第九十九話 招かれざる大物客と、温泉掃除人の矜持。
悠久の憩い亭のプレオープンが終わり、心地よい疲れの中で片付けをしていたジューゴたちのもとに、一頭立ての豪華な馬車が森の静寂を切り裂いて現れた。
馬車の扉には、王家に連なる名門中の名門、ローゼンブルク公爵家の紋章が刻まれている。
馬車から降り立ったのは、まるで雪山に咲く一輪の花のように気高く、そして人を寄せ付けないほどに鋭い美貌を持つ少女だった。
彼女の名はエランシール・フォン・ローゼンブルク。王都ではその性格から「氷の薔薇」と渾名される、厳格な公爵令嬢である。
「……ここが、陛下が保養地として認定を検討されている場所ですか。辺境の森と聞いてはいましたが、これほどまで野蛮な場所だとは思いませんでしたわ」
エランシールは扇子を広げ、立ち込める森の香りを嫌うように鼻を覆った。彼女の背後には、同じく眉をひそめる侍女たちが数人控えている。
「あー、いらっしゃいませ。俺はこの宿の管理人のジューゴだ。公爵令嬢様が自ら視察とは、恐れ入るよ」
ジューゴがおっさんらしい、気負わない笑みを浮かべて挨拶するが、エランシールの視線は刺すように鋭い。
「挨拶は不要です。私は王命により、この場所が王族を招くのに相応しいかどうかを審査しに来たのです。……まず、この宿。外観はともかく、衛生面が不安ですわね。土足で歩く森の中に、まともなおもてなしなど存在するはずがありません」
彼女の高圧的な言葉に、リナが少しだけ不機嫌そうに眉を動かしたが、テオがそれを手で制した。
「エランシール様、どうぞ中へ。当宿の清潔さは、王都の宮殿をも凌駕すると自負しております。まずは、当宿の自慢である露天風呂をご覧いただけますか」
「外気に触れる風呂……? 不潔の極みですわ。塵や枯れ葉が舞い込む場所で肌を晒すなど、正気の沙汰ではありません。……まあいいでしょう。無能さを証明するために見て差し上げますわ」
エランシールが鼻を鳴らし、しずしずと露天風呂へと続く回廊を歩く。
その先に待っていたのは、湯気の中で虚空を見つめる一人の青年、カイルだった。
カイルは公爵令嬢の来訪など一切気にする様子もなく、手にした特製のヘラで岩の隙間をなぞっている。
「ちょっと、貴方。そこを退きなさい。エランシール様のお通りですわよ」
侍女が声を荒らげるが、カイルはピクリとも動かない。それどころか、エランシールの足元を指差して、吐き捨てるように言った。
「……邪魔だ。そこ。右斜め三十度の位置。お前の靴底に付着した泥の粒子が、私の磨き上げた石材の分子配列を乱そうとしている。……退け。不浄が伝染する」
「なっ……!? この私に向かって不浄ですって!?」
エランシールが激昂し、カイルに詰め寄ろうとした。しかし、その足が湯船の縁に掛かった瞬間、彼女は動きを止めた。
そこに広がっていたのは、彼女が想像していた不潔な露天風呂ではなかった。
カイルが魔導振動魔法と執念で磨き上げた岩肌は、もはや石というよりは巨大な黒真珠のようだった。
お湯は一点の濁りもなく澄み渡り、鏡のように磨かれた岩には、空に流れる雲の動きや、森の木々の一葉一葉が、現実よりも鮮やかに映し出されている。
「……これが、お風呂……? 自分の顔が、毛穴まで克明に映り込んでいますわ……。塵一つ、浮いていない……?」
エランシールは呆然と立ち尽くした。彼女が住まう公爵邸の浴室も、王宮の浴場も、これほどの清潔さを保ってはいない。
「……当然だ。光の反射率九十九パーセント。私の理論において、汚れとは存在を許されない反乱分子に等しい」
カイルが淡々と語るその言葉には、人を馬鹿にするような色はない。ただ、圧倒的なまでの「掃除」への矜持だけがあった。
「……認めますわ。清潔さに関しては、合格としましょう。ですが、おもてなしは清潔さだけでは測れません。……次は食事ですわ。ジビエなどという、血生臭い野生の肉を王族に食べさせるつもりではないでしょうね?」
