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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅰ 虚炎
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Interlude 夢幻泡影 -All is but a fleeting dream- Part 1

 ライナーは夢を見ていた。

 それは、まだ戦場に染まる前の記憶だった。荒野ではなく、瓦礫ではなく、暖かな陽の光が降り注ぐ訓練場。汗ばむほどの陽射しの下、フリーダが微笑みながら、幼い自分たちの前に立っていた。


『生き延びろ』


 その言葉が、遠くから優しく響く。だが、それはただの優しさではなかった。どこか、強く、厳しく、それでいて包み込むような響きを持つ声だった。

 フリーダの手が伸び、まだ幼かったライナーの頭を優しく撫でる。掌の温もりが、確かにそこにあった。彼女はいつもそうだった。励ます時も、叱る時も、決してその手を離さなかった。


 しかし――

 轟音。

 空気が裂ける。爆風が周囲を飲み込み、圧縮された熱が皮膚を灼く。景色が歪み、訓練場だったはずの世界は、燃え上がる業火へと塗り替えられていく。炎が噴き上がり、黒煙が渦を巻く。


 空が赤い。

 陽の光すら、燃え盛る火炎に呑まれ、まるで血に染まったかのように鈍く揺らめいていた。耳鳴りが響く。破砕したコンクリート片が飛び交い、焦げた鉄骨が軋む音が混ざり合う。その中で、一瞬だけ――


 彼女の姿が、炎の向こうに揺らぐ。

 その輪郭は儚く、熱気に滲み、燃え上がる瓦礫の隙間からこちらを見つめていた。


『お前たちなら、大丈夫』


 声だけが、鮮明だった。

 まるで時の流れを越えて届いたかのような、確かな響き。優しく、力強く、それでいてどこか遠い。

 フリーダは微笑んでいた。

 けれど、それは遥か彼方。手を伸ばしても、指先に触れることすら叶わない。空へと伸ばした手は、ただ乾いた風を掴むだけで、彼女の影すら捉えることができない。

 炎の光に照らされながら、彼女の輪郭が溶けるように薄れていく。


 もう、そこにはいない。


「待て……フリーダ!」


 叫んだ。だが、声は音にならず、ただ虚空に溶けた。

 炎が渦を巻き、フリーダの姿が滲んでいく。輪郭が崩れ、遠ざかる。


 そして――


 暗転。

 光が消え、世界が反転するような感覚に襲われた。まるで足元の地面が崩れ落ち、際限のない虚無へと引きずり込まれるような感覚。音も、温もりも、すべてが消え去った。そこにはただ、冷たく重たい闇だけが広がっていた。


 ――ライナーは弾かれたように目を覚ました。


 息が詰まる。

 身体が跳ね上がるように反応し、荒い呼吸が喉を震わせる。胸の奥に沈殿した焦燥感が、鼓動とともに激しく波打っていた。

 目の前には、薄暗い天井。けれど、それが現実であることを理解するのに、数秒の間が必要だった。まだ視界の隅には、炎の残滓がちらついている。耳の奥には、遠ざかるフリーダの声が微かに響いていた。

 ライナーは額に手を当てた。掌がじっとりと汗ばんでいるのを感じる。瞼を閉じれば、また夢の続きが押し寄せてきそうだった。


「……クソッ」


 彼は短く息を吐き、のろのろと起き上がる。冷えた空気が肌を刺し、現実へと引き戻そうとする。

 だが、それでも――

 胸の奥にこびりついた夢の影は、消え去ることはなかった。

 息が荒い。額には冷たい汗が滲み、指先が微かに震えていた。


 夢を見ていた。忘れられない過去の光景。かつての姉貴分、フリーダ・ノイマンが、遠い幻のように微笑みかける夢。

 彼女は何かを言っていた。だが、その言葉は霞がかったように曖昧で、どんなに思い出そうとしても掴めない。


「……また、夢を見ていたのね?」


 顔を上げると、窓辺にリリィ・フォン・シュライフェンの姿があった。朝靄の射す淡い光の中で、彼女は静かに佇み、こちらを覗き込んでいる。


「……何でわかる」


 ライナーが低く問うと、リリィはわずかに首を傾げた。


「その顔。まるで、夜霧の奥に一人取り残された子供みたいだった」


 その声には揶揄も嘲りもない。ただ、事実を告げるような穏やかさがあった。

 ライナーは軽く息を吐くと、シーツを押しのけてゆっくりと上体を起こした。夢の残滓がまだ肺の奥にこびりついているかのような、重く湿った感覚が胸を支配していた。


「……フリーダの夢だった。何かを言っていた気がする。でも、それが何だったのか思い出せない」


 ライナーは額に手を当て、ゆっくりと目を閉じる。まぶたの裏には、微笑むフリーダの姿がぼんやりと残っていた。しかし、その唇が紡いだ言葉は、霧の向こうに消えてしまったかのように曖昧で、輪郭すら掴めない。


 確かに彼女は何かを言った。耳には届いていたはずなのに、その意味は指の隙間から零れ落ちていく。まるで、砂時計を逆さにしても止められない砂の流れのように、思い出そうとすればするほど遠のいていく感覚。


 夢の中で彼女は炎の向こうにいた。

 遠ざかる背中。手を伸ばせば届く気がするのに、その指先はただ冷たい虚空を掴むだけだった。


 ――あのとき、フリーダは何を伝えようとしていたのか?


