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黄昏時のスーベーニール  作者: 辰巳りん子
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書斎へ

「お父さん」

 と云う声が聞こえた気がした。

 折しも窓外からは向夏の嵐の泣き叫ぶ声が同時に聞こえ、何をそんなに娘に執着する事がある、と、くつくつと笑った大鳥啓輔は、背中辺りからもう一度「お父さん」と呼ぶ声にゆっくりと後ろを振り向いた。


 小夜子。

 顔を幾分か上気させた娘が書斎扉の前に佇んでいた。


「どうした、何かあったのか」

 こんな時間に娘が起きていることにすら執着せぬ。啓輔はそう云う男である。小夜子はよく識っている。この人は子供に興味も愛着もないのだ。なので自分もそうさせてもらおう、幼い小夜子には幾分か大人びた考えだったが、そうでもしないと己の内の何かが音を立てて崩れそうだった。そう、それはまるで砂で出来たお城の様に。

 小夜子は泣きそうな気持ちを堪こらえて父に問うた。今は泣いている場合ではない。小夜子は気丈になって、

「十字架を守るように巻き付くドラゴンの像を識っている!?」

「私、今ある人と旅をしていて、でもその人がタラスキュへと変わってしまって、でも本当の姿は違うの!このバッジから投影された映像はドラゴンに似ていて、私、そのドラゴンの名前を知りたいの!」

 自分でも何を云っているのか分からない言葉を一息に発した小夜子は父の怪訝そうにひそめる眉間を見て「しまった!」と思ったが、

 父は、「何を云っているのかさっぱりだな。とにかくそのバッジとやらを見せなさい」

 と静かに答えた。

 小夜子は急いで(しかし少しく名残惜しい気持ちも抱きつつ)バッジを己の胸元から取ろうと針に手を掛けた。

「…っつ!」

 急ぐあまり人差し指を針に引っ掛けてしまった小夜子は、嘗ての彼の人の、

 『止め置く針で手を傷付けぬ様にな』

 と、云った一言を思い出していた。ガァちゃん、愛しい人。今ならはっきりわかる、貴方がどれだけ私のことを想いやっていてくれたかを。

 漸っとバッジを外した小夜子は、小夜子の痛みにすら無関心な父の、無造作に差し出された手に大事な大事な宝物を優しく置いた。嘗て彼の人が小夜子をそう扱ってくれたように。

 父は小夜子の宝物を指で摘み、もう片方の手で眼鏡の縁を上げながら裸眼で繁々とバッジを見つめた。


「これは…」

 両手を前で揃えて厳かに、じっと塑像のように父の言葉へと耳をそば立てていた小夜子は、揃えた手を体の脇で固く握ってグッと父の方へと乗り出した。

「この緑に囲まれた顔の彫り物はケルト民族の守り神、兼、精霊と云われている『グリーン・マン』だな。横に彫られてある三行の文字列は詳しく調べて見ぬと解らぬが、古いオルガ文字で間違いないだろう」

 そう云って手近にあった書籍の余白にバッジの三行の文字を目を眇めながら手短に写し取った父は「十字架とドラゴン、と云ったな」と小夜子の答えは待たない素振りで呟き、小夜子の後生大事な宝物であるガァちゃんのバッジを小夜子に無造作に(決して小夜子を見ることなく)返した。

 置いて行かれる。いつも、いつもこうやって、少しでも近付けたと思えば小夜子を置いて行ってしまう。小夜子は、父を。少しでも知りたいと思っていたのに。

 そんな小夜子の心情を全く省みぬ父は顎に手を添え「ケルト…十字架…ドラゴン…」 と呟きしばし考えたのち、数多る書架へと向き直り、目を皿の様にして書架を隅から隅へと見遣った。そうしてその中から一部の書闍へと目を置き、一冊を無造作に手に取るとやおらページを捲り出した。小夜子はその素早い父の動きに目が追いつかず、何の本を手に取ったのか分からなかったが、父が確かに何某かの答えを導き出すべく本を手に取ったのを十二分に悟り、父の口から何某かの答えが出るまでまんじりと待つことと決めた。


「ドルイド・ドラゴンだな」


 父の口から急に言葉が降ってビクッとした小夜子は、それでも「ド…ルイド、ドラゴン…?」と言葉を反芻した。

 そんな小夜子のことを気にもせず、父は

「ケルト神話…古くはアーサー王の伝説にまで遡る、ドルイド・マリーンにケルト民族の平和の象徴である十字架を守れと命ぜられたドラゴンだ」


 ドラゴン!


 やはりそうだったのだ、何の間違いか分からないけれどガァちゃんは本来ドラゴン一族のモノだったのだ。ああ、良かった、名が分かれば本来の姿を取り戻せる、ガァちゃんをこれ以上苦しませなくて済む!

 小夜子は俄然強気になって、しかし未だ小夜子を見ずに書斎に向かい本に目を落とす父の背中を少しく切なげに見据えながら「お父さん、ありがとう」と父の背中に語りかけ、煙のように、消えた。


「ケルトの守り神がキリスト教の悪獣なるタラスクへ…ケルト系キリスト教の歴史の転換点に何か齟齬でも起きたのか…」


 そうブツブツと独りごちる啓輔には、娘の別れの言葉も、娘が消えたことにさえも、決して気が付きはしなかった。


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