補完6 第二巻『京編』~魯坊丸が宿泊していた知恩院と主な場面に登場する場所~
WEB版、小説版、共通の主な登場場所を書いておきました。
魯鈍の人―京編―では、京都の名所がたくさん紹介しております。
御所、北野天満宮、東寺、清水寺、祇園社(八坂神社)などです。
そして、魯坊丸が宿舎としたのが知恩院でした。
知恩院の北、白川に面した所に武衛屋敷を改修する為の資材置き場を確保し、魯坊丸の父親である織田信秀が宿泊する場所を知恩院に別館を築造します。そして、武衛屋敷の作業員が寝泊まりする長屋を築造し、信秀の家来や兵を寝泊まりさせる仮宿舎を建設し、上洛中に京で襲われた場合を考え、知恩院の仮宿舎で籠城できる魔改造を施します。
銭と人材を送って任せっきり、知恩院の魔改造は魯坊丸を心配する家臣らの暴走した結果でした。
なお、国土地理院の地図を参照して、配置を考えております。
鴨川は高野川と賀茂川が河合橋で合流します。
河合橋は対岸と賀茂御祖神社(下鴨神社)の三箇所を結ぶ橋だったと記禄されています。
そして、河合橋が小浜湊へ続く鯖街道の出発地点となります。
当然ですが、合流した川が氾濫するのは度々起こっており、橋や両岸がよく流されていたとそうです。
川幅は現在よりずっと広かったと思われます。
三条大橋も現在から考えると非常に質素な造りだったかもしれません。
小説では、河が氾濫して自然とできる土手があったと仮定して話を進めております。
氾濫流域を地図で示すとこんな感じとなります。
知恩院のすぐ上を走る道が鎌倉街道(東海道)であり、山科から山間を縫って京に入ってきた旅人は、鴨川に架かる三条大橋でゴールとなるのです。
知恩院の下には八坂神社、建仁寺が続きます。
書き忘れましたが、天文21年(1553年)3月に足利義輝が籠城した東山霊山城は、建仁寺の東、清水寺の北に位置する山にありました。
細川氏綱、畠山高政らが厠を借りた吉田神社は知恩院の北となります。
京に到着した魯坊丸は、鴨川にそって北の下鴨神社に向かいますが、慶次郎が行きたかった東寺は、逆の南にありました。
室町末期に京は、御所を中心とした北側を上京と、日蓮宗本国寺を中心とした町衆が団結した下京に分かれています。
この二箇所以外は城や寺などがぽつりぽつりと存在するだけでかなり閑散とした場所だったそうです。
特に桂川が氾濫して水没し、水捌けが悪い右京は荒廃していました。
東寺や西寺は何度も焼失していますが、東寺は現在も復興されていますが、西寺は現在も復興されていません。
西寺は戦国時代まで存在していたそうですが、豊臣秀吉も再建しなかったようです。
知恩院の主な配置は白川を堀として利用し、水を内に引いて極楽池を造営して防備を固めています。
平等院でも前面に池がありますが、あれは極楽浄土と現世を隔てる池です。
知恩院を極楽浄土に見立てて、極楽池を掘る事で防御力を上げています。
残念ながら知恩院と八坂神社の境界は時間がなく、空堀と板塀しかない状態です。
そもそも極楽池も完成していません。
池に水を引く上水路も水が通っていないので空堀として利用して、脇に1メートルほどの土嚢壁を積んで防御を上げていますが、気休めです。
しかし、白川を堀に見立てて立てた壁は、土を盛った安普請の壁に見えますが、中に石とローマンコンクリートで積み上げた複合の壁です。
堀の深さが2メートル、壁の高さが4メートルとなり、かなりの高さがあります。
しかし、知恩院道には壁の前に排水路(深さ1メートル)があるだけです。
攻めるなら知恩院の正門がある三門へ続く、知恩院道が攻めやすいように見えます。
まぁ、壁を越えても極楽池が立ち塞がります。
高低差が判りやすいので、国土地理院の地図を重ねると見やすくなります。
 




