Episode 3 宿業抗拒 -The fire that drives me- Part 3
「……まだ来ないの?」
クラリスの声には焦りが滲んでいた。周囲を満たすのは湿地帯特有の静けさと、じくじくとした泥の感触。そして、すぐそばに迫る《マローダー》の異様な軋み。
「落ち着け……もう少しだ」
ユリウスがそう言った瞬間、湿地帯の向こうから鋭い銃声が響いた。
「伏せろ!」
ユリウスはクラリスの腕を引き、とっさに地面へと身を沈める。次の瞬間、正確な射撃が《マローダー》の頭部を撃ち抜いた。衝撃に揺られた機体が後方へ仰け反り、崩れるように膝をつく。その外殻が裂け、内部から黒い粘液が飛び散った。
弾丸の軌道を追うように、霧の中から二つの影が現れる。
「お前たち、生きてるか?」
低く冷静な声。
ライナー・ヴォルフだった。その横で、小銃を構えたまま静かに構えるエーリヒ・シュタイン。
「ライナー、エーリヒ!」
クラリスが安堵の声を漏らすが、ライナーは無言のまま再び銃を構える。
「状況は把握した。これ以上粘るのは得策じゃない。撤退する」
そう言うが早いか、ライナーは迷いなく《マローダー》の頭部へと追加の射撃を叩き込んだ。銃弾が金属を貫通し、異常な痙攣を見せながら機体がさらに傾ぐ。その隙を逃さず、エーリヒが正確なカバー射撃を放った。
別の《マローダー》が霧の中から迫るが、その動きは一瞬で封じられる。エーリヒの弾丸が、膝関節と胸部の装甲の隙間を正確に撃ち抜いたのだ。《マローダー》は制御を失い、泥の中へと崩れ落ちた。
「……助かった」
ユリウスが息を整えながら言うと、ライナーは冷静に答える。
「礼はあとでいい。今は生き延びることを考えろ」
ライナーの言葉に、ユリウスとクラリスはわずかに安堵しつつも、緊張を解かぬまま周囲を警戒する。
「敵影、まだ複数確認。増援が来る前に抜けるぞ」
ライナーがそう言うと、エーリヒが手早く撤退ルートを示した。
ユリウスとクラリスはライナーたちの後に続き、湿地帯を抜けるべく動き出した。背後では、《マローダー》の残骸が沈黙し、黒い粘液が泥に溶け込んでいく。
戦いは終わっていない――ただ、次の戦場へと移動するだけだった。
霧が立ち込める湿地帯の中、ライナーとエーリヒの援護によって、ユリウスとクラリスは辛うじて窮地を脱しつつあった。
「援護する。戦線を下げながら移動しろ」
ライナーの短い指示が、霧の中に鋭く響いた。
ユリウスとクラリスは即座に反応し、足元のぬかるみに注意を払いながら慎重に後退を開始する。足音は泥に吸い込まれ、湿地独特の不快な感触が靴底に絡みついた。
エーリヒは無言のまま、小銃を構えて後方に残る。彼の動きには一切の無駄がなく、淡々とした精度の高い射撃が《マローダー》の関節部を確実に撃ち抜いていく。銃声が霧に溶けるたびに、敵影が僅かに揺れ、ひとつ、またひとつと動きを鈍らせていった。
しかし、それでも敵の波は衰えない。
「弾は?」
ライナーが短く問う。
「残りわずか。長くは持たない」
エーリヒが静かに答えながら、次の弾倉を挿し込む。手際は冷静そのものだが、その指先には淡い緊張が滲んでいた。
「ならば、迅速に離脱する」
ライナーは周囲を素早く見渡し、霧の奥にうっすらと見える林の影を確認する。湿地の泥濘が、敵と味方の両方の足を絡め取る。視界は悪く、距離感が狂う。時間をかければかけるほど、状況は不利になる。
遠くでまた、金属が軋む音がした。
ユリウスは冷えた銃を握り直し、喉の奥にわずかに張りつくような焦燥を押し殺す。
霧は深く、敵の気配は四方に広がり、どこから襲いかかってくるか分からない。
ライナーの冷静な判断により、一行は指定された救援地点へ向かう。しかし、霧の向こうから新たな異音が響いた。
「……まずい。別の群れが接近している」
エーリヒが短く告げる。その言葉を聞くや否や、ライナーは即座に戦術を切り替える。
「全員、一気に駆け抜ける。ここで戦っても消耗するだけだ」
ユリウスとクラリスは緊張した面持ちで頷き、合図とともに全速力で撤退を開始した。ぬかるんだ湿地を蹴りながら駆ける足音、背後から響く不気味な蠢き。生き残るための戦いは、終わる気配がなかった。
霧の奥から、鋭い金属音が響く。ユリウスが振り返ると、《マローダー》の群れが湿地を越えてなお執拗に追跡を続けていた。歩くたびに泥水が跳ね、異様な蠢きとともに迫ってくる。
「くそっ、しつこい……!」
