Episode 1 虚無恬淡 -Tranquility born of nothingness- Part 1
──記録なき戦争
ねえ、あなたは「始まり」というものを信じる?
たとえば、夜が明けた瞬間に“今日”が始まるような、そんな明確な線引きを。
……私は、信じていない。
少なくとも、この戦争に関しては。
この戦争が、いつ始まったのか。
誰にもわからない。わたしにも、司令官にも、たぶん誰にも。
ある人は五十年前だと言い、またある人は百年の昔から続いていると言う。
でも、“記録”はどれも違うことを言っているし、“記憶”は改ざんされる。
つまり、これは「物語」ではなく、「構造」なの。
私たちはただ、回転する歯車の中にいる。
時計の針のように、どこかに始まりがあったような顔をして、実はただ回っているだけ。
ノイエ・アークの歴史とは、“改ざんされた正義”の積層。
敵の名は、ヴェスペリオン。
その理由は知らされない。目的も動機も存在しない。
ただ“敵”として処理される。物理的に、そして概念的にも。
「敵は悪であり、我々は正義である」
それは、まるで呪文みたいに教科書に書いてあった。
子どもたちは誰も疑わない。疑問符を持つ権利ごと、与えられていないのだから。
「ヴェスペリオンは人類の敵」
「彼らの侵攻を食い止めなければならない」
その“命題”だけが、この国の根幹。
わたしたちは、それを真実でも……本当のことを言えばね。たぶん、誰もその真実が「本物」であるかなんて、気にしていないの。
重要なのは、問いを持たないこと。
そのほうが、戦争を続けるには都合がいいから。
ノイエ・アークでは、記録は書き換えられ、歴史は整形される。
“過去”は骨組みだけを残し、装飾された真理だけが飾られる。
まるで、空っぽの記念碑のように。
兵士になりたいと願う少年は賞賛され、
兵士を見送る少女は祈りの言葉を捧げる。
その構図だけが、この国の“常識”であり、
問いかけることのない市民の「安心」だった。
──そう、これは始まりではない。
これは、終わりの中で生きる私たちの“通過点”にすぎない。
戦場は、今日もただ、“回っている”。
私はリリィ・フォン・シュライフェン。第十二独立戦闘群の後方オペレーター。十歳という年齢を考えれば異例の役職だが、私は「適性がある」とされ、この席に就かされた。もっとも、実際のところ、戦術指揮の才など皆無に等しい。求められているのは、膨大なデータを解析し、上官の決定を補佐することだけだ。
私は戦場の端に立ち、空を見上げる。
そこには、もはや空と呼べるものはなかった。
黒煙が渦巻き、焼け焦げた大気がゆらめき、砕けた機体の残骸が重力を忘れたかのように漂う。
灰色の雲が低く垂れ込め、戦火の閃光が刹那の裂け目を刻む。
地は裂け、空は悲鳴を上げ、風は戦場の苦悶を撒き散らしていた。
——燃え落ちる大地
爆撃によってえぐり取られた大地は、もはや土ではなく、溶岩のように灼けただれた瓦礫の海と化していた。
吹き荒れる砂嵐が視界を覆い、砕かれた装甲の破片が風に乗って飛び交う。
煙の隙間からのぞく陽光は赤黒く染まり、まるで血の滲んだ天蓋が戦場を覆っているかのようだった。
——狂騒の空
戦闘機のエンジン音が空を引き裂く。
低空を掠める機影が瞬く間に超音速の弾幕をばら撒き、空気を灼くプラズマの奔流が、敵も味方も区別なく呑み込んでいく。
防空砲火が無数の閃光を撒き散らし、夜のように暗く沈んだ戦場に、刹那の昼をもたらす。
——鋼鉄の亡霊
前線では、機動兵器オルドが進撃する。
駆動音が不気味に唸り、巨大な躯体が戦場を切り裂きながら前へと突き進む。
その行く手には、ヴェスペリオンの無機質な戦闘兵器、《マローダー》が群れを成して立ちはだかる。
