第1話 ギャル、異世界に立つ
――あ、これ、やらかした。
最後に見た光景は、夜の横断歩道だった。スマホの画面に映っていたのは、攻略途中のゲームのイベント分岐。次の選択肢をどうするか考えながら歩いていて、気付いた時には、もう遅かった。
強い光と、衝撃。そして、唐突な静寂。
次に意識が浮かび上がった時、最初に感じたのは草の匂いだった。
青くて、少し湿っていて、土の底から来るような匂い。コンクリートでも排気ガスでも蛍光灯の焼ける臭いでもない、それだけははっきり分かった。ゆっくりと瞼を開くと、空が広かった。やたらと広い。視界を遮るものが何もなくて、雲がのんびり動いている。
「……外?」
上体を起こした瞬間、全身でその場所を感じた。風が、ちゃんと顔に当たる。服が、ちゃんと揺れる。草の感触が、ちゃんと指先に返ってくる。夢だったら、こんなに全部が鮮明じゃない。
頬を軽くつねる。普通に痛い。
「はい、現実確定っと」
立ち上がって、周囲を見渡した。石造りの道、荷馬車、遠くに城壁のような輪郭。看板も標識も電柱もない。音は風と、鳥と、どこか遠くの人の声だけだ。
「これ、異世界転生ってやつじゃん」
声に出してみると、不思議なくらい落ち着いていた。怖いとか信じられないとか、そういう感情より先に、なんかこの空気、知ってる、という感覚が来た。前世でさんざんゲームやラノベで見てきた世界観に、肌がすんなり馴染んでいる。
その時、ふと自分の手が視界に入った。
「……は?」
指先に、ネイルがある。しかもただの装飾じゃなかった。淡く光を帯びていて、宝石みたいな粒子が内側に沈んでいる。触れていないのに、なんか、温かい。自分の体の一部なのに、少しだけ意思を持っているみたいな感覚があった。
近くの水たまりに駆け寄って、覗き込む。
ゆるく巻かれたロングの髪。ミルクベージュの色。ややタレ目気味の瞳。それと、笑ってもいないのになぜか余裕があるように見える、自分じゃない誰かの顔。
「……誰?」
いや、分かる。でも、認識が追いつかない。前世の自分より整っていて、何より雰囲気が全然違う。前世の自分はもっと、なんというか、普通だった。人混みで埋もれるタイプだった。でも今目の前にいるこの子は、そのへんにいたら絶対目が止まるやつだ。
「……アタシ、これ完全にキャラメイク後じゃん」
声に出した瞬間、頭の奥に名前が浮かんだ。みるく。それと同時に、前世の記憶もきちんと繋がる。三浦由香。ゲーム好きの社会人で、ビルド効率を考えるのが趣味で、どこにでもいるタイプの女だった。
その時、胸の奥で何かが静かに定着する感覚が走った。
概念適性:ギャル。
「……は?」
思考が一瞬だけ止まった。
「ギャル?」
声に出した瞬間、周囲の空気の流れが、ふっと変わった。風の動き方が変わったとか、音が変わったとかじゃない。もっと感覚的な話で、空間全体が、アタシを中心に少しだけ調整されたような。まるで自分のいる場所の半径が、さっきより広くなったみたいな感じだ。
ネイルを見つめると、意識しただけで粒子のような光が少し強まった。試しに軽く息を吐くと、胸の奥から高揚感が自然に湧いて、身体の芯がじんわり温かくなる。何かをしようとしたわけじゃない。ただそこにいるだけで、勝手に全体が整っていく感覚。
そして、空気が静かだ。音はあるのに、頭がクリアで、考えがよく通る。
「場の支配、系?」
呟いた時、遠くの街道に目が止まった。荷馬車を引く商人と、剣を腰に下げた護衛らしき人物が、こちらを見て足を止めている。警戒でも敵意でもない。ただ、視線を外しづらい、という顔だ。アタシを見ているのに、アタシを正面から見られていない感じの、あの顔。
知ってる。あれ、めちゃくちゃ知ってる。
前世でも、ギャルの先輩がいた。その人が廊下を歩いてくると、周りが自然にそっちを見るのに、誰も声をかけられなかった。強いとか怖いとかじゃなくて、ただその人の「場」が広かった。その人の空気が、周囲より先に来た。
今のアタシが、たぶんあれだ。この感覚に、名前をつけるとしたら何だろう、とぼんやり思った。カリスマ、とか、そういう言葉が近いかもしれないけど、それより静かで、もっと自然な何かだ。
「……なるほどね」
口元が、自然に緩む。怖くもなく、不安でもなく、むしろ少し、おもしろいと思っている自分がいる。
数値じゃない何かが、ずっと動いている。名前も分からない。でも確実に、ある。
「まあ、いっか」
肩の力を抜いて、歩き出した。
まずは街に入って、ご飯と情報と、あとこの世界の空気をもう少し掴みたい。冒険者ギルドがあるかどうかも確かめたい。何より、この感覚がどこまで続くか、少し試してみたかった。
「最適ビルドっぽいし、楽しみじゃん」
そうしてアタシは、"ギャル"という世界に存在しないはずの概念を抱えたまま、異世界での最初の一歩を踏み出した。
――この世界が、アタシという存在を何と呼ぶことになるのか、まだ誰も知らなかった。




