくれると嬉しいかな」

 無意味な笑みを浮かべる、でもさっきまで空っぽの顔だった奴の内面を深読みしたところで、何かあるとはとても思えない。どうせ僕もこの人も、基準も定義もあやふやだ。自分の中にあるのはたったひとつの規定だけ。だったらそんなもの――どうでもいい。

「友人はひとりもいれば十分なので、結構です」

 僕が適当なことを言って突っぱねると、時路さんには突っぱねることまでは想像出来ていたらしいが、理由までは思い至らなかったらしく驚いた顔をしてみせた。次いでにやにやと、寒気がするほどに何もない顔で僕を見つめ、堪え切れず失笑した。

「っははははは! きみはまさか先ほどまで居た白というあの娘のことを言っているのかい? 確かに彼女も少しばかり変わり種のようではあるが。あれ(、、)は友人とは」

「その呼び方だけはやめてください」

「なんだいやめてほしいのかい? ……ん? なるほど。よく考えてみればそう発言するのが〝人間らしい〟というものか。いやはやきみは本当によく出来ているな。私が奴に遭ってしまったのは三年前の話なのだがきみはもっと前に出会ったりしていたのかな。そうでなければそこまでなりきることは出来ないだろうからね」

「なり……きる? あなた、一体何を言って、」

人間の真似ごとの(、、、、、、、、)ことを言っている(、、、、、、、、)

 時路さんが言葉を紡ぐより速く、僕は怯えた。自分が表情を作れているのか心配になった。そして心配になってしまったことに動揺する。ちがう、動揺してはならないし心配もするべきでないんだ。だってそんな心配をしない奴こそが――〝普通〟で〝人間らしい〟のだから。

「――はははは。私に言った〝上っ面一枚の擬態〟というのはきみ自身のことも指していたんじゃないのかい? 八兵くん」

 にこにこと笑う時路さんの語調はただの確認だった。詰問どころか質問ですらない。沈黙でそれに抗するが、肯定と取られてしまったらしく、笑みを強める時路さん。どう答えればよかったのか、と今更詮無きことを考えるが、本当に意味などない。

「ちがう、僕は……」

「隠しても無駄という言葉は隠す必要がないと言い換えることが出来るというものだね」

 どうせこの人は何を返しても、僕から言葉を引き出そうとする。

「……言葉を聞かずともわかったつもりになれる、その心理術をやめてください」

「〝つもり〟とは手厳しいお言葉をどうも」

「皮肉の〝つもり〟で言ったわけじゃありません」

 言い返しても、時路さんはくすくすと笑い続けた。

 沈黙でそれに耐える僕は、先に述べた言葉以上に何かを言うことは出来なかった。反抗すら出来ずに黙っていると思われたのか、時路さんはさらに笑みを強めた。僕は何も言わずに、黙って耐え続けた。

 時路さんはそれ以上に何も言わなかったため、僕はそこを後にした。

 逃げだした。


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