Episode 1 虚無恬淡 -Tranquility born of nothingness- Part 2
それは現実が、何か“異質なもの”を拒み、絶叫しているかのようだった。
爆炎と銃声が満ちる戦場の空気が、まるで引き裂かれるように揺らぐ。
光がねじれ、砂塵が重力を忘れたかのように浮遊し、遠近感が狂う。
それはまるで、現実そのものが"異物"を拒絶し、軋んでいるかのようだった。
突撃してきた影は、音を押し殺すように動いた。
銃声の間に、奇妙な無音の領域が生まれる。
通常ならば爆発の余韻が残るはずの戦場が、一瞬だけ"無音"に包まれた。
気づいた時には、前線が崩れていた。
戦車が爆ぜる。
金属片が、兵士の肉を引き裂く前に、既に次の悲鳴が上がる。
対戦車ミサイルが発射されるが、炎の閃光が戦場を切り裂くよりも先に、標的が"そこにいない"。
撃つ側の意識が、敵の動きに追いついていない。
スプロウトのような群れでもない。
マローダーのような冷徹な機械仕掛けでもない。
"何か"が戦場に現れ、それまでの戦闘の法則を無視している。
『命中確認!』
前線の通信が飛び交う。しかし、その報告の直後に、別の声が悲鳴に変わった。
「駄目だ! 効いていない!」
ヴィクトルは通信回線を開き、前線の指揮官の名を呼んだ。
「応答しろ! 状況を報告せよ!」
しかし、応答はない。代わりに通信機から流れてきたのは、断末魔の叫びと銃声、そして金属が引き裂かれる不吉な音だった。
「クソッ……!」
リリィは反射的にセンサーの感度を最大まで引き上げ、未知の兵器の動きを追った。
しかし、彼女の目に映る光景は、戦場の常識を根底から覆すものだった。
──巨大な影が、戦車を引き裂く。
金属が悲鳴を上げるように軋み、厚い装甲がまるで脆い紙のように剥がれ飛ぶ。
装甲の内部にいたはずの乗員の叫びは、一切聞こえなかった。
爆炎すらも、その圧倒的な破壊の前には"余韻"でしかなかった。
リリィは即座にデータベースと照合をかけた。
だが、既存のどの分類にも一致しない。
"機械"と呼ぶには、あまりにも有機的だった。
"生物"と呼ぶには、あまりにも機械的だった。
それは、両者の概念の狭間に存在する"何か"。
ヴェスペリオンが設計した兵器のようでありながら、彼らの戦闘理論とは異なる動きを見せる。
カメラ越しでは、なおさらその実態を捉えきれない。
リリィの指先が震えた。
これは、"戦争"ではない。
彼女がこれまで学び、理解してきた戦闘理論が適用できる範疇を超えていた。
"それ"は、兵器ではなかった。
——それは、戦場の"理"を破壊する存在だった。
意識の奥底で、警報音とは違う"何か"が鳴り響く。
この戦場が、これまでの延長線上にあるものではないと、戦士としての本能が叫んでいた。
リリィは呟く。
「これは……何?」
しかし、その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
「何なの、これは……」
リリィの指が震える。
「司令部からの撤退指示は?」
「まだだ」
ヴィクトルは苦々しげに答えた。
ノイエ・アーク軍は未だ戦うつもりなのか?
それとも、事態の深刻さを理解できていないのか?
