Episode 4 斃地再起 -To Rise Anew Where I Was Broken- Part 3
ユリウスとクラリスは、赤い非常灯だけが明滅する連絡通路を急いでいた。
司令部へ続く最短経路は、すでに使えなかった。
角を曲がった先で、通路いっぱいに蠢く敵影を見た瞬間、ユリウスは舌打ちとともに進路を変えた。壁際に這うように身を寄せていたマローダーが一斉にこちらを向いたのだ。あれを突破するのは、今の二人では無理だった。
「こっちだ……迂回する」
左脚を庇いながら、ユリウスが低く言う。
その足取りは明らかに鈍い。けれど立ち止まることだけはしなかった。
クラリスも頷き、後を追う。
だが、傷んだ肩を押さえた腕には力が入らず、呼吸は浅いままだった。拳銃は握っている。けれど、それだけだった。敵の気配を感じるたびに、喉の奥が冷たく強張っていく。
二人は整備用の回廊へ入り、搬送レーンの脇を抜け、半壊した補給区画を横切った。
遠回りだった。
その分だけ、基地の崩れた内臓を覗き込むような道だった。
焼けた配線の臭い。
割れたガラス。
倒れた担架。
無人のまま転がる工具箱。
ここもまた、つい数分前まで人がいた場所なのだと分かる痕跡ばかりだった。
けれど、その迂回路もまた、無傷では済まなかった。
薄暗い搬入口を抜けた瞬間、奥のシャッター脇から複数の影が浮かび上がる。
一体ではない。二体でもない。
赤い灯の下で、細長い輪郭が次々と身を起こしていく。
「……っ、まだいるの……」
クラリスの声が震えた。
ユリウスは返事をしなかった。
ただ、銃を構えて前に出る。
乾いた発砲音が響く。
先頭の一体がよろめく。だが、その隙間を縫うように別の個体が滑り込んできた。さらに床を跳ねるようにスプラウトが走る。数が多すぎた。
「下がれ!」
ユリウスが怒鳴る。
クラリスは反射的に一歩下がったが、そこでまた足が止まった。
撃たなければいけない。
そう分かっているのに、目の前で迫る異形の動きに、どうしても指が動かない。右肩の痛みが腕を引き止める。呼吸が浅くなる。視界が狭まる。敵の影だけがやけに大きく見えた。
「クラリス!」
名を呼ばれても、返事はできなかった。
拳銃を向けたまま、引き金だけが遠い。
その間にも、ユリウスは片脚を引きずるようにして応戦を続ける。
弾倉を使い切る寸前まで撃ち、敵の間合いをずらし、少しでもクラリスに届く時間を稼ごうとする。だが、消耗は隠せなかった。左脚に体重を乗せるたび、動きが半拍遅れる。
押されていた。
じりじりと。
確実に。
「……くっ」
ユリウスが後退する。
クラリスもよろめくように下がる。
そのまま二人が辿り着いたのは、巨大な防火扉の向こう――格納庫だった。
高い天井。
剥き出しの鉄骨。
警報灯に照らされる無数の整備足場。
その中央に、オルドがいた。
起動前のまま沈黙する鋼鉄の巨体が、まるで別世界のもののように格納架に繋がれている。整備用のケーブルが何本も伸び、足元には工具や補修材が散らばっていた。
格納庫の広さは、逆に逃げ場のなさでもあった。
遮蔽物はある。だが、二人とも満足に戦えない。ユリウスは脚を痛め、クラリスは恐怖に縫い止められている。
ユリウスは最後の弾を撃ち切り、荒く息を吐いた。
マガジンを替えようとしたその瞬間、左脚が耐えきれず大きく沈む。
「ユリウス……!」
クラリスが声を上げる。
だが、その隙を敵は逃さなかった。
一体のマローダーが低く身を沈め、一直線に跳んだ。
もう近い。
あまりにも近い。
ユリウスは咄嗟に銃を横に構えたが、体勢が崩れている。受け止めきれない。
その細長い四肢が、彼の身体へ絡みつこうと伸びる。
時間が、止まったように見えた。
まただ。
また自分は、見ているだけなのか。
クラリスの胸の奥で、恐怖と別の何かがせめぎ合った。
怖い。
無理だ。
動けない。
けれど――ここで動かなければ、ユリウスが終わる。
その背中が。
何度も自分を引っ張り起こしてくれたその背中が、ここで潰れる。
「……いや」
その言葉を、彼女自身が最後まで聞いていたのか、最早分からなかったが。
