六
六
紫玉は坊主が去るのを待ちかまえたように懐紙を重ねて、伯爵の釵を清めながら、
「森の小径へ行きましたか、あの坊主は?」
と訊いた。
すると父も娘も、へい、とうなづきながら、多分そうだろうと言う。――坊主はもう、影も見えなかったのである。父娘はただ、紫玉の挙動にばかり気を取られていて、その行方を追わなかったのだろう。
続けて紫玉が、この辺を歩行く門附のようなものなのかと訊ねると、父親はついぞ見かけたことはない、娘はあの人は裸足でした、と答える。旅の途中で紛れこんだ者なのか、それもわからなかった。
……などという会話の最中も、紫玉はしばしば眉を顰めていた。手にした釵を、もともと挿さっていた、横髪にかかるあたりに戻そうとしたのだが……。
「あっ」
戻そうとするたびに、いや、手を動かすたびに、なんともいえない、異な、変な、悪臭い、堪らない臭気がしたのだから。
金沢城があるのは公園を出る方角で、そちらに姿が見えないとすると、吹き矢の店がある道を上ったにちがいない。あの坊主のあとをついていく気にはならない。
そこで茶店の父娘に滝の場所を訊いてから店を後にすると、もと来た道を戻って滝に近い蓮池門から入って、いま、瓢池の汀にいるのだった。
寝殿造りの泉殿になぞらえた、飛び飛びにある池亭のどれかに、邯鄲の手水鉢という名品があると教えられていたが、聞こえるのは水の音よりも蝉の声ばかり。勝手に通り抜けができる茶屋は、昼寝の最中なのか、どの座敷もひっそりして、人の気配がなかった。
お歯黒蜻蛉が、歯を染めた女房のかすかな夢の影のように、ひらひらと一匹、葉ばかりになった燕子花を伝って飛ぶ姿は、このあたりを御殿女中がそぞろ歩きした昔の幻を寂しく描くかのようだ。紫玉は東京を発った日のことを、遠くここまで来た旅のことを、遠い昔のことのように思い出していた。
さらにはこの公園が旧藩主の庭園だと思うと、釵の贈主である貴公子の面影が浮かんでくる。伯爵の鸚鵡をどうすればいいのか。
霊廟の土が瘧を治し、護符の威光が鬼を追いはらう奇跡のように、坊主の虫歯をたちどころに癒やしたのはいいにしても、ここに来る途中も悪臭は消えないばかりか、あの坊主の口の臭気は、しだいに釵を持つ手を伝わって、袖にも移りそうな気がしてくる。
紫玉は、樹の下で日傘を畳んで、斜めの方角に滝を見ながら、瓢池の縁にしゃがんでいた。
翠滝は、日旱のために枯れてはいたが、巌には苔がむし、滝壺は森の緑を背に、蒼い水をたたえている。しかも巌に隠された裏側では、すさまじい飛瀑の音をどうどうと響かせている。これは大きな水路を隠して金沢城の用水を二重に引いていた戦国時代の名残で、敵に対する防備のために、地下を通って城の内堀に注いでいるからだという。
紫玉は池の水で釵を洗った。……あでやかな女優がこの水ならばと頼んだ池の水面は、萌黄色の薄絹のような波紋を広げながら釵を清めてくれたように見えたのだが、持ち直して黒髪に挿そうとすると、耳のそばにも寄せられない。
「あっ」
と声が出てしまうほど、離れたところからでも、臭い臭いがツンと鼻をつく。
雫を切ると、雫までがプンと臭う。たとえば貴重な香水の一滴が散るように、洗えば洗うほど、流せば流すほど、臭いが広がる……二、三度、四、五度と繰り返すうちに、指にも、手にも、しまいには緑碧紅黄の宝玉の指輪にも、言いようのない悪臭がむっと吹きかかるように思われたので、……
「ええいっ」
紫玉はスッと立ち上がると、はずみをつけて腕を一振りした。
「池の主におなりよ」
プラチナの羽を散らすようにちらちらと光らせながら、釵は真蒼な滝壺の水に沈んでいく。……あわれかな、呪われた聖なる禽よ。お前は熱帯の密林に放たれずして、山地の碧き深淵に身を委ねられたのである。
……すると、この奇妙な珍客を出迎えた、あるいは不思議な餌を奪いあう魚たちが尾ひれを跳ねるかのように、静かな池の水面に眠る魚のように縦横に横たわった何千もの樹の枝々の影が、いっせいに揺れ動いた。
その様子にぞっとして、いったんは肩をすぼめた紫玉は、やがて袖を開いてひらひらと翼のようにはためかせた。いまわしい移り香を振り払いたかったせいでもあるし、高貴な鸚鵡の釵を思い切って池に放ったために、胸の鼓動が高鳴ったせいでもあった。なおも余韻のようにはらはらと袖を振るいながら、ふと飛びのくようにして、滝の下を横切る小径に進むと、橋のたもとにたどりついた。
石の反り橋である。巌と石を牡丹の花のように相互に組みあわせて築き上げた橋で、名を黄門橋という。その反り橋の真ん中に立って、ほっと一息ついた紫玉は、すらりと伸ばした背筋のように、心も晴れやかであった。