表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クリスタルデイズ  作者: 翌桧 寿叶
ACT.Ⅰ 虚炎
18/56

Episode 4 冥哭冥濁 -Voices from Beyond- Part 1

 翌朝、森は、白い靄に覆われていた。


 流れる霞が、静かに木々の輪郭を溶かしていく。

 すべてが淡く、すべてが曖昧だった。

 音はなかった。ただ、湿った空気が肌を刺すように染み込み、

 遠くから、朝という名の沈黙が森を満たしていた。


 冷えきった空気が、大地の匂いを引き連れて漂ってくる。

 腐葉土、苔、燃え残った焚き火の炭──

 それらの重なりが、夜を越えたことを静かに告げていた。


 ユリウスは、薄く瞼を開ける。

 視界の端で、焚き火の残骸が揺らめいていた。

 炭化した薪の間に、わずかな火種が残っている。

 かすかに立ち上る煙が、灰色の空に溶けていく。

 温もりと呼ぶにはあまりにも儚いその熱が、それでもまだ、そこに在った。


 ユリウスは深く息を吸う。

 冷えた空気が、喉を撫でて肺の奥へ染みていく。

 胸の内で、何かが静かに目を覚まし始めるような感覚。


 ──生きている。


 ただ、それだけのことを、いまは確かめている。


 隣を見ると、クラリスがまだ眠っていた。

 夜の疲れが彼女の顔に薄く影を落とし、普段の鋭い眼差しは今は穏やかに閉じられている。微かに動くまつ毛、静かな寝息。どこか幼く、儚げな横顔だった。戦場では決して見せることのない無防備な姿が、朝の薄明かりの中に浮かんでいた。


 ふと、視線を横に移す。

 ライナーとエーリヒの二人が、靄の向こうに立っていた。

 彼らの軍服には、第七機動歩兵隊ヘルダイバーズのエンブレムが縫い付けられている。赤と黒の意匠が、靄に沈む森の中で鋭く浮かび上がる。彼らはすでに身支度を整え、肩に僅かに霜を纏いながら、遠くの森の奥を見つめていた。

