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一幕。


        一幕。



「これで大丈夫だと思います。背兪穴(はいゆけつ)を突いておいたので腰痛も和らぐと思いますよ。今日明日は少し倦怠感があったりするかもしれませんが、それもすぐに復調します」

「ああ、ありがとう八兵(はちべえ)。これでまた仕事に戻れるよ」

 使った(はり)などの道具を皮の袋に納めながら、僕は行きつけの茶屋の主人に告げる。今日の午前だけで既に七人も診ているため、さすがに疲れた。そんな僕の様子に気づいたのか、主人は労うように、団子とお茶を用意してくれた。僕は軽く頭を下げる。

「ありがとうございます。ここのところ、連日仕事でして」

「いやいや。疲れるのはむしろ良いことだよ。最近はこの辺りでも職が少なくなってきているものだしな、税を納めるのもままならん奴も多いんだ。もっとも、そんな中だと体を壊す人もおるから、きみの方は儲かるのだろうがね」

「遠まわしな嫌味に聞こえますよ」

 はは、と笑ってお茶に手をつける。澄んだ緑色の中には、茶柱が立っていた。珍しいことだと思いながら、僕は一口すする。次いで砂糖醤油のかかった団子を口に入れ、その香ばしさと甘辛さの絶妙な相性に舌鼓を打つ。しばし、もくもくと食べ続けた。と、僕のその様を見て、主人はなぜか首をひねった。

「それにしても、食べる暇さえないのか? どうもがっついているように見えるが」

「え? あー……まあ、そんなところです」

 言葉を濁して、食べる速さを少し緩める。どうやら、またうっかりしていたらしい。ここのところ忙しくてすっかり、食べることを忘れていた。身体が縮こまる僕に、主人は黙って次の皿を取り出した。皿の上には、串に刺さった団子が三本、並んでいる。

「そんなにご馳走になっていいんですか」

「構うことはない」

 快活な笑みを浮かべて手を振る主人には、後光が差して見えた。僕は深々と頭を下げる。なんていい人だろう。世の中まだまだ捨てたものじゃない、こういう人が居るうちは……そんなことを考えて一人小さな感動に浸っていると、頭上から少し低くなった声が降ってくる。顔を上げると、主人はにやにやと笑っていた。

「団子のお代の分、治療費から差し引いといてくれ」

「……ああ、そういう算段でしたか」

 現実は、甘いだけでは終わらない、と。僕は頭の中で自分で計算した治療代から団子のお代を差し引き、その額を請求した。主人はきっちりその額を用意していたようで、懐から袋に入れたお代を取り出し、僕に手渡した。この人、今日は最初からこうやって治療代を安くさせるつもりだったな……でもこれは読みきれなかった僕が悪い。素直に負けを認めよう。

 主人は『商売人としての年季が違う』と言いたげな顔で、(おとがい)に手を当て僕に問う。

「もう昼過ぎだが、今日はまだ往診があるのかね?」

「ええ。あとは橘様のところと、夕方にも一軒回ります」

「橘様か。はは、なんだかんだ言ってあの方もお歳なんだなぁ。どこか悪くもなるか」

「あなたと同じで腰痛持ちですよ。それじゃ、そろそろ行きます」

 二本残した団子を笹で包んでもらい、鍼灸道具一式も入れてある風呂敷の中へ。それを背負いなおして、僕は表通りを歩き出した。


 町外れ、というと聞こえが悪いので、山を背にした閑静な土地、と言い換えよう。とにかくそこに、橘家の屋敷があった。この家の主である橘門左衛門(たちばなもんざえもん)はここら一帯を取りまとめる領主で、町の人々からも信頼の厚い人物である。

「すいません、鍼灸師(しんきゅうし)の八兵です」

「はいー、ちょっとお待ちを」

 門を叩くと侍女の一人が出てきて応対してくれた。頭を下げて門の脇にある小さな扉をくぐると、広い屋敷の前庭には、苗字を意識してのことか橘の木がところどころに植えられている。すたすたと先を行く侍女の後ろを歩き、僕は上り(がまち)を踏んだ。

「あれ、門左衛門さんの部屋はこちらにはなかったのでは」

 歩いていく侍女に確認する。たしかこの先には、門左衛門さんの私室はないはず。訝しげに思って僕が問うと、侍女は小首をかしげて申し訳無さそうに微笑んだ。

「申し訳御座いません。門左衛門様は今、来客の方がいらっしゃっておりますのでそちらの方に。八兵さんとの先約があるのは承知の上でしょうから、すぐに来ると思いますので少々お待ちください」

