Episode 4 冥哭冥濁 -Voices from Beyond- Part 1
翌朝、森は、白い靄に覆われていた。
流れる霞が、静かに木々の輪郭を溶かしていく。
すべてが淡く、すべてが曖昧だった。
音はなかった。ただ、湿った空気が肌を刺すように染み込み、
遠くから、朝という名の沈黙が森を満たしていた。
冷えきった空気が、大地の匂いを引き連れて漂ってくる。
腐葉土、苔、燃え残った焚き火の炭──
それらの重なりが、夜を越えたことを静かに告げていた。
ユリウスは、薄く瞼を開ける。
視界の端で、焚き火の残骸が揺らめいていた。
炭化した薪の間に、わずかな火種が残っている。
かすかに立ち上る煙が、灰色の空に溶けていく。
温もりと呼ぶにはあまりにも儚いその熱が、それでもまだ、そこに在った。
ユリウスは深く息を吸う。
冷えた空気が、喉を撫でて肺の奥へ染みていく。
胸の内で、何かが静かに目を覚まし始めるような感覚。
──生きている。
ただ、それだけのことを、いまは確かめている。
隣を見ると、クラリスがまだ眠っていた。
夜の疲れが彼女の顔に薄く影を落とし、普段の鋭い眼差しは今は穏やかに閉じられている。微かに動くまつ毛、静かな寝息。どこか幼く、儚げな横顔だった。戦場では決して見せることのない無防備な姿が、朝の薄明かりの中に浮かんでいた。
ふと、視線を横に移す。
ライナーとエーリヒの二人が、靄の向こうに立っていた。
彼らの軍服には、第七機動歩兵隊のエンブレムが縫い付けられている。赤と黒の意匠が、靄に沈む森の中で鋭く浮かび上がる。彼らはすでに身支度を整え、肩に僅かに霜を纏いながら、遠くの森の奥を見つめていた。
微動だにせず、静かに息を潜めている。その姿はまるで、この霧の中に溶け込む影のようだった。
「目が覚めたか」
ライナーが振り向き、低く静かな声をかけた。
ユリウスはゆっくりと上体を起こし、冷えた体をさすった。衣服に染み込んだ夜の湿気がまだ抜け切らず、指先にじんわりとした冷たさが残る。
戦場の朝は、ただ静かだった。
だが、その静けさの向こうには、次に訪れる嵐の気配が、確かに息を潜めている。
「ん……早いな」
「癖だ。寝すぎると逆に体が鈍る」
ライナーの言葉に、エーリヒも小さく頷く。
「行軍の準備を整えろ。時間が惜しい。我々《ヘルダイバーズ》は、無駄を嫌う」
ユリウスは軽く伸びをしながら周囲を見回した。夜の間に敵が襲ってくることはなかったようだが、それでも安心できるわけではない。
「昨夜の話……」
ユリウスが呟くと、ライナーは一瞬だけ目を伏せた。
「忘れるな、ユリウス。俺たちは《ヘルダイバーズ》だ。戦場では何よりも、生き延びることが最優先だ」
その言葉には、昨夜の回想を通じて彼が得た信念の重みがあった。
エーリヒも淡々とした口調で続ける。
「覚悟のない者から死ぬ。それだけだ」
ユリウスは黙って頷いた。彼らが語る言葉は、単なる教訓ではない。彼らが体験し、苦しみ、そして乗り越えてきたものだった。
クラリスが小さく身じろぎし、まどろみの中で目を開けた。
「……もう朝?」
「おはよう、クラリス。そろそろ行動を開始するぞ」
ユリウスがそう告げると、彼女はまだ寝ぼけた表情のまま、小さくため息をついた。
「ふぅ……仕方ないわね」
彼女がゆっくりと身を起こし、髪を手ぐしで整える。
ライナーは彼女の様子を見つめながら、短く言った。
「戦場において、油断が最も危険だ。早く切り替えろ」
「分かってるわよ」
クラリスは口を尖らせながらも、素早く装備を整え始めた。
その時、ユリウスの携帯通信機がノイズと共に作動した。
『こちらヴィクトル。ユリウス、クラリス、応答しろ』
ユリウスは急いで通信機を取り出し、応答する。
「こちらユリウス、聞こえている」
『無事か?』
「何とか。ライナーとエーリヒの助けがあった」
『そうか……状況は把握した。援軍を派遣した。合流地点を指定する』
ヴィクトルの声は冷静だったが、その奥には安堵の色が混じっていた。
『東の丘陵地帯に向かえ。そこに味方の部隊が待機している。合流後は前線基地へ移動し、状況を報告しろ』
