Episode 4 斃地再起 -To Rise Anew Where I Was Broken- Part 1
警報の音は、なおも鳴り止まなかった。
鋼鉄の壁を打ちつける振動。
爆ぜる弾丸の呻き。
裂けるような、絶叫にも似た悲鳴。
空気は焦げつき、金属の味を孕んでいた。
基地という鉄の器そのものが、今まさに軋み、呻き、崩れ落ちようとしている。
──目覚めるより早く、身体は動いていた。
クラリスは、ベッドを蹴り飛ばして跳ね起きる。
無意識のうちに、壁際の装備へと手を伸ばしていた。
制服の上から、防弾ベストを乱暴に羽織る。
その指先は、明確に、震えていた。
呼吸は、浅い。
肺が焼けるように痛み、喉は乾ききっている。
吸い込んだ空気には、硝煙と焦げた油の匂いが混じっていた。
耳の奥では、心拍が無遠慮に脈打っていた。
脳を揺らし、思考を押し流し、ただ「動け」とだけ命じている。
理性などなかった。
分析も、判断も、消え去っていた。
あるのは──ただ、生存本能だけ。
──動け。
──動かねば、死ぬ。
それだけが、今この肉体を支えていた。
「ユリウスは──?」
掠れる声で名を呼び、通信機を手繰ったその刹那──
扉の向こう、廊下を震わせる怒号が叩きつけられた。
『敵が突破した! 緊急防衛ラインを維持せよ! 負けるな──まだ押し返せる!』
言葉は、怒りと絶望とをないまぜにして、空気そのものを切り裂いた。
声は、怒りと絶望をないまぜにして空気そのものを叩き壊した。
──世界は、既に燃え始めていた。
怒号と銃撃音が重なり、廊下の鋼壁が軋む。
何かが叩きつけられた音──それに続く、短い悲鳴と、途絶。
クラリスは、息を呑んだ。
(──来ている!)
喉が焼けるように乾き、胸の奥で脈打つ心音が耳をつんざく。
脳裏に蘇るのは、あの日の光景──。
初陣。
命令の名のもとに送り込まれた地獄。
上官が裂かれ、泥と血に沈んだ、あの忌まわしい記憶。
脚が、動かない。
震えが、止まらない。
世界が、氷の底へと沈んでゆく。
ただ、凍りつく。
ただ、喉を押し潰される。
ただ、恐怖に、呑まれていく。
「……ッ!」
拳を、強く握り締める。
自己を、現実へと引き戻すために。
そのとき、通信機が鳴った。
『クラリス、聞こえるか?』
少年の声。
冷静なはずの声帯に、抑えきれぬ焦りが滲んでいた。
「ユリウス……?」
掠れた声で名を呼ぶ。
『俺はまだ無事だ。──だが、敵が速い。想像以上に、速く、そして的確に動いている』
「本部の状況は……?」
問う声は震え、応える声もまた、重たかった。
『最悪だ。防衛部隊が応戦しているが──突破されるのは、時間の問題だ』
──直後。
壁の向こう、爆ぜる爆音。
天井の照明が一瞬、明滅し、世界が痙攣する。
鋼鉄の骨組みすら悲鳴を上げ、基地全体が呻いた。
空気は焦げつき、喉を焼く煙の気配が這い寄ってくる。
クラリスは震える手を押さえ、息を整えた。
「私も行く」
クラリスは震える声で、だが確かな意志を込めて告げた。
『待て、クラリス。お前は──』
「私は、逃げない!」
噛み締めた言葉とともに、ドアノブを強く握る。
その冷たさが、覚悟を刃へと研ぎ澄ませた。
──そして、ドアを開いた。
目に飛び込んできたのは、血に濡れた廊下。
倒れ伏した味方兵士の、既に動かぬ身体。
死。
絶えた声。
失われた未来。
クラリスは、ほんの一瞬だけ呼吸を止めた。
顔を逸らし、目を閉じ──そして、足を踏み出す。
(──ユリウスが、あのユリウスが焦っている)
胸の奥で、何かが重く鳴った。
世界が、音を失い、ただ緊迫だけを孕んで進み始める。
「……!」
瞬間、クラリスの背筋が凍りついた。
──来る。
滑るような無音の接近。
壁を這う四肢は、異様なほどに細長い。
その形は、人型──に似て、しかし、決して人ではない。
(──こいつ……!)
