最後の夜汽車
夜の病院は静かだった。
機械の音だけが、律儀に時を刻む。
とおるは酸素マスク越しに息をしていた。
まだ高校三年生なのに、骨ばった肩と沈んだ目は、ずっと年上に見える。
妹のひかりは、椅子の上で丸く座り、兄の手を握っていた。
家族はもう帰った。
医者は「今夜が山だ」と、どこか遠い声で言った。
ひかりは兄の手を必死に温め続けた。
でも、温めれば温めるほど、兄の体温は静かに逃げていく気がした。
「ひかり…」
とおるがかすれた声で呼ぶ。
ひかりは顔を上げる。「なに…?」
「外、電車の音したね」
「うん、貨物のやつだよ。いつも深夜に通る」
とおるは薄く笑った。
「乗りたいなぁ…最後に、ふたりで。小さい頃みたいに」
ひかりは泣きそうになって、歯を噛んだ。
「乗ろうよ。乗れるよ。春になったら、絶対一緒に行くから…」
とおるは首を振った。
「春まで、持たないよ」
ひかりの喉がつまった。
その言葉が一番聞きたくなかった。
「じゃあ…じゃあ、ここで乗ろうよ」
ひかりは兄の手を引いて、腕で包み込んだ。
「ほら、今、電車きたよ。ガタン、ゴトン、ガタン…」
とおるは少し目を大きくした。
「ひかり…」
「いいの。想像でいいの。ふたりで夜汽車乗ってるんだよ。どこでも行けるやつ。…ねえ、お兄ちゃん、行きたいところある?」
とおるはしばらく黙って、窓の闇を見た。
そして、小さく答えた。
「……帰りたいな。家に。」
ひかりの目から涙が落ちた。
兄が望む「帰りたい場所」に、自分が入ってないことよりも、その一言があまりに切なかった。
とおるは目を閉じた。
「ひかり。ごめんね。…守れなくて」
ひかりは強く首を振った。
「守られてたよ。ずっと、ずっと。私、お兄ちゃんの妹でよかったよ」
夜汽車のような風が、窓を揺らした。
その瞬間だけ、兄の指が少しだけひかりの手を握り返した。
そして、そのまま——
機械の音だけが、静かに動き続けた。
ひかりは兄の手を離さなかった。
朝になっても、太陽が昇っても、誰かが呼びに来るまで。
外では、また電車が通り過ぎた。
ガタン、ゴトン。
ひかりには、それが兄の「最後の旅立ち」に聞こえた。




