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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅰ 虚炎
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Episode 1 血煙洗礼 -Baptism of Welcome- Part 6

 帰還の車両が、夕暮れに沈む荒野をゆっくりと進んでいた。


 車内には誰の声もなかった。

 エンジンの低い唸りと、路面を拾うわずかな振動だけが、密閉された空間を満たしている。


 ユリウスは、ただ窓の外を見つめていた。

 太陽はすでに傾き、赤く染まった陽が、地表に長く影を伸ばしている。

 その影は、まるで戦場そのものが吐き出した怨嗟のように、荒野を覆っていた。


 崩れかけた建造物。

 焼け焦げた戦闘車両。

 砕けた装備が砂に半ば埋まり、その傍には、もう誰にも回収されることのない人影のようなものが──不自然な形で、いくつも、残されていた。


 生の気配は、どこにもなかった。

 あるのは、ただ朽ちかけた時間と、死に損なった空間の匂い。


 車内にも、その匂いは漂っていた。

 焼けた肉と油、錆びた鉄と血の臭い。

 それらが、埃と混ざって肺の奥まで染み込み、皮膚にこびりつくようだった。

 誰も口を開かない。揺れるたびに身体は傾くが、それに抗う気力すら、残っていない。


 新兵たちの顔には、生気がなかった。

 その瞳には、恐怖も、絶望も、怒りすらも映っていなかった。

 ただ、空白だけがあった。

 現実が思考を上回ったとき、人は何も考えられなくなる。その空っぽの目が、それを語っていた。


 もはや彼らは、戦争を知らぬ子供ではなかった。

 けれど、戦場に馴染んだ兵士でもない。

 ただ、その境界に立たされた、最初の一歩を踏み出した者たち。

 それでも──“歓迎の宣告”は、たしかに終わっていた。


 戦争は、始まってしまったのだ。


「……ひどいわ」


 クラリスが小さく呟いた。彼女の制服には乾きかけた血がこびりついている。自身のものではないことだけは確かだった。


「どうした?」


 ユリウスが問いかけると、クラリスは微かに唇を噛み、視線を落とした。


「この戦い……本当に意味があるの?」


 彼女の言葉は、まるで自問自答のようだった。ユリウスは答えなかった。否、答えられなかった。

 この戦争に意味はあるのか。戦う価値はあるのか。

 そんな問いの答えは、どこにもなかった。もしあったとしても、それを知ることに何の意味があるのか。戦場に投げ出された時点で、兵士に許されるのは「問うこと」ではなく、「従うこと」だけだった。


 戦争は、思考を拒む。

 問いの有無に関係なく、戦場は回り続ける。軍は彼らを駒のひとつとして扱い、命令が下れば機械のように動くことを求める。必要があれば、何度でも前線へ送り込まれ、次の戦いへと駆り立てられる。


 意味を探す者は、足を止める。

 足を止めた者は、戦場に取り残される。

 そして戦場に取り残された者は、やがて影となって、大地の一部に還るのだ。


 輸送車両がフォート・グラーデンの巨大な門へと近づいた。監視塔の上から武装兵が見下ろし、車列を厳重にチェックしている。基地内の光景は戦場とは異なり、整然としていた。兵士たちは規則正しく動き、整備兵は機械の調整に没頭し、指揮官たちは端末を覗き込みながら次の作戦を立案している。

 まるで、戦場の地獄など存在しなかったかのように。


「降りろ。これから報告と振り分けがある」


 車両の外で、レオが腕を組みながら待っていた。彼の表情には疲労の色が滲んでいたが、その瞳にはまだ鋭さが残っている。

 ユリウスとクラリスは車両から降り、他の新兵たちと共に整列した。


『これより、生存者の確認と戦闘報告を行う。負傷者は医務室へ。各部隊への正式な配属は、指示があるまで待機せよ』


 無機質なアナウンスが響いた。抑揚のない声が淡々と指示を繰り返す。その冷たさは、まるで戦場で流れた血や、そこで命を落とした者たちなど、何ひとつ問題ではないと言わんばかりだった。


 ユリウスはふと周囲を見渡した。

 負傷した兵士たちが担架に乗せられ、無言の医療班によって運ばれていく。彼らは静かだった。痛みに呻く者も、すでに声を上げることすらできない者も、皆、ただ軍の流れ作業の一部として運ばれていく。彼らのうち、どれだけが回復し、再び戦場へ戻れるのだろうか。あるいは、そのまま息を引き取り、ただ新しい死者のリストに名を刻まれるだけなのか。


 担架の上で、一人の兵士が微かに動いた。唇が震え、喉の奥から掠れた声が漏れる。だが、その言葉は誰にも届かない。医療班は足を止めない。彼を乗せた担架は静かに搬送路の奥へと消えていく。

