Episode 1 血煙洗礼 -Baptism of Welcome- Part 4
砂塵が舞う荒野を、新兵たちは無防備に歩いていた。銃は携えていたが、それを実戦で使ったことのある者はほとんどいない。そもそも彼らは、まともな訓練すら受けていなかった。ただ軍服を着せられ、銃を持たされ、戦場に送り込まれたに過ぎない。彼らに求められているのは「戦う」ことではなかった。「死ぬまで撃ち続ける」ことだ。
訓練すらまともに受けていない新兵たちは、それでもどこか浮ついていた。戦場に送られたという実感が薄いのか、それとも単なる防衛任務程度に考えているのか。彼らの歩調は一定で、疲労の色も見せず、まるで演習の続きのように見えた。しかし、その錯覚は長くは続かなかった。
教官の怒声のもとで動作を反復した訓練の日々とは違う。本物の戦場では、風の音すら緊張感をもたらした。
──そして、それは、唐突に、訪れた。
警戒音もなかった。
前触れも、兆候も、何一つなかった。
地面が跳ねるように爆ぜた。
乾いた大地を割る破裂音とともに、何かが、地中から吹き飛ぶように飛び出してきた。
それは──人型。
けれど、決して人ではない。
背丈は人間よりやや小さく、四肢は異様なまでに細く長い。
身体全体は、皮膚を剥がれた筋繊維のような質感の外骨格に覆われていた。
暗赤色の光沢を帯び、ねじれ、波打ち、ねめつくような動きで、まるで空気を滑るように跳躍する。
マローダー。
それが敵の名だった。
関節は──存在しない。
外殻は一枚の繋がった皮膜のように滑らかで、明確な可動構造もない。
にもかかわらず、腕は常人では不可能な角度に折れ曲がり、脚は音もなく地面を蹴る。
その柔軟性は、まるで生物のようで、しかし決して生命ではなかった。
頭部に相当する部分は、仮面のように感情のない曲面で覆われている。
眼に相当する器官はない──はずだった。
だが、その中心には縦に走る裂け目があり、裂け目の奥には、無数の光点が蠢いていた。
それらは生物的ではないが、どこか“意志”を感じさせる密度でこちらを──新兵たちを──見つめていた。
凝視している。
観察している。
値踏みしている。
それが「獣」ではなく「狩人」であることを、彼らは直感する。
誰かが、悲鳴のように叫んだ。
「──敵襲だっ!!」
しかし、その声が届く前に、新兵の一人が鮮血を撒き散らした。マローダーの細い腕が突き出され、兵士の胸を貫いていた。絶叫が響き、仲間がその場に釘付けになる。
「撃て!撃て!」
上官の怒号が飛ぶ。だが、兵士たちは銃を握る手を震わせるばかりで、指が引き金を引けない。彼らは「撃ち方」を知らなかった。ただ銃を持たされただけの駒。どうすればいいのか分からず、ただ目の前の光景に怯えるだけだった。
──違う。
突き刺された兵士の体が、わずかに震えた。
「た、助け──」
その声は途中で途切れた。次の瞬間、兵士の背中が裂け、黒い触手のような根が伸び始める。それが兵士の頭部に絡みつくと、彼の目がゆっくりと濁っていった。
まるで人形のように。
「う、うわあああ!」
何が起きたのか理解できないまま、他の新兵たちはようやく銃を構えた。しかし、その混乱の隙を突くように、さらなる恐怖が襲いかかる。
地面を転がるように跳ね回る、小さな機械。直径五センチほどの球体──スプロウト。
それはまるで生き物のように蠢いていた。表面は不気味なほど滑らかで、光沢のある灰色に染まっている。外装は硬質な殻のようにも見えるが、跳躍の際には柔軟に変形し、まるで筋肉の収縮のように動く。接地の瞬間、複数の触手が殻の隙間から素早く飛び出し、地面に絡みついて次の跳躍へと繋げる。その動きは虫と哺乳類の中間のような、不気味で予測のつかないものだった。
それは跳躍し、新兵の首筋に貼りついた。
「な、何か──助け──」
悲鳴は一瞬だった。スプロウトが脊髄に根を伸ばした瞬間、その兵士の体が痙攣し、次の瞬間には静かになった。
だが、異変はすぐに起きた。
彼は、振り向いた。
その目には、もはや生気はない。
「…………」
彼は無表情に、隣にいた仲間へと銃を向けた。
銃声。
仲間が、仲間を撃った。静かに、躊躇なく。
「や、やめろ!そいつは……!」
混乱が混乱を呼び、戦線は瞬く間に崩壊した。新兵たちは何が起こっているのかすら理解できず、ただ目の前の惨劇に呑み込まれる。
「伏せろ!散開しろ!」
指揮官の必死の叫びも虚しく、マローダーたちは次々と新兵たちを襲った。触手が風を切り、肉を貫く音が響く。悲鳴が次々と上がり、血が砂に染み込む。ある者は必死に逃げ、ある者は銃を乱射しながら倒れていく。
「な、なんなんだよこいつら……!」
兵士の一人が震える手で引き金を引く。しかし、銃弾はマローダーの柔軟な外骨格をかすめるだけで、致命傷にはならなかった。逆に、マローダーはしなやかに飛び上がり、その兵士の喉元を貫いた。
さらに、至るところでスプロウトが跳ね回る。倒れた兵士の頭部に貼りつき、脊髄に根を張る。そのたびに、新たな“敵”が生まれる。
