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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
43/54

Episode 3 先泣後火 -Preceding Sorrow, Following Flame- Part 4

 夜空に滲んでいたのは、黒ではなかった。

 それは──燃え残った夢の残骸。

 あるいは、死に損なった星々の残光。


 空は静かに裂けていた。

 砲火が刻む閃光の軌跡が、まるで夜そのものを焼き切るかのように瞬き、

 風景はその都度、裏返される。影と光が反転し、現実が剥がれ落ちる。


 クラリス・フォーゲルは、身じろぎもせずその光を仰いだ。

 胸の奥で、何かが微かに軋んでいた。

 耳に届くのは、雷にも似た低い轟き。

 肌を撫でる空気が、異様に冷たく、それでいて、火の気配を孕んでいた。


 大地が震える前に、空気が先に震えていた。

 それが、どこか懐かしいとさえ感じる自分に、彼女は薄く目を細める。


 ──嗅いだことのある匂いだった。

 硝煙、金属、焦げた油。それらが風に乗って鼻腔を掠める。

 記憶の底で封じたはずの音が、色が、温度が、肌の裏側で目を覚まそうとしていた。


(また……始まるんだ)


 その実感だけが、鼓動よりも確かに、胸の内で鳴っていた。


(忘れたはずだった)


 何度もそう言い聞かせた。

 過去は過ぎたこと、終わったこと──そうでなければ、きっと、もう立っていられなかったから。


 けれど、記憶というやつは律儀だった。

 火薬の臭いに、砲声の振動に、空気の密度に、

 一度沈めたはずの“それ”は、簡単に浮かび上がってくる。


(怖くなんて、ない……はずなのに)


 自分の指先が、わずかに震えている。

 寒さのせいではない。

 そこに刻まれていたのは、「知っている」ということ。

 ──このあと、何が起こるのか。

 ──どれだけ多くが失われるのか。

 ──誰の叫びが、どこで止まるのか。


(それでも……目を逸らすわけにはいかない)


 あの時、見てしまった。

 何もできなかった、あの瞬間。

 崩れた機体、潰れた声、名前を呼ばれて応えられなかった自分。


 忘れたいと願ったくせに、心の奥ではそれを、忘れたくないと願っていた。


(だから私は……見届ける)


