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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅰ 虚炎
24/54

Episode 5 縛鎖断絶 -Freedom through Broken Chains- Part 2

「エーリヒ、俺たちで囮になる」

「了解した」


 エーリヒが短く頷いた瞬間、ライナーは迷いなく駆け出した。

 弾丸の雨を浴びせるように、小銃の引き金を絞る。

 連続する銃声が工場の暗闇を震わせ、閃光が乱舞する。


 しかし――


 異形のフリーダは、滑るような動きでそれを避けた。

 弾丸は彼女の輪郭を掠めるだけで、致命傷にはならない。


「やはり、戦い方を知っている……!」


 ライナーの歯が軋む。

 異形はライナーの銃撃をかわしながら、彼の動きを先読みするかのようにステップを踏んでいた。

 それはまるで、過去のフリーダが実践していた回避行動そのものだった。


 エーリヒがすかさず狙撃する。

 銃弾が一直線に飛び、異形の肩を貫いた――はずだった。


 だが、直前で僅かに軌道をずらし、避けた。


「……くそっ、こんなことがあるか……!」


 エーリヒが焦りを滲ませる。

 目の前の敵は、ただの再生能力を持つ異形ではない。

 フリーダの技術、戦術、記憶、そして無意識の本能を――完全に再現している。


 ライナーは、呼吸を整えた。

 過去のフリーダを思い出す。

 彼女は、いつだって自分たちを守るために、最前線で戦っていた。

 その勇敢な背中を見て、どれだけ彼女に憧れたか――。


 そして今、その姿をした何かが、自分たちを殺そうとしている。


「……エーリヒ、次の一撃で決めるぞ」


 ライナーは言った。

 エーリヒは彼を見た。


「どうする?」


 ライナーは、震える手で銃を持ち直しながら、低く囁いた。


「フリーダなら、どう攻める?」


 その言葉に、エーリヒは一瞬息を呑んだ。

 だが、すぐに気付く。


 ――彼女がやるなら、迷わず真正面から突破するはずだ。


「……なるほど」


 エーリヒの声が低く響く。

 次の瞬間、彼らは息を合わせて動き出した。


 ライナーが正面から突撃する。

 異形のフリーダは、それを迎え撃つかのように構えた。

 まるで過去の彼女のような、完璧な迎撃姿勢――だが、それこそが罠だった。


「今だ、エーリヒ!」


 銃声が空気を震わせた。

 鋼鉄の破片が跳ねるような音が響き、閃光の余韻が暗闇に残る。


 弾丸が、空気を裂く音を残して飛翔した。

 狙いは逸れず──異形の背に張り付いた、スプロウトの核を正確に貫く。


 刹那、黒い体液が破裂するように飛び散った。

 焼けた床に滴るその液は、鉄を蝕むようにじゅう、と音を立てて広がる。


 ――静寂。


 異形のフリーダが痙攣し、まるで壊れた人形のように脚をもつれさせる。

 関節は軋み、不自然な角度で折れ曲がり、内側から何かが断ち切られたように、動きが急速に鈍化していく。


 だが、それでも──終わらない。


 それは、名を奪われた彼女の模倣体。

 なおも、断末魔のような執念を振り絞るかのごとく、ゆっくりと顔を上げた。


 虚ろな瞳。

 焦げついた睫毛の隙間から、ほんの僅かに光が揺れる。

 それは哀しみか、怒りか、それとも──


「……」


 ひび割れた唇が、何かを言おうとしていた。

 けれど、言葉はもう、声にはならない。

 断ち切られた神経が、命令を伝える術を失ったのだ。


 その身は、ゆっくりと崩れ落ちる。

 金属が擦れるような、乾いた音とともに。


 黒い液体が、粘つきながら床に染み広がる。

 そして、背に埋まっていたスプロウトの核──その鼓動が、明らかに弱まっていく。


