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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅰ 虚炎
25/53

Episode 5 縛鎖断絶 -Freedom through Broken Chains- Part 3

 それは、もはや“人間”という輪郭すら保てていなかった。


 かつてフリーダという名を持ち、笑い、誇りを胸に戦っていたはずの存在。

 その面影は、既に形を成していない。

 崩れかけた肉の塊。

 皮膚の下で蠢く黒い血管が浮かび、粘液に濡れた体液が止めどなく滴る。


 その肉体は、既に“構造”としてすら不完全だった。

 骨の継ぎ目は外れ、肉は繋ぎとめられるように蠢く触手に吊られ、

 歩くたびに軋むそれは、生物というより“塊”だった。


 意思ではない。

 信念でもない。

 ──それは、ただ「動いているだけ」の亡骸だった。


 けれど。


 触手の一つがわずかに動き、

 その歩みに一瞬だけ、どこかで見覚えのある“癖”が混じる。

 首の傾げ方。

 歩幅の小さな揺れ。

 あるいは──背筋の伸ばし方。


 ユリウスの心臓が、一拍遅れて高鳴った。


 あれは。

 かつての彼女が持っていた仕草。

 訓練場で、銃の構えを教えるときに見せた、さりげない身のこなし。


 ――だが、それは。


 記憶ではない。

 感情でもない。

 ただ、“情報”として模倣されているだけだ。


 まるでスプロウトが、体内に残された“何か”を参照し、

 その記録を機械的に再生しているかのように。


「……もう、あれは……人間じゃない」


 クラリスが、かすれた声で呟く。

 その声には、恐怖でも怒りでもない、純粋な悲哀が滲んでいた。


 それでも──。


 銃は握られている。

 狙いは、逸れない。


 ライナーとエーリヒは、かつての彼女を知るがゆえに、言葉を失った。

 その視線は、ただひたすらに苦悶と混乱を映し出している。

 それは彼らが知るフリーダではないと、理解するほどに――

 なおさら否定しがたい現実が突きつけられる。


 目の前にいるのは、

 人間ではない。

 怪物でもない。

「かつてフリーダだった何か」――ただ、それだけの存在だった。


「……フリーダの記憶が残っているなら、これが最も無惨な結末だな」


 ライナーの声は低く沈んでいた。

 目の前にいるのは、かつて彼らが慕った姉貴分だった何か。

 彼女の意識が残っているのか、あるいは寄生体が死者を模しているだけなのか――

 どちらにせよ、もう「フリーダ・ノイマン」は存在しない。


「だからこそ……もう終わらせないといけない」


 ユリウスが銃を構える。

 彼の視線は一点に固定され、僅かな迷いもなかった。

 ライナーとエーリヒも、互いに目を合わせると、無言で頷く。

 もう感傷に浸っている時間はない。


「スプロウトは核のように根を張ってる。胴体に埋まった本体を破壊すれば、こいつを止められるはずだ」


 ユリウスの分析に、クラリスが息を呑む。

 彼女の視線の先、異形のフリーダの体内には、脈打つ黒い核が絡みついていた。

 まるで、寄生体が死者の体を内側から支配しているかのようだった。


「お前たちが争ってる時間はない。俺が行く」


 ユリウスの声は低く、冷静だった。


 だがその声音には、どこか抗いようのない“決意”があった。

 議論も、迷いも、すでに終えていた者の声だった。


 ライナーとエーリヒが息を呑む。

 その瞳には、言葉にならぬ葛藤が宿っていた。


「ふざけるな……!」


 ライナーがかすれた声で呟く。

 握った拳が震える。だが、その拳を振るう相手はもういない。

 ユリウスはすでに、前を見ていた。


「……ユリウス。死ぬ気かよ……!」


 エーリヒが叫ぶ。だがユリウスは、静かに答える。


「生きて帰る。爆薬を仕掛けて戻るだけだ。それだけだ」

「簡単に言うな……!」

「簡単じゃないことくらい、お前たちも知ってるだろ」


 沈黙が落ちる。

 クラリスが、唇を噛みながら、ユリウスの腕を掴む。


「本当に行くの……?」

「お前たちが撃つ間、動きを引きつける。あれの動作パターンは読めてきてる。……やれる」


 その言葉は、説得ではなかった。

 ただ、“もう決まっていること”の確認だった。


 クラリスは何も言えなかった。

 ただ、彼の背中を、見送るしかなかった。


 ユリウスは、爆薬のケースを背負い、静かに足を踏み出す。


 その歩みは、遅くも速くもない。

 ただ、揺らぐことなく、敵の方へと向かっていた。


 静寂が落ちる。

 ライナーとエーリヒが同時にユリウスを見た。


「……ユリウス?」


 ユリウスは無言で爆薬の安全装置を外し、慎重に手の中で重量を確かめた。

 爆破地点までの距離、スプロウトの防御構造、撤退までの猶予――すべてを頭の中で瞬時に計算する。

 そこに感傷はない。必要なのは冷徹な判断力だけだ。


「俺はまだ生き延びるつもりだ。だから、ギリギリのタイミングで離脱する。それだけのことだ」


 彼の声は揺るぎなかった。

 クラリスが息を呑む。ライナーとエーリヒは食いしばった唇を震わせながら、それでも何かを言おうとした。


