Episode 1 血煙洗礼 -Baptism of Welcome- Part 2
軍の輸送機は、低く唸るような轟音を機体全体に響かせながら、大地へと降下していく。
機内は無言だった。
誰もが言葉を持たず、ただ椅子に縛りつけられるように座り、鉄の箱が向かう先を黙って受け入れている。
窓の外。
景色は、都市のきらめきから徐々に色を失っていた。
整然とした街路も、清潔な建造物も、青く輝く空さえも、もはや視界にはない。
代わりに見えてくるのは、どこまでも続く荒野。
乾いた砂と岩。風に削られた地形。そこに、人間の営みの痕跡はなかった。
ユリウスは黙ってシートベルトを締めた。隣にはクラリスが座り、同じく緊張を纏った表情で、無言のまま前方を見つめている。
シートの軋み、エンジンの脈動。どれもが、異様なほど鮮明に響いていた。
『着陸完了。降下準備をせよ』
無機質な合成音声が、機内に流れる。
直後、ハッチが開いた。熱風が一斉に吹き込んでくる。乾ききった空気が肌を撫で、焦げた土と機械油の混じった匂いが肺に染みる。
眼前に広がるのは、無数の影も寄せつけない荒涼たる地。
どこまでも続く褐色の大地。灼けついた空気。風すら怯えるように低く這い、音を失っていた。
遠くに、小さな人工の塊──前進基地が見える。
小隊単位での移動が始まる。ユリウスたちもまた、その一隊に組み込まれ、行進を開始する。
太陽は高く、風は乾いている。
行軍は滑らかで、統制も取れていた。新兵たちはそれぞれに緊張を抱えながらも、整然と歩を進めていた。
敵の気配は──ない。
それが、返って不自然だった。
「……思ったより、静かね」
クラリスが、歩調を崩さぬまま呟く。
問いというよりは、独り言に近い響きだった。
ユリウスは視線を動かさず、短く返す。
「そうか?」
「ええ。敵の気配が、まるでない。もっとこう……緊張感があるものだと思ってたのに、これじゃまるで訓練の延長戦よ」
ユリウスは周囲を一瞥する。
確かに、風景は異常なほど平穏だった。
誰もが歩いている。整然と。何かを疑うこともなく、ただ前を向いて。
彼の中にもわずかに、同じ違和感が生まれかけていた。
そのとき、クラリスが立ち止まりかけるほどの動きで、首を巡らせる。
「……ユリウス。ねえ、聞こえない?」
「何がだ」
「味方の航空機の音が、まったくしないの」
風が、低く、這うように地を撫でていく。
乾いた砂粒がわずかに舞い上がり、それすらもすぐに風に攫われて、静かに地表へと還っていった。
見渡すかぎりの荒野。
そこには、風のざわめき以外、何ひとつ──耳に届くべき音という音が存在しなかった。
本来なら、空には哨戒機の巡回音が、低く脈打つように響いているはずだった。
あるいは、遠くを飛ぶ輸送機の爆音が、空気をわずかに震わせ、兵士たちに“守られている”という錯覚を与えてくれる。
けれど、今は──何もない。
耳を澄ませば澄ますほど、無音が深まっていくような気がした。
音のない空は、不自然だった。
不気味だった。
いや──それ以上に、どこか“死”を思わせるほどに、静かだった。
雲ひとつない乾ききった青空は、どこまでも広がっているのに、息苦しいほどの圧迫感を孕んでいる。
空に機影が一つも存在しない。ただそれだけで、ここまで心細さが募るとは思ってもいなかった。
ユリウスは、自分の喉の奥がひどく乾いていることに、ようやく気づく。
荒野は続く。
焼けた砂と、砕けた岩。波打つように低くうねる地形には、隠れられる場所などひとつもない。
逃げ場のない地形と、何もない空。
その組み合わせが作り出す“静けさ”は、単なる沈黙ではなかった。
それは、世界が一瞬だけ息を止めているような、何かを待っているような──そういう質のものだった。
そして、彼にはわかっていた。
この静寂は、安らぎではない。
この沈黙は、偶然ではない。
空を飛ぶ航空機がいないという事実は、制空権が既に敵の手に落ちている可能性を示している。
つまり──ここは既に、“守られている場所”ではないということだ。
この静けさの先には、必ず何かがある。
風ではない何かが、この空気を切り裂いてやって来る気配がする。
ユリウスは息を呑む。
もう一度、空を見上げる。
そこには、何もなかった。何ひとつ、存在しなかった。
──だからこそ、怖ろしかった。
「つまり……制空権がない可能性があるってことか?」
クラリスは小さく頷いた。
「もしそうなら、私たちはただの標的よ」
その言葉に、ユリウスの背筋がわずかに冷たくなった。
「貴様ら、私語は慎め!」
突然、鋭い声が響いたかと思うと、ユリウスの視界が揺れた。頬に鋭い衝撃が走り、バランスを崩しかける。反射的に殴られた箇所を押さえながら、視線を上げると、そこには険しい表情の上官が立っていた。
