Episode 4 冥哭冥濁 -Voices from Beyond- Part 4
ライナーがナイフを構えた瞬間、異形のフリーダは異常なまでに滑らかな動きで後方へ跳躍した。
それはまるで重力すら意に介さぬかのような軽さだった。
関節が外れたかのようにしなり、肉の軋む音もなく、
まるで風に乗る影のように滑るように飛ぶ。
「動きが速い……!」
クラリスが息を呑む。
ユリウスは素早く小銃を構え、狙いを定める。
「──撃つ!」
ライナーが叫ぶ。
だが、指が引き金を引くより早く、
“それ”は床を蹴っていた。
異形のフリーダが、滑るように横へと飛ぶ。
まるで液体が形を変えるような動き。
関節の存在を無視するかのような可動域で、重力を拒むかのような挙動で、
視界の端から、ぐにゃりと回り込む。
──遅い。
否。
速すぎて、“目が追いつかない”。
その直後、鋭い金属音が空気を裂いた。
ギィンッ!
鉄製の支柱に、爪がめり込む。
鉤のように湾曲した爪が、錆びた金属を抉り取った。
悲鳴のような軋みが支柱を伝い、火花が閃光のように散る。
削られた鉄片が飛び、
コンクリートの床を弾いて跳ねた。
爪は、まるで獣のそれではなかった。
それは、“武器”だった。
狩るために最適化され、
殺すためだけに研ぎ澄まされた、死そのものだった。
闇の中で、異形の身体がゆっくりと姿勢を整える。
その動きに、かつての“人間らしさ”は一片もなかった。
「距離を取れ!」
ライナーの声が響く。
エーリヒが即座にカバーリング射撃を行い、
ユリウスとクラリスは素早く後退した。
銃弾が命中する――はずだった。
確かに当たっている。
しかし、それは意味を成さなかった。
撃ち抜かれた箇所から、
血の代わりに黒い粘液が飛び散る。
だが、異形のフリーダは一切ひるまない。
流れ出した黒い液体は、床に染み込むことなく、
脈打つように震え、そのまま傷口へと吸い込まれていく。
傷が塞がる。
瞬く間に、弾痕が消える。
まるで時間を巻き戻したかのように。
「ダメだ、通常の弾では倒せない……!」
クラリスの声が震える。
ユリウスは歯を食いしばりながら銃を握り直す。
どれだけ撃ち込んでも、決定打にはならない。
「だったら、どうすれば……?」
異形のフリーダは、嗤った。
無理やり引き攣らせた唇が、異様な笑みを形作る。
その歪んだ口元は、彼らの絶望を待ち望んでいるかのようだった。
クラリスの震える声に、ユリウスは思考を巡らせる。
「焼き切るしかない。火を使うんだ!」
「火……?」
ユリウスは咄嗟に装備の中を探る。
即席の火炎放射器を作るのは難しい。だが、爆薬の火力なら――再生速度を上回るダメージを与えられるかもしれない。
異形のフリーダは、ゆっくりと首を傾げる。
まるで「それが何になる?」とでも言いたげな仕草。
だが、こちらも時間はない。
ユリウスは即座に決断した。
「ライナー! 爆薬を仕掛ける! 時間を稼いでくれ!」
ライナーは一瞬だけユリウスを見た。
彼の瞳には迷いがない。
「了解だ!」
ライナーがナイフを構え直し、一気に間合いを詰める。
同時にエーリヒがカバー射撃を行い、クラリスも支援に回る。
ユリウスは、震える指で爆薬を準備し始めた。
その間にも、異形のフリーダは弾丸を浴びながらもゆっくりと前進してくる。
傷口は塞がり続け、黒い粘液が滴り落ちるたび、死の気配が濃くなっていく。
時間がない――。
だが、まだ間に合う。
ユリウスは歯を食いしばりながら、爆薬を仕掛けるための適切なポイントを探した。
戦況は、極限にまで張り詰めていた。
ライナーとエーリヒが弾幕を張り、クラリスもまた側面から援護射撃を行う。その間に、ユリウスは工場の残骸を利用し、即席のトラップを設置した。
異形のフリーダが素早く動き、彼らの間合いに入り込もうとする。しかし、ライナーが至近距離でナイフを突き立て、その隙を作った。
「今だ!」
ユリウスは導火線に火をつけ、全員に叫ぶ。
「伏せろ!」
爆発が起こる。
燃え上がる炎の中で、異形のフリーダが不気味な悲鳴を上げた。黒い粘液が焼け焦げ、再生する間もなく崩れていく。
煙が晴れると、そこにはもう、フリーダの姿はなかった。ただ、黒い煤だけが床に染みついている。
「終わった……の?」
クラリスの息遣いが荒い。
煙が渦巻き、爆風の余韻が空気を焦がしている。
崩れた瓦礫の隙間から、火の粉がゆらゆらと舞い上がる。
爆薬の衝撃で吹き飛ばされた金属片が、床にカランと音を立てた。
しかし――
それは終わってなどいなかった。
――ズズ……ズズズ……。
黒い煤の中から、ゆらりとそれが立ち上がる。
まるで煙そのものが形を成したかのように、
崩れ落ちた瓦礫の隙間から、異形のフリーダが姿を現した。
「……嘘、だろ」
ライナーの呟きが、空気の中に沈んだ。
爆炎に包まれたはずの“それ”は、なおも立っていた。
焦げた髪が垂れ、ひび割れた肌が剥がれ落ち、
裂けた肉の隙間から、黒い粘液が止めどなく滴っている。
