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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅰ 虚炎
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Episode 5 縛鎖断絶 -Freedom through Broken Chains- Part 4

 爆炎が沈静化し、夜の闇が再び工場跡に降りてくる。

 赤々と燃えていた炎は力を失い、鉄骨の影に溶け込むようにその輝きを手放していった。

 瓦礫の隙間から見える空は煤け、星のひとつも見えやしない。代わりに、煤煙が空へ向かって揺らいでいる。


 耳には、未だ爆音の残響がへばりついていた。

 焼けた金属のにおい、焦げついた血と肉の臭気。

 そのすべてが、戦闘の終わりを告げながらも、死の気配だけをこの場に留め続けていた。


 ユリウスは、ゆっくりと顔を上げた。

 目の前には──崩れた床と、炭と化した躯の断片。

 爆心地を中心に、黒く焼け爛れた肉片が飛び散っていた。


 そこには、もはや“フリーダ”と呼べるものはなかった。

 ──それでも、彼女の死だけが確かにそこにあった。


 焦げついたスプロウトの残骸が、なおも鈍く、内側から赤黒い光を灯していた。

 燃え残った粘性の器官が、微かに痙攣している。

 あれは、まだ生きているのか。

 あるいは、ただ“死にきれていない”だけなのか。

 それすらも、今となっては分からなかった。


 クラリスが沈黙の中、ひとつ息を飲んだ。

 エーリヒは歯を食いしばり、拳を握り締めていた。

 ライナーは動かず、ただそこに立ち尽くしている。


 ──この戦いが、何を意味していたのか。


 ユリウスは自分の胸に、問いかける。

 これは救いだったのか。赦しだったのか。それとも、ただの破壊か。

 この戦場で、彼らはフリーダを救ったのか。それとも、また失ったのか。


 焼け焦げた鉄骨が風に軋み、かすかな音を立てた。

 その音だけが、死と生を分かつ境界で、虚しく響いていた。


 ──けれど。

 どんな形であれ、あの亡霊はもうここにはいない。

 そこにあるのは、燃え尽きた破片と、取り返しのつかない現実だけだった。


「……終わったのか?」


 クラリスが掠れた声で呟く。ユリウスは確信を持てず、銃を構えたまま慎重に瓦礫の山へと近づいた。焼け焦げた床に踏み出すたび、靴底が焦げた金属を踏みしめる音が響く。


「動きは……ない」


 ライナーが低く呟く。彼の顔には汗が滲み、目は虚ろだった。今しがた、自らの手で“フリーダ”を葬った。その現実が、彼の中でまだ整理されていない。


「ライナー……」


 エーリヒが心配そうに声をかけたが、ライナーは何も答えずにただ煙を見つめていた。その横顔は静かで、しかしその沈黙の奥には耐えがたい葛藤が渦巻いているようだった。

 ユリウスはゆっくりと息を吐き、銃を下ろした。


「……とにかく、ここから離れよう。このまま長居するのは危険だ」


 誰も異論はなかった。

 クラリスがライナーの腕を引き、エーリヒも無言のまま後に続く。ユリウスは最後にもう一度、黒焦げの肉片を見つめ、無言のまま踵を返した。

 だが、その瞬間。


「……たすけ……て……」


 背後から、かすかに震える声が響いた。

 まるで、闇の底から絞り出されたような掠れた声。

 ユリウスの背筋が凍りついた。

 ライナーとエーリヒの動きが止まる。クラリスは息を呑み、肩を強張らせた。

 誰もが、ありえないはずの現実を突きつけられ、ただその場に凍りつく。


 ゆっくりと振り返る。

 そこにあったのは、黒焦げの肉片の塊だった。

 かつてフリーダだったものの残骸。

 だが、それは完全に沈黙してはいなかった。


 焼け爛れた肉の一部が、蠢いている。

 炭のように焦げ付き、ところどころ崩れ落ちそうな組織が、まるで何かを求めるかのようにわずかに動く。

 溶けた皮膚の間から、黒い粘液がじくじくと滲み出し、床に広がっていく。


 顔の原形はとどめていない。

 目も、鼻も、口も、もはや判別できない。


 だが、それでも。

 その震える声は、確かにフリーダのものだった。


 焦げついた肉塊が微かに痙攣し、まるで最後の抵抗を試みるかのように蠢いた。

 その動きは、もはや意思のあるものとは思えない。

 ただ、生存本能に突き動かされた虫のように、黒く焼けただれた組織が不規則に痙攣しているだけだった。


 その瞬間――


 肉塊が、何かを吐き出した。


 ぐちゃり、と湿った音が響く。

