第83話 汚された聖域、沈黙する神の箱庭。
迷宮内に満ちていたはずの活気ある空気は、今や冷たく粘り気のある、死の静寂へと塗り潰されていた。第4層の農園、かつてアムネが精霊たちと語らい、色とりどりの花々が咲き誇っていた「生命の揺りかご」は、今や一滴の潤いもない、どす黒い灰の荒野と化している。
「あ……ああ……。ごめんね……。守ってあげられなくて……」
アムネの声は、掠れた吐息のように弱々しかった。彼女の周囲には、枯れ果て、炭化した植物たちが無残に転がっている。彼女が精霊たちと心を通わせるために用いていた神聖な魔力は、魔王の悪意によって逆流させられ、彼女が愛した植物たちを内側から焼き尽くす燃料へと変えられてしまったのだ。
アムネの純粋な心は、植物たちが死の間際に発した、言葉にならない悲鳴をすべてまともに受け止めてしまった。彼女の瞳からは感情の光が完全に消え失せ、糸の切れた人形のように、ただ虚空を見つめて座り込んでいる。かつて俺を「コア様」と呼び、未来への希望を語っていた彼女の面影はどこにもない。精神が崩壊し、殻だけになってしまった一人の少女の姿が、そこにはあった。
(アムネ……っ、やめてくれ。そんな目で、その場所を見ないでくれ……!)
コアルームのモニター越しに、俺は自身の核が砕けるような思いでその光景を見つめていた。だが、屈辱はそれだけに留まらない。画面を分割するように映し出される他の階層も、すべてが「絶望の完成」を告げていた。
第1層では、誇りを失ったテオが、血に染まった床に額を擦り付けたまま動かない。
第2層では、ザックが自分の包丁を投げ捨て、闇に侵食された厨房の隅で力なく笑い続けている。
第1層の入り口では、リナが折れた剣を抱えたまま、冷たい雨に打たれるように孤独の中で凍りついている。
俺が慈しみ、育て、家族だと思っていた眷属たちが、一人残らずその存在理由を破壊され、沈黙していた。この迷宮は、もう安らぎを産む場所ではない。魔王が、俺の大切なものすべてを苗床にして作り上げた、巨大な墓標なのだ。
「くくく。素晴らしい。この静寂、この絶望。……これこそが、私が求めていた最高の『作品』だ」
背後で、背筋が凍りつくような冷気が奔〈はし〉った。
振り向くこともできない俺の本体、クリスタルのすぐ目の前に、ついに魔王がその姿を現したのだ。漆黒の衣を纏い、すべてを飲み込むような虚無の瞳。彼は、俺の目の前まで歩み寄ると、事もなげに俺の核を、その汚れた足で踏みにじった。
「ぐ……あああああっ!」
物理的な痛みではない。俺の存在そのものが、魔王の傲慢な力によって押し潰される。クリスタルの表面に、細かな、しかし致命的な亀裂が走る音がした。
「万能の主を気取っていたようだが、お前が積み上げた信頼や愛など、この程度のものだ。……さあ、最後に見せてやろう。お前が心血を注いだこの迷宮が、真に成すべき姿をな」
魔王が指を鳴らす。
その瞬間、迷宮の地脈が激しくのたうち回った。
これまで俺が感知し、制御していた魔力の流れが、一気に最下層へと引きずり込まれていく。俺が気づかないうちに、魔王は迷宮の深層部を、おぞましい魔物の生産工場へと書き換えていたのだ。そこはもはや、人を受け入れるための階層ではない。世界を滅ぼすための悪意が、煮えたぎる大釜のように渦巻く、呪われた空間だった。
「……準備は整った。……お前が愛した眷属たちの絶望を糧に、新たな『審判』を始めるとしよう」
魔王の不敵な笑い声が、音を失った迷宮の全土に響き渡る。
俺は、踏みつけられたまま、ただ涙を流すしかなかった。仲間を救えず、誇りを汚され、守るべき世界に災厄を解き放つ手助けをさせられた。
これ以上の屈辱が、この世にあるだろうか。
迷宮の支配権は完全に失われ、わが聖域は、死と呪いが支配する暗黒の迷宮へと成り果てた。
一滴の希望も見えぬまま、物語は最悪の幕切れを迎えようとしていたのである。
ご拝読ありがとうございます。さて次回は、第84話『深淵の産声、悪意に満ちた新階層。』をお送りいたします。お楽しみに!!