骨と筋と金属が混ざり合った異様な質感。
それでも──その“顔”は、彼らが知るものだった。
口元が、わずかに歪む。
笑っていた。
燃え焦げた唇の奥に、白い歯が見えた。
それはあまりにも滑稽で、あまりにも残酷だった。
ライナーとエーリヒの動きが止まる。
二人の顔に、言葉にならない衝撃が走る。
喉が、引き攣る。
指が、引き金に触れたまま、動かない。
銃は構えている。だが、撃てない。
──“彼女”がそこにいる。
記憶が、目の前の像と重なる。
凛とした瞳。
いつも真っ直ぐだった背中。
仲間を励まし、背を押してくれた声。
それらすべてが、
今、焼け爛れた異形の中で──歪んで、融けて、混ざって、
“何か”に変わっている。
違う。
これは、フリーダじゃない。
そんなことは、分かっている。
分かっているはずだった。
それでも。
ライナーの指が震える。
エーリヒの手が、銃を握ったまま硬直する。
彼らはただ、目の前に立つ“それ”を、否定することができずにいた。
撃てない。
引き金を、引けない。
まるで、“自分の記憶”に銃を向けているようで。
まるで、“まだ生きていたら”と願っていた何かを、殺してしまいそうで。
心が、指を止めていた。
脳が焼き切れるような感覚。
心が拒絶する。
目の前の存在を、認めたくない。
戦場の常識が、一瞬で瓦解する。
「──動け……!」
ユリウスの声が、空気を裂くように響いた。
その叫びは命令ではなかった。
祈りにも近い、絶望の裏返しだった。
だが、二人は応じなかった。
いや──応じることが、できなかった。
そこに立つのが“敵”であることは、理解している。
撃たねば、自分たちが死ぬ。
それも分かっている。
だというのに──その姿は、あまりにも、酷だった。
「……戦えない……」
ライナーの声は、掠れた。
喉の奥で何かが震え、言葉の形を保てずに崩れていく。
足が、わずかに後ずさる。
砂利を踏む音が、小さく乾いた。
エーリヒもまた、目を逸らせないまま、手が震えていた。
握った銃の金属の感触だけが、冷たく確かな現実を教えてくれる。
だがそれすら、どこか遠くの出来事のようだった。
撃てない。
たとえ、それが異形であっても。
──“彼女”の姿をしている限り。
その異形は、微かに嗤っていた。
歪んだ笑みが、焼けただれた頬に張り付いたまま、
ゆっくりと、一歩を踏み出す。
その足音は軽く、静かだった。
だが確かに、彼らの心を抉っていく。
まるで、その歩みが彼らの中の“記憶”を踏みにじっていくかのように。
まるで、“おまえたちは何もできない”と嘲るかのように。
──哀れだな。
そう言われたような気がした。
「チッ……!」
ユリウスが歯を食いしばる音が、沈黙を切り裂いた。
戦いは、まだ終わっていない。
「これ以上は無理だ! 奥へ移動する!」
ユリウスの叫びが響く。
クラリスがすぐに反応し、
ライナーとエーリヒへと視線を向けた。
「ライナー、エーリヒ! 立て!」
二人はまだ呆然としたままだった。
彼らの思考は凍り付き、身体の芯まで動きを封じられていた。
現実が拒絶したのか、心が崩れかけているのか――
だが、クラリスの手がライナーの腕を強く引いた瞬間、
意識が強制的に引き戻された。
「……わかった」
エーリヒが低く呟く。
ライナーも、震える手で銃を抱え直した。
ユリウスは一瞬だけ彼らの様子を確認すると、
すぐさま周囲を見渡し、工場の奥へと続く通路を指し示した。
「あの先に移動する。奴が追ってくるなら、そこで仕掛ける!」
全員が頷き、荒い息を整えながら通路へと駆け込む。
だが――その背後で、音がした。
ゆらり。
鉄の床を擦る、甲高い足音がひとつ。
不快な、耳にこびりつくような摩擦音。
それは決して走ってこない。
追いすがる足音ではなかった。
──追う必要など、最初からないとでも言いたげに。
“それ”は、ゆっくりと歩いてくる。
逃げる者たちの運命を、すでに見切っているような、
酷く、静かな足取りで。
絶望が、追ってくる。
音を伴って、彼らの背に忍び寄る。
逃げる足音の背後に、確かにそれはあった。
闇の奥から、異形のフリーダが、じっとこちらを見ていた。
燃え焦げた皮膚。裂けた頬。
そしてその瞳は──
怒りでもなければ、怨念でもない。
戦場の狂気すら宿してはいない。
ただそこにあったのは、空虚だった。
底が抜けたような無表情。
ただ静かに嗤っていた。
まるでこの状況が、“約束された結末”であるかのように。
逃げても無駄だ、と。
どこへ逃げようと、辿り着く先は同じだと。
この世界には、そう言い聞かせるような笑みだった。
ライナーの呼吸が浅くなる。
肺が空気を拒むように縮まり、鼓動が耳の奥を叩く。
エーリヒの背を、冷たい汗がつうと伝った。
皮膚の感覚が、自分の存在を痛みのように知らせてくる。
それでも。
彼らは走った。
足がもつれようとも、
喉が渇こうとも、
振り返ることなく。
──逃げ延びるために。
この“悪夢”に、
終わりという名の、確かな形を与えるために。