気づいた時、クラリスは拳銃の引き金を引いていた。
正確に、無比に。弾丸は敵を貫いて。
「はぁ……。はぁ……」
息が荒い。自分は今、何をしたのか。
その結果を、クラリスは考える前に。
その先の格納庫中央のオルドへ、彼女の視線は向いていた。
沈黙する鋼の巨体。
届くかどうかも分からない距離。
だが、それしかなかった。
格納庫には、もう誰もいなかった。
整備兵も、補助要員も、警備兵も、すでに避難した後だったのだろう。高い天井の下に残されていたのは、起動前のオルドと、散乱した工具、そして警報音に満たされた空虚だけだった。
その代わり、不意に通信が割り込んだ。
『クラリス、やめて!』
リリィの声だった。
切羽詰まった、悲鳴に近い声。
『その機体はまだ調整が終わってない! 起動はできても、まともに動く保証がないの!』
続けて、別回線が強引に重なる。
『乗るな、クラリス!』
ヴィクトルの低い声が、鋭く響いた。
命令だった。
迷いを許さない、戦場の声だった。
『現在の状態での搭乗は自殺行為だ。下がれ。ユリウスを連れて退避しろ』
さらに司令部の回線が混線気味に開く。
『格納庫内の機体使用は未承認です!』
『パイロット識別コード未照合! 搭乗を中止してください!』
『繰り返す、搭乗を中止しろ! 中止しろ!』
幾つもの声が重なり合う。
制止。警告。命令。
そのすべてが、ヘッドセット越しにクラリスの耳を打った。
けれどクラリスは振り返らなかった。
怖かった。
膝が震える。
肩は痛い。
今すぐ逃げ出したい。
それでも、もう後ろへ下がることだけはできなかった。
クラリスはユリウスの手を離すと、格納架へ向かって走り出す。
敵が背後で金属を踏み鳴らす。
通信の向こうで、リリィが何度も名を呼ぶ。
ヴィクトルが短く、鋭く、止まれと命じる。
それでも彼女は走る。
コクピットへ滑り込んだ瞬間、クラリスは息を呑んだ。
狭い。
思っていた以上に、あまりにも狭い。
外から見上げれば、オルドは鋼鉄の巨人だった。戦場を踏み砕き、敵を撃ち払い、死地そのものを塗り替えるための機械。けれど、その腹の内側にあるのは、人ひとりを押し込めるだけの、冷たく無機質な操縦席にすぎなかった。
背を受けるシートは硬く、左右のフレームは剥き出しで、装甲板の隙間からは整備途中の配線と端子が覗いている。正面の主モニターはまだ眠ったままで、補助スクリーンも黒く沈黙し、機内には焼けた金属と機械油の匂いだけが重くこもっていた。狭い空間の温度に、自分の汗と血の匂いが混ざる。それだけで、ここが安全な場所ではないことが分かる。
背後でハッチが半ば閉まり、外の警報音がくぐもった。
その瞬間、格納庫の喧騒が一枚の膜を隔てた向こう側へ沈み、代わりに自分の呼吸と心臓の音だけがやけに大きくなった。
逃げ場がない。
クラリスは震える右手で、前面パネルの起動キーへ指を伸ばした。負傷した肩が焼けるように痛む。さっきまで引き金すら満足に引けなかった指が、今は鋼鉄の怪物を起こそうとしている。その事実に、自分で自分が信じられなかった。
『クラリス、応答して!』
通信が割り込む。
リリィの声だった。悲鳴に近い、切迫した声音。
『お願い、降りて! その機体、まだ調整が終わってないの! 主駆動系の同調も、姿勢制御も、神経リンクの再検査も終わってない!』
『今すぐ降りろ。それは命令だ』
クラリスは答えない。
喉の奥が張りついて、返事ができなかったわけではない。
返したら、たぶん迷ってしまうと思ったからだ。
冷たい起動キーに指先が触れる。
金属の感触が、ひどく現実的だった。
押し込む。
次の瞬間、沈黙していた機内に、低い電流音が走った。
黒かったモニターが一斉に薄く明滅し、灰色のノイズが画面の表層を這い、やがて鈍い青へ変わっていく。無機質な起動文字列が高速で流れ始め、足元の深い場所で、重いものが噛み合うような音がした。長く眠っていた巨体が、ようやく自分の骨を思い出したような、鈍く、ゆっくりとした音だった。
――BOOT SEQUENCE START