しかし、状況は待ってはくれない。戦場の崩壊は加速し、前線の部隊は次々に壊滅していく。
戦車が一台、敵の影に捕まる。金属の悲鳴が響き、装甲がねじ曲がり、内部の乗員が絶叫を上げる。炎が噴き出し、爆発が戦場を照らす。
そして、ついに司令部から命令が下った。
『全軍、撤退せよ』
その言葉が響くや否や、残存部隊は蜘蛛の子を散らすように退路を求めた。
だが、戦場は逃亡を許さなかった。
しかし撤退戦こそが、真の地獄だ。
未確認兵器——その異質な存在は、まるで兵士たちの動きを予見していたかのように、すでに退路を塞いでいた。
それは罠のように、あるいは獲物を追い詰める捕食者のように、じわじわと包囲を狭めていく。
砲火が閃く。
反撃の銃弾は虚しく跳ね返り、爆炎の閃光は、ただ影を長く伸ばすだけだった。
ある者は、撃ち抜かれた。
身体を貫通したレーザーが、骨を砕き、血を蒸発させる。
そのまま、何の音も立てずに崩れ落ちる。
ある者は、踏み潰された。
巨大な質量が、装甲ごと肉体を押し潰し、鋼鉄と肉の境界が曖昧になる。
兵士だったものが、ただの赤黒い塊へと変わる。
またある者は、その巨体の影へと消えていった。
叫び声が、一瞬響く。
しかし、次の瞬間には、それすらも掻き消される。
何が起きたのか、誰にもわからない。
ただ、その場にはもう、彼の姿はなかった。
「畜生……!」
ヴィクトルが歯噛みする。
撤退は許されない。
この戦場に、"生き残る"ための道など存在しないのかもしれない。
「リリィ、残存部隊の状況を確認しろ!」
「……戦闘可能な部隊、三割未満……」
それはもう、撤退ではない。敗走だった。
撤退路には、敵の爪痕が残されていた。炎に包まれた車両、折れ曲がった砲身、血に塗れた地面。無数の負傷者が呻き、叫び声が戦場に木霊する。
「これが……戦争……」
リリィは目の前の惨状を直視しながら、奥歯を噛みしめた。
「リリィ、レイヴンズ・コールは撤退する。全隊員に指示を出せ」
「了解」
リリィは震える手を止め、無線を開いた。
「《レイヴンズ・コール》、全隊員へ。直ちに撤退を開始してください。指定地点へ集合し、迅速に離脱を……」
それぞれの部隊は独自の指揮権を持つ士官の判断のもと撤退を開始し、混乱の中で徐々に戦場から脱していった。だが、未確認兵器は容赦なく追撃を続ける。
レイヴンズ・コールの隊員たちは訓練された動きで撤退ルートを確保し、ヴィクトルを中心に戦場から離脱を試みる。リリィは端末を操作しながら、敵の追撃をリアルタイムで観測する。
「敵の動きが速い……このままでは追いつかれる……!」
「バラけろ!」
ヴィクトルの命令が響く。隊員たちは分散しながら、迅速に撤退ルートへ向かう。しかし、未確認兵器の一部が異常な機動力で迫ってくる。
「クソ……」
ヴィクトルは悔しげに拳を握る。助けられない者が増えていく。だが、立ち止まれば自分たちも餌食になる。
「リリィ、敵の隙を探せ!」
「……!」
リリィは歯を食いしばりながらモニターを凝視する。そして、敵の動きの僅かな間隙を見つけた。
「北西に抜けるルートがあります! 敵の集中がまだ薄い!」
「全隊員、北西へ! 急げ!」
レイヴンズ・コールは戦場を駆け抜け、死の包囲網をかいくぐった。
重力すら振り払う推進の加速、機体をかすめる砲弾の衝撃、耳をつんざく炸裂音。
あらゆる危機を押しのけ、ようやく突破口を開く。
しかし——
その瞬間、背後から絶叫が響いた。
振り返れば、炎と煙の中、逃げ遅れた兵士たちがもがいていた。
武器を失い、仲間の屍の上を這いずる者。
追いすがる敵の影に向かって、最後の弾丸を放つ者。
崩れ落ちる防衛陣地の中、砕けた通信機を握りしめ、助けを求める者——
その光景を、リリィは目に焼き付けてしまった。
目を背けたい。
この光景を、記憶から消し去りたい。
しかし——
背けることは許されない。
ここで視線を逸らすことは、戦場の現実を否定することに等しい。
そして、それは彼女が背負うべき責務から逃げることを意味する。
彼らの叫びが、絶望が、耳を塞いでも突き刺さる。
轟音の向こうで、仲間が沈んでいく。
それでも、リリィは前を向かなければならなかった。
——生き残った者にしか、戦場の意味を考えることは許されないのだから。
「行くぞ、リリィ」
ヴィクトルが肩を叩く。
「……はい」
レイヴンズ・コールは撤退に成功した。
だが、それは勝利ではなかった。
背後に残された戦場は、地獄そのものだった。
爆炎が燃え上がり、崩れ落ちる防衛陣地の中で、無数の兵士たちが散っていく。
戦友の名を叫ぶ声、助けを求める悲鳴、断末魔の絶叫——。
それらすべてが、まるで耳の奥に刻まれるように、リリィの意識にこびりついていた。
──これは、敗北ではない。
そう、言い聞かせるしかなかった。
戦術的撤退。
次なる戦いへの布石。戦力の温存。
指揮官が下すべき、合理的な判断の一つ。
だが──本当に、そうなのだろうか。
あの地に遺された無数の断末魔は、
本当に「必要な損失」だったのか。
見捨てられた兵士たちの絶望が、
作戦の帳簿に収まる数値で語れるものなのか。
「戦術的撤退」という言葉では、
胸の奥底に残る痛みは、どうしても消えなかった。
後方へ退いた今なお、
戦場の向こうから響く、途切れぬ悲鳴がある。
その声が告げていたのは──
ただ一つの現実。
あれは、敗北だった。
どれだけ言葉を飾っても、
その意味だけは、覆せない。