 微動だにせず、静かに息を潜めている。その姿はまるで、この霧の中に溶け込む影のようだった。


「目が覚めたか」


 ライナーが振り向き、低く静かな声をかけた。

 ユリウスはゆっくりと上体を起こし、冷えた体をさすった。衣服に染み込んだ夜の湿気がまだ抜け切らず、指先にじんわりとした冷たさが残る。

 戦場の朝は、ただ静かだった。

 だが、その静けさの向こうには、次に訪れる嵐の気配が、確かに息を潜めている。


「ん……早いな」

「癖だ。寝すぎると逆に体が鈍る」


 ライナーの言葉に、エーリヒも小さく頷く。


「行軍の準備を整えろ。時間が惜しい。我々《ヘルダイバーズ》は、無駄を嫌う」


 ユリウスは軽く伸びをしながら周囲を見回した。夜の間に敵が襲ってくることはなかったようだが、それでも安心できるわけではない。


「昨夜の話……」


 ユリウスが呟くと、ライナーは一瞬だけ目を伏せた。


「忘れるな、ユリウス。俺たちは《ヘルダイバーズ》だ。戦場では何よりも、生き延びることが最優先だ」


 その言葉には、昨夜の回想を通じて彼が得た信念の重みがあった。

 エーリヒも淡々とした口調で続ける。


「覚悟のない者から死ぬ。それだけだ」


 ユリウスは黙って頷いた。彼らが語る言葉は、単なる教訓ではない。彼らが体験し、苦しみ、そして乗り越えてきたものだった。

 クラリスが小さく身じろぎし、まどろみの中で目を開けた。


「……もう朝?」

「おはよう、クラリス。そろそろ行動を開始するぞ」


 ユリウスがそう告げると、彼女はまだ寝ぼけた表情のまま、小さくため息をついた。


「ふぅ……仕方ないわね」


 彼女がゆっくりと身を起こし、髪を手ぐしで整える。

 ライナーは彼女の様子を見つめながら、短く言った。


「戦場において、油断が最も危険だ。早く切り替えろ」

「分かってるわよ」


 クラリスは口を尖らせながらも、素早く装備を整え始めた。

 その時、ユリウスの携帯通信機がノイズと共に作動した。


『こちらヴィクトル。ユリウス、クラリス、応答しろ』


 ユリウスは急いで通信機を取り出し、応答する。


「こちらユリウス、聞こえている」

『無事か?』

「何とか。ライナーとエーリヒの助けがあった」

『そうか……状況は把握した。援軍を派遣した。合流地点を指定する』


 ヴィクトルの声は冷静だったが、その奥には安堵の色が混じっていた。


『東の丘陵地帯に向かえ。そこに味方の部隊が待機している。合流後は前線基地へ移動し、状況を報告しろ』

「了解」

『気をつけろ。敵の動向が不明瞭だ。早く移動しろ』


 通信が切れた。ユリウスはクラリスとライナーに向き直る。


「東の丘陵地帯が合流地点だ。ここから約二十キロの距離がある。できるだけ急ぐぞ」


 その前に、全員の所持武器を確認する必要があった。

 ユリウスは腰に吊るした小銃の弾倉を数えた。指先で触れた冷たい金属が、残りの弾数を物語っている。残りは二つ。十分とは言えないが、最低限の戦闘はこなせる。それに、一度だけ使い方を学んだだけの粘土状の爆薬。手のひらに乗せると、不気味なほど柔らかく、異様な感触が指に伝わってくる。


「弾は残りわずかだな……」


 ユリウスが呟くと、クラリスも自分の銃をチェックしながら頷いた。


「私はマガジンが三本。できれば温存したいわね」


 彼女は手早くマガジンを抜き、装填状態を確認すると、すぐに元に戻す。その動作に迷いはなかったが、わずかに眉をひそめた。

 ライナーは冷静に言った。


「俺はまだ四本ある。必要なら分けるが、基本的には節約だ」


 彼は小銃を手にしながら、まるで秤にかけるような目で周囲を見渡した。補給の見込みがない以上、どれだけ撃てるかではなく、どれだけ撃たずに済むかが重要だった。


 エーリヒは短く答える。


「問題ない」


 彼は手元のサブマシンガンを確かめる。滑らかな金属の表面を指で撫でるようにしながら、無駄な動き一つなく弾倉を抜き、装填状況を確認する。

 小型で取り回しは良いが、弾薬の消費が早く、持久戦には不向きな武器。彼の戦い方に最適化された選択だった。


「ナイフや手榴弾は?」

「ナイフは携帯済み。手榴弾は二つ」

「俺も同じだ」


 ユリウスはベルトに差した戦闘ナイフの柄を軽く指でなぞる。小銃の弾が尽きた時、あるいはそれ以前に、これを使う場面が訪れるかもしれない。

 それぞれの装備を確認し終えた時、森の奥で微かな風が木々を揺らし、湿った葉がかすかに擦れる音を立てた。戦場の静寂は、嵐の前のそれに似ている。


 簡単な装備確認を終えた彼らは、改めて移動を開始する。


 森を抜け、丘陵地帯に足を踏み入れると、視界が一気に開けた。遠くまで続く起伏の緩やかな地形が、夜の帳を払い始めた空の下に広がっている。朝焼けに染まりかけた空が、静寂を湛えながら広がり、淡い光が地表をぼんやりと照らしていた。


「ここからは遮蔽物が少ない。慎重に行くぞ」


 ユリウスが低い声で言うと、全員が無言で頷いた。

 その時だった。

 風に乗って、奇妙な音が届く。

 それは風の音とは違う、不気味に低く唸るような音。微かながら、皮膚の下に響くような震えが伴う。鼓膜の奥をじわりと侵食するような異質な音だった。


「……聞こえるか?」


 クラリスが息を詰める。

 まるで地の底から漏れ出したようなその音は、単なる風のざわめきではない。


「何かいる」


 ライナーとエーリヒも、同時に動きを止めた。

 その表情に一瞬で緊張の色が差し込み、躊躇なく銃を構える動作へと移る。

 視線の先──丘陵の向こう。

 朝靄に包まれた地平の奥に、何かが“いた”。


 黒い影。

 揺れている。


 最初は、岩陰か、もしくは霧の濃淡に過ぎないと思った。

 けれど、その輪郭は揺らぎ、わずかに、確実に、こちらに向かって“動いて”いた。

 かたちを保たない。

 けれど、消えない。


 風に流れる煙のように──けれど、煙ではない。

 視線を向けた誰もが、直感する。

 あれは“影”ではない。


 それは、質量を持っていた。

 重力に従ってそこに在る“何か”だった。


「……接近してくる。戦闘準備」


 ユリウスが低く告げ、指先で安全装置を外す。

 その音は微かで、しかし自分の心音よりも明瞭に耳に届いた。


 息を整える。

 握った銃の金属は、手袋越しにも冷たかった。

 けれど、それ以上に──背筋を這い上がってくる、言いようのない“気配”があった。

 それが、彼の警戒を鋭く突き上げる。


 もう──引き返せない。

 戦いは、避けられない。


 朝靄の向こう。

 異形の輪郭が、動く。

 まるで、こちらの存在を確かに察知したかのように。

 ゆっくりと、けれど迷いなく。

 音もなく、沈黙のなかを──獲物を狩るために、近づいてくる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