 ライナーは、答えのない問いを胸の奥に抱えたまま、深く息を吐いた。


「夢というのは、心が語る物語よ。ときに真実を映し、ときに欺く。そこに宿る意味を知りたければ、目覚めたあと、自分自身の心と向き合うしかないの」


 ライナーは眉間に皺を寄せた。


「……哲学めいたことを言うな」

「事実よ」


 リリィは静かに言い返し、窓の外へと視線を送る。雲がゆるやかに流れていた。そこに意味があるかのように、彼女はまばたきもせずに見つめていた。


「夢の中で誰かが言葉をくれたのなら、それは貴方自身の心が語っているのかもしれないわ。深く沈んでいた想いが、無意識の水面に浮かび上がってきたの」


 その声音には、確かな確信があった。感情を挟まぬ淡々とした口調でありながら、響きは柔らかく、どこか慈しみに近い何かがあった。


「でも、それを思い出せないということは――きっとまだ、貴方がその言葉と向き合う覚悟を持てていないだけ」


 リリィは窓枠に指先を添えた。細い指がゆっくりと滑る。その仕草は、まるで霧の中から記憶の輪郭をなぞろうとするようだった。


「霧に包まれているように見えても、それはいつか晴れるものよ。目を逸らさずに立ち止まっていれば、貴方が本当に必要とする言葉は、やがて届くはず」


 彼女はふと肩をすくめ、軽やかな足取りで椅子に腰を下ろす。ライナーの傍らで、なおも語りかける。


「でもね、夢を見ること自体は、悪いことじゃないわ。それは――過去を抱きしめているということ。忘れたくないという意思の現れだから」

「……どういう意味だ」

「人はね、忘れたことには囚われないのよ。もしフリーダのことを完全に忘れてしまったなら、夢にすら出てこないでしょう? でも、そうなってしまったら、それこそ……きっと本当に大切なものを失ってしまうことになる」


 ライナーは言葉を返せず、ただその声の残響を胸の奥で繰り返した。忘れたくない。けれど、囚われたままでは前へ進めない。それが痛いほど分かっていた。


「じゃあ……俺は、どうすればいい」


 彼の問いに、リリィは優しく目を細めた。まるで迷子に道を教えるように、ゆっくりと、穏やかに告げる。


「簡単なことよ。何度も夢に出てくるなら、それは貴方がまだ果たさなければならない何かが残っているということ。過去に縛られるんじゃない。過去と一緒に歩くの。そうすれば、夢の中のフリーダが伝えたかった言葉――それが、きっと思い出せる日が来る」


 ライナーはしばらく考え込んでいたが、やがて小さく笑った。


「……お前、こういう時だけは妙に含蓄のあることを言うよな」


 ライナーが皮肉交じりに呟くと、リリィはわざとらしく肩をすくめた。


「こういう時だけは、ね」


 彼女は茶目っ気たっぷりに微笑む。けれど、その瞳の奥には、冗談めかした言葉とは裏腹に、どこか深い理解の色があった。


「次に夢を見たら、ちゃんと……彼女の言葉を聞いてあげることね」


 リリィは窓辺に身を預けながら、柔らかな声で静かに言葉を紡ぐ。


「夢はただの幻想なんかじゃないわ。貴方が忘れられないもの――手放したくても、どうしても手放せないもの。それが形を変えて、夜の中に浮かび上がるの。だから耳を澄まして。きっと彼女は、貴方に何かを伝えようとしている。声にならなかった最後の言葉を、貴方に託している」


 風がゆるやかに吹き込む。

 揺れるカーテンの向こうで、雲が流れ、空の表情がゆっくりと変わっていく。

 その光がリリィの頬を照らし、瞳に淡くきらめきを宿す。


 ライナーは黙って、その光景を見つめていた。


 彼女の言葉が、まるで心の奥底に差し込んだ一筋の灯火のように、じんわりと胸をあたためていくのを感じていた。

 まだ靄の中にいる。けれど、その先にあるものへ、ほんの少しだけ足を踏み出せる気がした。


 ――きっと、次の夢では。

 もう一度、彼女の声を聴けるだろうか。

 そして、その言葉に、ちゃんと、答えられるだろうか。


 ライナーはそっと、目を閉じた。





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