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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
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Episode 4 斃地再起 -To Rise Anew Where I Was Broken- Part 2

 クラリスは、差し出されたその手を強く握った。

 掌の温度は、戦場のただ中にあってなお、奇妙なほど確かだった。


 ユリウスは彼女の体を引き起こし、崩れかけた姿勢を支える。

 肩の傷が熱を持って脈打ったが、クラリスは声を飲み込んだ。ここで痛みに膝を折れば、それはそのまま死に繋がる。そんなことは、もう嫌というほど知っている。


「走れるか」


 短い問いだった。

 だがその声には、命令よりも先に、彼女を置いていくつもりはないという意志が滲んでいた。


 クラリスは一度だけ息を整え、頷く。


「……走る。走ってみせる」


 その瞬間、基地全体を揺らす爆音が再び鳴り響いた。

 天井の照明が白く瞬き、次の瞬間には薄暗い赤色灯だけが廊下を照らし出す。警報音はなおも途切れない。金属の壁の向こうで何かが裂け、どこか遠くで誰かの怒号が反響し、そしてすぐに呑み込まれて消えた。


 ユリウスは壁際に身を寄せ、素早く通信機を叩く。


「こちらユリウス。クラリスと合流した。司令部までの最短経路を出せ」


 ノイズ。

 短い空白。

 それから、切迫したリリィの声が飛び込んできた。


『よかった……! 二人とも、生きてるのね。司令区画の第三通路はもう使えないわ。敵が中に入り込んでる。西側の整備連絡路から回って。そこなら、まだ封鎖されてない』

「“まだ”か」


『時間の問題よ。急いで。……それと、気をつけて。今までのマローダーと動きが違う。明らかに、何かに導かれてる』


 ヴィクトルの低い声が、その奥から重なる。


『二人とも聞け。敵の狙いは単なる殺傷ではない。司令部中枢、管制系統、通信核――そこを潰しに来ている。ここを落とされれば、基地は完全に目を失う』


 ユリウスの目が細くなった。


「敵は、基地の構造を知っている?」

『かもしれない。だからこそ厄介だ』


 そこで通信が一瞬乱れ、鋭い雑音が鼓膜を掠めた。

 次に入ってきたのは、遠くで何かが倒壊するような重い振動だった。


『急げ』

 ヴィクトルはそれだけを告げて回線を切った。


 沈黙は訪れなかった。

 警報と銃声が、その代わりを果たしていた。


「行くぞ」


 ユリウスが先に立つ。

 クラリスは一歩遅れて、その背を追った。


 廊下は既に“基地”ではなかった。

 そこにあったのは秩序ではなく、崩壊の途中にある風景だった。赤い非常灯の下、白かった壁は煤と弾痕に汚れ、床には砕けた薬莢とガラス片が散乱している。角を曲がるたび、見慣れたはずの通路が知らない場所に変わっていく。