「何か急な話でもあったんですかね?」

時路(ときじ)様という御方と、囲碁を打っておられます」

 ……文字通りだが物理的でない〝お灸〟を()えた方がいいかもしれない。予約しといたくせに、囲碁かよ。

「申し訳ありません」

「いや、あなたに謝られるとこちらが困ります。いいですよ、別に。待つのはそう苦手じゃありませんし」

「そう言っていただけると何よりでございます。では、後ほどお茶をお持ち致しますので」

「あー、いやいいです。さっき茶屋で飲んできたところなので。お構いなく」

「左様で。では、何かありましたらまたなんなりとお呼びつけくださいませ」

 庭を臨む一室に通された僕は、会釈して去っていった侍女の後姿が廊下の曲がり角に消えたところで、座布団に腰掛け風呂敷を肩から下ろした。部屋は十畳ほどの広さで、それだけで僕の住む貧乏長屋は収まってしまうだろうこと請け合いだ。

「でもやることが無い上に部屋が広いと、落ち着かないな……」

 綿のしっかり詰まった座布団の上でもそもそと動くと、自宅の座布団とは違う感触で余計に落ち着かない。とはいえ、座っているのが辛いからとうろうろ室内を歩き回るのも、門左衛門さんが来た時に不審に思われるだろう。大体、そんなことしていてもすぐに飽きるに決まっている。とりあえず庭園の方を眺めてみたが、池で鯉が跳ねることすら無い。軽く手を打って呼びかけてもみたが、室内に空しく音がこだまするだけだった。

 何か時間を潰せそうなものはないだろうか、と風呂敷の中を漁るが、出てきたのは商売道具の鍼灸道具と先ほど買った団子のみ。実は煙管(きせる)を腰に挟んではいるのだが、僕は刻みたばこを持っていない。つまるところこれはただの伊達(だて)煙管なのだった。ふうとため息をつく。

「本でもあれば、暇つぶしになるのにね」

 と、こちらの状況を把握した声が、すぐ近くから聞こえる。それは僕には覚えのある、細い声だった。

「本当だよ。というわけで(しろ)、何か一冊持ってきてくれないか?」

 僕が庭の方と逆のふすまに向かって声をかけると、ほとんど音を立てないでそれは開かれた。出てきたのは頭から毛布をかぶったかなり小柄な人影で、顔が見えないためちょっと見ただけでは性別の判断すら出来ないだろう。だが僕はよく知っている。するするとこちらへ寄ってくるのは、(たちばな)白銀(しろがね)。門左衛門さんの娘だ。僕は白と呼んでいる。

「あの人はまだ来ないよ」

 白は横に座り込んで、白っぽい着物の(そで)にあごを載せると、ぐたー、と机に突っ伏す。白が言っているのはおそらく門左衛門さんのことだろうとあたりを付けた僕は、(うなず)きと言葉を返した。

「ああ、知ってる。さっき侍女の……誰だっけ。とにかく侍女の人に聞いたからな。そうだ、お前に団子買ってきたけど食べるか?」

「ん。ありがと」

 笹で包んだ団子を二本、白の方に差し出す。本当は門左衛門さんの治療が終わってから会うつもりだったのだが、先に会えるとは思わなかった。ともあれ、これで待ち時間を退屈に過ごさず済む。僕は白に向き直った。

「そういや、悪いな。最近はあまり来れなくて。なんでか知らないけど隣村からも治療を頼みに来る人がいてさ、結構忙しくしてるんだ」

「そうだったの。大変だね……でも別にいいよ、来れる時だけ来てくれれば。わたしもわたしで忙しくしてるし」

 食べる時も毛布を手放さない白は、砂糖醤油が付いたりしないよう器用に食べていた。ひとつずつ毛布の隙間に消えていく団子を見ていると、なんだか面白い。毛布の隙間には、ほんの少しながら喜色を浮かべた白の表情が見え隠れした。

「忙しいって、お前そんなにやることないだろ? 平安の頃の金持ちみたいな生活してるくせして」

「いくらなんでも失礼だね」

「平安の頃の金持ちに、か?」

 むっとしたのか、砂糖醤油が垂れた指先をなめるのをやめる。すぐに僕が冗談だ、と言うと、突きつけていた串の先端をこちらに刺そうとすることもやめてくれた。やれやれ。

「どうせまた、本読むのに忙しいんだろ。わかってるよ」

 前に一冊、気まぐれに買った本をあげたことを思い出す。が、白はそのことを覚えているのかいないのか、感想を話題にしたりはしなかった。

「でもいつも思うんだけど、読んでどうするんだ? 僕は文盲ってわけじゃないけどさ、あんまり本読まないんだよ。だって学術書ならともかく、物語は読んでも役に立つとは思えないからさ」

