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泉鏡花『伯爵の釵』 現代語訳 (antiAI ver.)  作者: らいどん


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11/15


 ――水のすぐれ覚ゆるは、

 西天竺(せいてんじく)白鷺池(はくろち)

 じんじょうきょゆうにすみわたる、

 昆明池(こんめいち)の水の色、

 行末(ゆくすえ)久しく()むとかや。


「お待ち」

 紫玉(しぎょく)は耳を澄ました。

 芝露(しばつゆ)模様を描いたような道ばたの、曲がりくねった小川のほとりで、さらさらと音をたてる流れの底に、耳慣れない、沈んだ、陰気な調子の三味線に合わせて、かすかに唄う声がする。

 聞こえたのは、水の白拍子(しらびょうし)を唄った『島の千歳(せんざい)』という長唄で、水の名勝を並べ挙げているのである。

「――坊さんではないかしら……」

 紫玉は胸を高鳴らせた。

 あの漂泊(さすらい)の芸人は、鯉魚(りぎょ)の奇跡を目にした紫玉にとっては、もはや、(うみ)の汁にまみれた、(つば)(よだれ)の臭い、たんなる乞食坊主ではなかった。

「……あの三味線は」

 夜の暗がりの、しかもこんな場所で、もしかして……と思ったとき、かき消えるように音が止んだ。ひたひたと小石を(くぐ)って響く水は、忍ぶ足音のように聞こえる。

 紫玉は立ち止まった。

 ふたたび、どんな流派ともわからない三味線の音がもの淋しげに響いて、


 ――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿ことごとしや、何処(いずこ)にて舞いて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳(ひととせ)百日の(ひでり)の候いけるに、賀茂川(かもがわ)桂川(かつらがわ)水瀬(みなせ)切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候いけるに、――


 鎌倉殿、つまり(みなもとの)頼朝(よりとも)の世に、日本中の人々が日旱(ひでり)で苦しんだという、『義経記(ぎけいき)』の一節を唄い語っているようだ。

 それを聞く三人の女優は、耳を澄まして(そで)を合せたのである。


 ――有験(うげん)の高僧貴僧百人、神泉苑(しんせんえん)の池にて、仁王経(にんのうきょう)を講じ奉らば、八大竜王(はちだいりゅうおう)慈現(じげん)納受(のうじゅ)たれ給うべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を(しょう)じ、仁王経を講ぜられしかども、その(しるし)もなかりけり。また(ある)人申しけるは、容顔美麗なる白拍子(しらびょうし)を、百人めして、――

 (――神泉苑の池のほとりに招かれた百人の高僧が八大龍王に読経(どきょう)を捧げても、雨は降らなかった。続けて百人の美しい白拍子が集められて――)


御坊様(ごぼうさま)

 今は疑いの気持ちも消えて、御坊様と呼びかけながら暗闇を透かし見した紫玉が、声がするほうに、すがるように歩み寄ったとき、

()を消せ」

 と、静かではあるが力強い声がした。

提灯(ちょうちん)を……」

「はっ」

 と返事をして、はあはあと息をはずませながら、一度消しそこねた蝋燭(ろうそく)の火を、慌ただしげに吹き消した。玉野の手は震えていた。


 ――百人の白拍子をして舞わせられしに、九十九人舞いたりしに、その験もなかりけり。(しずか)一人舞いたりとても、竜神示現(じげん)あるべきか。内侍所(ないしどころ)に召されて、(ろく)おもきものにて候にと申したりければ、とても人数(ひとかず)なれば、ただ舞わせよと仰せ下されければ、(しずか)が舞いたりけるに、しんむしょうの曲という白拍子を、――

 (――九十九人の白拍子が祈りながら舞っても、雨乞(あまご)いの効果(ききめ)はなかった。最後の一人である(しずか)が舞っても竜神に聞き入れてもらえるのだろうかと疑問に思われるなか、静はしんむしょうという白拍子の曲を舞いはじめた。――)


