第82話 孤高の剣士、牙を抜かれた守護者。
迷宮の入り口、第一層の境界線に立つリナの周囲には、異様な光景が広がっていた。本来であれば彼女を援護し、侵入者を阻むはずの迷宮の防衛機構が、その銃口や弓先をすべて身内である彼女へと向けていたのである。
「な、なんなのよこれ……。主様! 返事をして! どうしちゃったのよ!」
リナの悲痛な叫びは、激しい爆発音と石壁が崩れる轟音にかき消された。彼女がこれまで背後から守り、一歩も通さぬと誓っていたはずの通路は、俺の演算を乗っ取った魔王の手によって、彼女を圧殺するための「死の回廊」へと書き換えられていた。
リナの足元が突然崩れ、無数の鋭い杭が奈落からせり上がる。彼女は間一髪でそれをかわしたが、迷宮そのものが明確な殺意を持って自分の命を狙っているという事実が、彼女の心を鋭く抉っていた。ここは彼女が眠り、食事をし、仲間と笑い合ってきた家そのものだったはずだ。その床が、壁が、天井が、牙を剥いて彼女を噛み砕こうとしている。
(リナ、逃げろ! それは俺じゃない! お前を排除しようとしているのは、決して俺の意志じゃないんだ!)
コアルームのモニターを血走った思いで見つめ、俺は意識の中で喉が枯れるほど絶叫した。しかし、魔王の闇に縛られた俺の声は、彼女に届くことはない。それどころか、魔王は俺の姿を精巧に模した偽りの幻影を、混迷の中に立つ彼女の前に投影した。
「……リナ、お前はもう不要だ。その程度の剣では、これからの私の迷宮を守ることはできない。消えろ、出来損ないの剣士よ」
偽りの俺が、一点の温かみも持たない氷のような残酷さを装って言い放つ。その言葉を聞いた瞬間、リナの動きが完全に止まった。彼女にとって、この迷宮は単なる職場ではなく、放浪していた自分を拾い、名前をくれ、役割を与えてくれた唯一の居場所だった。そして俺は、彼女が命を懸けて守り抜くと誓った、絶対的な信頼を寄せる主だったのだ。
「嘘……。そんなの、嘘よ……。ねえ、主様。冗談でしょ……?」
リナの瞳に、溢れんばかりの涙が溜まっていく。最愛の主から「不要」だと切り捨てられることが、死よりも恐ろしい仕打ちであることを、魔王は熟知していた。その隙を逃さず、魔王の呪いが彼女の手にある愛剣へと伝った。かつて俺が彼女に贈り、彼女が寝る間も惜しんで手入れを続けてきたその剣が、見る間にどす黒く変色し、まるで数百年放置されたかのようにボロボロに朽ち果てていく。守るべき主から否定され、守るための道具すら失った彼女の姿は、あまりにも痛ましかった。
俺はモニター越しに、彼女が崩れ落ちる様を見ているしかなかった。リナは暗い廊下の隅、冷たい石畳の上にうずくまり、声を殺して泣いた。自分を拒絶し、自分を殺そうとする迷宮の中で、彼女にはもう、どこにも行く場所など残されていなかった。逃げ出したくても、彼女の居場所はこの迷宮の中にしかなかったからだ。
「く、くく。いいザマだ。誇り高き剣士が、ただの泣き虫の娘に成り果てたな。お前が与えた『自尊心』という名の飾りが、今は彼女を縛り付ける鎖となった。実に見事な崩壊だとは思わんか?」
魔王の冷笑がコアルームに響き渡る。俺は自身の核であるクリスタルが、激しい怒りと悲しみで爆発してしまいそうなほどの屈辱を感じていた。俺が彼女に教えた「守護者の誇り」が、今は彼女を苛み、心を殺すための猛毒となって突き刺さっている。
俺たちの迷宮は、今はただの巨大な拷問器具と化している。かつては人々に驚きと喜びを与えるために設計した数々のギミックが、今はテオを追い詰め、ザックを絶望させ、アムネの心を粉々に砕くために、最も効果的なタイミングで作動している。俺は自身の無力さに激しい吐き気を覚えながら、最愛の部下が暗闇の中で孤独に沈んでいくのを、瞬き一つ許されずに見守ることしかできなかった。
そして、真の絶望はここからだった。俺の愛した眷属たちが、一人ずつ、その心の芯から壊されていくのを魔王は楽しんでいた。俺がこれまで積み上げてきた信頼や絆といった目に見えない財産が、魔王にとっては最高の「燃料」に過ぎなかったのだ。迷宮内の魔力は、彼女たちの絶望を吸い上げてさらに禍々しく変質していく。魔王の用意した舞台は、今や完成を迎えようとしていたのである。
(魔王……。貴様だけは、絶対に……っ!)
届かぬ声で呪詛を吐く俺を嘲笑うように、モニターには新たな地獄の光景が映し出された。そこには、変わり果てた姿で項垂れるアムネの姿があった。俺たちの誇った聖域は、今や一滴の光も届かぬ深淵へと飲み込まれようとしていた。
ご拝読ありがとうございます。さて次回は、第83話『汚された聖域、沈黙する神の箱庭。』をお送りいたします。お楽しみに!!