反射よりも早く、クラリスは壁際へと飛び込み、拳銃を引き抜いた。
銃身を、影に向けて突き出す。
息を殺し、トリガーに指をかける──。
──だが。
『──クラリス、聞こえるか!?』
通信機が叫んだ。
刹那。
わずかに乱れた集中。
その隙を、敵は見逃さなかった。
唐突に飛び込む通信。
その一瞬の隙を突いて、敵が跳ねた。
「ッ!」
クラリスは咄嗟に引き金を絞った。
銃声。
鋼鉄を叩く乾いた音。
弾丸は、敵の胴を正確に穿つ。
──だが。
止まらない。
敵は、天井を蹴る。
蜘蛛のように壁を這い、張り付き、そして──クラリスを見下ろした。
「化け物め……!」
吐き捨てるように言葉を零し、再び引き金を絞る。
銃声が廊下に響き渡る。
──しかし。
敵の腕が、異様な速さで伸びた。
「──ッ!」
視界が揺れる。
肩に衝撃。
防弾ベストが裂け、肉を抉られる感触。
後退る。
壁に叩きつけられる。
冷たい鋼が背中を打ち、肺から空気が押し出された。
(──終わる)
そんな予感が、脳裏をかすめる。
世界が、色を失いかけたその瞬間──
銃声。
鋭く、冷たい、連射音。
──敵の動きが、止まる。
振り返る。
クラリスの視界に、少年の姿があった。
ユリウス・ハルトマン。
彼は、ライフルを構えて立っていた。
『動くな、クラリス!』
通信越しに叩きつけられる、少年の叫び。
撃鉄が鋭く起きる音。
それは、死を告げる機構の胎動だった。
そして──
引き絞られる引き金。
小さな、しかし確実な破滅への動作。
次の瞬間、
火を噴いた銃口が、廊下を白く、鋭く照らし出す。
吐き出された弾丸は、一直線に、敵の頭部を貫いた。
──弾ける。
骨が砕ける乾いた音。
皮膚が裂ける湿った響き。
黒い体液が圧搾されるように飛び散り、無機質な白壁に汚らしい飛沫を刻みつけた。
敵は、音もなく崩れた。
断末魔もなく。
抵抗もなく。
ただ、重力に従うだけの塊と化して。
床に倒れ伏したその躰は、既に「生き物」ではなかった。
動かない。
呻かない。
ただ、静かに、虚無へと沈んでいく。
──命と呼ぶには、あまりにも脆く。
──存在と呼ぶには、あまりにも儚い。
そこにあるのは、名もなき骸だけだった。
それは、あまりにも唐突な終焉だった。
銃声。破裂。
黒い液体が壁を汚し、異形の骸が崩れ落ちる。
命と呼ぶには、あまりにも脆い。
存在と呼ぶには、あまりにも儚い。
──ただ、砕けた。
──ただ、終わった。
クラリスは、胸を押さえた。
張り裂けそうな鼓動を、必死に封じ込めるように。
喉を焼く、硝煙と血の匂いを孕んだ空気。
震える指先。
鈍く痛む肩。
世界はまだ軋みながら回っている。
それでも──
まだ、生きている。
そう思った瞬間、ようやく息ができた。
「……ユリウス」
掠れた声。
それだけが、自分の生存を確認するための言葉だった。
『立てるか?』
短く、しかし確かに届く通信の声。
少年の声音に、微かな焦りと、それ以上に、安堵が滲んでいた。
足音。
金属の床を蹴る、確かな重み。
ユリウスが駆け寄ってくる。
制服は血と汚れにまみれ、あらゆるものを削られた姿で。
だが、彼は生きていた。
伸ばされた手。
傷だらけの掌。
冷たく、しかし確かな温度を持つ掌。
クラリスは、震える手で──それでも、ためらわず、その手を取った。
指先が触れた瞬間、僅かに力が宿る。
壊れかけた自己が、わずかに繋ぎとめられる。
──戦いは、まだ終わらない。
ここは戦場。
死と隣り合わせの領域。
生命の軽さと、命令の重さが秤にかけられる場所。
その現実に、心は痛む。
だが、立ち止まれば──そこで終わるだけだ。
だから。
また一歩、踏み出さねばならない。
たとえ、その一歩が、どれほど血で汚れていようとも。
たとえ、その先に、ただ絶望しか待っていなかったとしても。
──それでも、歩みを止めることだけは、許されないのだ。




