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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
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Episode 5 余燼残響 -Echoes of Dying Embers- Part 3

 その後、リリィはもう一度も口を開かなかった。


 開けなかった、ではない。

 開く意味がないと分かってしまったからだ。


 司令部の会議は続いていた。

 続いている、というより、ただ止まらずに回っていた。


 同じ報告が、言い換えだけを伴って繰り返される。

 同じ懸念が、少しずつ語尾を変えて卓上を巡る。

 同じ数字が、別の部署の口から出た途端に、まるで新しい意味を持ったかのように扱われる。


 だが、何一つ進まない。


「危険性については再評価が必要だ」

「その再評価の基準をまず整理すべきでしょう」

「整理を行うなら医務局と技術局の合同確認が先決です」

「合同確認の前に、現時点での運用可否だけでも仮決定すべきでは?」

「仮決定の前提となる材料が不足している」

「不足しているなら追加報告を待つべきだ」

「待つ余裕が前線にあるとは思えませんな」

「しかし拙速な判断は損害を増やすだけです」


 言葉だけが、滑っていく。


 否定のための否定。

 保留のための慎重論。

 牽制のための確認要求。

 どの発言も一見もっともらしく、どの発言も致命的に空疎だった。


 誰も決めたくないのだ、とリリィは思った。


 決めてしまえば責任が生まれる。

 隔離を決めれば、その後に起こる戦況悪化の責を負わねばならない。

 再投入を決めれば、暴走や損耗の責を負わねばならない。

 だから誰も結論へ触れない。触れないまま、言葉だけを積み上げる。まるで議論しているという事実そのものが、何かの代わりになるとでも信じているかのように。


 会議は踊っていた。

 されど、進まない。


 ある者は書類をめくりながら眉をひそめ、

 ある者は腕を組んで低く唸り、

 ある者は自分の発言が終わるたびに、ほんのわずか満足げな沈黙を置いた。


 その一つ一つが、リリィには奇妙に白々しく見えた。


 彼らはクラリスの話をしている。

 ユリウスの話をしている。

 あの格納庫で何が起きたのかを、記録と数値と危険性の言葉に置き換えて話している。


 けれど、そこには当人たちの息遣いがなかった。


 恐怖で声を失ったことも。

 負傷した脚でなお立ち続けたことも。

 機体を降りたあと、まともに一歩も踏み出せなかったことも。

 誰も見ていない。見ようともしない。


 見ているのは数字だけだ。

 そしてその数字ですら、都合のいい意味へ引き寄せるための札としてしか扱われていない。


 リリィは卓上端末に視線を落とした。

 クラリス機の戦闘ログは、まだ開いたままだった。


 異常上昇した神経リンク率。

 未調整機の緊急起動。

 火器不全下での近接制圧。

 どれも画面上では簡潔な文字列に過ぎない。


 だが、リリィには分かっていた。

 それが本来、こんな机上で何度も言い換えながら消費していいものではないことくらい。


「では、当面は監視下に置くという方向で――」

「いや、監視下という表現は尚早でしょう」

「ならば保護観察という形に改めるか」

「言葉の問題ではない。実施主体をどこが持つかが先だ」

「その前に、前線側への情報開示範囲を整理せねば」

「現場へは必要最低限で十分ですな」

「いや、逆に現場の意見こそ確認すべきでは?」

「しかし現場判断に委ねるには事例が特殊すぎる」

「特殊だからこそ中央が握るべきです」

「中央が握って何ができます?」

「少なくとも、現場よりは秩序立てて扱える」


 そのやり取りに、誰かが乾いた笑いを漏らした。

 だがすぐに別の声がかぶさり、何事もなかったみたいに議論は続く。


 進んでいるように見せるためだけの迂回。

 決断を遅らせるためだけの確認。

 会議はいつまでも同じ円を描き続けた。


 リリィは、もう誰の顔も見ていなかった。

 見ても意味がないからだ。


 代わりに、前線状況の更新欄だけを見ていた。

 ファントムドーン、なお交戦中。

 ヘルダイバーズ、一部部隊、奪還行動継続。

 レイヴンズ・コール主力、依然前線。


 そちらでは、たぶんもう次の判断が下されている。

 下さなければ、死ぬからだ。


 この部屋だけが違った。

 ここでは、死が少し遠い。

 だから、決めなくてもまだ会話が続けられる。

 続けられてしまう。


 そのことが、たまらなく醜く思えた。


 けれど、リリィは何も言わない。

 言ったところで、この円舞曲の拍子が変わるわけではない。

 彼女はただ、沈黙したまま会議の流れを見守り続けた。


 見守る、というより、見送るに近かった。


 時間だけが削られていく。

 言葉だけが積もっていく。

 結論だけが、どこまでも先送りにされていく。


 そしてその間にも、クラリスは、ユリウスは、当人たちの知らないところで少しずつ“人”から“案件”へ変えられていくのだった。


    〇


 その膠着を、鋭い電子音が切り裂いた。


 司令卓の上で、優先回線の受信ランプが赤く明滅する。

 誰かが苛立ったように顔を上げ、別の誰かが「今度は何だ」とでも言いたげに眉を寄せた。けれど、回線を開いた瞬間、その場の空気は一変した。


『――こちら前線再奪還部隊。ヘルダイバーズより報告。フォート・グラーデン、主要施設全域の再奪還を確認。管制塔、中央兵站区、主格納庫群、通信中継棟、いずれも制圧完了。現在、残敵掃討および損害確認へ移行中』