 ()を消すと真の暗闇とはならず、あたりはかえって朦朧(もうろう)として、薄く鼠色(ねずみいろ)にほのめいている。向こうにある石の反橋(そりばし)欄干(らんかん)のあたりに、灰色になってうずくまる、剃髪(ていはつ)の頭に墨の法衣(ころも)の影があるように思えたが、よく見ればなんと、欄干に胡座(あぐら)をかいて唄っているのだった。

 その橋は、紫玉にとって記憶に新しい、(いわ)を組んで造られた、あの黄門橋(こうもんばし)だった。ふと気づけば、例の隠れ滝の音は遠くどうどうと鳴って風のように響いている。だが、その大音量にも、(かす)れ聞こえる三味線の音は乱れず、ほとんど口を開かずに語るような唄声も(さえぎ)られず、ちょうど嵐の下音(したね)となった虫の声のように、はっきりと耳に届く。しかし、唄う姿は()えてはいない。だらしなく前屈みになって、坊主頭をがくりとうつむけて唄うので、うなじのあたりから突き出た三味線の(さお)を押さえる手つきは、鬼が(つの)を弾くようだとはとても言えない。むしろ黒猫が顔を洗っているかのようである。


 ――なから舞いたりしに、御輿(みこし)(たけ)愛宕山(あたごやま)(かた)より黒雲にわかに出来(いでき)て、洛中(らくちゅう)にかかると見えければ、――


 と唄い続ける。……紫玉は屈んで頭を下げ、女弟子たちはその背後(うしろ)にしゃがんでいた。


 ――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏(あんおん)なりければ、さてこそ(しずか)の舞に示現(じげん)ありけるとて、日本一と宣旨(せんじ)(たまわ)りけると、承り候。――

 (――静が舞うと山々から黒雲が()き、八大竜王の霊験(れいけん)あらたかに三日間の大雨が降り続いて、国土は救われた。後白河(ごしらかわ)法皇(ほうおう)は静を日本一と宣旨なされたという。――)


 と、静御前(しずかごぜん)の雨乞いのくだりを語り収めた坊主は、しばらく沈黙していたが、

「太夫様」

 驚くほどにさりげなく、声をかけてきた。

「はっ」

 と紫玉は、呼吸(いき)を吸うようにして答えたが、身を震わせた彼女の帯がキキッと衣ずれの音をたてて鳴ったほど、深く身に染みて僧の声を聞いたのである。

「この癩坊主(かったいぼうず)のねだりごとを受け入れて、高貴な(かんざし)を棄てられた、その心ばえに心を打たれたゆえ、わずかながらの返礼として、ちと内緒(ないしょ)のことをお聞かせいたす。貴方(あなた)、雨乞いをなさるがよい。

 天の時、地の利、人の和が揃う今が、まさにその時じゃ。

 この公園の(かすみ)ヶ池の中洲(なかす)の島に仮の法壇(ほうだん)を設けて、雨乞いをすると人々に知らせてな。……(はかま)練衣(ねりぎぬ)烏帽子(えぼし)狩衣(かりぎぬ)を身につけた、白拍子の姿がよかろう。周囲から人々が見守るなかで、貴方の姿を島の柳の上に高々と示して、大空に向かって礼拝をなされ。祭文を読むことも歌を歌うことも不要じゃ。天竜が雲を追い起こし、雷を放ち、雨を(みなぎ)らせるのは、明日の夕刻が近づく頃、(さる)上刻(じょうこく)であること決して間違いはない。国境(くにざかい)の山のいただきが、赤く、黄に、重ねたもみじが盛りとなったその奥に、白蓮(びゃくれん)の花か、手中の宝玉であるかのように白くそびえるは、春夏秋冬と雪を(いただ)いて幾万年となる白山(はくさん)じゃ。

 貴方が時を見計らって、その鸚鵡(おうむ)(かんざし)を抜き、白山に向けてかざすのを合図に、雲は竜のごとく湧いて出るだろう。――よいか、そうして今以上の名声を集めるがよい」

 ふたたび長唄を弾き歌いながら、坊主は姿を消した。


 ――賢人(かしこびと)(つり)を垂れしは、

 厳陵瀬(げんりょうらい)の河の水。

 月影ながらもる夏は、

 山田の(かけひ)の水とかや。――……


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