「学術書は役に立つと思ってるの? それは勘違いだと思う。学びたい人が儒学を学ぶのはその人の勝手だけど、学んだからってすぐに出来ることは何もないよ」

 意外なことを言われ、一瞬反応に困る。はて、なら延々と主人公の立身出世とそこからの衰退を描いた物語集は、何かの役に立つのだろうか。

「もちろん物語も役には立たないけどね」

「ならなんで読むんだよ」

「誰かの人生らしきものが見えて、面白いな。と思うから。少なくとも面白いと思えている間は、暇が潰せるよ。今みたいに」

「反応に困ることを言うな。それじゃ僕が暇つぶしの道具みたいだろ。というか、お前の言うところの〝暇〟ってのは、そのまま人生のこと指してるだろ」

「わたし自身の人生は退屈だから。暇つぶし、暇つぶし」

 既に老境に入ったかのようなその人生観は(うらや)ましくもあるけど、僕はそうはいかない。なぜなら、僕はこいつのように親の財を食いつぶしながら生きるようなことは出来ないからだ。親がいない孤児の哀しい現実である。と、考えに浸っていると突然、白が僕の顔をのぞき込む。

「ところで、最近ちゃんと食べてるの?」

「なんだ藪から棒に。今さっき団子をつまんできたところだよ」

「そういうのじゃなくて、しっかりした食事。いつも忘れるでしょ」

 言われてみて、三食のうち抜いた数を指折りして数える。今朝は食べてない、昨晩も食べてない、昨日の昼食も食べてない……

「最後にきちんと食べたのは昨日の朝、かな。診療で食事処に行って、そこのおばさんが作ってくれた。めざし定食だった。その前に食べたのは覚えてない」

「ああ……八兵、知らなかったみたいだね。人間は食事を摂らないと死ぬんだよ」

 言った途端に白の態度が憐れみに満ちたものになっていた。なんだ、働きもせず親のすねをかじり続けてるくせして。こっちはお前の家みたく毎食が定刻になると用意されてるわけじゃないんだよ。日々労働に精を出して獲得しなくちゃならないんだ。今日は明日の、明日は明後日のごはんを。

「別にいいだろ、僕はあんまり食べるってことに執着がないんだ。それに貧乏だから食事のことなんて忘れるくらいの方が都合いい、どうせそう大して食えないから」

「だったらわたしが材料を持って、何か作りに行ってあげようか?」

「お前の家にある材料で作られたら、僕の稼ぎ二十日分くらいの値がつく料理になる。しかもその料理というのが単なる炭の塊になるとしたら、間違いなくただの嫌がらせだよな?」

 炭と化していても、値が張る食材が使われてるとなったら畏れ多くて捨てられない、そして食べざるを得ないのだ。そこまで想像してげんなりした僕の顔に視線が突き刺さり、白の声が低くなった。

「そこまで料理下手じゃないよ、わたし」

「けど僕より下手なのは確かだ」

「むう」

 否定しきれないらしく口ごもった。けれど反抗的な目つきは変わらず、何か言いたそうにもそもそ毛布の下で身をよじっている。白の頭に手を置いて、僕は言った。

「ま、少なくとも心配されない程度には食べるさ。今度から」

「生活力はあるものね。足りないのは、生存力」

「そればっかりはそういう風に出来てるんだから仕方ない」

 徳川家の天下統一から五十年余り。太平の世になってきたとはいえ、それは戦での死者が少なくなったに過ぎない。今日もどこかの街角では、職にあぶれた人や親の居ない子が死んでいる。僕が生きてるのは、たまたま鍼術を身につけたから。運が良かっただけだ。

 ぼうっとしていると、白がこちらを見上げているのに気づいた。見下ろすと、そそくさと毛布を目深に引きずり下ろす。まるで、人目におびえて森に逃げてく小動物のようだ。

「最近、流浪の人がおまんじゅうを売って歩いてるんだって」

 白は口元まで毛布で隠して囁くように発言する。ほう。まんじゅうか。へえ。それはまた仕事として『おいしそうな』話だ、と思った。流れの人なら旅で疲れてもいるだろう、鍼術が入用でないか聞きに行ってみるのもいいかもしれない、などと愚考する僕。

