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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅱ 赫焔
38/53

Episode 2 閃影逆流 -Flash of Shadow, Flowing Back- Part 4

 静寂を引き裂く音は、どこにもなかった。

 ただ、乾いたページを捲る音だけが、密閉された医務室の冷たい空気に溶けていく。

 それは風のない密室に落ちる小石のように、静かに、しかし確かにこの場の中心に沈殿していた。


 ──音のない場所で響く音。

 生命の鼓動よりも静かで、それでもなお、確かに“生”を刻む気配だけがそこにあった。


 軍医、エーリッヒ・ヴァイス。

 彼の白衣はまるで折り目のついた紙のように整えられており、無駄のないその姿は、人間というより“計器”のようだった。

 眼鏡のブリッジに指を添え、ほんのわずかに押し上げる動作さえ、まるでプログラムされた手順の一部のように正確で、無駄がなかった。


 彼の視線は冷たい石のようだった。

 カルテに並ぶ文字を追うその目には、感情の揺らぎも熱もなく、そこに記されているのが人の傷ではなく、ただの機械の異常データであるかのように、無関心だった。

 それは命を診ているというより、不具合を検査する監査官のような視線──冷静ではなく、冷淡でもなく、ただ“無”だった。


「……睡眠障害、過呼吸、悪夢の再発。ふむ──典型的だな」


 その声音は、冷えた鋼の切っ先のようだった。

 滑らかで、鋭利で、どこにも温度がなかった。


 その隣に立つ軍医の姿は、言葉の重みに呑まれかけていた。

 カーラ・ヘルマン。

 まだ若く、戦場医療にも不慣れな手で端末を操作していたが、その指は呼吸と同じように浅く、震えていた。


「……これは、PTSDですよね。戦闘のフラッシュバックが原因で、身体にも反応が出ています」


 声は控えめだった。確信よりも、不安のほうが多く滲む声だった。


「そうだな、カーラ。だがな、それが“異常”だと言えるのか?」


 ヴァイスの言葉は、乾いた大地に落ちる雨粒のようだった。静かで、感情が希薄で、それでいて決して無意味ではなかった。


「戦場に出た兵士の──半数以上が、心を砕かれている」


 言葉は硬質だった。

 切り出された鉱石のように、冷たく、純度が高すぎた。


「だが誰もそれを語らない。語る暇も、癒やす時間もない。必要とされるのは、ただ一つ──“正常に戦える狂気”だ」


 その一語が、医務室の空気を静かに裂いた。

 空調の微細な唸りさえ、直後には聞こえなかった。


 カーラの手が止まる。

 入力中だった指が、宙で凍りついたまま動かなかった。


 彼女の目の奥に、静かに沈む波紋が広がっていた。

 それは疑念であり、悲しみであり、それ以上に……諦念に近い感情だった。

 だが、まだそれに名をつけることはできなかった。


「それで……正しいんでしょうか」


 震えを隠すような声で、彼女は問う。

 ヴァイスは一拍の沈黙を置いたあと、肩をひとつ、わずかに竦めて言った。


「正しさ?」


 その声には、遠い過去を回顧するような静けさがあった。


「……そんなものは、とっくに死んでいる」


 その言葉は、感情の墓標のようだった。

 誰かが一度は信じた理想。その残骸の上に、今の世界は築かれている。


 ヴァイスは静かにペンを取り上げた。

 インクが紙に触れる。ペン先が走る音が、妙に鮮やかに響いた。

 まるで静止した世界の中で、心臓の鼓動だけが生きているかのようだった。


「さて、患者に会いに行こう」


     〇


 人工照明が天井から冷ややかに降り注いでいた。

 白い光は無菌的で無感動だった。清潔すぎるがゆえに、そこに「人の気配」というものを拒絶するような無表情をまとっている。

 その明かりの下、壁際の機器が静かに心拍の律動を刻む。単調な、しかし確かに“生”を示す信号音。

 ──まるで、その音だけが、時間の流れを忘れていないかのようだった。


 クラリス・フォーゲルは、その白に包まれたベッドに身を沈めていた。

 毛布の下で胸が微かに上下している。彼女は天井をじっと見つめていたが、そこに何かを見ていたわけではなかった。

 視線は遥か過去へと、記憶の闇に沈んでいた。目を閉じずに夢を見ているような、静かな浮遊。


 その傍らに、ユリウスがいた。

 彼はぎこちなく椅子の端に腰掛け、体の重さを預けきれずに、宙に浮いたままのような姿勢を保っていた。

 肩は不自然に張りつめ、言葉を探すように何度も口が開き──そして閉じる。

 そのたびに、無音の時間が流れた。


 彼の視線は宙を泳ぎ、定まらない。

