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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
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Episode 5 余燼残響 -Echoes of Dying Embers- Part 1

 最初に、自分がまだ呼吸をしているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


 肺が空気を吸い込むたび、胸の奥がひどく痛んだ。

 それが負傷のせいなのか、泣きそうになるのをずっと堪えていたせいなのか、クラリスにはもう分からなかった。


 オルドのコクピットを降りたはずなのに、足の裏にはまだ鋼鉄の床を踏みしめる感触が残っていた。

 指を開いても、そこにあるのは自分の手のはずなのに、感覚だけがどこか遠い。ついさっきまで握っていた操縦桿の重さが、まだ骨の奥に沈んでいる。肩は焼けるように痛み、背中には冷たい汗がじっとりと張りついていた。


 格納庫には、戦闘の終わりきらない音が漂っていた。


 どこかで火花が散る。

 遅れて崩れた資材が床を打つ。

 警報灯はまだ赤く瞬き、断続的なアラートが耳障りな音で空気を引き裂いていた。


 それなのに、クラリスには、妙に静かに感じられた。


 まるで、自分だけが分厚い水の底へ沈んでしまったみたいに、世界の音が一枚膜を隔てた向こう側へ退いていた。

 代わりに、耳の奥で鳴り続けているのは、さっきまで自分と繋がっていたはずの鋼鉄の鼓動だった。


 どくん。

 どくん。

 そんなはずはないのに、まだ聞こえる気がした。


 クラリスは、その場でうまく立っていられなかった。

 膝から力が抜ける。視界が揺れる。すぐ近くの手すりに手をつこうとして、その距離を見誤った。指先が空を掻き、体が斜めに崩れかける。


「……っ」


 情けない声が漏れる。

 その程度のことで、自分の身体が自分のものではなくなっていることを思い知らされる。


 怖かった。


 戦っている最中ではなく、終わってからの方がずっと。


 あのときは、動けた。

 いや、動いていた。

 敵の位置が分かった。間合いが分かった。どう踏み込めば倒せるのか、どう腕を振れば砕けるのか、考えるより先に身体が知っていた。


 でも、あれは本当に自分だったのだろうか。


 ユリウスを助けたいと思った。

 あれだけは、はっきりしている。

 彼が目の前で潰されるのが嫌で、ただそれだけで走った。あの背中を失いたくないと思った。それは確かに、自分の気持ちだった。


 けれど、その先が分からない。


 オルドに飛び乗り、神経リンクを繋ぎ、未調整の機体を起動させ、火器もないまま敵を叩き伏せた。そんな真似を、自分がしたのだと、どうしても現実として呑み込めなかった。


 喉の奥がひどく乾いている。

 唇を開いても、呼吸ばかりが浅く漏れて、言葉にならない。


 視界の端で、損傷したオルドが見えた。

 赤い警報灯の下、鋼鉄の巨体は再び沈黙している。さっきまであれと繋がっていたはずなのに、今はもうただの機械にしか見えない。見えないはずなのに――胸の奥のどこかだけが、まだあれを“ただの機械”と呼ぶことを拒んでいた。


