第14話 ギャル、黙って見ている
第14話 ギャル、黙って見ている
ランクル3日目の朝、帰ることにした。
宿を出る前にレオニスが「一か所、寄っていいか」と言った。
「どこ」
「この街に昔なじみがいる。衛兵をしている。会いたい」
会いたい、という言い方だった。
レオニスがそういう言葉を使うのを、初めて聞いた気がした。
いつもは「確認がある」か「寄る必要がある」か、そういう言い方だ。感情が表に出ている言葉じゃない。今日は違った。
「一緒に行く」とアタシは言った。
「来なくていい」
「行く」
レオニスが少し間を置いた。「……理由は」
「なんか気になった」
レオニスが何も言わなかった。それで決まった。
衛兵詰め所に向かう前に、街を少し歩いた。
ランクルの石畳は、いつもの街より目が粗い。歩くたびに靴底に不規則な感触がある。市場の端を抜けると、香辛料の匂いが薄くなって、代わりに朝の空気だけになった。
市場の端で声がした。露店の商人が2人、言い合いをしている。隣同士で同じ商品を売っていて、客の取り合いになっているらしい。どちらも引かない。周囲に人が集まり始めていた。
「行くな」とレオニスが言った。
「何もしないって」
「お前が『何もしない』と言った時は、だいたい何かする」
正しい。でも今回は本当に何もしないつもりだった。
2人の言い合いがさらに大きくなった。「最初に値下げしたのはそっちだ」「こっちが先だ」という話になっていた。集まっている人間は、商品じゃなくて言い合いを見ている。買う気がない目だ。
アタシはため息をついた。
「ちょっとだけ」
「みるく」
「すぐ終わる」
レオニスが「……また止める前に終わるんだろうな」と言った。諦めた時の言い方だ。
2人の商人に近づいた。ギャルズアイを向けた。一瞬で読んだ。意地だ。商売じゃなくて意地の張り合いになっている。
「客より意地の方が大事なの、2人とも」
2人が止まった。
周囲を見た。集まっていた人間が、言い合いが止まった瞬間に興味を失って散り始めていた。商品を見ている人間は最初からいなかった。
2人が黙った。
「じゃあ」とアタシは言って、レオニスのところに戻った。
「1分かかってないな」とレオニスが言った。
「言ったじゃん、すぐ終わるって」
「……口撃を使ったのか」
「使ってない。見えたことを言っただけ」
「違いが分からない」
「アタシも分からない」とアタシは言った。「でも、なんか違う気がする」
レオニスが何も言わなかった。歩き始めた。
衛兵詰め所は街の東側にあった。
石造りの建物で、入口の前に石段が3段ある。その前にヴァルツがいた。40代の男だ。体格がいい。レオニスより少し年上に見える。レオニスを見た瞬間、顔が変わった。驚きと、それから何か別のものが混じった顔だ。
「レオニス」とヴァルツが言った。
「久しぶりだ」とレオニスが言った。
2人が少し離れた場所で話し始めた。アタシは石段に腰を下ろした。
石段の石が、朝の空気を吸って冷たかった。手のひらで触ると、表面がざらざらしている。古い石だ。
ギャルズアイを向けた。
レオニスの層を読んだ。表面が少しだけ開いている。いつもは制御されている部分が、ヴァルツを前にして緩んでいる。ヴァルツの層を読んだ。安堵がある。「生きていた」という安堵だ。それと、何かを言いたくて言えていない感触がある。
2人の話が聞こえてきた。近況の話だ。ヴァルツがこの街に来た経緯。レオニスが街に根付いた経緯。
アタシは石段に座ったまま、空を見た。
2人には2人の時間がある。入る場所じゃない、と体が言っていた。今日は黙って見ていればいい。そういう日がある、と初めて思った。
しばらくして、ヴァルツがアタシの方を見た。「連れか」とレオニスに聞いた。
「一緒に働いている」とレオニスが言った。
「なんで来たんだ」とヴァルツが聞いた。アタシに向けた質問だ。
「レオニスが会いたいって言ったから」とアタシは言った。
ヴァルツが少し笑った。「珍しいな。こいつが会いたいと言ったのか」
「言いましたよ、ちゃんと」
「レオニス、変わったか」とヴァルツが聞いた。レオニスへの質問だ。
レオニスが少し間を置いた。「……こいつがいるから、変わらざるを得ない部分がある」
ヴァルツがまた笑った。声が出た。「そうか。それは良かった」
アタシはそれ以上何も言わなかった。言いたいことはあった。でも今日は黙っておく方がいい、と体が言っていた。
帰り道に入ってしばらく歩いた。
道が土に変わった。ランクルの石畳から出ると、足の裏の感触が柔らかくなる。午後の光が斜めになって、2人の影が長く伸びていた。
「ヴァルツ、何か言いたそうだったけど、言えてなかったね」とアタシは言った。
レオニスが少し間を置いた。「……言えていたと思うか」
「言えてたよ」
「何を言えていた」
「顔で言ってた。お前が生きてて良かったって」
レオニスが黙った。長い沈黙だった。影が地面を流れていた。
「……そうか」
「言葉で言ってほしかった?」とアタシは聞いた。
レオニスがまた少し間を置いた。「……今日、俺もヴァルツに言えたことがある」
「なに?」
「後悔はしていない、と」レオニスが前を向いたまま言った。「それは、今日初めて言えた」
アタシは何も言わなかった。
後悔はしていない。それを初めて言えた。どういう後悔があったかは聞かなかった。聞かなくていい。今日言えたことの重さだけ、受け取った。体の奥で、何かが静かに落ち着く感触があった。
「言えてよかったじゃん」とアタシは言った。
「……ああ」
それだけだった。でも十分だった。
夕方、街の門が見えてきた。石畳の感触が足の裏に戻ってきた。帰ってきた、と体が先に知った。
「レオニス」
「何だ」
「また来る? ランクル」
「……分からない。ただ——」少し間があった。「来て、よかった」
アタシは少し笑った。声には出さなかった。
街に入った。