血の気も、恐れも、痛みすらも知らない、ただ動くためだけに造られた殺戮者たち。
オルドの砲撃が奴らの身体を引き裂き、駆動部を焼き尽くしても、マローダーは止まらない。
機械が、死を知らぬというのなら、それは人間にとっての最悪の敵だ。
——いや、違う。
マローダーは、機械ですらない。
ヴェスペリオンの技術によって生み出されたそれは、ただの無機質な装甲を纏った"何か"。
理性のない兵士、思考なき兵器。
だが、連携し、狡猾に動き、まるで「彼ら自身の意志」があるかのように戦場を支配する。
私たちは、戦っているのだろうか。
それとも、ただ無慈悲な意思の奔流に飲み込まれているだけなのか。
どこまでも続くこの戦場は、果たして"どちら側のもの"なのだろうか。
誰も知らない。
誰も答えを持たない。
ただ、炎と煙だけが、戦争という名の無意味さを、静かに嘲笑っている。
ヴェスペリオンとは何なのか。彼らの目的は何なのか。ノイエ・アークの教育では、「彼らは人類の敵」としか教えられなかった。私たちが滅ぼさねばならない存在であり、和解の余地などない相手だと。しかし、私は知っている。この戦争の裏側を知る者として、私はすでに多くの秘密に触れてしまった。
たとえば、かつて戦場で戦死した者たちが、別の姿となって戦場に戻ってくること。
戦いを思い返す。私はオペレーターとして、仲間の生存率を計算し、彼らの戦術を補佐する立場にあった。しかし、私には何もできなかった。新兵たちは次々に命を落とし、オペレーション・ファントムドーンのに向けた準備が進む中、私はただ、命令を伝達するだけの存在に過ぎなかった。ヴィクトル・シュナイダーの言葉を思い出す。
「この戦争に、意味などない」
そう呟いたところで、何かが変わるわけではない。
それでも、私はこの言葉を何度も反芻する。
では、なぜ私たちは戦い続けるのか?
ノイエ・アークの上層部は、幾度となく「勝利のために」軍事技術を発展させてきた。
戦争が始まって以来、彼らは人類の存続を掲げ、その名の下にすべての倫理を踏みにじってきた。
その中でも最も危険な計画こそ——
「プロメテウス計画」
その名は、まるで火を盗み神々に挑んだ神話の英雄のようだった。
しかし、これは英雄譚などではない。
上層部が進めたのは、「敵を凌駕する究極の兵士」を生み出すための実験。
ヴェスペリオンの生体技術を利用し、人間の限界を超越した戦士を作り出す。
「進化」と呼ばれるもののために、幾百もの兵士が被験体として扱われた。
その結果——
生まれたのは、制御不能な怪物だった。
兵士ではない。戦場に解き放たれた破壊そのもの。
強靭な肉体、高速再生能力、敵と味方の区別を持たぬ暴虐な存在。
人間の兵士として戦わせるつもりだった彼らは、理性を剥奪された獣へと変わり果てた。
実験が次々と失敗する中、彼らは決して立ち止まらなかった。
実験体が暴走し、研究施設を壊滅させても、
都市がひとつ失われても、
数千の兵士が無意味に命を落としても——
上層部は決して認めなかった。
「これは失敗ではない」と。
「次こそは成功する」と。
プロメテウスの火は、人類を照らす光ではなかった。
それは、戦場に広がる業火。
決して消えることのない炎。
生きとし生けるものを、無差別に焼き尽くす災厄。
——それでも、彼らは言うのだろう。
「戦わなければ、人類は滅ぶ」と。
それが真実なのか、それともただの欺瞞なのか。
私には分からない。
だが、たったひとつ分かることがある。
この戦争は、もはや勝利のために戦うものではない。
ただ、終わりなき地獄へと堕ちていくだけだ——。
『リリィ』
通信機越しにヴィクトルの声が響く。
『状況を報告しろ』
「前線部隊、交戦中。ヴェスペリオン兵器の反応を複数確認。新兵部隊の損害率……三十五パーセント」
