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クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅰ 虚炎
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Episode 4 冥哭冥濁 -Voices from Beyond- Part 5

 走るたびに、足が沈んでいくようだった。


 まるで、床そのものが柔らかく溶け出し、

 彼らの脚をゆっくりと地の底へ引きずり込もうとしているかのように。


 工場の奥へと続く通路。

 ライナーとエーリヒの足音は重く、濁った。

 息が浅く、肺の奥が焼けるように痛い。

 それでも、空気が足りない。


 喉がひゅうひゅうと軋む。

 鼓動だけが不気味に鮮明で、

 血管の中を音として流れていた。


 異形の“フリーダ”を見た瞬間、

 彼らの中にあったものが崩れた。


 何度も死線を越え、仲間の死に顔を見てきた。

 慣れたつもりだった。

 割り切れていたと思っていた。


 だが──あれは、違った。


 記憶の中の彼女だった。

 白い訓練服の背中。

 振り返れば、笑ってくれるはずの人。


 信じていた。

 そうであってほしかった。


 だが、目の前の“それ”は──


 人の形をしたまま、人であることを失っていた。

 名前を奪わず、記憶だけを歪ませて、

 ただ無邪気に、笑っていた。


 心が拒絶した。

 銃を向けろという命令に、体が応じなかった。


 指が重い。

 まるで、引き金に鉛を塗り込めたかのように。


 これは戦いではなかった。

 敵と兵士の間にある、等価な死のやり取りではなかった。


 これは、悪夢だ。

 歪んだ現実の皮をかぶった、

 救いのない幻影だった。


 彼らはただ、走るしかなかった。


 崩れかけた心を、未完成な覚悟でかろうじて支えながら。


 この地獄のような迷路を、逃げるように、進むように──


「なんで……なんで、あんなものが……」


 エーリヒの声は、深い霧の中へと沈んでいった。

 怒りなのか。恐怖なのか。

 そのどれにも分類できない、得体の知れない感情がにじんでいた。


 割り切れない。

 処理できない。

 理解したくない。


 それでも、彼は問わずにはいられなかった。


 ライナーは唇を噛み、拳を強く握りしめる。

 その奥歯が、きしむ音を立てる。


「わからない……でも、あれは──フリーダじゃない……!」


 言った瞬間。

 言葉にしてしまった、その刹那。


 胸の奥で、何かが砕けた。


 ひび割れて、崩れて、粉々になった。


 ──不可逆に。


 もう、戻れなかった。


 声にしたその事実が、

 自分の中にあった最後の“否定”すら壊していく。


 否応なく突きつけられる現実。

 記憶と違う“今”が、

 心の奥底を冷たい刃で切り裂いてくる。


 ──あれは、もうフリーダではない。

 分かっている。

 けれど、それでも。


 脳裏に、あの日の情景が蘇る。


 まだ幼かった自分たちの前を、彼女は歩いていた。


 軍服の裾が、風を受けて揺れていた。

 まっすぐに伸びた背中。

 小さな体のどこに、あれだけの力と意志が宿っていたのか。

 彼女の瞳は、確かに未来を見据えていた。


 白い訓練場。

 熱を帯びた砂の上を、一歩ずつ進みながら──


 彼女は、立ち止まり、振り返った。


 そして、迷いなく、言ったのだ。


「──前を向け」


 その声を、いまも覚えている。

 戦場の恐怖を振り払い、生きるために必要な強さを教えてくれた存在。


 彼女の声は厳しく、それでいて優しかった。

 彼女の背中は、彼らが目指すべき強さそのものだった。


 ――なのに。


 今、彼女は嗤っている。

 あの頃と同じ顔で、歪んだ笑みを浮かべながら、

 「敵」として、彼らの前に立っている。


 ライナーの喉が詰まる。

 銃を握る手に力が入らない。


 記憶の中のフリーダと、目の前のそれが、

 交差し、捩れ、軋み、崩れていく。


「こんなの……間違ってる……!」


 だが、否定したところで何も変わらない。

 彼女の名を呼んでも、もう応えてはくれない。


 現実は、無情に彼らの足元を崩し続けていた。


『お前たちはもっと強くなれ。私がいなくても戦えるようになれ』


 ユリウスは、言葉を探していた。

 喉まで出かかった感情は、熱を帯びているのに、形にならない。

