第89話 おっさん勇者の初陣、一撃の理。
吹き抜ける風が、俺のボサボサに伸びきった髪を乱暴に揺らす。
かつてコア内部のワンルームで、空調管理された完璧な快適さの中にいた頃には想像もできなかった、剥き出しの現実。モニター越しではない、本物の風は思いのほか冷たく、そして鼻を突く魔獣の腐敗臭や焦げた土の匂いもまた、吐き気がするほど生々しく俺の鼻腔を刺激した。
「ゲホッゲホッ!うぅ〜、空気がまずい……。」
「ふん、その程度か。能書きを垂れたところで、所詮は脆弱な人間一人の肉体。塵一つ残さず、数で押し潰してくれるわ!」
魔王の冷酷な号令とともに、周囲を完全に包囲していた数百体もの異形の軍勢が一斉に動き出した。地響きを立てて突進してくるのは、剥き出しの筋肉が脈動する巨躯を持つ、SSSランク相当の魔物たちだ。その一歩一歩が地表を粉砕し、常人であればその場に立っていることすら許されないほどの凶悪な魔圧が、重力となって俺の肩にのしかかる。
だが、不思議なことに、今の俺にはそれらの猛攻がひどく「鈍く」見えていた。
(演算権限の全譲渡。……自己身体能力への再定義。最適実行プロトコル、承認)
俺はかつて、数千、数万という客人の動線を秒単位で予測し、迷宮内のあらゆる事象を完璧にコントロールしていた。その膨大なリソース、銀河に匹敵する演算能力のすべてを、今、この痩せぎすな一本の肉体を動かす、ただそれだけのために集中させている。
最前列の魔物が、戦車のような質量を伴ってその巨大な鉤爪を振り下ろした。
俺は最小限、わずか数ミリの動きでその攻撃をかわし、先ほど拾った鉄の剣をただ真っ直ぐに突き出した。
「――あ?」
魔王の喉から、間の抜けたような声が漏れる。
俺が放った一撃は、SSS級の魔物の強固な皮膚、その体は鋼鉄の剣を持ってしても容易く切り裂くことは出来ないと言われる、ましてや鱗を、紙のように貫き、その背後の空間ごと対象を消滅させていた。
管理者の視点で培った「最適解」の導出。どこを叩けば、どの角度で力を加えれば、最も効率的に事象を破壊できるか。物理の法則、魔力の流れ、骨格の脆い点。運営という名の実戦経験が、今、究極の「効率」という名の剣技となって結実したのだ。
一体、二体、三体。
俺が歩を進めるたびに、SSSランクの魔物たちが、まるで薄い紙細工のように音もなく切り裂かれ、その命を散らしていく。俺の動きに無駄は一切ない。呼吸を乱すことも、汗をかくこともなく、ただ朝の散歩でもするかのように淡々と、俺は「害悪の排除」を繰り返した。
「馬鹿な……。貴様、そのみすぼらしい体で何をしている!? それは魔法ですらない、ただの物理現象だというのか! なぜ我が最強の軍勢が、刃毀れした棒切れ同然のような鉄の剣で塵に還るのだ!」
魔王の焦燥が、周囲の空気を震わせる。
俺は、おっさん特有の少しダルそうな、それでいて隙のない足取りで、返り血を拭うこともなく前へ進む。拾い物の鉄剣は、俺から溢れ出す濃密な魔力に耐えきれず、振るうたびに少しずつ白熱し、物理的な形を超えた光の刃へと変貌を遂げていた。
「魔法? いや、ただの効率化だ。……お前が作ったこの魔物たちは、運営の視点から見ると無駄が多すぎるんだよ。力に頼りすぎて、守りのロジックが疎かになってる。穴だらけだ」
俺は再び、群がる魔物の真っ只中へと踏み込む。
かつてリナを絶望させ、アムネの心を砕き、テオやザックの矜持を汚したあの魔王の軍勢が、今は俺の前でただの処理待ちデータのように散っていく。
俺の網膜には、もはや数値もウィンドウも表示されない。だが、これまでの数え切れない日々が脳裏に焼き付いている。
テオが教えてくれた、敵の隙を、あるいは客人の要望を見極めるための礼節。
ザックが教えてくれた、どんな硬い素材であっても最も効果的に捌くための刃筋。
リナが背中を見せて教えてくれた、守るべき者のために一歩も引かない勇気。
アムネが教えてくれた、小さな生命の息吹にまで気を配る繊細さ。
俺は一人ではない。
あの閉ざされた部屋で、モニター越しに、俺を信じ続けてくれた眷属たちの想いが、この重い一撃一撃にすべて乗っている。
「……終わりだ。ここからは、俺が直接、お前の不条理を管理してやるよ」
数百のSSSランク軍勢を、たった一振りの剣で蹂躙し、俺はついに魔王の眼前にたどり着いた。
更地となった戦場には、もう魔物の影は一匹として残っていない。
そこに立っているのは、戦慄に顔を歪ませ、自らの理屈が通じない恐怖に震える魔王と、そして、やる気のなさそうな顔をして、折れかけた白熱の剣を構える一人の痩せたおっさんだけだった。
魔王は、初めて自分が「支配する側」ではなく「運営され、処理される側」に回ったという、底知れない恐怖をその肌で感じ始めていた。そして、その恐怖は俺の背後に、これまで俺が救い、共演してきたすべての人々の影が、巨大な光の翼となって広がっているのを魔王の目に映した。
「さあ、お前の番だ。管理不可能な不確実性として、ここで完全消去してやる」
おっさん勇者の低い声が、死に絶えた荒野に静かに響き渡った。
ご拝読ありがとうございます。元ダンジョンコアのおっさんが無双を展開!さぉ、あと一息!
さて次回は、いよいよ魔王との完全決着。第90話『決戦の果て、失われた日常の欠片』をもって第一部[完]となります。お楽しみに!!




