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零。

        零。



 その日、僕は死にかけていた。

 どさりと地面に倒れ伏してから、どれほどの時間が過ぎたのか――そんなことを考えることもなく。かといって、人生を思い返すことに忙しかったのかといえば――そんなこともなく。死に瀕してただ泣き喚くことすらも――思い至らず。ただ黒いまぶたの、裏側を見る。

 結局のところ僕は、もう自分が死にかけていることにすら、気づいていなかったのだ。

 放っておかれれば、そのまま死に至っていたことは間違いない。


「――お加減とご機嫌はいかがかな、少年。はてさて。死の際に霊的存在を見る、というのは誠に頻繁に耳にする事実であろうと思うが、実際どのような心持ちだ? そのような存在であるところの、私と直接に対面してみたところ。ん?」


 間違いなかった、のだが、すぐ傍でわあわあとうるさい奴が居たので、ほとんど失われかけていた意識がゆっくりと浮上を始めてしまった。もう、沈めたままでいるつもりだったのに。

 ぐっとこめかみの辺りに力を入れると、長く目を閉じていたため、光に慣れず薄ぼんやりとした世界の中。落ち葉が敷き詰められた地面に寝転がる僕を見下ろす影が見えた。柳のような痩身に白い着流しを纏い、長く踵までだらりと伸びた黒髪が、その上を覆っている。表情はその髪に隠され、見えない。だが喜色を表すように、手を打ち合わせていた。僕のまばたきに気づいたらしい。

「目を覚ましたか、少年。私としばし会話に浸ることを出来得る程度の体力は、残っているか?」

 露骨に嬉しそうなそいつに、僕はゆっくりと、嫌そうに顔を歪めてみせた。単に喜ばせるのが嫌でとった行動だったのだが、よほど堪えたのだろう。そいつの動きが凍る。ざまあみろ。

「ふむ……体力はあるが気力が無い、と。よろしい。ならばきみがそのように後ろ向きの方向性を持つことを私は許容し、またそのような人物に相応しい態度で接するとしよう。はてさて、では私は独り言のように話さなくてはならないのか。それはあまり愉快なことではないにせよ、少なくとも退屈では無さそうだ。ならばこれもよしとしよう」

 けれど落胆は一瞬で、すぐさま僕の態度に応じる。嫌な奴だ。話さないとわかれば落胆してどこかへ消えてくれると思ったのだが、まさかの展開だ。ということはこれからしばらく、こいつの言葉に付き合わなくてはならないのか? 身動きも取れないほど衰弱し切ったこの身体で、抗うことも出来ず? ひどい拷問だ。うるさい奴は好きじゃない。

 だというのに、そいつは構わず言葉を紡ぎ始めた。

「さて少年、きみは短いながらもこれまで生きてきて、人生の目的とも言うべき代物、すなわち〝幸福〟を感じた瞬間はあるか? そしてまた、それを求めようと意識し続けることが出来ているか?」

 問いかけに、僕は文句だけを返そうと思った。だが、渇ききった喉は少し動かすだけでも相当な痛みを発し、とてもじゃないが文句どころか一音漏らすことも出来ない。ひゅるひゅると、力なく吐息が出入りするのみ。

 全身の中で動かせるのは顔の表情と、眼球くらいだった。そういうわけで視線を上に向けると、奴はそんな僕の状態に気づいているのかいないのか、まるで僕からの返答があったかのように話を続けていく。

「もしもそのような普通の運命の上にきみが在ったとすれば、きみはここには居らず、私と会うこともなく、真っ当に人生をまっとうすることが出来ていたのだろう。が、どうしてどうして、世の流れというものは面白い。そう思うだろう? 私はそう思う。そしてそれが正しいのだと考えている」

 確信に満ちた笑みを浮かべて、そいつは歌うように言う。しかしまあ、厳密にはまだ会話はしてはいないのだから僕が言うことの出来る言葉じゃないのだが、こいつは人の話を聞かない類の奴だろうと思う。人と対等に会話するにはあまりにも、自己中心的に過ぎる。最初から返答を聞く気がないのなら、問いかけという形をとるなよ。

 僕に語りかけているくせして僕の意向は完全に無視し、そいつは(なお)饒舌(じょうぜつ)に喋り続けた。

「まあ、きみも何かしらの形で幸福は感じていたことだろう。食欲や睡眠欲を満たされ、健やかに育っていたのであれば。――――しかしだ。しかし、幸福と呼ばれしものがただそれだけであるとするならば、三つの大きな欲求が満たされないことを感じた瞬間、人間存在は生きることを放棄せんとしてもおかしくはないだろう? だがそうはしない。なぜか?」

 だから、答えを期待してないなら問いかけるな。そう思うばかりで喉は使えない僕に、そいつは自己完結した己の考えを述べる。

「そう、そうだ。希望というものがあるからだ。そうだろう? それはさながら借財で首が回らなくなり、今日にも身ぐるみ剥がれるやもしれぬ男が意気揚々と賭場に向かうように。有りもしない幻想と呼ぶべき希望にすがり、吹けば飛ぶような人生を、ただそれだけの希望に頼って歩んでいるのだ! そう考えてみるなら、いやはや人間存在のしぶとさとは台所を這う御器噛り(ごきぶり)もかくやと言うべきだなぁ! そう思わないか、少年」