エランシールは気を取り直すように食堂へと向かった。
そこで待ち構えていたのは、ザックとマルタのコンビだった。
「へい、お嬢様。ジビエが嫌いだって? なら、こいつを一杯やってから判断してくれ」
ザックが不敵な笑みを浮かべ、カウンターに一本の瓶を置いた。
それは、ジューゴが時間を加速させて熟成させた十五年ものの「ユグドラ・ドロップ」だった。
「……お酒? 私はまだ若輩ですけれど、これでも最高級のワインは飲み慣れていますのよ。このような怪しい瓶に入ったものを――」
文鎮のような沈黙の中、エランシールは注がれた琥珀色の液体に鼻を近づけた。
その瞬間、彼女の身体に衝撃が走った。
「っ……!? 何ですの、この香りは……。熟成された果実の甘みと、森の奥深くに眠る大地の鼓動が……脳を直接揺さぶるようですわ……」
震える手でグラスを取り、一口だけ口に含む。
十五年という歳月が凝縮されたそのリキュールは、彼女の舌の上で優雅に躍り、喉を通る瞬間に熱い魔力の波動となって全身を駆け巡った。
「……美味しい……。いや、美味しいなどという言葉では足りませんわ! これは……これは芸術ですわ! ザック、と言いましたね。この樽、今すぐすべて王都へ運びなさい! 私が買い取りますわ!」
「おっと、そいつは困るぜ、お嬢様。こいつはあくまで、この宿に泊まってくれる客への『おもてなし』なんだ。金で買えるほど安かねえよ」
ザックが意地悪く笑うと、エランシールは顔を真っ赤にして地団駄をふんだ。
「なんですって……!? ならば私がここに泊まれば良いのでしょう!? 今すぐ、一番良い部屋を予約なさい! いいえ、今日から泊まりますわ!」
先ほどまでの高慢な態度はどこへやら、彼女はリキュールの魅力に完全に取り憑かれていた。
ジューゴはその様子を、食堂の隅で苦笑いしながら眺めていた。
公爵令嬢という重圧を背負って生きてきた彼女も、この森の魔力と、仲間たちの全力のおもてなしの前では、ただの素直な少女に戻ってしまうらしい。
「お嬢様。ここは『悠久の憩い亭』だ。公爵令嬢なんて肩書きは脱衣所にでも置いてきな。ここでは、誰もがあんたを一人の客として扱う。ゆっくり羽を伸ばしていくといい」
ジューゴが優しく語りかけると、エランシールは一瞬だけきょとんとした顔を見せ、それから少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……ふん。おっさんのくせに、生意気なことを言いますわね。……ですが、認めざるを得ません。この場所は、確かに陛下が執着されるだけのことはありますわ」
エランシールはそう言うと、手元にあった視察報告書に、力強く「極上」の判を押した。
「明日からは、王都中でこの宿のことが噂になるでしょう。……覚悟しておきなさい。この私を満足させたのですから、これからは世界中の貴族がここへ押し寄せますわよ」
「……あはは、それは勘弁してほしいなぁ」
ジューゴが頭を掻きながら答える。
しかし、その表情は明るかった。
王宮の保養地認定、そしてエランシールという強力な後ろ盾。
悠久の憩い亭は、プレオープンを経て、ついに真のスタートを切ろうとしていた。
「ごほぉぉー!」
キュイが夕暮れの空に向かって、祝福の火を吹く。
セリーヌがそれを即座にタオルで叩き消し、カイルが煤を飛ばすために魔法を放つ。
そんな騒がしくも温かい光景を眺めながら、ジューゴは確信していた。
自分たちの作ったこの場所が、これから多くの人々の心を癒やしていくことを。
今日もこの森は、最高に騒がしくて、そして一点の曇りもないほど清潔なおもてなしに満ちていた。
ご拝読ありがとうございます。公爵令嬢から『極上』の太鼓判を押してもらった悠久の憩い亭とFランクダンジョンの森(名前と運用について考えます)の本格始動が待っている。
さて次回は、第100話『世界一のおもてなし宿、本日グランドオープン!』をお送りいたします。お楽しみに!!