 粘性のある黒い塊が、肉の裂け目から滴るようにこぼれ、地面に落ちる。

 それはまるで、内臓の一部が押し出されたかのように見えた。


 ライナーの呼吸が止まる。

 エーリヒが身を引き、クラリスは思わず後ずさった。


「……スプロウト……!?」


 ユリウスが低く呟く。


 それは、フリーダを支配していたスプロウトの中枢だった。


 粘ついた塊は、わずかに蠢いていた。

 黒い表面が微細に波打ち、まるで意識を持つかのようにかすかに震えている。

 焼けただれた肉塊から切り離されてもなお、それは死んでいない。

 それどころか、まるで新たな宿主を探しているかのように、触手のような細い繊維を地面に伸ばし始めた。


「まだ生きてる……」


 クラリスの声がかすれる。


「終わらせる……!」


 ユリウスは迷いなく銃口を下げ、黒い塊を狙った。

 その瞬間、スプロウトはわずかに跳ねるように動いた。


 まるで、生き延びるためにもがく生物のように。

 まるで役目を終えたかのように、粘ついた外殻が崩れ落ち、最後の力を振り絞るように震えている。

 ユリウスは躊躇わずに引き金を引いた。

 銃声が響き渡り、スプロウトの中枢は弾け飛んだ。

 その瞬間、異形のフリーダの身体が痙攣し、完全に動きを止める。

 今度こそ、本当に終わった。


 静寂。

 ただ、炎の燃える音だけが残った。

 ライナーは膝をつき、拳を握りしめる。


「……すまない、フリーダ……」


 エーリヒがその肩にそっと手を置く。

 誰も言葉を発さなかった。

 戦いは終わった。

 だが、それは決して勝利ではなかった。

 ユリウスは銃を下ろし、ただ虚空を見つめる。


「行こう……ここにいても、何も変わらない」


 焦げた鉄骨が軋む音が、静寂の中に響いた。

 爆炎の余韻がまだ空気に滞り、硝煙と肉の焦げる臭いが鼻を刺す。

 黒く煤けた壁に影が揺れ、足元には崩れ落ちた瓦礫が散乱している。


 ユリウスは、ゆっくりと前へ踏み出した。

 その足取りは決して軽くはない。

 背後には、かつて彼らが慕った人の名残が、静かに朽ちていこうとしていた。

 だが、振り返ることはしなかった。


 ライナーもまた、一歩ずつ歩き出す。

 拳を握りしめたまま、視線はまっすぐ出口の方を向いていた。

 クラリスとエーリヒも、それに続く。

 誰も言葉を発さなかった。


 彼らの背後で、焼け落ちた廃工場の天井から灰が舞い落ちる。

 それはまるで、最後の別れのようにゆっくりと降り注いでいた。


 フリーダを、今度こそ置いていくために。

 彼らは前へ進む。

 燃え尽きた世界の中で、生きるために。


      〇


 廃工場を出ると、冷たい夜風が肌を打った。

 焼け焦げた金属の匂いがまだ鼻を刺すが、それを押し流すように、静寂があたりを包んでいた。


 空には雲が垂れ込め、星々の輝きは薄く霞んでいる。

 まるで、彼らの戦いの爪痕を覆い隠そうとしているかのようだった。

 工場の中で燃え尽きた命の残響は、ここには届かない。


 ユリウスは無言のまま、遠くの地平線を見つめる。

 そこにあるのは、ただ広がる闇だけ。

 それでも、朝は来るはずだった。


「次は……どうする?」


 クラリスの声は、かすかに震えていた。

 彼女の問いかけに、ライナーは何も答えなかった。

 まだ、言葉が出ない。

 エーリヒが、静かに肩を落としながら答える。


「フォート・グラーデンへ戻るしかない。報告をしないと……」


 その言葉に、誰も異論を挟まなかった。


 戦いは終わった。

 だが、それは何かを勝ち取った証ではなく、ただ一つの結末にすぎなかった。

 喪失はそこに横たわり、焼け焦げた鉄と血の匂いだけが、その余韻を静かに刻んでいる。


 夜風が吹き抜ける。

 肌を撫でるそれは、決して優しくはなかった。

 冷たく、硬質で、戦場の名残を容赦なく拭い去っていく。

 まるで、この夜の闇にすべてを埋めてしまおうとするかのように。


 ユリウスたちは無言のまま歩き出す。

 一歩、また一歩と、音もなく砂塵を踏みしめる。

 振り返ることはしない。

 そこにあるのは、戻ることのできない過去だから。


 風が砂を巻き上げ、視界を霞ませる。

 地平線の彼方には、ぼんやりとした光が滲んでいた。

 夜明けの兆しか、それとも遠く燃え続ける別の戦火か。

 どちらにせよ、彼らが歩む道の先に、終わりは見えなかった。


 それでも、歩き続ける。

 生きるために。

 たとえ、その先がまた新たな戦場であったとしても。

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