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黄昏時のスーベーニール  作者: 辰巳りん子
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哀れみの場所

 小夜子が教室の扉を開けると賑わっていた教室が一斉にしんと静まり返った。

 

 こうなることは織り込み済みだ。小夜子は敢えて気にしない素振りで自分の机へと向かった。山本くんが気に掛かる。しかし気に掛かるが故に目を向けられぬ。山本くんの取り巻きグループから何某かの攻撃を受けることも想定していた小夜子であったが、いじめっ子たちは小夜子にチラリと目を遣ったあと、小夜子などそこにいないかのように一人の男子を取り巻き始めた。山本くん…じゃあ、ない。

「あの子誰?」たまたま隣の席にいた二、三人の男子の群れに問うと、小夜子に話しかけられたのが意外で有り大いにびっくりした体で「あ!、て、転校生だよ、…大鳥が休んでいる間に来たんだ」と響どよめきながらも答えた。なるほど転入生。少しく見遣っただけでも取り巻きたちが取り巻く理由がよく分かる。小夜子などどうでもよくなる筈だ。小夜子は年齢にそぐわぬため息まじりの笑い声を短く発し、漸っと山本くんの方へと目を遣った。


 いない。


 いつもだったら男子たちが集う山本くんの席には誰もらず、その一角は妙に静まり返っていた。小夜子は山本くんも学校に来づらいのかな、確かに小学二年生とは云えことの重大さは分かっているだろうし、でも山本くんなら同情は受けても嘲笑は受けない筈だと小夜子は思い、また隣の男子の群れに「山本くんも休んでいるの?」と訊ねた。

 男子の群れはその問いかけに何とも云えない表情を浮かべ、互いに互いを見遣ったあと、目だけで会話するように誰がその役目を仰せつかるのかを語り合い、そうして負けたのであろう、さっき小夜子の問いに答えてくれた男子が何とも重たそうに口を開いた。

「…山ちゃんなら…引っ越したよ」

 その答えに小夜子は「え!」と目を丸くした。


 山本くんが引っ越した!?

 小夜子はびっくりしたけれど、云われてみれば想定内の反応だと見て取れた。小さな町で起きた大きな事件。しかも口さがない人間に掛かれば嘲笑と陰口の的とも取れてしまう不謹慎さを帯びた事件。一家が地を離れるのも納得が行く。

 むしろそれでも尚、この地に留まり尚且つ学校にまで通う己が異端なのではないであろうか。

 山本くん…。『お兄ちゃん』のことは苦手だったけれど、未だ幼い頃、海岸で砂で出来た小さく果敢ない城を、それでも小さな手で懸命に協力して作ったあの時間は、小夜子にとっては特別だった。お兄ちゃんが『お兄ちゃん』になってしまってからは何となく避けてしまっていたけれど。きっと、あの底まで明るい太陽のような笑顔も笑い声も『お兄ちゃん』と云う、家族に取っては無理難題な存在を打ち消すための魔法だったに違いない。ああ、小夜子は何でもっと早く気付いてあげられなかったのだろう。気付いたとして被害者の小夜子に早々出来ることは無かったはずだが、それでも…。

「大鳥も、さ」と、件の男子が小夜子の思考に縫って出いで呟いた。

「休んでいて良かったと思うよ、あと、あの転校生の存在も…じゃ無かったら、また、山ちゃんのことでいじめられたりしたろうから」

 小夜子は己が思っていた以上に『小夜子がいじめられていること』が周知されていることに気付かされ、顔をカッと赤らめた。恥ずかしい。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。

「山ちゃんも…だいぶ、気にしてたんだぜ…?」そんな言葉を右から左へと流しながら、

 己の顔の赤味を誤魔化すように「知っていたのに助けてくれなかったの…?」と、顔を素向けて答えの分かっている問いを敢えて問いただした。

 件の男子とその群れは若干慌てふためいて、右往左往したのち、「で、でも、山ちゃんが大鳥のことを庇った時、その後もっと酷くなっただろ!?」と云い訳するように宣った。

 小夜子は、ああ、あの時小夜子に対するいじめが始まった時分に「大鳥、大丈夫?」と声を掛けてくれたのは確かに山本くんであった。そして、その後いじめの度合いが若干過ぎ始めたことも。小夜子は己が賢しいことを充分に知っていて、そうして不躾にもクラスメイトたちを下に見ていたのだ。己を差し置いて他人を愚弄するなど何と情けないことか。

 そう、自分が思っているよりもみんな(若しかしたら己よりも深く)互いを知っているものなのかも知れない。

「メスゴリラはずるいんだよ、なんて云っていいか俺には分からないけど、とにかくずるいんだ」そう、悔しそうに云う男子に向けて、小夜子は「メスゴリラって…?」と訊ねた。

「長嶋だよ、女子たちのボスの。俺たちの秘密のあだ名」そう云って唇に人差し指を当てる仕草をする彼の、その男子の台詞を聴いて、小夜子は思わずプッと吹き出してしまった。ガァちゃんを失ってから初めての笑いかも知れない。でも、何となく骨太で太ってはいないけれど逞しく、色黒でチカチカとした瞳は漫画で描かれるメスゴリラ、そのものだ。

 小夜子は男子たちの陰ながらの声援を受けたような気がして、少しく溜飲を下げた。そして正々堂々と小夜子に声を掛けてくれた山本くんに改めて敬服する気持ちでいた。ごめんね、さよなら、ありがとう。でも。


『あなた達はあなた達のまま、そのままに生きて行けば良い』


 そう思った小夜子は、つい先ほど机の横に引っ掛けた通学鞄を再び手に取り、横にいる男子の群れが呆気に取られるのも構わずにゆっくりと教室扉へと向かい、ガラリと戸を開け廊下へと出た。ちょうど前の扉から朝礼をするためにであろう、胡乱な顔をした担任教師が小夜子に向けて何かを宣っていたが、小夜子の耳には届かなかった。

 

 廊下をずんずんと進む。途中、何度か見知らぬ教師に声を掛けられたり怒声を浴びせられたりしたが、小夜子は止まらない。もう、貴方たちに用は無い。


 小夜子を、助けてくれなかった大人たち。

 そして、小夜子を救うことの出来なかったクラスメイトたち。

 仮令それが傲慢だと捉われようとも。


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