――SUB POWER ONLINE
――CONTROL LINK CHECK
――NEURAL LINK INITIALIZING
その表示を見た瞬間、クラリスの背中がびくりと震えた。
遅れて、シートの内側から熱が上がる。
首筋。
背骨。
腰。
座席に埋め込まれた接続子が微かに起動し、細い針のような刺激が皮膚の下を走り抜けた。思わず息が止まる。痛みではない。だが快感などでは決してない。冷たい電流のようなものが、背中の中央を這い上がり、自分の神経をひとつずつ探り当てていく感覚。身体の輪郭が、ほんのわずかに曖昧になる。
「っ……」
クラリスは歯を食いしばる。
モニターの黒が晴れ、補助画面が次々と点く。
その瞬間、彼女の中へ何かが流れ込んできた。
重い。
暗い。
冷たい。
自分の身体ではないはずの感覚が、唐突に神経の内側へねじ込まれてくる。脚部アクチュエータの軋みが、自分の膝の奥で鳴ったように響いた。腕部フレームの微振動が、掌ではなく肘の関節そのものに返ってくる。視界の外にあるはずの機体の重心が、まるで自分の背骨の延長みたいに揺れた。
境界が薄くなる。
肉と鋼鉄の区別が、一瞬だけ溶ける。
これが神経リンク。
ただ操縦するのではない。
機体の重さ、鈍さ、応答の遅れ、駆動の癖、その全部を自分の身体の異物として受け入れた上で、それでもなお“自分の四肢”として命じるための接続。
だが、その同調は次の瞬間、耳をつんざく警告音に引き裂かれた。
機内に鋭いアラートが炸裂する。
主モニターの右半分が一気に赤へ染まり、異常表示が立て続けに立ち上がる。
――WARNING
――MAIN SYNC INCOMPLETE
――NEURAL LINK STABILITY LOW
――LEFT LEG ACTUATOR: ERROR
――GYRO CALIBRATION FAILED
――WEAPON LINK: NOT READY
――PILOT AUTHORIZATION: UNCONFIRMED
次の瞬間、オルドの巨体が立ち上がりかけて、止まった。
座席の下から突き上げるような衝撃。
視界がぶれる。
補助モニターが一瞬だけ白飛びし、ノイズが走る。
機体は前へ進まない。
ただ、不自然な痙攣を繰り返すだけだった。
その失調は、そのままクラリスの神経へ逆流した。
左脚の異常応答が、まるで自分の足首が途中で捻じ切れたみたいな違和感になって返ってくる。姿勢制御の乱れが、三半規管を直接掴んで振り回すような気持ち悪さを生む。肩の痛みとは別に、頭の奥まで焼けるような負荷が走った。
『だから言ったでしょう!?』
リリィの叫びが飛ぶ。
『神経リンクが安定してない! 脚部応答が死んでる、これじゃ立てない! リンクを切って、早く!』
『クラリス、手を離せ』
ヴィクトルの声は低く、抑えられていた。
怒鳴ってはいない。
それが逆に、逃げ道のない現実みたいに響いた。
『今ならまだ間に合う。切れ』
間に合う。
何に。
退くことにか。
諦めることにか。
ユリウスを置いて、自分だけ無事でいることにか。
主モニターの一角、半開きのハッチ越しに格納庫の床が映る。
赤い警報灯の明滅の合間に、ユリウスの姿が見えた。
左脚を庇っている。
それでも立っていた。
それでもまだ、自分と敵のあいだに身体を置こうとしていた。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
怖い。
怖くてたまらない。
神経リンクは気持ち悪い。身体の輪郭が崩れそうで、今すぐシートから転げ落ちたい。肩は痛いし、手も震えている。自分がこんなものを動かせるわけがない。できるはずがない。壊す。失敗する。死ぬ。
それでも。
ここで手を離したら。
ここでリンクを切ったら。
自分はたぶん、一生、あの背中に返せない。
「……嫌」
掠れた声が漏れた。
小さい。けれど、はっきりしていた。
「もう……嫌なの。でもなんでなの。……なんで動かないの」
動かない鉄の塊の中で少女の、声だけが繰り返していた。