『……変わらないな』
ヴィクトルは静かに言った。この戦争は変わらない。死者は増え、勝敗は軍上層部の思惑で決められ、兵士たちはただの駒として扱われる。彼のような指揮官でさえ、その現実を変えることはできない。
戦場の上空には、幾層にも重なる雲が垂れ込めていた。
その暗い幕の下、炎が揺らめき、煙が風に溶けていく。
『リリィ、お前はこの戦争をどう思う?』
唐突な問いだった。
「……私の意見に、意味はありますか?」
『あるさ』
私は一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに言葉を紡ぐ。
「この戦争は、終わるべきです」
ヴィクトルは短く息を吐いた。
『それができれば苦労はしないな』
そう言って、彼は通信を切った。
私は再び空を仰ぐ。ノイエ・アークとヴェスペリオン。
果たして、どちらが正しいのだろうか。あるいは、どちらも間違っているのかもしれない。
戦場は、何も語らない。
ただ、終わることのない炎と煙が、歴史の残酷さを示すのみだった。
その時——
通信モニターに、新たな警告が表示された。
画面に浮かび上がったのは、緊急警報の赤いフラッシュ。
それは静寂を断ち切るかのように、点滅を繰り返す。
『未確認戦力、急速接近中——距離、およそ四十五キロ。識別不可能。』
淡々とした電子音声が、戦場の冷酷さを増幅させる。
リリィは即座に分析システムを起動し、敵のシグネチャを検索する。
しかし、応答は——『不明』。
スプロウトでも、マローダーでもない。
人類側の戦力とも一致しない。
では、一体——?
次の瞬間、モニターが一瞬ノイズに包まれた。
低く、不快なノイズがスピーカーから漏れ出る。
まるで、何かがこちらを見ているかのような感覚がリリィの背筋を凍らせた。
画面が復旧したとき、そこに映し出されたのは、
夜の闇を裂くかのように現れた、異形の戦列だった——。
「前線異常発生。未確認兵器の反応を確認」
私は咄嗟にモニターを切り替える。砂塵の向こうに、これまでに見たことのない巨大な影がゆっくりと姿を現していた。人型兵器ではない。ヴェスペリオンの戦闘ドクトリンにもない、未知の構造。
「……これは?」
背筋に冷たいものが走る。
『リリィ、何が見える?』ヴィクトルの声が再び入る。
「……分かりません。ですが、これは……今までのどのデータにも該当しません」
画面の向こうで、彼が短く息を呑む音がした。
『全戦闘部隊に警戒を発令しろ。これはただの戦闘では済まないかもしれん』
その瞬間、戦場の空気が一変した。
夜の闇に溶け込むような未知の影が、不気味な沈黙を纏いながら動いた。
一見すると鈍重に見えたその機体は、突如として尋常ではない速度で前線へ突撃する。
その動きは、まるで生き物のようだった。
砂塵が舞い上がり、破砕された大地が爆ぜる。
装甲車が悲鳴を上げるように軋み、周囲の兵士たちが咄嗟に散開する。
──速い。
あまりにも速すぎる。
重厚な機体を持つはずのそれが、地を這う影のように変則的な軌道で疾走する。
目視では捉えきれない。レーダーの反応が遅れる。
まるで物理法則を無視するかのように、奇怪な加速を繰り返しながら、戦線を切り裂こうとしていた。
「くそ……対応が遅れる」
ヴィクトルが低く呟いた。
その声には、これまでのどの戦闘でも感じられなかった、明確な警戒の色が滲んでいた。
未確認兵器の正体は、まだ誰にも分からない。
しかし、その存在が持つ異質さだけは、戦場にいる誰もが直感していた。
ただひとつ確かなことがある——
今、この瞬間、戦場の均衡が崩れようとしている。
敵も味方も関係なく、これまでの戦術、戦略が通用しない未知の戦闘が始まろうとしていた。




