第10話 待つ、という選択
午前中、セリナに呼び止められた。
掲示板の前でレオニスと何か話していたセリナが、アタシの顔を見て少し迷った表情をした。
「みるくさん。少し、相談があるのですが」
「相談?」
「依頼というより……案件の相談です。支部長にも確認を取りました」
セリナが差し出した紙には、正式な依頼書ではなく、支部長の確認印が押された内部メモが添付されていた。
”保護要請:東区・廃倉庫群。男性1名。接触困難。通常対応では悪化の恐れあり。レオニス・アルヴェインおよびみるくへの打診を支部長承認済"
「通常対応では悪化、ってどういう意味?」
「依頼主の方が奥でお待ちです。直接お話を聞いていただけますか」
セリナの声が、いつもより慎重だった。
奥の部屋に入ると、椅子に座った中年の女性がいた。服装は質素だが、きちんとしている。両手を膝の上で組んで、目が少し赤い。
「……みるくさん、ですか」
「そう。話を聞かせてください」
女性は少しだけ息を吸った。
「息子のことです。20歳になります。3ヶ月前から家に帰らなくなって、東区の廃倉庫街にいるのは分かっているのですが……話しかけても、逃げてしまうんです」
「逃げる?」
「はい。私だけじゃなくて、衛兵も、ギルドの人も、近づくと逃げてしまって」
アタシはその話を、じわじわ飲み込んだ。
「怪我はしてますか?」
「見た目は……分かりません。遠くからしか見られないので」
「理由は分かってるんですか、家を出た」
女性の手が、膝の上でわずかに動いた。
「……半年前に、仕事を失って。それから変わってしまって」
それだけで、大体の輪郭が分かった。
分かったけど、分かっただけで、何かが変わるわけじゃない。話しかけると逃げる。衛兵も近づけない。ということはつまり、誰の言葉も届いていない状態だ。
アタシは一瞬だけ、自分の口撃のことを考えた。言葉に魔力が乗る。精神干渉。格下なら即戦意崩壊。
でも、この状況はたぶん違う。
「レオニス」
扉の外に立っていた気配が、少しだけ動いた。
「この話、どう思う?」
少しの間があって、レオニスが部屋に入ってきた。依頼主の女性に軽く会釈してから、静かに言った。
「接触困難な人間というのは、何かを恐れているか、何かを失った人間だ。衛兵が近づけないということは、権威や力への警戒が強い」
「アタシが行ったら?」
「同じか、悪化する可能性がある」
その答えは予想していた。でも聞いておきたかった。
「なんで?」
「お前はギルド所属の冒険者だ。依頼を受けて来た人間だと分かれば、やはり権威の延長として映る。それに」
レオニスは少し言葉を選んだ。
「お前の気配は、普通ではない。何もしなくても場の空気が変わる。警戒している人間には、それが圧力になり得る」
アタシは黙って聞いた。
自分の能力が、逆に障害になる。強ければ強いほど、届けられない場所が出てくる、ということだ。
「じゃあ、どうする?」
「まず俺が行く。様子を見てくる」
依頼主の女性が、少し驚いた顔をした。「あの……みるくさんにお願いしたのですが」
「俺はみるくの同行者です。状況確認が先です」
レオニスの言い方は穏やかだったが、はっきりしていた。女性はそれ以上何も言わなかった。
東区は、街の中でも人通りが少ない区画だった。
廃倉庫が並んでいて、石畳の継ぎ目から草が伸びている。昼間なのに薄暗い。生活の匂いがしないわけじゃないけど、前向きな匂いじゃない。
レオニスが先に進んで、アタシは少し離れた距離を保った。
しばらくして、レオニスが足を止めた。倉庫の陰に、人影がある。
若い男だった。膝を抱えて、倉庫の壁に背中をつけて座っている。レオニスに気づいた瞬間、立ち上がろうとした。
「待ってくれ」
レオニスの声は低かったが、急いでいなかった。
「逃げてくれていい。ただ、一言だけ聞いてほしい」
男の足が、止まった。
「お前の母親から依頼が来た。怪我がないか確認して、それだけ伝えればいい。俺はそれだけのために来た」
沈黙。
男は壁に手をついたまま、動かなかった。逃げてもいない。レオニスも動かない。その間合いが、しばらく続いた。