「違う……あれは……おれたちの仲間だ……!」
自軍の兵士が、敵として銃を向けてくる。引き金を引かざるを得ない。しかし、それができる者はほとんどいなかった。
戦場はすでに修羅と化していた。
新兵たちは誰も、これが「戦争」だとは思えなかった。彼らは、単なる数として戦場に放り込まれ、ただ死を迎えるための存在だった。
その絶望が、戦場に満ちていった。
〇
銃声と悲鳴が入り乱れる中、ユリウスは必死に足を動かした。視界の端で次々と仲間が倒れ、異形の敵がその亡骸を貪るように触手を絡めていく。
戦場は地獄そのものだった。
黒煙が空へと昇り、鉄と血の匂いが喉の奥を焼いた。大地には引き裂かれた兵士の残骸が転がり、泥に混じる鮮血がまるで地面そのものを染め上げるかのようだった。砕けた骨と焦げた肉片が散乱し、死者の眼球が虚空を見つめている。
耳をつんざく悲鳴。錯乱した兵士の叫び。銃声が重なり、爆発音がすべてを覆い尽くす。指揮系統は崩壊し、誰もが己の生存だけを考えて動いていた。
「ユリウス!」
クラリスの叫び声が、弾丸の嵐の中でも鮮明に聞こえた。
「こっちよ!」
彼女が手を引く。その先には、倒壊した装甲車両の残骸があった。二人はそこへ飛び込むように身を投げる。
だが、その瞬間、鋭い悲鳴が背後から響いた。
「くそっ……やめ──!」
振り向くと、そこにはユリウスたちを指揮していた上官の姿があった。必死にライフルを乱射しながら後ずさる彼の体に、無数のスプロウトが貼りついている。
「や……やめろ……」
上官の声は震えていた。足元にはすでに他の兵士たちの死体が積み重なっている。スプロウトが脊髄に根を張る。上官の動きが一瞬止まった。
「撤退だ!……撤──」
その言葉が最後だった。
ピシッ。
何かが彼の首筋に埋め込まれる音がした。
次の瞬間、上官は苦悶の表情を浮かべながら、カクカクとした異常な動作で振り向いた。その瞳からは、すでに生気が失われていた。
「……」
ライフルが持ち上げられる。
「っ……!」
ユリウスは反射的にクラリスの肩を掴み、身を低くする。直後、銃声。先ほどまで二人がいた場所に、立て続けに弾丸が撃ち込まれた。
上官が、彼らに向けて発砲している。
「な、なんで……っ!」
クラリスが悲鳴を上げる。
「もう……違うんだ……!」
ユリウスは理解した。もう目の前の男は「上官」ではない。ただの操り人形だ。
だが、そう頭では分かっていても、指が動かない。教練で何度も叩き込まれた指揮系統。上官は絶対だ。撃つことなんて──できるはずがない。
その迷いを見透かしたように、マローダーが背後から飛びかかってきた。
「くそっ!」
咄嗟にライフルを構え、乱暴に引き金を引く。しかし、マローダーは驚異的な反応速度で弾を回避し、さらに距離を詰めてくる。
「無駄よ、こいつら……!」
クラリスも射撃を試みるが、敵の動きが速すぎる。マローダーが触手を伸ばし、ユリウスの肩に絡みついた。
「ぐっ……!」
力が抜け、膝をつく。触手がじわじわと締め上げていくのがわかった。クラリスが叫びながら撃とうとするが、マローダーはそれすら読んでいたかのようにユリウスを盾にしようとする。
その時だった。
轟音。
それは砲撃にも似た衝撃。
マローダーの体が爆ぜる。赤黒い液体を撒き散らしながら、ユリウスの肩から触手が解かれ、倒れ込む。
「な、に……?」
クラリスが息を呑む。その視線の先には、黒い装甲の巨体。
多目的戦術機動郭──レイヴンズ・コールの機体。
『──《レイヴンズ・コール》、戦場へ到着』
その無線が響いた瞬間、
地獄の喧騒は、ほんのわずかに息を潜めた。
血と煙と絶叫に染まっていた戦場に、言葉ひとつで――一瞬の静止が訪れる。
そして、影が現れた。
太陽を背負い、戦場に降り立つ重厚な機影。
鋼鉄の装甲に包まれた機体が、ゆっくりと着地し、迷いなく前進を始める。
轟く銃声。光弾が放たれ、マローダーたちの身体を次々と撃ち抜いていく。
その動きには、逡巡も、怯えもなかった。ただ淡々と、正確に、殺すべき敵を排除する。
残された新兵たちは、まるで祈りを止められた人形のように、呆然と立ち尽くしていた。
その中を、《レイヴンズ・コール》は迷いなく進み、戦場を塗り替えていく。
『全員、戦線を維持しろ』『新兵は後退せよ。繰り返す、後退せよ』
無線の向こうから響くのは、ヴィクトル・シュナイダーの声。
冷徹でいて、どこか温度を持つその声が、戦場に「秩序」という名の光を投げ込んでいく。
彼の機体が、前へ出る。
鋼の脚が地を蹴り、瞬時に間合いを詰め、腕部から伸びた高周波ブレードが閃いた。
刃が閃き、マローダーの外殻が切り裂かれる。
裂けた胴体から黒い液体が飛び散り、砂に染みていく。
戦場が、変わり始めていた。
ユリウスは、ようやく自分の呼吸を取り戻したことに気づく。
肺が空気を取り込み、心臓が再び拍動しはじめる。
それは、自分がまだ生きているという、ただそれだけの証明だった。
──光が差す。
──救いにも似た、戦場の只中に射し込む、まるで神託のような光が。