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 紫玉(しぎょく)は坊主が去るのを待ちかまえたように懐紙(かいし)を重ねて、伯爵(はくしゃく)(かんざし)を清めながら、

「森の小径(こみち)へ行きましたか、あの坊主は?」

 と訊いた。

 すると父も娘も、へい、とうなづきながら、多分そうだろうと言う。――坊主はもう、影も見えなかったのである。父娘(ちちこ)はただ、紫玉の挙動(ふるまい)にばかり気を取られていて、その行方を追わなかったのだろう。

 続けて紫玉が、この辺を歩行(ある)門附(かどづけ)のようなものなのかと訊ねると、父親はついぞ見かけたことはない、娘はあの人は裸足(はだし)でした、と答える。旅の途中で紛れこんだ者なのか、それもわからなかった。

 ……などという会話の最中も、紫玉はしばしば(まゆ)(ひそ)めていた。手にした釵を、もともと()さっていた、横髪にかかるあたりに戻そうとしたのだが……。

「あっ」

 戻そうとするたびに、いや、手を動かすたびに、なんともいえない、(おかし)な、変な、悪臭(わるぐさ)い、(たま)らない臭気(におい)がしたのだから。

 金沢城があるのは公園を出る方角で、そちらに姿が見えないとすると、吹き矢の店がある道を上ったにちがいない。あの坊主のあとをついていく気にはならない。

 そこで茶店の父娘(おやこ)に滝の場所を()いてから店を後にすると、もと来た道を戻って滝に近い蓮池門(れんちもん)から入って、いま、瓢池(ひさごいけ)(みぎわ)にいるのだった。

 寝殿造りの泉殿(いずみどの)になぞらえた、飛び飛びにある池亭(ちてい)のどれかに、邯鄲(かんたん)手水鉢(ちょうずばち)という名品があると教えられていたが、聞こえるのは水の音よりも(せみ)の声ばかり。勝手に通り抜けができる茶屋は、昼寝の最中なのか、どの座敷もひっそりして、人の気配がなかった。

 お歯黒(はぐろ)蜻蛉(とんぼ)が、歯を染めた女房のかすかな夢の影のように、ひらひらと一匹、葉ばかりになった燕子花(かきつばた)を伝って飛ぶ姿は、このあたりを御殿(ごてん)女中がそぞろ歩きした昔の幻を寂しく描くかのようだ。紫玉は東京を発った日のことを、遠くここまで来た旅のことを、遠い昔のことのように思い出していた。

 さらにはこの公園が旧藩主の庭園だと思うと、釵の贈主(おくりぬし)である貴公子の面影が浮かんでくる。伯爵の鸚鵡(おうむ)をどうすればいいのか。

 霊廟(れいびょう)の土が(マラリア)を治し、護符(ごふ)の威光が鬼を追いはらう奇跡のように、坊主の虫歯をたちどころに()やしたのはいいにしても、ここに来る途中も悪臭(わるぐさ)は消えないばかりか、あの坊主の口の臭気は、しだいに釵を持つ手を伝わって、(そで)にも移りそうな気がしてくる。

 紫玉は、樹の下で日傘を畳んで、斜めの方角に滝を見ながら、瓢池(ひさごいけ)(へり)にしゃがんでいた。

 翠滝(みどりたき)は、日旱(ひでり)のために枯れてはいたが、(いわお)には(こけ)がむし、滝壺は森の緑を背に、蒼い水をたたえている。しかも(いわ)に隠された裏側では、すさまじい飛瀑(ひばく)の音をどうどうと響かせている。これは大きな水路を隠して金沢城の用水を二重に引いていた戦国時代の名残で、敵に対する防備のために、地下を通って城の内堀に注いでいるからだという。

 紫玉は池の水で(かんざし)を洗った。……あでやかな女優がこの水ならばと頼んだ池の水面は、萌黄(もえぎ)色の薄絹(うすぎぬ)のような波紋を広げながら釵を清めてくれたように見えたのだが、持ち直して黒髪に()そうとすると、耳のそばにも寄せられない。

「あっ」

 と声が出てしまうほど、離れたところからでも、(くさ)い臭いがツンと鼻をつく。

 (しずく)を切ると、雫までがプンと臭う。たとえば貴重な香水の一滴が散るように、洗えば洗うほど、流せば流すほど、臭いが広がる……二、三度、四、五度と繰り返すうちに、指にも、手にも、しまいには緑碧紅黄(りょくへきこうこう)の宝玉の指輪にも、言いようのない悪臭がむっと吹きかかるように思われたので、……

「ええいっ」

 紫玉はスッと立ち上がると、はずみをつけて腕を一振りした。

「池の(ぬし)におなりよ」

 プラチナの羽を散らすようにちらちらと光らせながら、釵は真蒼(まっさお)な滝壺の水に沈んでいく。……あわれかな、呪われた聖なる(とり)よ。お前は熱帯の密林に放たれずして、山地(さんち)(あお)深淵(しんえん)に身を(ゆだ)ねられたのである。

 ……すると、この奇妙な珍客を出迎えた、あるいは不思議な(えさ)を奪いあう魚たちが尾ひれを()ねるかのように、静かな池の水面に眠る魚のように縦横に横たわった何千もの樹の枝々の影が、いっせいに揺れ動いた。

 その様子(さま)にぞっとして、いったんは肩をすぼめた紫玉は、やがて(そで)を開いてひらひらと翼のようにはためかせた。いまわしい移り香を振り払いたかったせいでもあるし、高貴な鸚鵡(おうむ)の釵を思い切って池に放ったために、胸の鼓動が高鳴ったせいでもあった。なおも余韻のようにはらはらと袖を振るいながら、ふと飛びのくようにして、滝の下を横切る小径に進むと、橋のたもとにたどりついた。

 石の()(はし)である。(いわ)と石を牡丹の花のように相互に組みあわせて築き上げた橋で、名を黄門橋(こうもんばし)という。その反り橋の真ん中に立って、ほっと一息ついた紫玉は、すらりと伸ばした背筋のように、心も晴れやかであった。


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