 残されたのは、僅かな血の匂いと、戦場の爪痕だけだった。


「お……おれは……助かるのか……?」


 一人の兵士の声は、誰に向けたのでもない、ただの独り言だった。だが、それを聞いた看護兵の一人が短く返す。


「医務室で判断される」


 淡々とした口調だった。感情の欠片すらない、ただの業務連絡。

 ユリウスはその会話を聞きながら、心の奥底に冷たい何かが沈み込んでいくのを感じた。ただの消耗品だった。


 戦争は終わらない。

 それが、現実だった。

 しばらくすると、別の軍曹が歩み寄り、無機質な声で指示を出す。


「お前たち、すぐに宿舎に移動しろ。武器と装備の点検を行い、次の命令に備えろ」


 ユリウスとクラリスは顔を見合わせた。休息という言葉はどこにもなかった。新兵たちは疲労困憊しながらも、指示に従い歩き出す。

 基地内の通路は広く、清潔に保たれていた。しかし、それが戦場から戻ったばかりの彼らには不自然に映った。あまりに静かすぎる。


「ここは本当に、同じ戦争をしてるのか?」


 ユリウスが思わず呟く。クラリスは答えなかったが、彼女の表情がそれに同意しているようだった。

 宿舎に到着すると、案内された部屋には二つのベッドが並んでいた。


「……同室?」


 クラリスが眉をひそめた。

 部屋を見回す視線は落ち着きなく、少しだけ警戒を滲ませている。


「戦場に、性差は不要ということだろう」


 ユリウスは淡々と言った。

 この軍において、兵士はただ“兵士”でしかなく、男であるか女であるかは、記号に過ぎない。

 命令に基づいて与えられた寝床に、快適さも配慮も求める余地はない。


「変なの……」


 そう呟いたクラリスは、少しだけ逡巡してからベッドに腰を下ろす。

 ぎし、と微かに軋む音。

 その向かい側、ユリウスも無言で腰を掛け、深く息を吐いた。


 そのまま、制服のボタンに手をかける。


「……ちょっと、何してるの?」


 戸惑いを隠せない声音が飛ぶ。

 ユリウスは彼女を一瞥し、何の感情も込めずに答える。


「着替えるだけだ。寝る前に汗を拭いておかないと不快だからな」


 クラリスは視線を逸らし、小さくため息をついた。

 かすかに赤味を帯びた頬が、室内灯に照らされていた。


「……だからって、気にしないっていうのも、どうかと思うんだけど」


 ユリウスは返答しない。

 ただ機械的に、シャツを脱ぎ、下着を整え、淡々と着替えを済ませる。

 布擦れの音だけが室内に微かに響く。


 クラリスはそれを聞かぬふりをして、ベッドの端に腰を下ろす。

 膝を抱き、指先で顔を覆った。

 目を閉じて、呼吸を落ち着かせる。

 心を、静かに遠くへと沈める。


 誰も言葉を発さない。

 室内には、静けさだけがあった。

 安らぎでも緊張でもない、ただ“何もない”空気。

 戦場から切り離された、小さな真空。

 二人はそこに、並んで閉じ込められていた。


 だが、その静寂は長くは続かなかった。

 遠く、基地の奥から短い警報音が響く。鋭く、無機質な電子音。それはすぐに消えたが、一度鳴っただけで空気を変えるには十分だった。

 沈黙が、ただの沈黙ではなくなる。

 戦場の夜は、決して静寂のまま終わらない。


「……何?」


 クラリスが顔を上げる。

 ユリウスは窓の外を見つめた。夜の闇に沈む基地の一角で、重機のような影がゆっくりと動いている。金属の軋む音がかすかに響き、薄暗い照明の下で、機械の影が長く伸びる。


「明日の戦闘準備か、それとも……」


 言いかけた言葉を飲み込んで、ユリウスはひとつ、深く息を吐いた。


 夜空はすでに黒に沈み、月の光さえ分厚い雲に覆い隠されている。

 基地の灯りだけが規則正しく地面を照らし、途切れなく動き続ける影をその上に刻みつけていた。

 それはまるで、夜すら眠ることを許されぬ戦場の心音のように、静かに、確かに、灯っていた。


 戦争は止まらない。

 誰かの怒りや正義のためではなく、ただ巨大な機構の一部として、感情もなく、命を選別する。

 それはもう意思ですらなく──ただ“継続すること”だけを本質とした、無機の意志。


 そして明日もまた、誰かがそこに呑まれていく。

 記録もされず、名前も残らず、戦場に吸い込まれて消えていく。

 知らぬ誰かの死が、知らぬ誰かの任務にすり替えられ、ただ繰り返されていく。


 その運命の歯車は、確実に、自分たちの足元にも迫っていた。

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