アタシは距離を置いたまま、2人を見ていた。
この場面に、アタシは要らない。
それが分かった。分かったけど、じっと立っているのは思ったより難しかった。何か言いたい気持ちが来る。でもそれは、この場面をアタシのものにしたい、という気持ちだと気づいた。それは違う。
レオニスが、ゆっくりと地面に腰を下ろした。
立ったままではなく、座った。男と同じ高さに、自分を置いた。
「仕事を失ったと聞いた」
男の肩が、わずかに動いた。
「俺も、かつて職を失った。追い出された側だ」
それだけだった。説明もしない。慰めもしない。ただ、自分も同じ側にいたことがあると、一言だけ言った。
男が、壁からゆっくりと背中を離した。
まだ立ったままだったけど、逃げる体勢ではなくなっていた。
アタシはそれを見て、少しだけ息をついた。
口撃は届かない相手だと思っていた。それは合っていた。でも届かないのは口撃だけで、言葉そのものが届かないわけじゃなかった。ただ、届く言葉の種類が違っただけだ。
レオニスが持っていて、アタシが持っていないもの。
自分が傷ついた記憶を、誰かのために差し出せること。
男との話は、長くなった。
アタシはずっと離れた場所にいた。途中で近くの石段に腰を下ろして、空を見たり、路地の奥を見たりしながら待った。
普通に待つ、ということを、アタシはあまりしたことがなかった。何かをしながら待つか、待ち時間を効率化するか、そういう動き方をしてきた。ただ座って、誰かの時間が終わるのを待つのは、落ち着かないようで、でも悪くなかった。
やがてレオニスが戻ってきた。
「どうだった?」
「今はここで眠っているらしい。すぐには帰らないが、母親が差し入れを持ってくるのは受け入れると言っていた」
「それって、前進してる?」
「十分すぎるくらいに」
アタシは少しだけ考えた。
「レオニスが腰を下ろしたのは、計算だった?」
「無意識だ。ただ、立ったまま話す気になれなかった」
無意識だったのか、とアタシは思った。それが計算より怖い、という意味ではなくて、体に染み込んでいる、ということだから。
「1個聞いていい?」
「何だ」
「追放された話、あの人にしたじゃん。あれって、何か考えてた?」
レオニスは少しだけ間を置いた。
「自分が役に立つなら使う。それだけだ」
「自分の傷を、誰かのために使うって、普通できないけど」
「……お前に言われるとは思わなかった」
その言い方が少しだけ意外で、アタシは首を傾げた。
「どういう意味?」
「お前も同じことをしている。盗賊に話しかける時、前世の記憶を使うだろう。自分が見てきたものを根拠にして、相手の核心に近づく」
アタシは、その言葉を受け取った。
似ている、ということか。形が違うだけで、自分の経験を誰かのために差し出している、という意味では。
「……アタシ、そんな大層なこと考えてないけど」
「考えてなくても、やっている」
レオニスはそれだけ言って、歩き出した。
アタシは立ち上がりながら、少しだけ宙を見た。
今日、口撃は1度も使わなかった。魔法も、近接も、何も使わなかった。ただ待っただけだ。
それでも何かが動いた。
この感触に、名前はまだない。ギャル職の何かなのかも分からないし、ただの1日なのかもしれない。でも、今日起きたことはちゃんと起きたと思う。
「なあ」
少し先を歩くレオニスが言った。
「お前、何でも一人でやろうとするが」
「うん」
「それが強みでもあるが、たまには待つのも悪くないだろう」
アタシは笑った。
「今日、ずっと待ってたけど」
「知ってる」
それだけだった。
石畳を歩きながら、アタシはこの街の夕方の空気を吸った。昨日と同じ街なのに、少しだけ違う密度がある気がした。
たぶん、アタシが変わったからだ。
街が変わったわけじゃない。でも、どこで何を見るかが変わると、同じ場所でも違う顔が出てくる。
前世でも、そういうことはあった。
でも今日のこれは、前世の記憶の延長じゃなくて、今日この場所でしか起きなかったことだ。
それが、少しだけ誇らしかった。