「戦場に向かう兵士が、訓練の延長気分でおしゃべりとはな……呑気なものだな?」
上官の冷たい視線が、ユリウスとクラリスを交互に見据える。
「敵はどこにいるか分からん。この状況で私語を続けることが、どれだけ愚かか理解できないのか?」
クラリスが口を開きかけた。
「でも……」
その瞬間、乾いた音が響いた。クラリスの頬が弾かれ、彼女の体がわずかに揺れる。驚愕に目を見開くクラリスを、上官は冷ややかに睨みつけた。
「貴様、命令に異議を唱えるつもりか?」
クラリスは拳を握りしめたが、何も言わなかった。ユリウスが黙って見ている中、上官は鼻を鳴らして続ける。
「次に無駄口を叩けば、ただでは済まさん。いいな?」
ユリウスは無言で頷いた。クラリスも、不満げな表情を浮かべながらも反論はしなかった。
その後、上官は全体に向けて厳しい口調で続けた。
「貴様らはノイエ・アークの兵士だ。国家の守護者としての自覚を持て。我々は祖国のために戦うのであって、余計な思考は必要ない。貴様らが考えるべきは、命令に従い、勝利を収めることのみだ」
沈黙が支配する中、ユリウスはこの言葉が単なる叱責ではないと感じた。ノイエ・アークの軍は、思想と情報を統制している。兵士に余計な疑問を持たせず、国家のために戦うことだけを刷り込む──それがこの軍の方針なのだ。
クラリスは頬を押さえながら、何かを言いたげに上官の背中を睨みつけていた。しかし、彼女もまたそれ以上の言葉を飲み込む。
隊列は再び静寂に包まれ、前進を続ける。だが、先ほどまでの何気ない会話とは違い、今はどこか張り詰めた緊張が漂っていた。
そして、そのときだった。
前方の地面が爆発し、土煙が上がる。耳をつんざく轟音とともに、周囲の兵士たちが悲鳴を上げて倒れた。
「伏せろ!」
誰かが叫ぶよりも早く、ユリウスは反射的に地面に身を投げた。次の瞬間、巨大な影が土煙の向こうから現れる。
それは人型──だが、人間ではない。
「敵のロボット兵だ!迎撃準備!」
上官の怒声が響く。ユリウスは息を呑んだ。金属の装甲に覆われた巨大な機体。真紅の単眼が光を放ち、機械的な動作で銃口をこちらへ向ける。
初めて目の当たりにする、本物の戦場。
轟音が響き渡り、次々と弾丸が飛び交う。ユリウスは砂塵の中で必死に身を伏せ、クラリスの姿を探した。彼女はわずかに先の地面に倒れ込み、衝撃で息を詰まらせているようだった。
「クラリス!」
叫ぶ声がかき消される。兵士たちは混乱しながらも銃を構え、必死に応戦していたが、敵のロボット兵は着実に距離を詰めてくる。
──逃げ場は、ない。
ユリウスは、手袋越しにライフルのグリップを握り込んだ。
金属の冷たさが、皮膚を通さずに、骨の奥まで染み込んでくるような気がした。
その感触は、武器の質感である以上に、これから始まる現実の冷たさを彼に知らせていた。
銃床を肩に押し当てると、わずかに、しかし確かに重さが沈み込んでくる。
それはただの物理的な質量ではなく、これを握る者にのしかかる責任と、命を選び取る行為の重さそのものだった。
グリップはざらついていて、手の中に収めた瞬間に、細かい凹凸が掌の皮膚を押し返してくる。
汗ばんだ手が、わずかに滑る。その滑りが、逆に不安を掻き立てる。
だから、彼は本能的に握る力を強めた。
トリガーにかけた指がわずかに震える。
ほんのわずかな力で、引けてしまう。
ほんのわずかな力で、誰かが死ぬ。
その事実が、ユリウスを圧迫していた。
機関部の金属が頬に触れる。冷たい。
まるで体温を拒絶するような無機の感触が、逆に彼の中にある“生”を浮き彫りにする。
ほんの一瞬、銃身に反射する自分の顔が揺らいで見えた。
そこに映っていたのは──兵士か、あるいは、まだ戦う前のただの少年か。
銃口は、前を向いている。
敵がいる。撃たなければ、撃たれる。
その単純で、救いのない理屈が、何度も頭の中でこだまする。
肩に感じる微かな圧。
指先にまとわりつく汗と緊張。
肺の奥で波打つ、呼吸という名の焦燥。
それらすべてが、彼に告げていた。
──これは、おもちゃではない。
──これは、人を殺すために作られた道具だ。
そして今、自分はその道具を握っている。
握ってしまったという、それだけのことが、彼を「兵士」としてこの戦場に立たせていた。
唾を飲み込む。
喉が、ごくりと音を立てた気がする。
ライフルは、何も言わない。ただ静かにそこにある。
引き金にかけた指を、試すように。
覚悟を、問うように。
──戦え。
──戦え。
──戦え。
心のどこか、奥底の暗い場所で、何かが静かに、けれど確かに、囁いていた。