Episode 4 冥哭冥濁 -Voices from Beyond- Part 3
霧に包まれた丘陵地帯を駆け抜け、ユリウスたちは古びた廃工場へと身を滑り込ませた。背後で錆びついた鉄扉を乱暴に閉じ、荒い呼吸を整える。
「ここならしばらくは持つ……か?」
クラリスが肩で息をしながら、辺りを見回した。
工場内部は長い年月放置されていたせいか、床には砕けたコンクリート片や機械の残骸が散乱し、壁の塗装は剥がれ、赤茶けた鉄骨が無惨に露出していた。
空気は湿気を帯び、腐った油と錆びた鉄の匂いが鼻を刺す。天井の一部は崩落し、そこから差し込む淡い光が、埃の舞う空間をぼんやりと照らしていた。
「とはいえ、安息の場にはなりそうもないな……」
ライナーが低く呟き、銃を構えたまま周囲を警戒する。
エーリヒもまた無言で双眼鏡を持ち上げ、僅かに開いた窓から外の様子を窺った。
「動きはない。今のところはな」
ユリウスは短く頷き、工場内の構造を確認する。
吹き抜けになっている二階部分、崩れかけた鉄骨階段、奥へと続く暗闇。影の多いこの場所は、身を隠すのには適しているが、それは同時に、敵にも潜伏の余地を与えることを意味していた。
「ここに閉じこもるわけにもいかない。どうする?」
「……まずは応急の防衛線を作る。万が一の奇襲に備えろ」
ライナーの指示のもと、ユリウスは工兵としての役割を果たすべく、腰のポーチから手持ちの爆薬を取り出した。
入り口の数カ所に即席のトラップを仕掛け、敵の侵入経路を制限する。
それと同時に、物資がわずかでも残っている可能性を探るべく、使えそうな廃材や機材を手早く確認していく。
しかし、その作業が終わる前に、異音が響いた。
ギィ……ギギ……ッ
金属が軋む、不快な音。
どこか遠くで、大きな鉄板が引きずられるような音がした。
「……外か?」
クラリスが身を硬くし、銃を握り直す。
ユリウスも作業の手を止め、静かに息を呑んだ。
音は次第に近づいてきた。
重いものがゆっくりと地面を擦る音。
それに混じる、何か粘ついた液体が滴るような、異様な気配。
エーリヒが双眼鏡を下ろし、ライナーと視線を交わす。
「……まずいな」
ライナーが低く呟く。
音は確実に、こちらに向かっていた。
「……来たか」
エーリヒが囁く。全員が息を潜め、武器を構える。
工場内の空気が一瞬にして冷えた。
ゴン……ゴン……。
外壁に何かが叩きつけられる鈍い音。
続けて、擦れるような足音。そして、壁越しに響く低いうなり声。
不規則に空間を震わせる音は、まるで意識を持たない獣の唸りにも似ていた。
「《マローダー》か、それとも……?」
クラリスが微かに唇を噛む。
息を殺して様子を探るが、外の影はすでに彼らの存在を察知しているようだった。
ギィ……ギギ……ッ。
錆びた鉄扉を、何かの“爪”が引っかく。
刃物で削るような、金属を爪弾く不快な音が、空気にこびりついて離れない。
その音が、まるで“これから起こること”を告げる鐘のように、
沈黙の中で響いていた。
「……時間がないな」
ライナーが低く呟く。
銃を構え直す手に、わずかに力がこもる。
だが、その視線の奥に、微かな躊躇が見えた。
──現れたのは、闇の奥からだった。
ゆっくりと、確実に“それ”は歩み出てくる。
薄闇に滲む輪郭。細く、白く、
まるで月光に焼かれ、影が反転したような肌の色。
顔を、ライナーは知っていた。
その輪郭を、目元を、口元を、骨の形すらも、
かつて──何度も見たはずだった。
でも、“彼女”は、そこにはいなかった。
眼差しには、温度がなかった。
言葉も、感情も、記憶の気配さえ、もう宿っていない。
それは、ただの“殻”だった。
──彼女の名を騙る、なにか。
けれど、それでも。
“知っている顔”をしていた。
ライナーは、息を呑んだ。
喉の奥が張り詰めたように固くなり、
記憶の底に沈めていた面影が、強制的に引きずり出される。
──誇り高く、気高かった。
いつも先を走り、誰よりも強く、優しかった。
その記憶が、今、
目の前で、“冒涜”されている。
「……嘘、だろ」
誰に向けた言葉かも分からぬまま。
彼の手が僅かに震えた。
それは確かにフリーダの形をしていた。
けれど、フリーダではなかった。
まるで、誰かが彼女の亡骸を引き摺り、
壊れた魂を無理やり動かしているかのようだった。
ライナーの喉がかすれた。
「お前……なのか?」
問いかける声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
その言葉に、それは応えなかった。
ただ、静かにこちらを見つめ、唇を引き攣らせる。
人の形を模しているだけの、抜け殻。
あるはずのない微笑みが、その頬にゆっくりと浮かび上がった。
フリーダの姿をした異形の敵は、一瞬だけ首を傾げる。
その表情には何の感情もなかった。
しかし、次の瞬間、口元が不自然に歪み――
それは、笑った。
引き攣った唇。人の表情を模倣しながら、そこに宿るべき感情がない。
まるで、何か別の存在が人の皮をかぶり、無理に笑い方を学習したかのようだった。
「離れろ!」
ライナーが叫ぶ。
刹那――
ギィンッ!