 まるで、生命そのものが失われていくように。


 だが──終わってなど、いなかった。


 脈動を止めたはずのスプロウトが、再び震えた。

 ちり、ちり、と細胞のような構造が再結晶化しようと蠢いている。


 ユリウスは息を詰め、迷いなく次の弾を装填する。

 冷たい金属の感触が、掌の感覚を鋭く呼び戻す。


「……まだだ。完全に止めを刺す!」


 炎と血の交錯の中、ユリウスは銃口を再び構えた。

 焼けた空気が、視界をゆらめかせる。金属の冷たさだけが、現実を繋ぎ止めている。


 クラリスが照準を合わせ、

 ライナーとエーリヒが躊躇なく引き金を引いた。


 銃声。

 閃光。

 だが、スプロウトは崩れなかった。


 それは、粘菌のように這い、広がり、

 異形のフリーダの肉体へなおも絡みついていく。


 肉と骨とを這い、神経を模し、

 まるで“何か”を取り戻そうとするかのように──執拗に、しぶとく。


 そして。


 それは、ほんの一瞬の出来事だった。


 空間を震わせるように、微かに声が響いた。


 乾いて、掠れて、断絶しかけた“人間の声”。


「……た……す……け……」


 誰もが、その声に凍りついた。


 耳ではなく、胸の奥を直接叩くような声だった。

 確かに聞いたことのある声。

 記憶の中で何度も呼ばれたあの音色が、

 今、異形の口から溢れていた。


「……今の……フリーダの……?」


 ライナーの声が震える。

 エーリヒが唇を噛み締める。

 錯覚か。幻聴か。

 だが、それでも──彼らはその声を忘れていなかった。


 叫びだったのか。願いだったのか。

 あるいは、苦悶の底から漏れた、本能的な祈りだったのか。


 誰にもわからなかった。


 ただ──


 スプロウトが、蠢いた。


 異形の身体が膨れ上がる。

 骨格が軋み、筋組織が裂け、皮膚が音を立ててはじける。


 黒い血管のような触手が腕に絡みつき、

 肉の中から隆起する無数の脈動する影が、空間を飲み込もうとしていた。


 変質。暴走。

 あるいは、進化。


 それはもはや、フリーダの記憶の残滓ですらない。

 ただ、戦場が生み出した最悪の帰結だった。


 そして、爆ぜる。


 ――轟音。


 振り抜かれた異形の腕が、空間そのものを叩き潰すように薙ぎ払った。

 空気が裂け、鉄骨が悲鳴を上げる。

 破壊の余波が工場内を駆け巡り、積み重なっていた機材や瓦礫が弾け飛ぶ。


 ユリウスたちは、抗う間もなく吹き飛ばされた。


 視界が揺れた。

 時間の流れが歪む。

 圧倒的な衝撃が身体を貫き、意識が焼け付くように跳ね上がる。


 背中から鉄骨へと叩きつけられ、肺から強引に息が絞り出される。

 耳鳴りが襲い、視界の端が暗く染まっていく。


 そして、静寂――


 倒れ伏したユリウスの瞳に映ったのは、薄暗い天井と、煙の向こうでなおも佇む“それ”の影だった。

 異形のフリーダは、なおも嗤う。


 工場の床が軋み、瓦礫が落ちる。

 煙が立ち込める中、ユリウスは朦朧としながら立ち上がり、クラリスを探した。


「クラリス……大丈夫か?」

「……平気よ。でも、あれは……」


 煙の向こうで、それは形を変えていった。


 異形のフリーダの身体は、もはや人の形を留めていなかった。

 皮膚は亀裂を刻みながら剥がれ落ち、黒い繊維状の組織が脈動する。

 まるで内側から別の何かが生まれようとしているかのように、骨格が軋み、異常な隆起を繰り返していた。


 スプロウトの侵食が、ついに極限へと達した。


 背骨に沿って走る管が、皮膚の下で脈動しながら浮き上がり、

 その先端が肉の壁を突き破り、ねじれるように螺旋を描いて伸びていく。


 黒く濡れたそれらの触手は、まるで新たに得た四肢のようだった。

 床を打ち、壁を這い、空間を圧迫する。

 逃げ場など、どこにもなかった。