 手の甲を撫でる仕草を繰り返し、指先で無意識に爪の縁をなぞる。

 言葉よりも先に、落ち着かない動きが、彼の胸中の揺れを物語っていた。


 ──息を呑んで、言葉を吐けずにいる。それでも、隣に座り続けている。


「……また、か」


 掠れた声だった。

 それでもクラリスは、ほとんど見えないほどの微かな頷きを返した。

 まるで、風に震える影のように。


 ──その時。

 静寂にすら溶け込むように、扉が開いた。


「クラリス・フォーゲル軍曹。軍医のエーリッヒ・ヴァイスだ」


 抑揚のない声が空気を刺す。乾いた紙を裂くような響きだった。


 遅れて入ってきたカーラ・ヘルマンは、その背後にぴたりと続いた。

 白衣の袖を無意識に握りしめながら、小さく一礼する。


「助手のカーラ・ヘルマンです」


 クラリスはゆっくりと身を起こした。血の気のない頬を、光が照らす。


「……私に、何か?」

「心理的異常の兆候が認められた場合、診察は義務だ。だが安心したまえ。まだ“廃棄”と判断されたわけではない」


 その言葉に込められた冷笑的な軽さは、まるで命を部品のように扱う技術者の視線だった。


「君は、また見たんだな。あの夢を」


 クラリスの唇が動きかけて、止まる。

 喉の奥が凍りついていた。


「言わなくてもわかる。目の前で誰かが死に、自分は動けない。銃声、血の臭い、焼ける肉と硝煙。夢ではなく、記憶が再生される。それが君を縛る」


 その言葉が突き刺さるたび、胸の奥で何かが崩れていく。

 クラリスは小さく、唇を噛みしめた。


「……どうして」

「何百人、何千人と診てきた。珍しいことじゃない」

「でも……これがずっと続いたら……」

「心が壊れれば、兵士は使えない。だから我々が存在する」


 ヴァイスはまたカルテに目を落とし、何かを記録する。

 静寂の中、その音だけが、時間の流れを確かに刻んだ。


「君に必要なのは、時間と導き。そして、君自身の選択だ。乗り越えるか、崩れるか──その分岐は他人には決められない」


 沈黙。

 クラリスは目を伏せ、ゆっくりと頷いた。


「……わかりました」

「三日後、再診察。カーラ、記録は抜かるなよ」

「はい、先生」


 扉が閉まると、医務室には重力のような静けさが戻った。

 ユリウスは小さく身じろぎし、視線を天井に投げたまま小さく呟いた。


「……変なヤツだったな」


 クラリスはほんの少しだけ、口の端を上げた。


「でも、間違ってなかった……」


 言葉はそこまでだった。

 また、静寂が訪れる。


 機械が刻む心音は、まるでこの小さな部屋が世界の中心であるかのように、静かに、確かに、空気を脈打たせていた。

 その律動は、あまりに整っていて──だからこそ、息苦しかった。


 ユリウスが息を呑み込む。

 何かを言おうとする度に言葉は喉の奥で固まり、視線だけが行き場をなくして宙を彷徨った。

 声をかけたいのに、踏み出す一歩が分からない。そんな戸惑いが全身ににじんでいた。


「……その、さ」


 ようやく、出た声は小さく掠れていた。

 その不器用な響きに、クラリスがゆっくりと顔を向けた。


 しかし、彼の視線はすぐに逸れる。

 居心地の悪さをごまかすように頬を掻きながら、目の前の痛みに触れる言葉を、精一杯の覚悟で押し出した。


「……あんまり無理、すんなよ。お前が……辛そうなの、見てるの、俺もキツいから」


 それは、まるでぎこちなく曲がった針金のような言葉だった。

 真っ直ぐに届かないかもしれない、それでも、不器用な心が確かに込められていた。


 クラリスは、ふっと微笑んだ。

 ほんの少しだけ、眉尻が緩んだ。

 わずかに伏せた睫毛の奥で、痛みと安堵が交錯している。


「……ありがとう、ユリウス」


 その声は、囁きにも似ていた。

 感謝と戸惑いと、わずかな勇気が、音の隙間に滲んでいた。

 それはまだ震えていたが、それでも前を向こうとする意思の音だった。


 クラリスは、光なき天井を見上げた。

 その先に何があるわけでもない。


 だが、目を閉じれば──

 きっと、あの光景が再び、闇の底から蘇るだろう。


 だから今は、ただ、目を開いたまま、呼吸を数えるしかなかった。


 ──戦争は、終わらない。


 それは、この世界において唯一確かな真実。

 抗えない現実。逃れ得ぬ構造。


 けれど、それでも。


 その不変の暴力のただ中にあっても──

 この夜だけは、確かに“在った”。


 砕けかけた魂が、

 ほんの一瞬だけ、

 誰かの隣に、寄り添えたという“記憶”。


 それは痛みの上に成り立つ、ささやかな静寂。

 戦場に忘れられた者たちだけが知る、微かな救済だった。

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