クラリスが息を切らしながら叫ぶ。彼女の顔は疲労と緊張でこわばっていた。それでも、前へ進むことを諦めはしない。
「あと少しで林に入る。そこまで持ちこたえろ!」
ライナーが前方を確認しながら言う。エーリヒは無言のまま背後をカバーし、迫る敵を正確に撃ち抜いていった。しかし、その弾倉も尽きかけていた。
「エーリヒ、弾は?」
「最後のマガジンだ」
冷静な返答。その意味は明白だった。長くは持たない。
「仕方ない……速攻で抜けるぞ!」
ユリウスはクラリスの腕を軽く引き、さらに速度を上げる。しかし、彼女の足取りが一瞬もつれた。
「……!」
泥に足を取られ、クラリスが転倒する。ユリウスがすぐに手を伸ばし、彼女を引き起こした。
「大丈夫か?」
「……ごめん」
クラリスは焦りを滲ませながら立ち上がる。PTSDの影響か、呼吸が乱れていた。
「無理するな、俺の後ろについてこい」
「……わかった」
彼女は震えを押し殺しながら、ユリウスの後ろを走った。足元のぬかるみが身体の自由を奪うが、それでも必死に前へ進む。
「もうすぐだ、耐えろ!」
ライナーの声が響く。霧の向こうに林の影が見え始めた。その瞬間、背後から異様な気配がした。
エーリヒが即座に振り向き、短く告げる。
「接近、右後方」
ユリウスとクラリスが反射的に振り返ると、《スプロウト》が這うようにして迫っていた。小さな機体が不気味な蠢きを見せながら、獲物を狙って飛びかかろうとする。
「振り切るぞ!」
ライナーの合図と同時に、エーリヒが最後の弾倉を使い切る勢いで射撃を開始する。狙いは正確で、《スプロウト》の群れをわずかに後退させることに成功した。
「今だ、走れ!」
四人は一気に林の中へ駆け込んだ。湿地とは異なり、足場の固い森の中では速度を上げることができる。背後からは不気味な蠢きが聞こえるが、視界が悪いこともあり、敵の追跡は鈍っていった。
「……振り切ったか?」
ユリウスが息を整えながら周囲を確認する。ライナーは耳を澄ませ、しばらく音に注意を向けた。
「しばらくは大丈夫そうだな。夜のうちにこれ以上深入りされるのは避けたい」
「今は休むべきだ。全員、体力を回復しろ」
エーリヒが静かに提案し、誰も反論しなかった。クラリスはその場に座り込み、深く息を吐く。
「……もう動けないわ」
ユリウスも地面に腰を下ろし、手のひらを見つめる。銃を握りしめたままの指が微かに震えていた。
「無理もない。今日は、あまりにも多く戦った」
ライナーは短く指示を出すと、無言のままナイフを抜き取った。冷たい刃が月光を受けて鈍く光り、彼の手際よい動きに合わせて枝葉が静かに落ちていく。切り払われた枝が地面に積み重なり、そこに即席の目隠しが作られていく様は、まるで戦場の幕が下りるかのようだった。
「交代で見張りをする。ユリウスとクラリス、先に休め」
ライナーの低く冷静な声が闇に溶ける。
「了解……頼む」
ユリウスは、泥と血に塗れた身体を引きずるようにして、近くの木へと身を預けた。
湿り気を含んだ樹皮の冷たさが、背中越しにじんわりと染み込んでくる。
骨の芯まで疲労が染みわたり、筋肉はすでに命令に応えようとしない。
それでも、銃は手放さなかった。
手のひらに刻まれたざらつきが、まだこの世界と自分をつなぎ止めている気がしていた。
隣では、クラリスが目を閉じている。
呼吸は浅く、胸の上下もかすかに波打つ程度。
それでも、戦闘中にはこわばっていた両手の指先からは、わずかに力が抜けていた。
ほんの一滴だけ、安堵の色が滲んでいるようにも見えた。
森の奥では、かすかに虫の声が途切れ途切れに響いていた。
しかし、それすらも遠慮がちに思えるほど、辺りを満たす空気は沈黙に包まれている。
風はない。
空気は重く湿って、呼吸のたびに肺の奥へと染み込んでくる。
土と血の、甘く錆びた臭いが肌にまとわりつき、それがこの地に“死”の気配を残していることを、嫌でも実感させた。
そして夜の闇が、静かに降りてきた。
それは単なる暗がりではなかった。
光を奪うためにあるのではなく、境界を消すために存在していた。
生と死、今日と昨日、ここが戦場であるという事実と、かつて誰かがここにいたという記憶。
あらゆる輪郭が、闇に包まれて溶けていく。
闇は、安息だったのかもしれない。
あるいは、明日への静かな準備なのかもしれない。
けれどそれを判断する余裕もないままに──ユリウスは、ただその黒のなかへ沈み込んでいった。