「というかお前、いい加減食べ物の話題から離れろよ……そんな食いしん坊でもないだろ」

「うん。正直おまんじゅうはどうでもいいの。でも、そのお店では古書も取り扱ってるっていう話を聴いたから」

「引きこもってるくせにどこから噂を仕入れてくるんだか」

「話し声っていうのはどんな時でも、話してる人が思ってる以上に遠くまで聞こえるものだから。ぼうっと突っ立っていても耳に入ってくるよ」

「要するに立ち聞きとか盗み聞きしてたんだろ」

「気づかない方が悪いもの。八兵の噂も、色々聞いてるかもね」

 くす、と笑みが漏れる。いや、それにしたって話題の中心人物になる要素がまるで皆無なのがこの僕だ。おそらく白は思わせぶりなことを言って惑わし、まずいことを口走るのを期待してるだけだろう。といってもこれまで僕は清廉潔白に生きてきた自負があるので、まずいことなんて何も無い、はずだ。言えるもんなら言ってみろ。僕に非は無い、火は無いのなら煙は立たない。なんだか上手く韻を踏めた。と思いきや。

「色町まで行ってお仕事なんて、いいご身分だよね八兵って」

 あんなに陽気に満ちていた外で、日が(かげ)ったような気がした。霜の降りた地面を素足で歩くに似た、ひしひしとした冷たさが足元から這い上がってきた。言葉を返そうとしたが、時すでに遅し。本来感じる必要のない後ろめたさを感じてしまったことで、一拍以上の間が空いていた。

 女ってのはこわいな。なぜこうも無意味に威圧感を与える術に長けているのか。とりあえず僕、弁明開始。

「し……仕事でお呼ばれ、だったから」

「そう」

 弁明終了。真実を包み隠さず述べることは、欺瞞で紡いで偽証を織り込んだ言葉よりはいいだろうと判断してみた。

 が、毛布の向こうからこちらを見る目は厳しかった。凍てつく針のムシロに座らされること、ほんの数瞬。心の臓に突き刺さる言葉は「まあ、いいけど」というつっけんどんなところから始まった。

「あんまり通うとお金なくなるからやめた方がいいよ」

「だから、むしろお金貰いに行ってるんだってば」

「遊女からお金貰って遊べるって、八兵はあそこで何をしでかしてるの?」

「酒も呑まずに仕事してるんだって」

「殊勝なようにも聞こえるけど、仕事の内容次第だね」

「仕事は仕事だ」

「だからそれはなに?」

「あーはいはい、さしたりぬいたりですよ」

 鍼を、ね。疑ってかかる人間には何を言っても無駄だろう、と僕は投げやりな受け答えに陥る。頬杖ついて横を見ると、白は沈黙なのか硬直なのかわからない状態がしばし続いていた。

僕が待つと、ややあって、「ふう、ん」となにやら意味ありげな溜め息とも深呼吸ともつかない音が僕の耳に届く。耐え切れず、僕は問いかけを漏らした。

「なんだよ。信用したのか疑惑の目を向けるのかどっちだよ」

 内心に少しの怯えをはらみつつ、強気な態度を取ってみる。小動物のように縮こまる僕に対して、白の反応はどうくるのか――緊張の一瞬が訪れる。と、白はなにやら含んだ態度で声を潜めた。

「最近、色町で不穏な噂が流れてるから。辻斬りとまではいかないけれど、乱闘騒ぎから軽い刃傷沙汰まであるらしいの。八兵が何かにうっかり気を取られて、そういう争いに巻き込まれたりしてないか心配しただけ」

 白の声音には、純粋さしか感じられなかった。とはいえ、本当にここまでの僕の反応から、争いに巻き込まれてるかどうかを読みとれるのだろうか。

「顔に出やすいからね」

 それは真か。

「女の人と間違いとか問題を起こしてるわけでもなさそう」

「それはどうも、ありがとう……」

「八兵、女の人に興味は無いの?」

「ああいうとこに居る、艶っぽすぎるのにはあんまり」

 頭を掻く僕に、そう、とつぶやいてついと顔を逸らす。温和な気色へと戻った白に、僕はひとまず安心した。……悪いことをしたわけでもないのに、な。なんとなく疲れたので頭をおさえて机に突っ伏す。横で衣擦れの音がして、次いで白がふすまを開ける音が聞こえた。

