Episode 2 閃影逆流 -Flash of Shadow, Flowing Back- Part 3
暗闇の中で、クラリスは息を荒げながら、まるで地面に縫い付けられたかのように立ち尽くしていた。
──銃声。耳を裂くような乾いた破裂音が、脳を直撃する。
──閃光。白熱した光が一瞬で世界を白に染め、次の瞬間には闇が押し返す。
──爆発。腹の底に響く衝撃波が、時間の感覚を奪っていく。
視界は赤黒い煙に包まれていた。
砕けた瓦礫が舞い、風は焼け焦げた鉄と血の臭いを運んでくる。
空気は、呼吸するたびに肺を焼くように熱く、乾いていた。
破壊されたビルの残骸の影から、黒く光を吸い込むような敵の機動兵器が音もなく現れる。
その巨体は、まるで自律しているとは思えないほど無言で、無感情に近づいてくる。
装甲の継ぎ目からのぞく赤いセンサーが、まるで生き物のように瞬き、冷たい殺意を発していた。
クラリスは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
膝に伝わる地面の感触さえ現実味がなく、両腕が自分のものではないような感覚に襲われる。
動けない。怖い。逃げられない。
その瞬間、ただひとつの本能が、彼女の中で叫びを上げていた。
「生きたい」と。
「クラリス、伏せろ!」
怒号が、炸裂音にかき消されそうになりながらも、はっきりと耳に届いた。
クラリスは顔を上げた。目の前に、上官がいた。
背を向けたその背中は大きく、頼もしかった。銃を構えた腕には迷いがなく、まるで恐怖という言葉を知らぬかのように前方を見据えている。
その姿に、ほんの一瞬、安堵に似た感情が胸を過った。
だが、次の瞬間──空気が変わった。
背後から伸びてきた、異形の影。
それはまるで意思を持つ蛇のように、滑らかで冷たく、静かに上官の背後に忍び寄っていた。
瞬きする間もなく、スプロウトの触手が鎖のようにうねり、上官の首筋に巻きついた。
「……ッ!?」
クラリスの喉が凍りつく。声にならない息だけが漏れ、胸の奥が締め付けられるように苦しくなる。
彼女の手は地面に貼りついたまま、ひとつも動かなかった。
上官は抵抗するように身を捩ったが、その体は見る間に硬直していく。
触手が肉に食い込み、神経系に侵入していくような音が、湿った蠢きと共に耳の奥に響いた。
次の瞬間、銃が手から滑り落ち、土埃を巻き上げる音だけが残る。
「や……め……」
その声は、もはや人のものではなかった。
彼の瞳は虚ろに開き、瞳孔は焦点を失っている。
クラリスの目の前で、ひとりの人間が“誰か”から“何か”へと変わっていく。
世界が無音に変わった。爆発音も、銃声も、風の唸りも──すべてが遠ざかる。
ただ、彼の体が震えながら、異様な動きでこちらを振り返る光景だけが、妙に鮮明だった。
「……クラリス……逃げろ……」
だが、その口から発せられた言葉には、温もりがなかった。
死者の口から紡がれる残響のように、それは彼女の胸を深くえぐった。
その手がゆっくりと銃を拾い、無機質にこちらへ向けて構えた。
味方だったはずの存在が、明確な殺意をもって銃口を向けてくる──
現実が、クラリスを嘲笑うように歪んでいく。
クラリスの体は完全に硬直していた。
筋肉は凍りつき、肺は縮まり、心臓はどこか遠くで鳴っているように感じる。
「……動け……動いて……っ!」
心の奥で叫ぶ。けれど、身体は何一つ応じない。
涙が頬を伝う。わずかな震えが、無力さを際立たせた。
そのとき──銃声が、世界を断ち切った。
瞬間、視界が真っ白に焼き尽くされる。
世界が裏返り、音が消え、時間がねじれる。
クラリスは目を見開いたまま、現実から剥がされていくような感覚に包まれた。
撃ったのは誰だったのか。撃たれたのは誰だったのか。
その境界は曖昧で、彼女の認識はぐらついていた。
倒れ込む上官の身体。
だが、その顔は──
気づけば、ユリウスの顔になっていた。
整備班の、優しい青年。
戦場の最前線には立たないはずの彼が、なぜか、
血に染まりながら目の前で倒れていく。
「──ユリウス……?」
呟いた声が、自分の声なのかどうかさえわからなかった。
視界の端で、赤い液体がゆっくりと地に広がっていく。
焼け焦げた空気の中に、鉄のような匂いが濃く立ち込める。
恐怖が、身体を支配する。
再び何もできずに、誰かが自分の前で壊れていく──
その絶望が、彼女の心を深く貫いた。