 近づきたくなかった。

 けれど、目も逸らせなかった。


 肩がまた痛む。

 その痛みで、ようやく自分が生身の人間なのだと思い出す。


 自分はクラリス・フォーゲルだ。

 ただの新兵だ。

 恐怖で引き金を引けなかった、弱くて、未熟で、誰かに庇われる側だったはずの人間だ。


 なのに、どうして。


「……なんで……」


 掠れた声がこぼれた。

 誰に向けた問いでもなかった。


 なんで動けたのか。

 なんで戦えたのか。

 なんで今は、こんなにも立っているのがつらいのか。


 答えはどこにもなかった。


 ただ、戦闘が終わったあとにしか訪れない重たい静けさが、じわじわと全身へ降り積もっていくだけだった。

 熱の引いた身体の中に、空っぽになったみたいな虚脱だけが残っていく。


 助かったはずだった。


 ユリウスも、生きている。

 自分も、生きている。

 それなのに、少しも救われた気がしなかった。


 むしろ、何かの入口に立ってしまったような気がしていた。

 戻れない場所へ、ひとりで踏み込んでしまったような、言いようのない感覚だけが胸に残る。


 クラリスはゆっくりと目を閉じた。


 闇の中には、すぐにあの戦闘の断片が浮かんだ。

 敵の跳躍。

 鋼鉄の拳。

 叩きつける衝撃。

 リンクの向こうで軋む巨体。

 そして、自分でも知らない顔をした、自分自身。


 堪えきれず、クラリスはその場にしゃがみ込んだ。

 肩を抱く。

 震えが止まらない。


 戦いは終わった。

 終わったはずだった。


 けれど、彼女の中では、まだ何一つ終わってはいなかった。


 クラリスは、ハッチを降りた瞬間にユリウスの姿を探した。


 赤い警報灯の明滅の向こう、少し離れた場所に、彼はいた。

 負傷した脚を庇いながら、それでもまだ立っている。今にも崩れそうな足取りなのに、なおこちらを気にかけるように格納庫の奥へ視線を走らせていた。


「ユリウス……!」


 ほとんど反射だった。

 考えるより先に、彼のもとへ行かなければと思った。自分を庇って傷を負ったのは彼だ。その傷がどれほど深いのか、自分の目で確かめなければならない。そう思った瞬間には、もう身体を前へ投げ出していた。


 けれど、一歩目で足がもつれた。


 床を蹴った感触が、どこか遠い。

 力を込めたはずなのに、脚がひどく鈍かった。膝から下だけがまだ鋼鉄のまま取り残されているみたいに重く、思うように持ち上がらない。身体の重心もおかしい。まっすぐ進もうとしたはずなのに、感覚だけが半拍ずれて、足裏が床をうまく捉えられない。


「……っ」


 息が詰まる。


 前へ出るつもりだった身体は、逆に斜めへ流れた。

 視界がぐらりと傾ぐ。クラリスは咄嗟に近くの手すりへ手を伸ばしたが、伸ばしたつもりの指先は空を切る。距離感すら、自分のものではなくなっていた。


 遅れて、右肩に鋭い痛みが走る。


「ぁ……っ」


 焼けつくような痛みが腕の付け根から背中へ抜けた。

 力が抜ける。支えきれない。膝が折れる。クラリスはそのままよろめき、崩れかけた身体をどうにか腰のひねりだけで立て直そうとした。だが、それすらまともに噛み合わない。


 まるで、まだ機体の中にいるみたいだった。


 自分の手足のはずなのに、自分のものではない。

 軽いはずなのに、うまく動かせない。

 重い鋼鉄の四肢を無理やり切り離されたあとに、生身の身体だけが追いついていないような、気味の悪い感覚だった。


 たった数歩。

 それだけでいいのに。


 ユリウスのところへ行きたいだけなのに、身体だけが言うことを聞かない。


 クラリスは唇を噛み、もう一度だけ前へ出ようとした。

 けれど次の一歩も浅く、頼りなく、床を擦るようにしか進まない。脚に入れたつもりの力は空振りし、全身の感覚がばらばらにずれている。息が上ずる。情けなさと焦りが一気に喉元までせり上がってきた。


 その時だった。


「……クラリス?」


 ユリウスの声が届いた。


 短い、掠れた声だった。

 それでも彼はすぐに異変に気づいたらしかった。


 視線がこちらを向く。

 警報灯の赤い光の下で、彼の表情がわずかに強張るのが見えた。自分の脚を痛めているはずなのに、彼は反射的に一歩こちらへ出ようとする。だが、その動きもまた傷に阻まれ、重たく途切れた。


 互いに傷ついている。

 互いに、まともに動けない。


 その現実だけが、ひどくはっきりしていた。


 クラリスは、崩れかけた体勢のまま、ようやく近くの手すりへ指をかけた。

 冷たい金属の感触に縋るようにして、どうにか倒れるのだけは堪える。


 そして、乱れた呼吸の合間に、かすれる声で彼の名前をもう一度呼んだ。


「……ユリウス」

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