 走りながら、クラリスは自分の呼吸がまだ浅いことに気づいた。

 怖いのだ。

 敵が、ではない。

 また自分の足が止まることが。

 また恐怖に呑まれ、誰かの背中に守られるだけの自分に戻ることが。


 その考えを振り払うように、彼女は歯を食いしばった。


「ユリウス」

「なんだ」

「さっき……助けてくれて、ありがとう」


 少年は振り返らなかった。

 ただ、前を見たまま答える。


「礼はあとだ。まだ終わってない」

「ええ。……そうね」


 その言葉は冷たく聞こえるはずだった。

 だが今は違った。

 それは希望を語る言葉ではない。けれど、少なくとも現実の中で共に進むための言葉だった。


 次の角を曲がった瞬間、ユリウスが片手を上げた。停止の合図。

 クラリスも即座に足を止め、壁へ身を寄せる。


 前方の通路に、何かがいた。


 赤い灯の下、床に落ちた兵士の影。

 その傍らに、黒く細長い輪郭がぬめるように揺れている。


 だが、それだけではない。


 その背後。

 さらに奥の暗がりに、もう一つ。

 そして、もう一つ。


 静かすぎた。

 あまりにも静かで、それが逆に異様だった。

 彼らは徘徊しているのではない。待っているのだ。誰かを迎え撃つために、そこに配置されている。

 そしてその誰かが今、彼らの目の前に立ち、不意にそれがこちらを向いた。


「……やっぱりだ」


 ユリウスが低く呟く。


「敵は、考えて動いてる」


 クラリスは拳銃を握り直した。

 震えは、まだ消えていない。

 だが、その震えの中にも、さっきまではなかったものがあった。


 退かない、という意志だ。


「どうするの」

「正面から撃てば、こっちが囲まれる。お前は右の遮蔽へ。俺が先に撃つ。ひるんだ一体を、お前が落とせ」

「……できると思う?」


 問いかけた声は、自分でも驚くほど静かだった。


 ユリウスは初めて彼女を見た。

 その目には、慰めも同情もなかった。

 ただ、戦場で隣に立つ者を見る目だけがあった。


「できる。じゃなきゃ、ここで終わる」


 クラリスは、短く息を吸った。


 恐怖は消えない。

 たぶん、この先も消えないのだろう。

 けれど、それでも引き金を引く理由なら、──戦わなければいけない理由は、もう彼女の中にあった。

 そう強く、彼女は──クラリスは強く頷いた。


「……なら、やるわ」


     〇


 ユリウスが曲がり角の手前で足を止めた。

 片手を上げる。制止の合図。


 クラリスも反射的に壁へ背をつける。だが、その動きだけで肩に鋭い痛みが走った。思わず息が詰まる。包帯の下で熱を持った傷口が、脈打つたびにじくじくと自己主張を繰り返していた。


 前方の通路は、赤い非常灯に薄く照らされていた。

 白いはずの床は煤と埃に汚れ、ところどころに薬莢が転がっている。壁には新しい弾痕があり、少し前までここでも誰かが応戦していたことを物語っていた。だが今は静かだった。あまりにも静かすぎた。


 その静寂の奥で、何かが動く。


 ぬるり、と。

 光の届かない暗がりの中で、細長い影が一つ、壁際から身を起こした。続けてもう一つ。関節らしい関節を持たない異様な輪郭が、まるで通路そのものから剥ががれるように現れる。


 マローダー。


 ユリウスは銃を構えたまま、低く囁いた。


「来るぞ」


 その声に、クラリスも拳銃を持ち上げる。

 だが、右腕を上げきった瞬間、肩の奥に焼けつくような痛みが走った。思わず肘が落ちる。歯を食いしばり、無理やり照準を戻そうとするが、視界の端で敵影が揺れた瞬間、指先がこわばった。


 近づいてくる。

 速い。

 迷いがない。


 ユリウスが先に引き金を引いた。


 乾いた発砲音が通路に反響し、先頭の個体の肩口が弾ける。敵は一瞬だけ体勢を崩したが、すぐに軸を立て直した。倒れない。まるで撃たれることすら計算に入っているような動きだった。


「クラリス!」


 名を呼ばれて、彼女ははっとする。

 撃て。

 今なら当たる。

 分かっている。分かっているのに、引き金にかけた指が動かない。


 敵の裂け目めいた顔面が、こちらを見ていた。

 その奥で無数の光点が蠢いている。

 見られている。値踏みされている。

 その感覚が喉の奥を締め上げ、呼吸を浅くした。


「っ……」


 顔が歪む。

 引き金を引こうとして、引けない。

 肩が痛い。怖い。近い。来る。


 ユリウスが二射、三射と撃ち込みながら前へ出る。弾丸で進路を限定し、敵の突進をわずかにずらす。だがそれで止まる相手ではなかった。もう一体が壁を蹴り、天井近くの配管を足場にして一気に飛び込んでくる。