「じゃあね。そろそろあの人が来るから、部屋に戻るよ」

 突っ伏したまま耳を澄ますと、廊下の奥から近づいてくる足音が聞こえていた。ようやく対局が終わったのだろうかと考える僕に、白は細く開けた隙間から、首だけのぞかせて言う。

「おまんじゅう屋兼古本屋は、色町に留まってるらしいから。どうせこのあと行くなら寄ってきて。そこで良さそうな本があったら買っておくこと」

「結局それを頼みたかっただけかよ」

「あと、危ないにおいのするところには近寄らないで、って忠告もしたでしょ」

 ぱたん、とふすまが閉じる。そして僕が反対側、庭に面した障子の方へ向き直ったところで、門左衛門さんが姿を現していた。

「なにか、話していたかね?」

「いえ、独り言です」

 受け答えをしながら、僕は風呂敷を持ち上げた。布団のある部屋へ移動する門左衛門さんに追従する。そして歩きながら思い当たる。

 そういえば。

 なんで白のやつ、僕がこのあと色町にも診療に行くこと知ってたんだろう。


        ◇


 橘家はさる神道宗派における家柄の分家筋にあたるらしい。しかし門左衛門さんは術法に頼るよりむしろ若い頃修行したという剣術でこの地を治めてきている。その統治の基本は『外敵は排除する』というある意味で大変野蛮な思想で出来ているが、その分かりやすさは民衆にはそれなりに受け入れられていた。

 がっしりとした体格はいかなる時も姿勢を崩さずきびきびと動き、皺と共に傷痕も刻まれた顔は年輪のようにその生き様を伝えてくる。背丈は若干低めな僕より頭一つ高い程度だが、大柄なのでそれを気にさせない存在感がある。年齢は四十半ばを過ぎているだろうが、まだまだ壮年と呼んでよさそうな気概がある。

 とはいえ、寄る年波を前にしては体のどこかに具合の悪い部分も出来るらしく。

「腰で気の流れが淀んでますよ」

「ふむ。ついこの間、朝食に漬物が食べたくなってな、蔵にあったのを取り出そうと漬物石を動かしたのだ。その時に痛めたのだろうか」

「朝は筋や肉がまだほぐれていませんから、起きたらすぐ軽い運動をこなした方がいいですよ。若いうちは肉自体が柔らかさを常に保っているので多少の無茶も利きますが、四十をこえたらご自愛ください」

 ぐいぐいと鍼治療を施しながら僕は言う。人間の身体は経絡系(けいらくけい)という、気が流れる路がある。そこが滞って無用な分の気が溜まったり、逆に路が閉じてしまったりして気が流れなくなると、肉体には不調が生まれる。そうした諸問題を解決することこそが、鍼灸師や指圧師の仕事だ。

 腰兪、陽関、命門、懸枢。督脈(とくみゃく)という背骨に沿って体の中心を通るツボに、適度な力と深度で鍼を突き立てていく。無論、これら四つは腰痛、神経痛に効くツボだ。施術をしていくにつれ、目に見えるわけではないけど、経絡系の流れが徐々に本来あるべき形へと戻っていくのが感覚としてわかる。

「無茶をしないよう気をつけてはいるのだがね。老いたらば年経ることで得る強かさを持てばよい、と思えども、なかなかそうは考えられない。ついつい昔のように、体に頼ってしまいがちだ」

「今の自分の体がどのような状態にあるか、常に把握しておくのが一番ですよ」

「そうだな。……きみはいいな、まだ成長の途上にあるのだから」

「背丈は止まりましたよ」

「それだけではない。考え方や物の見方もまた、成長の途上にあるということさ。視点や考えが凝り固まらないというのはそれだけで貴重だ。年を取れば誰しも、ある程度は頑なになってしまう」

「僕はすでに固い頭をしていますよ」

 ため息混じりにそう述べると、間違えて自分の指先に鍼を打ち込みそうになった。布団に伏せている門左衛門さんには見えなかっただろうけど。……やれやれ、僕も少し疲れてるみたいだ。手元と指先を狂わせないように、鍼をうつことに集中する。