 静寂が落ちた。


 今しがたまであれほど滑り続けていた言葉が、まるで最初から存在しなかったもののように消えた。誰もすぐには口を開けない。開こうとして、やめた者もいた。


 フォート・グラーデンの再奪還。


 それは、本来なら無条件で喜ぶべき報せのはずだった。

 喉元まで迫っていた基地喪失の危機が退けられたということだ。前線の支点がひとつ、かろうじて繋ぎ止められたということだ。司令部に詰めている全員が、どれほどそれを願っていたか分からない。


 なのに、その喜び方を思い出せない。


 つい先ほどまで卓上に並べていた議論が、まだ冷えきらないままそこにあるからだった。

 クラリスの異常。

 再搭乗の可否。

 隔離か、運用か。

 危険物として封じるのか、戦果として掲げるのか。


 そのどれも片付いていない。片付いていないまま、前線だけが先に結論を出してしまった。血と損耗と現場判断で、ひとまずひとつの答えをもぎ取ってしまった。


 だから一同は、我に返ったように静まり返った。


 喜ぶべきなのか。

 あるいは、何事もなかったように目の前の議論へ戻るべきなのか。

 どちらに顔を向ければいいのか、誰もすぐには決められない。


 その沈黙の中央で、乾いた音が二度、三度と鳴った。


 柏手だった。


 高くもなく、低くもない。

 しかし妙に通る音だった。空転しきった会議の表面を、強引に割るには十分な響きだった。


 リリィは反射的にそちらを見る。


 卓の最奥、ほとんど発言せずに座していた人物が、ゆっくりと掌を離していた。

 軍務総監、ゲルハルト・ヴァイスマン将軍。

 この会議がどれほど踊ろうと、その中心から一歩退いた位置で全体を見ていた男だ。


 将軍は、誰にともなく視線を巡らせた。

 疲労と苛立ちで濁っていた部屋の空気が、その一瞬だけ、張り詰める。


「諸君」


 声は大きくない。

 だが、よく通った。


「議論は尽きぬようだ。結構。尽きぬ議論というものは、たいてい時期尚早か、あるいは材料不足のどちらかだ」


 誰も口を挟まない。


 将軍はわずかに口元を緩めた。笑みというには乾きすぎていて、皮肉というには静かすぎる表情だった。


「そして今、この場の議題は二つに分かれている。ひとつは未決の問題。もうひとつは、すでに現場が答えを出した報せだ」


 そこで一拍置く。


「未決の問題は、未決のまま次へ持ち越す。異論はあるまい。少なくとも、この場で同じ円をあと一時間回したところで、結論の質が上がるとも思えん」


 それは叱責ではなかった。

 もっと冷たい類の、ただ事実を指差す言い方だった。


 何人かが目を伏せる。

 別の誰かは、渋い顔のまま腕を組み直した。

 反論は出ない。出せない。今しがたまでこの部屋が何をしていたのか、全員が自覚してしまったからだ。


 ヴァイスマン将軍は続ける。


「今は、奪還を祝福しよう」


 その一言に、部屋の空気がわずかに動いた。


「フォート・グラーデンは落ちなかった。ヘルダイバーズは主要施設の再奪還を果たした。ならばまず、その事実に応えるべきだ。現場は血を流して結果を持ち帰った。こちらはせめて、それを結果として受け取る程度の礼節を保て」


 礼節。

 その言葉に、リリィはほんの少しだけ息を呑んだ。


 誰も、祝いの言葉を口にしなかったのではない。

 口にする順番を失っていたのだ。議論の泥の中で、どう喜んでいいのか分からなくなっていた。


 将軍は立ち上がらない。

 ただ席に着いたまま、場を閉じるように言った。


「クラリス・フォーゲルに関する件は保留とする。記録の再精査、医務・技術両局の補足報告、前線指揮官からの意見聴取を待ち、改めて議題に上げる。今日は終わりだ」


 保留。


 その言葉は、結論ではない。

 救済でもない。

 ただ、誰も責任を引き受けないまま先送りにされたというだけのことだ。


 けれど同時に、この場で即断されなかったという事実もまた、確かに残った。


「さて」


 将軍は最後に、やや柔らかい声を作った。


「奪還を祝う程度の言葉もないというのでは、あまりに寂しい。誰か、現場へ労いの一つも送ってやれ」


 それで会議は終わった。


 終結、というよりは解散に近かった。

 着地点を見いだしたのではない。ただ、これ以上同じ場所で足踏みを続けることに意味がないと認めただけだ。積み上げられた言葉も、机上に置かれた判断も、何ひとつ片付いてはいない。


 それでも人は椅子を引き、端末を閉じ、回線を切り、ようやく「奪還」という言葉を口にし始める。

 ぎこちない安堵。

 遅れてやってくる現実感。

 そのどれもが、本物であると同時に、どこか借り物めいていた。


 リリィは席を立たなかった。


 モニターの隅では、まだ前線の更新表示が点滅している。

 フォート・グラーデン主要施設、再奪還。

 残敵掃討継続。

 被害確認中。


 よかった、と思う。

 ちゃんと、そう思う。

 でもそれと同じだけ、胸の奥には別の冷たさが残っていた。


 議論は終わったのではない。

 ただ、次へ持ち越されただけだ。


 クラリスの件も。

 ユリウスの件も。

 そして自分自身もまた、いつの間にかその“次”の中へ組み込まれている気がした。


 会議は踊った。

 されど進まず。

 最後には、奪還という明白な事実だけが、その場に残された言葉の山を一時的に黙らせただけだった。


 リリィは、ようやくひとつだけ深く息を吐いた。

 その息は、安堵とも疲労ともつかない、どこかひどく薄いものだった。

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