「下がれ!」


 ユリウスの声に、クラリスは後退しようとした。

 だが右肩を庇ったせいで体の捻りが遅れ、足運びが半拍ぶれる。そこへ敵の前腕が閃いた。


 駄目だ、と理解した瞬間には、もうユリウスがいた。


 クラリスを背後へ押しやるように抱き寄せ、その前に自分の身を差し込む。次の瞬間、敵の一撃が彼の脚を容赦なく薙いだ。鈍い衝撃にユリウスの体が揺れる。それでも彼は倒れない。ただ痛みを押し殺したまま、クラリスを守るためだけに、なお前へ立ち続けた。


「……っ!」


 短い息。

 床を擦る音。

 ユリウスの左脚が、明らかに沈んだ。


 それでも彼は倒れない。崩れかけた膝を無理やり支え、至近距離からライフルを撃ち込む。閃光が敵の胸部を貫き、マローダーはようやく後方へ弾かれた。


 しかし、痛みは隠しきれなかった。

 ユリウスは一歩下がったところで、ほんのわずかに眉を寄せる。左脚に体重を乗せた瞬間、足元が揺れる。制服の裂け目の奥で、黒い布地がじわりと濃くなっていくのが見えた。


「ユリウス……!」


 クラリスの声は、ほとんど悲鳴だった。

 彼は振り向かない。


「構えろ!」


 怒鳴るような声。

 その一言に、クラリスの肩が跳ねる。


 まだ敵は一体残っている。

 暗がりの奥で低く身を沈め、次の跳躍の機を窺っていた。今度こそ撃たなければならない。分かっている。分かっているのに、視界の中央には自分を庇って脚を傷つけたユリウスの背中があった。


 自分のせいだ。

 私が撃てなかったから。

 私が怖がったから。

 私が、肩を庇って、動けなかったから。


 胸の奥で何かが強く縮む。

 けれどそれでも、指は動かなかった。


 敵が跳んだ。


 ユリウスが片脚を引きずるように前へ出る。明らかに無理な踏み込みだった。それでも彼は射線を通すために身体を開き、ほとんど倒れ込みながら撃つ。発砲音が耳を打ち、敵の動きがわずかにぶれる。そこへさらに銃床を叩き込み、強引に間合いを潰した。


 激しい金属音。

 火花。

 床に転がる影。


 数秒後、通路に残ったのは警報音と、二人の荒い呼吸だけだった。


 クラリスはその場から動けなかった。

 拳銃を握ったまま、ただ立ち尽くす。喉の奥が冷たく、指先だけが熱い。なのに、結局一発も撃てなかったという事実だけが、何よりも重く胸に沈んでいた。


 ユリウスが壁に手をつく。

 左脚を庇うようにして、わずかに息を吐いた。


「……無事か」


 問われて、クラリスは答えられなかった。

 無事なのは自分だけだった。

 その代わりに、彼が傷を負った。


「私……」


 声が震える。

 情けないほど小さい。


「私、また……」


 最後まで言えなかった。

 恐怖に顔を歪めた自分。引き金を引けなかった自分。守られるだけだった自分。すべてを言葉にしてしまえば、そのまま崩れてしまいそうだった。


 ユリウスは短く息を整え、脚の具合を確かめるように一度だけ膝を動かした。痛みで表情がわずかに強張る。だが、それでも声はいつも通り平坦だった。


「話は後だ。まだ終わってない」


 その言葉が、かえってクラリスの胸を締めつける。


 終わっていない。

 なのに自分は、まだ何一つ返せていない。


 前方の防爆扉の向こうから、鈍い衝撃音が響いた。

 敵はまだいる。

 司令区画もまだ持ちこたえているか分からない。


 ユリウスは銃を拾い直し、足を引きずりながら再び前を向く。


「行くぞ」


 クラリスは彼の背中を見つめた。

 その左脚は、先ほどより明らかに動きが鈍い。歩けてはいる。だが、無傷ではない。自分を庇った代償が、はっきりとそこに刻まれていた。


 唇を噛む。

 血の味がした気がした。


 それでも彼女は頷き、震える指で拳銃を握り直す。

 恐怖は消えない。肩の痛みも消えない。

 けれど今度こそ、自分が立たなければならないのだと、その傷ついた背中が何より雄弁に告げていた。


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