「了解」
『気をつけろ。敵の動向が不明瞭だ。早く移動しろ』
通信が切れた。ユリウスはクラリスとライナーに向き直る。
「東の丘陵地帯が合流地点だ。ここから約二十キロの距離がある。できるだけ急ぐぞ」
その前に、全員の所持武器を確認する必要があった。
ユリウスは腰に吊るした小銃の弾倉を数えた。指先で触れた冷たい金属が、残りの弾数を物語っている。残りは二つ。十分とは言えないが、最低限の戦闘はこなせる。それに、一度だけ使い方を学んだだけの粘土状の爆薬。手のひらに乗せると、不気味なほど柔らかく、異様な感触が指に伝わってくる。
「弾は残りわずかだな……」
ユリウスが呟くと、クラリスも自分の銃をチェックしながら頷いた。
「私はマガジンが三本。できれば温存したいわね」
彼女は手早くマガジンを抜き、装填状態を確認すると、すぐに元に戻す。その動作に迷いはなかったが、わずかに眉をひそめた。
ライナーは冷静に言った。
「俺はまだ四本ある。必要なら分けるが、基本的には節約だ」
彼は小銃を手にしながら、まるで秤にかけるような目で周囲を見渡した。補給の見込みがない以上、どれだけ撃てるかではなく、どれだけ撃たずに済むかが重要だった。
エーリヒは短く答える。
「問題ない」
彼は手元のサブマシンガンを確かめる。滑らかな金属の表面を指で撫でるようにしながら、無駄な動き一つなく弾倉を抜き、装填状況を確認する。
小型で取り回しは良いが、弾薬の消費が早く、持久戦には不向きな武器。彼の戦い方に最適化された選択だった。
「ナイフや手榴弾は?」
「ナイフは携帯済み。手榴弾は二つ」
「俺も同じだ」
ユリウスはベルトに差した戦闘ナイフの柄を軽く指でなぞる。小銃の弾が尽きた時、あるいはそれ以前に、これを使う場面が訪れるかもしれない。
それぞれの装備を確認し終えた時、森の奥で微かな風が木々を揺らし、湿った葉がかすかに擦れる音を立てた。戦場の静寂は、嵐の前のそれに似ている。
簡単な装備確認を終えた彼らは、改めて移動を開始する。
森を抜け、丘陵地帯に足を踏み入れると、視界が一気に開けた。遠くまで続く起伏の緩やかな地形が、夜の帳を払い始めた空の下に広がっている。朝焼けに染まりかけた空が、静寂を湛えながら広がり、淡い光が地表をぼんやりと照らしていた。
「ここからは遮蔽物が少ない。慎重に行くぞ」
ユリウスが低い声で言うと、全員が無言で頷いた。
その時だった。
風に乗って、奇妙な音が届く。
それは風の音とは違う、不気味に低く唸るような音。微かながら、皮膚の下に響くような震えが伴う。鼓膜の奥をじわりと侵食するような異質な音だった。
「……聞こえるか?」
クラリスが息を詰める。
まるで地の底から漏れ出したようなその音は、単なる風のざわめきではない。
「何かいる」
ライナーとエーリヒも、同時に動きを止めた。
その表情に一瞬で緊張の色が差し込み、躊躇なく銃を構える動作へと移る。
視線の先──丘陵の向こう。
朝靄に包まれた地平の奥に、何かが“いた”。
黒い影。
揺れている。
最初は、岩陰か、もしくは霧の濃淡に過ぎないと思った。
けれど、その輪郭は揺らぎ、わずかに、確実に、こちらに向かって“動いて”いた。
かたちを保たない。
けれど、消えない。
風に流れる煙のように──けれど、煙ではない。
視線を向けた誰もが、直感する。
あれは“影”ではない。
それは、質量を持っていた。
重力に従ってそこに在る“何か”だった。
「……接近してくる。戦闘準備」
ユリウスが低く告げ、指先で安全装置を外す。
その音は微かで、しかし自分の心音よりも明瞭に耳に届いた。
息を整える。
握った銃の金属は、手袋越しにも冷たかった。
けれど、それ以上に──背筋を這い上がってくる、言いようのない“気配”があった。
それが、彼の警戒を鋭く突き上げる。
もう──引き返せない。
戦いは、避けられない。
朝靄の向こう。
異形の輪郭が、動く。
まるで、こちらの存在を確かに察知したかのように。
ゆっくりと、けれど迷いなく。
音もなく、沈黙のなかを──獲物を狩るために、近づいてくる。