「やめて……お願い……もう、やめて……!」
叫びたかった。
涙が頬を伝い、喉が引き裂かれるように痛むのに、声は出なかった。
ただ、終わらない悪夢が彼女の意識を黒く塗りつぶしていく。
──ユリウスが死ぬ。
それだけは、絶対に──
世界が、闇に落ちた。
〇
「──ッ!」
クラリスは跳ねるように目を覚ました。
暗い天井が視界に飛び込む。
息が荒い。肺が空気をうまく取り込めず、喉の奥で乾いた音が引っかかる。
額には冷たい汗が滲み、貼りついた髪が皮膚に触れて気持ち悪い。
彼女は反射的にシーツを握りしめた。
その指先が、震えている。
夢ではなく、記憶が蘇っていた。あまりに鮮明な過去の断片が、現実のように脳裏に焼き付いていた。
「……また、同じ夢……」
震える声で呟きながら、クラリスは重い身体をゆっくりと起こした。
軍の宿舎──無機質な壁と簡素な家具。
窓の隙間からは、まだ夜の気配が抜けきらない淡い光が差し込んでいる。
時計を見ると、午前三時をわずかに回ったばかりだった。
心拍数はまだ速く、背筋に冷たい汗が流れる。
呼吸を整えようとするたびに、喉の奥がつかえて苦しい。
ふと、ぼんやりとユリウスの姿が脳裏に浮かぶ。
優しく、気遣いが不器用で、それでも真剣な瞳。
あの顔が──また、目の前で失われるかもしれない。
助けたいのに、動けない。
守りたいのに、怖くて震えてしまう。
「私は……あの時……」
その先の言葉は、喉の奥で砕けて消えた。
代わりに、クラリスは両腕で自分の肩を抱いた。
ひとり、暗闇の中で、静かに震えながら──
夜が明けるのを、ただ待ち続けていた。
〇
医務室の扉が、静かに、だがややぎこちなく開いた。
ドアノブを扱い慣れていない手つきが、それを物語っていた。
その音に、クラリスは薄く目を開けたが、頭を動かす気力は残っていなかった。
「……クラリス」
名を呼ぶ声は小さかった。どこか気まずさを含んだ、遠慮がちな調子。
それでも、聞き間違えるはずがない。あの声だった。
ユリウスが、彼女のベッドの傍に立っていた。
寝癖のついた髪を気にするでもなく、彼は落ち着きのない目をしていた。
視線を定められず、クラリスの顔と床と壁を、交互に見ている。
彼なりに心配して来たことは明白だったが、どう接していいかわからず、挙動がちぐはぐになっていた。
「お前……大丈夫か?」
その問いもまた、不器用そのものだった。
クラリスはかすかに目を動かし、彼の存在を認めた。
返答の代わりに、か細い声で呟く。
「……夢を、見たの……」
「また……あの時の夢?」
「……ええ。何度も、同じ夢……」
ユリウスは、返す言葉を探すように口を開いたが、何も出てこなかった。
代わりに、小さく咳払いをして、ベッド脇の椅子を引き寄せる。
金属脚が床をこする音が、静かな室内にやけに大きく響いた。
彼は一度座りかけたが、背もたれを気にしてもう一度立ち上がり、向きを変えて慎重に腰を下ろした。
その一連の動きに、クラリスがわずかに眉を動かした。
ふっと空気が緩む。ほんの少しだけ。
「……ここにいてもいいか?」
言い方がどこかぶっきらぼうで、表情も読みづらい。
それでも、その問いかけの奥にある優しさは、きちんと伝わった。
クラリスは小さく頷いた。
「……悪かったな」
ユリウスは頭をかきながら、続けた。
「俺には……お前の気持ちは、たぶん、わかんねえ」
視線を合わせず、俯いたまま。
でも、それが彼なりの誠実さだった。飾らない、ありのままの言葉。
「でもさ、お前が一人で苦しむのは違うと思うんだ。なんかあったら、ちゃんと言ってくれよ。……俺、聞くくらいしかできねえけど」
その言葉に、クラリスはしばらく黙ったまま天井を見つめていた。
やがて、搾り出すように言葉を口にする。
「……誰かが、また目の前で死んだら……ユリウスが、もし……」
その言葉は途中で途切れた。
言いたいことは明白だった。
口にすれば、壊れてしまいそうな感情が、そこにはあった。
ユリウスは短く息を吸い、ぐっと顔を上げた。
そして、たどたどしいが確かな口調で返す。
「そんなこと……させねぇよ」
迷いのない、短いひと言だった。
それは彼が精一杯の覚悟で告げた、小さな誓い。
クラリスの手が、シーツの上でわずかに動いた。
何かを求めるように浮かびかけたその指は、結局何も掴まず、そっと沈んでいく。
それでも、彼が傍にいてくれるという事実だけが、確かに彼女を支えていた。