 強く怒鳴るべきか、それとも静かに語るべきか。

 それすらもわからなかった。


 ただ、目の前の仲間たちが、

 “戦えない理由”に囚われ、

 “死”へ向かっていくのが、たまらなく恐ろしかった。


 彼の指が、わずかに拳を握る。

 その爪先が、手のひらをうっすらと食い込ませていた。


「……お前たちは、彼女の意志を継ぐんじゃなかったのか……」


 言葉は、思ったよりも掠れていた。

 自分自身に問いかけているような声だった。

 強く言うつもりだったのに。

 怒鳴ってでも目を覚まさせるつもりだったのに。


 その声は、どこか頼りなかった。

 それでも、叫ぶしかなかった。


 “彼女”を否定しないまま、

 ただ立ちすくむ彼らの背を──

 かつての自分の背中を──

 押すために。


 二人の視界に、閃光のように記憶が走った。


 焼けつく戦場でも、

 冷たい訓練場でも、

 彼女は決して振り返らなかった。

 叫ばず、怒らず、ただ──前を向いて、言ったのだ。


『──強くなれ』

『──生き延びろ』


 短く、静かな言葉だった。

 けれど、それはいつだって彼らの心を貫く刃だった。


 そうだ。

 フリーダは、背を向けなかった。

 戦いからも、死からも、逃げなかった。

 痛みも恐れも抱えたまま、それでも前に立ち続けた。


 自分たちに、託したのだ。

 いつか、ここに立つ日が来ることを知っていたかのように。


 ならば。


 ここで膝をつくことは──

 彼女の言葉を、意志を、

 この命よりも重かった“願い”を踏みにじることになる。


 それが、どれほど愚かで、

 どれほど、許されざることか。


 違う。

 そんなはずはない。


 フリーダが戦場で命を落としたのは、

 こうして震えて立ち尽くすためじゃない。

 彼女が守ろうとしたものは、

 敵に膝をつくためじゃない。


 ライナーは奥歯を噛みしめた。

 エーリヒの手が、再び銃を強く握る。


 恐怖は消えない。

 だが、もう一度――

 前を向くしかない。


 ユリウスの声が、夜の闇に、最後の一撃のように響き渡った。


「──立ち上がれ! 戦え!」


 その叫びは、怒りでも、命令でもなかった。

 ただ、必死だった。

 仲間を失わせたくないという、焦燥と祈りの結晶だった。


 ライナーは、震える息を深く吸い込む。

 喉の奥で空気が引っかかり、胸が焼けるように痛んだ。

 それでも、脚を前へ出す。


 震えていた足が、地を踏んだ。


 彼は、ここまで来た。

 フリーダの死を無駄にしないために。

 何もできなかった自分を超えるために。


 仲間の遺志を背負い、死地を越え、

 今ようやくここに立っている。

 なのに──その記憶を踏みにじるかのように、

 『フリーダ』の姿をした異形が、彼らの前に現れた。


 まるで、試すように。


『──お前たちは、強くなったか?』


 脳裏に、再びあの声が響く。

 訓練場の白い砂の上。

 笑わず、けれど優しかった声。


 彼女は、その問いを残して消えた。

 いま、その答えを。

 ここで示さなければならない。


「……俺たちは──」


 エーリヒが低く呟く。

 拳を握りしめ、その手が震える。


 それは恐怖ではなかった。

 怒りでもなかった。

 ただ──迷いが、消えていく音だった。


「俺たちは……もう、何も守れないまま終わるわけにはいかない」


 その目が、歪んだ“フリーダ”の姿を、まっすぐに見据えていた。


「……ああ」


 低く、短く、けれど確かな声だった。


 戦う。

 それ以外に、何も残っていなかった。


 ライナーとエーリヒは、再び銃を握り直す。

 その手には、もう迷いはない。


 目の前にいるのは、“彼女”ではない。

 ただの、敵だ。


 記憶に縛られるな。

 思い出は、盾にならない。

 死者の名を叫ぶだけでは、生き残れない。


 フリーダの意志を継ぐのなら──進め。


 ユリウスが先陣を切る。

 クラリスが続く。

 その背に続いて、

 ライナーとエーリヒもまた、戦列に戻る。


 震える指を、押さえつけながら。

 恐怖を、痛みを、心の底に沈めながら。


 フリーダを模した、異形へと。

 かつての記憶を、銃口の先に据えて。


 迷いは、もうない。


 理由も──ない。


 ただ、前へ。

 ただ、撃て。

 ただ、生きろ。


 彼らの戦いが、再び始まる。

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