鋭利な金属音が響く。
異形の指先が一瞬で鋭い爪へと変形し、床を引き裂いた。
コンクリートが砕け、鋭い爪痕が白く刻まれる。
「くそっ!」
ユリウスたちは反射的に後退した。
フリーダの姿をした異形は、ゆっくりと顔を上げる。
その動きはぎこちなく、人間の骨格にはありえない不自然な動きをしていた。
それでも、足は確かに彼らへ向かっていた。
銃声が響く。
エーリヒの弾丸がフリーダの胸を貫いた。
しかし、異形の敵は倒れない。
「効いていない……?」
クラリスが息を呑む。
銃弾は確かに命中した。けれど、それはまるで意味を成していないかのようだった。
裂けた傷口から溢れ出たのは、血ではなかった。
生命の証明として流れるはずの赤ではなく、
闇をそのまま液状にしたような、ねっとりとした黒。
その液体は、重力に従うでもなく、ただ静かに落ちた。
床に触れた瞬間、それはまるで意思を持つように波紋を描きながらじわじわと広がっていく。
水でも油でもない、濡れているのに乾いたような奇妙な質感。
不定形の塊が痙攣するように脈打ち、小さな泡を生んでは弾ける。
まるで生きている。
いや、むしろ死んだ何かが、形を留めようと足掻いているかのようだった。
クラリスの指がわずかに震える。
その黒い滲みがじわじわと侵食し、床だけでなく、
この空間そのものを汚していくように思えた。
「お前は……何なんだ?」
ライナーの問いに、それは答えなかった。
代わりに――嗤った。
人の形を保ちながら、人ではないもの。
その歪んだ唇がゆっくりと引き攣る。
まるで、笑い方すら理解していないかのような、不完全な微笑み。
それは皮膚の下に何か別の存在が潜み、無理やり顔を動かしているかのようだった。
頬の筋肉がぎこちなく持ち上がり、目だけが虚ろな光を湛えたまま、どこか遠くを見つめている。
彼女のものだったはずの声は、この世界のどこにも響かない。
それなのに、ゆっくりと――
まるで、かつての仕草をなぞるかのように、フリーダの形をした異形は、静かに歩み寄ってきた。
この一歩一歩が、生者と死者の境界を踏みにじる足音に聞こえた。
ユリウスは歯を食いしばり、銃を構え直した。
「笑っている……?」
ライナーは迷いなくナイフを抜いた。
この存在がフリーダでないことは明白だった。
だが――
それでも、あまりにも酷い。
記憶の中のフリーダは、確かにそこにいた。
彼らを励まし、支え、時に叱咤し、誰よりも強くあろうとした彼女。
戦場にあっても、その瞳は決して曇らず、
どんな絶望の中でも、前を向くことを教えてくれた彼女。
けれど――
今、目の前にいるものは、それとは似ても似つかない。
形だけは同じだった。
肌の質感、髪の流れ、輪郭の柔らかさ。
だが、それらが組み合わさった先に浮かぶのは、
決してフリーダではなかった。
まるで無理やり作り上げられた精巧な贋作。
かつての姿を知る者を嘲笑うかのように、
彼女の形を借りた異形は、ぎこちなく嗤う。
そこに、魂はなかった。
ライナーは歯を食いしばった。
銃よりも、ナイフの方が手に馴染む。
目の前の“それ”を斬り裂くために、躊躇はないはずだった。
だが、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「クソッ……!」
ライナーは呼吸を整え、静かに重心を落とす。
指先に伝わるナイフの冷たさが、迷いを断ち切る刃となる。
鋼が閃いた。
刹那、異形の爪が動く。
まるで肉体を持たぬ影がゆらりと蠢くように、
それは音もなく空を裂いた。
鋭い閃きと、鈍い爪痕。
ライナーは紙一重で身を翻し、切っ先を滑らせる。
刃が目標へ届く――そう思った瞬間、異形は異様な軌道で身体をよじらせた。
関節の動きは人のそれではない。
骨すら意味をなさぬ躰が、まるで悪意そのもののように、
不可解な形を描いて避けてみせる。
「──チッ……!」
爪が床を抉る。
鋭く、無造作に。
コンクリートが裂け、粉砕された破片が宙に舞った。
細かい粒が、視界の端でちらつく。
その瞬間、ライナーは後方から着地する。
勢いを殺しきれずに一歩滑りながらも、体勢を立て直し、
咄嗟にナイフを構え直した。
呼吸が乱れる。
だが、視線は逸らさない。
──向かい合っている。
それは、かつての名を騙る“亡霊”だった。
歪んだ笑みを浮かべたまま。
感情を模した仮面のような表情で、ゆっくりと爪を持ち上げる。
白い肌が、戦場の埃と血に濁っていた。
けれど、あまりにも“あの頃の顔”に、似ていた。
ライナーの奥歯が軋んだ。
それは、もう“彼女”ではない。
記憶を冒涜するただの贋作。
死者を語り、死者を穢し、なお生を偽装するモノ。
──ならば。
ライナーは、もう一歩踏み込んだ。
足裏に力を込め、反動をそのまま刃に乗せる。
戦いが始まる。
これは、生きるための戦いじゃない。
“忘れさせてくれない存在”を、
この手で終わらせるための戦いだ。
贋作に、二度と立ち上がらせないために。
あの笑みを、もう一度“死”に戻すために。