 しかし、ユリウスの目を見た瞬間、二人は言葉を飲み込んだ。

 彼の目には、ただ静かな覚悟が宿っていた。


「任せろ」


 それは単なる決意ではなかった。

 絶望の戦場を生き抜くために積み重ねてきた、純粋な意思の力だった。


 二人は、押し殺した声で頷いた。

 ユリウスは深く息を吸い込み、爆薬を握り締めた。

 そして、異形のフリーダへと、静かに歩を進めた――。


 クラリスが息を呑む。


「そんなこと、できるの……?」


 クラリスの声がかすかに震えた。

 彼女の瞳には、恐怖と葛藤が交錯している。

 しかし、ユリウスは一切の迷いもなく、それを一蹴した。


「できるさ。お前たちは俺を援護してくれ」


 冷静な声だった。

 まるで勝利の算段がすでについているかのような、確信に満ちた声音。


 次の瞬間、ユリウスは地を蹴った。

 爆薬を片手に、異形のフリーダへと突進する。


 それは、まるで死へ向かう特攻のように見えた。


「ユリウス!」


 クラリスが叫ぶ。

 ライナーとエーリヒが反応し、彼の進行方向をカバーするために銃を撃つ。

 鋭い銃声が工場内にこだまし、金属の壁に反響する。

 弾丸が異形の触手を引き裂き、その動きを僅かに鈍らせる。


「……っ!」


 だが、それだけでは止められない。

 異形のフリーダが咆哮を上げた。

 それは人の声ではなかった。

 底知れぬ深淵から響き渡る、絶望の叫び声。


 瞬間、異形の体表がうねり、無数の触手が一斉に襲いかかる。

 それは生物の反射ではない。

 まるでユリウスの動きを先読みしたかのように、触手が彼の進路を塞いでいた。


「くそっ……!」


 ユリウスは反射的に身を翻し、床を蹴って側方へ回り込む。

 だが、異形のフリーダもまた、人間とは異なる速度で反応した。

 触手が鋭く振り抜かれ、空間を裂く。


「ユリウス、伏せろ!」


 エーリヒの狙撃が光る。

 正確無比な弾丸が触手の付け根を撃ち抜き、一瞬、その動きが止まる。


 ユリウスは、その刹那の隙を見逃さなかった。

 地面を蹴り、障害物を飛び越え、一気に異形の懐へ飛び込む。


「――これで終わりだ!」


 彼は爆薬を手に、異形のフリーダの中心へと突き刺した。

 脈動するスプロウトの根が、ユリウスの手の中で鈍く脈打つ。

 黒い体液が弾け飛び、彼の顔や腕にべっとりと絡みつく。


「起爆装置、セット……!」


 時間がない。

 ユリウスは最後の力を振り絞り、全身を使って爆薬を埋め込むと、反転し、全力で飛び退いた。


「ライナー! エーリヒ! 撃て!」


 彼の叫びが、戦場に響き渡る。

 クラリスは迷わなかった。

 迷っている暇などない。


「……ライナー」


 エーリヒが低く呼びかける。

 ライナーの指先は震えていた。

 フリーダを救う術は、もはやなかった。だが、彼女を異形のまま戦場に放置することも許されない。


 『生き延びろ』


 かつてフリーダが言った言葉が、ライナーの脳裏をよぎる。もし彼女がこの状況を見ていたなら、どう言っただろうか。

 きっと、迷うなと言ったはずだ。

 だが、ライナーの指はスイッチの上で止まった。

 押せば終わる。押さなければ、フリーダは戦場をさまよう怪物のままだ。


「くそっ……!」


 ライナーは歯を食いしばる。呼吸が荒くなり、指が震えた。

 エーリヒがそっと肩に手を置いた。


「お前が決断できないなら、俺が押す」

「違う……違うんだ。わかってる……わかってるけど……」


 ライナーは目を閉じた。

 フリーダはもう、そこにはいない。


「……俺たちは生き延びる。だから、お前をここで解放する」


 指が引き金を押し込んだ。

 轟音とともに世界が震えた。

 爆炎が空気を裂き、夜闇を朱に染め上げる。


 閃光の中心、かつてフリーダだったものが燃え盛る炎に包まれていた。

 その輪郭はぐにゃりと歪み、黒く焦げ、崩れ落ちていく。


 触手はのたうつように天を仰ぎ、断末魔のような残響が虚空を揺らした。

 だが、その声に、もはや人の情感はなかった。

 ただ粘ついた肉塊が焼け爛れ、弾け、炭と化していくだけ。


 ユリウスたちは、息を呑みながらその光景を見つめていた。


 焼け落ちる鉄骨が軋み、廃工場の屋根が崩れる。

 火の粉が舞い、燃えた空気が皮膚を刺す。

 爆風の余韻が去ると、そこには――


 ただ、炎の残骸が燃え続けるばかりだった。

 フリーダの姿は、もうなかった。


 ライナーは膝をつき、拳を強く握りしめる。

 彼の肩がわずかに震えた。


「……終わったのか」


 エーリヒの声は、ひどくかすれていた。

 まるで喉の奥に何かが詰まったように、重く、乾いていた。


 クラリスは何かを言おうとしたが、その言葉を飲み込んだ。

 彼女の視界に映るのは、炎の残骸だけだった。

 そこにいるはずの人は、もうどこにもいない。


 ユリウスはゆっくりと立ち上がり、燃え盛る炎を見つめた。

 火の粉が夜空へと舞い上がる。

 その一つひとつが、消えゆく命の断片のように思えた。


 そして、誰も何も言わなかった。

 それが、この戦いの答えだった。

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