 それが罪だとしても。

 それが何も救わないとしても。

 私の“今”は、その上にしか立てないから。


 クラリスは、砲火の空に向かって、まぶたを開いた。


「……来る」


 それは警告でも、予言でもなかった。

 名指しする相手すらいない。

 ただ、夜に沈む戦場の深呼吸に、彼女の胸が微かに応えただけだった。


 戦線各地で散発的な交戦が続く中、ノイエ・アーク軍の戦術中枢では、次段階──《ストームランス》の発動が刻一刻と近づいていた。


 先の砲撃によって、敵の迎撃システムは一時的に沈黙している。

 ただし、それが永続する保証はない。

 ほんの数十秒──それが、突破のすべてを決める。


「敵防空システム、再起動まで……三十秒」


 その一言は、数字でしかない。

 けれど、それだけで空気の密度が変わった。

 レオポルド・シュトラッサーの声が戦術ネットを貫いた瞬間、指揮室の温度が一度、下がったように感じられた。


 誰も言葉を発しない。

 必要な情報はすでに共有されている。あとは命令と、手順と、引鉄の圧だけ。


 各端末の光が一斉に明滅を始める。

 作戦ログが高速で更新され、部隊識別信号が網膜の奥を焼く。


 時は、“押し出された”。

 意志ではない。感情でもない。

 ただ、予定された演算の一端として──秒刻みの、無感情な駆動音のように。

 その一秒が、幾百の生死と直結する。

 だからこそ、誰も言葉を持たなかった。

 ただ、その“気配”だけが、作戦中枢を支配していた。


 そして、応答が返ってくる。


 《レイヴンズ・コール》──降下準備、完了。


 その報告は、砲声にも似た重みで通信網に響いた。

 音声情報に含まれる僅かな揺らぎさえ、極限まで削ぎ落とされている。

 それは意気込みではなく、覚悟の形式だった。


 高高度、成層圏を掠める速度で進行する輸送機内部。

 機体の壁を伝って低振動が鳴るたびに、誰もが自らの骨に確認する。

 “次”が、もう始まっていることを。


 燃料残量、外気温、迎撃軌道、GPS連動制御──すべての数値が許容域に収束していく。

 作戦開始信号の灯火が、まるで戦場に対する黙示のように、点灯する。


 コンラート・ヴェルナーが、通信越しに応じた。

 その声は、よく研がれた刃のように冴えていた。無駄がなく、澱みもない。


 成層圏下──高高度を飛行する輸送機内。

 減圧された薄闇の空間に、三機のオルドが沈黙のまま佇んでいた。

 機体下部のリフレクターが赤熱し、発射待機中のカタパルトには熱波が渦を巻いている。


 オルドのフレームがわずかに軋むたび、機内の空気が、緊張という名の圧でさらに重くなる。


「この高度からの降下は、一つの判断ミスで命が消える。言うまでもないが──ミスは、許されない」


 コンラートの声は、低く、研がれていた。

 硬質でありながら、どこにも力みはない。

 恐怖を押し殺す必要も、強さを誇示する意図も──そこには存在しなかった。


 ただ、静かだった。

 海面のように。風一つない夜の凪のように。

 だが、その沈黙の奥底には、確かにひとつの気配があった。


 ──“死”と共に在る者だけが持つ、沈んだ熱。


 それは感情ではなかった。

 痛みでも、怒りでも、希望でもない。

 ただ、幾度も境界を越えてきた者だけが纏う、濁りのない沈黙の重さ。

 戦場において、声よりも強く響く“匂い”。


 それを感じ取った者だけが、彼に従う。

 そして、彼の命令は、死地への合図に等しかった。


「……わかってる」


 返ってきた声には迷いがなかった。

 誰が応えたかは重要ではない。


 一方その頃。

 クラリス・フォーゲルは、後方支援部隊の一員として、遠くの空を仰いでいた。

 前線からわずかに距離を取った場所──だが、そこもまた戦場の輪郭線上にあった。


 その視線には、微かな焦燥が滲んでいた。

 戦いの只中にいないという安堵と、傍観者であるという痛み。

 満たされることのない“罪の意識”が、自嘲という名の薄笑いに変わって彼女の眼差しに宿っていた。


 そのとき──空が、裂けた。


 轟音もなく、沈黙のまま。

 夜空に刻まれたのは、一条の光。

 それは雷のようでいて、雷ではない。

 彗星のようでいて、祈りのかたちをしていなかった。


 まるで、神話が拒絶した兵器。

 人間が“人間として生まれたもの”に撃ち込む、否定の槍。

 天を裂き、落ちてくるもの。


 クラリスは息を呑んだ。

 空気が胸に入ってこない。音が遅れて、鼓膜を叩く。


「……始まった」


 その声は、震えてはいなかった。

 ただ、感情の届かない場所に投げ出されたような声だった。

 始まりを拒むでもなく、受け入れるでもなく。

 ただ、“在る”ことを認めるように。


 《レイヴンズ・コール》、出撃。


 オルドは空を裂いて落ちた。

 その速度は音を置き去りにし、機体の外殻は空気との摩擦で赤く焼かれ始める。

 機体の外装に走る熱が、波紋のように揺れ──その背に引かれる閃光は、彗星にも似ていた。


 視認できた者は、それを「炎の矢」と呼んだ。

 だが、それは矢などではない。

 ──地を穿つために造られた、“堕ちる兵器”だった。


「降下速度、安定。侵入ルート、予定通り」

「敵の迎撃反応、未起動。対空網、依然沈黙」

「降下地点まで十秒──カウント開始」


 数値が零へと近づく。

 そのたびに、戦場の重力が、わずかに軋んだような気がした。


 そして、地上──


 地を這う“敵”が、突如として天を見上げた。

 形状を持たぬ輪郭の中に宿る、無音の殺意。

 だが、それすらも間に合わない。


 オルドは、地を貫いた。


 ──着地。


 衝撃が地表をえぐる。爆風が四方に砂塵を吹き飛ばし、周囲の可視範囲が一瞬、霧に覆われる。

 だが、迷いはなかった。

 オルドの四肢が展開され、着地と同時に戦闘形態へと移行。油圧音も排熱も、そのすべてが動作の一部にすぎない。


 戦術センサーが展開され、赤外・電磁・音波反応を同時に解析。

 0.4秒のラグで、戦術AIが敵性熱源をマーキングする。


 ──敵、接近中。


 戦場の静寂が、刃物のように張り詰める。

 そして次の瞬間、可視領域の端で“何か”が動いた。


「接敵。歩兵反応複数。未分類種も確認……」


 赤外視界に映るのは、人の形をした“何か”ではなかった。

 輪郭は歪み、動きには一切の法則がない。


「……やはり、迎撃準備は整いつつある」


 ヴェルナーの声が、わずかに低くなる。


「撃ち方、用意──」


 その言葉は、祈りにも似ていた。

 あるいは、封を解く呪文のようでもあった。


 命令と同時に、オルドの砲身が音もなく回転を始める。

 標的はすでに捉えられていた。

 光学センサーが敵影を補足し、照準補正アルゴリズムが静かに完結する。


 そして──


 世界が、一度、息を止めた。


 次の瞬間、沈黙が崩れた。


 砲声。

 それは“音”ではなく、“圧”だった。

 地を揺らし、空を裂き、空気の密度そのものを変質させる、始まりの衝撃。


 夜は焼かれた。

 影は蒸発し、意味を失った地形が光に曝される。

 数秒前まで“ここにあった”はずの戦場が、まるごと別物にすり替わる。


 ──こうして、「戦争」は、始まった。


 機械の意志と、人間の命令と、理解できない“敵”とが、

 同じ地平で呼吸を始める。

 それは物語ではない。歴史でもない。


 ただの、“現実”だった。

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