「だから門左衛門さんが相手とはいえ言わせてもらいますが、囲碁を打ってて遅れるというのはどうかと」

「いやはは、だが少しは融通きかせてほしいものだね。相手は色々と私にとって重要な間柄の者だったのでな、少しばかり遅れることと相成った」

「別に構いませんけどね。結局は門左衛門さんのお体のことですし、それに」

「なんだね?」

「いえなんでも」

 白のことは話題にのぼらせなかった。

 が、白との話題の中であがった話については、軽く触れようかと思った。このあと行く場所のことだし、統治者に現状を訊いておくのは自分の身を守るためにも悪くないだろう。

「そういえば、最近は色町の治安が悪いらしいですね」

「ん、ああ。どうやらごろつき共が徒党を組んで悪さをしようとしているらしい。刃傷沙汰になりかけたこともあったのでな、私も何度か乱闘を止めに入った」

 ごろつきとはこことはまた違う方向にある、少し荒れた土地を割り当てられている輩のことだ。風体からしてすぐにそれとわかるような連中であり、実際に暴力を振るったりする奴らも含まれている。

 とはいえ、あまり暴れすぎれば同心が来るし、村人が逃げてしまえば本当に居場所をなくすことになるのは彼ら自身なのだとわかっているはずだ。だからこそ今までは危ういところで均衡を保ててきたのだけど……突然に彼らの頭が悪くなったんだろうか?

「ごろつきどもはこの土地の人間だけではないようだ。見覚えの無い輩も増えていた」

「え。そうした連中は土地の間をあまり移動できないようにされているんじゃないですか?」

 僕は驚く。土地ごとで請け負うというのか、素行の悪いそうした輩は適度にあしらうことで問題を小さいもので終わらせるように各村落で取り計らっていると昔聞いたことがある。まあ、これが大きな街などになると、徹底的な排除がなされていることもあるらしいが。

 門左衛門さんは僕の問いかけにかぶりを振って、眉根を寄せた。

「それはあくまでも暗黙の了解、というやつなのでな。その気になれば移動できんこともないのだよ。そうはいっても、移動することで何か良いことがあるかと言えばそうでもないはずなんだが」

 いずれにせよしばらくは様子見だ、と言って渋面をつくる。僕は相槌をうちながら鍼も打ち、とりあえず色町にいる間は目立った行動はとらない方がいいかもな、と結論付けた。

 あとは取り留めのない話を続け、半時も経たないうちに施術は終わる。門左衛門さんが腰をひねって具合を確かめる傍ら、僕は鍼を焼酎で消毒して手ぬぐいで表面をふき取り、革袋に収めた。そして頭を下げて座敷を後にする前に、訊いておく。

「あ、ところで。色町に饅頭を売ってる屋台が来ていると聞いたんですが、どの辺りにいるかご存じないですか?」

「まんじゅうか? 確か、荷田屋という店の近くに場所を借りたと聞いている。だがあの辺りは先ほど話したごろつきの溜まっている場所でもある、行くなら気をつけておくのだよ」

「わかりました」

 頭を下げ、今度こそ出ていく。けれど僕の背中に、門左衛門さんが声をかけてきた。

「その饅頭屋――」

「はい?」

 座敷の奥、床の間近くで正座している門左衛門さんの顔は、縁側であるこちらからは暗がりにあってよく見づらい。だというのにじわじわと足元に近付き絡みついてくる視線が感じられて、足が止まり、聞かずともよいことを耳にすることになった。

「――古本を扱っているそうだが。あまりそうしたものを〝あれ〟に与えんようにしておくれ。きみ、前に〝あれ〟に本を与えたろう。私が捨てさせてもらったが」

「……へえ。そう、ですか」

 淡々と述べられる「捨てた」という言葉には、特に何の感慨も湧かない。そういう状況もあるだろうことは、門左衛門さんの次の言葉と同じくらい予想がついていた。でも予想がついたところで心構えができるだけで、結局耳障りには変わりなく。

「再三にわたって警告しておるが〝あれ〟には近付くのもよした方がいい」

「……はあ」

 言葉と視線には、憐憫と蔑みが混じっていた。施術中はおくびにも出さないが、これが平時のこの人の本心だ。……たぶん、僕が言葉から本心を感じ得たのだから、門左衛門さんも僕の本心を感じ得ただろう。

 溜め息に込めた、嘲弄と呆れを。それなのに面倒なことに、この村に僕より巧く鍼を打てる人間はいない。だから門左衛門さんはいつも僕を呼ぶ。そのたびに、今と同じことを言う。

 ――本当に時間を無駄にした。僕はもう一度だけ頭を下げて、無言で座敷を出た。


「〝あれ〟は人間じゃあ、ないのだよ」


 そのつぶやきは聞こえなかったことにした。



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