 大げさにそいつは両腕を広げてみせた。どこか世界をすら掌握しているように見える所作ではあったが、そこには嘲りが含まれていると感じられた。ともあれ、ごきぶりと人間を同列に並べられては、同意も何もない。僕が思うのはこいつとはきっと分かり合えないだろうということだけだった。

「……んん? 少年、私の話を一から十まで、しかと耳に入れて聴いているか?」

 そいつはしゃがみ込み、反応しない僕の目を覗き込む。あちらがしゃがみ込んだおかげで、なんとか視界の端で奴と視線を合わせることが出来た。僕は今出来る最大の抵抗として、思い切り睨みつけてやろうと試みる。

 だが――結果から言って、その試みは失敗に終わった。

「どうした? 少年。何やら恐ろしいものに出くわしたような、不気味と言えるまでに見開いた目を中心に据えた表情だ。愉快な反応ではあるが、そうなる理由を思いつくことが出来ない。私の行動を鑑みても、なんらおかしなところは無かったと思うのだが」

 なあ? と、そいつの顔が僕の顔に肉薄する。ぞっとして、身をよじろうにもその体力が既に無かったことに気づき、さらなる恐怖に煽られる。

 じっと前を見る。奴の目があるべき位置には、闇が色濃く渦巻いていた。正確には白目まで黒く染まった瞳なのだろうが、眼窩に収まったその色合いは、吐き気を催すほどに暗い恐怖を帯びた視線となって僕を突き刺す。吐き戻そうにも胃の中がからっぽであることまで思い出させられ、僕は酸っぱくなった口中で呪いの言葉をつぶやこうとした。でも舌は、胃液で口蓋に張り付いてしまったかのように動かなかった。

「ふむ。どうやら何がしか言いたいことはあったようだが、それを語ることが出来るだけの体力が、本当に無いようだな。と言っても私は食料が出せるわけでもなし、せいぜい出来得ることと言えばこのまま話し続けることのみだ」

 それをやめろとさっきから言おうとしているのに、こいつは気づこうとさえ思えないのだろうか。恐怖と不快感がないまぜになって混乱する頭の中、僕はただもう視線を()らすことが出来ないままに、奴と向き合い続けていた。奴は不可思議そうに、首をかしげる。

「なんだ。まさか話すことすらもやめろと言うつもりか。それでは私が今ここに居ることの意味が、いよいよ無くなってしまう。他のことならば妥協しようものだが、私の話だけは聴いておけ。耳を澄ませ。おい、しかと気を保て」

 奴が言葉を切ると同時、僕の視界が端から少しずつ黒い霧に包まれていく。本格的な死の気配に、恐怖に彩られていた僕の心は一段と激しく動揺した。奴は、僕の瞳孔が開き始めているのでも見えたのか、もう話せる時間は長くないと悟ったらしい。黒い眼を小さく見開いて、肩を落とした。僕の心臓は、死にゆく身体の最後の足掻きとばかりに早鐘を打つ。息が、辛い。

 もはや他人の動向に気を回しているような余裕は全く無い状況であったが、それでも僕は目の前のそいつに視線の向きを固めていた。というのも、死ぬ時は、僕は誰にも看取られたくなかったからだ。恨みつらみだけ籠めた視線で、どこかへ去れとうながす。

 ああくそ。早く、早くどこかへ行け。喘ぐ呼吸に合わせて明滅する視界の中で、腕組みして何事かを考え込んでいるそいつに向けて怨嗟の念を叩きつける。しかし僕に目力がないのか奴が鈍感なのかは知らないが、その努力は全く実を結ばなかった。

「……ふむ、私は話を聴かない奴が好きではないが、生きる体力すら尽きかけている人間存在にそれを言うのは酷というものか。ここは少年、きみの状態を慮って、私はひとつ贈り物を渡すだけしてこの場を去るとしよう。最初から、それが目的で来たというものだしな」

 そう言って右手の親指と人差し指だけを奴は立てた――――


 その動作だけで心臓の早鐘はびくりと動きを止めた


 ――のではないか、と僕は錯覚した。呼吸が止まり、どうすれば再び息を出来るのか分からなくなる。今までの短い人生の中で、最も強い不安を感じさせられたことで、身体を包む死への感覚をすら忘れさせられる。何をしようとしているのか皆目見当が付かないにもかかわらず、本能的に危険が迫っていることを知覚した。

「恐怖を知り、乗り越えるが良い。私はそのためにきみを選んだのだから」

 その一言でぶわりと心中で花開いた、悪いことしか起こらないという確信が血管の中を這いずり回る。もがこうにも動けない自分の身体に、壊れてしまってもいいから動けと必死で念じる。じわじわと死に抱かれていく恐怖の比でない、呑みこむ大波のような恐怖を与えるそいつは、楽しそうに僕に笑いかけていた。

 僕に見せつけるように立てた二本の指の腹が、奴の黒い眼球の表面をつるりと撫でる。掬い取った一滴の涙も黒く、それが僕の頭上で震えた。


「はてさて。これできみの〝幸福〟がどう変わりゆくのか。私に、見せてくれ」


 ぽたりと、二つの雫が僕の両目を打った。


        


 ……今日、僕は生きている。

 けれどその実感はとても希薄で、僕は今日もあの日のことを悔やんでいる。



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