 そして──最も恐ろしい変化が、静かに訪れた。


 ――頭部が、動いた。


 異形のフリーダが、不自然なほどゆっくりと、首を傾げた。


 その仕草は、かつて彼女がよく見せていたものだった。

 仲間の冗談に小さく笑い、少しだけ困ったように斜めに顔を傾ける──あの、何気ない仕草。


 けれど、今ここにあるそれは──人間のものではなかった。


 口元が、音を立てて裂ける。

 ひきつれるように動く唇。

 頬の肉が破れ、骨格が露出し、歯列の間から黒い液が垂れる。


 それは──笑顔のようだった。


 だが、嘲りか、哀しみか、あるいは虚無か。

 その表情に宿るものは、もはや人の心ではなかった。


 否──。


 それは、絶望に囚われた者の微笑みだった。


 ゆらり、と。


 新たに生えた触手が持ち上がる。

 その動きは緩慢で、だからこそ不気味だった。

 まるで確信しているかのように、逃げられぬことを、抗えぬことを──既に決まっている運命であるかのように。


 無数の螺旋が、黒く光を吸い込みながら、天井を擦る。

 やがて、それらは一斉に、振り上げられた。


 ユリウスたちの上に、影が落ちた。


 覆い尽くすように。

 選択を、逃げ道を、すべて奪い取るように。


 工場の薄闇の中、四人の兵士が最後の覚悟を決めた。


 ユリウスの手の中には、残された僅かな爆薬。

 それは、もはや彼らに許された唯一の切り札だった。

 ライナーは銃を強く握りしめ、僅かに震える指を抑え込むように引き金へと添えた。


「まだだ……」


 彼は低く呟いた。

 戦場を知る者の声ではなく、ただ、戦友を救いたいと願う男の声だった。


 目の前に立ちはだかる異形のフリーダ――

 その身体はスプロウトによって完全に変異を遂げつつあった。

 触手は鉄骨に絡みつきながら、まるで意思を持つかのように蠢く。

 その中心で、かつてのフリーダの顔だけがわずかに残っていた。


 ライナーは、その顔を見てしまった。


 その表情は苦痛に歪みながらも、どこか哀れなものだった。

 まるで、助けを求めるように。

 まるで、今もなお、自分たちの知るフリーダがそこにいるかのように。


 ――違う。


 ライナーは歯を食いしばった。

 それはフリーダではない。

 フリーダの記憶と肉体を利用し、異形へと変えられた忌むべき存在。

 それでも、その目にはかすかに迷いがあった。

 スプロウトに完全に支配される前の、わずかな猶予が。


「……俺たちは」


 震える声が、しかし確かな強さを帯びていた。


「フリーダを、解放する」


 ライナーがそう告げたとき、

 それは希望でも祈りでもなかった。

 ただ──戦友としての、最後の誓いだった。


 エーリヒが言葉なく頷き、彼の隣に並ぶ。

 動作は滑らかで、迷いはなかった。


 ユリウスはライフルを構え直し、装填数を確認する。

 クラリスもまた、目を閉じて深く息を吐き、そして──静かに開く。


 彼らは、揃った。


 誰も叫ばない。

 誰も鼓舞しない。

 それでも、その場に流れる空気は明らかに変わっていた。


 もはや時間はない。


 スプロウトは融合を終えようとしていた。

 記憶の残滓を喰い、意識を上書きし、

 あの“彼女”を完全に“兵器”へと塗り替えようとしていた。


 ……フリーダが、消えてしまう前に。


 彼らは、最後の戦いへと挑む。


 これは──

 かつて共に戦った仲間を、取り戻すための戦いではない。


 もう、フリーダは戻らない。


 だからこそ。


 これは、彼女を縛るものを断ち切る戦いだ。

 魂を、檻から解き放つための戦いだ。


 悼みも、涙も、終わった後でいい。


 今はただ──撃つ。それだけだ。

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