災禍の魔剣士 と 残火の魔女
魔剣にも序列がある。大きく分ければ属性の魔剣と権能の魔剣、六本ずつに。
その中でも始まりの「火」や、時間という概念にさえ干渉しえる「光」と「影」、罪に対する絶対的な罰である「執行」等、優位的に語られるものがある、ということだ。
その中でも特異、一切を語られること無く、頑なに秘される故に知らぬものが居ないと言われる一振がある。それ即ち「終」。全てを終わらせる一振であり、全てが潰える時そのものである━━
「実に下らない。」
そう一蹴した男が、古びた表紙を畳んで埃を舞い上がらせる。冷えた地下の空気が湿気を孕んでまとわりつき、男の外套を死体のように冷やしていく。
不快感に抗うことなく、用を終えた男は地下書庫を出る。日差しにより温められた風が訪れ、室内を失礼な程に駆けている。
「なんの用だ。」
「ご報告を。」
風の動きを見て、男が背後に問いかける。それに応えた声は、続けて内容を口にする。
「ここより東に、土と語らう者ありと噂が。事実、農作物の多くがそこより流れています。」
「ちょうど手暇だ、私が向かおう。下がれ。」
「御意。」
収穫の為にはどうせ自分が動く。ならば確認も己で行うのが早い。脚に真っ直ぐな純白の短剣を突き立て、彼は走り出す。空を翔けるように……否、本当に宙を駆けている。
人とは思えない挙動をする男の脳裏には、己の所有する幾つもの紋様が浮かんでいる。大量の端数以下を切り捨て、使えるものを抜粋し、手札として加える。アレを狩るのには、もう少し足りない。
「【御伽】も【刹那】も【創世の記録】も……全て貰い受けるぞ、【魔狼】。」
駆け出した男のいる教会より、遥か先。場末の居酒屋にて一人の男が潰れていた。
彼の名はギルツ。状況に反して軽率とは言い難い……とも言いきれない男である。というのも、周囲に囃し立てられ、一気に飲み干した故の惨状なのだから。
「マジで一杯で潰れるたァな……」
「言ったろ? うちのマスターは下戸だってよ。」
「煩いぞ、サクスム……頭に響く。」
「んな叫んでねぇだろ。」
「素でデカイんだ、お前の声は!」
荒げた声に自滅したか、再び突っ伏したギルツ。彼の前で、大柄な男二人が肩を竦めた。
サクスム、と呼ばれた方の男が机に立てかけていた大剣を取り上げ、背に担ぐ。
「なんだ、もう出るのか?」
「程よく酔ったしな。次の依頼、夜のうちに出ときたいんだよ。」
「馬車でも出てるのかよ、こんな時間だっつーのに。」
「知り合いなんだ、融通してもらったさ。んじゃ、マスターを頼んだぜ〜。」
「おい、待てよ! ……行っちまったよ。」
押し付けられた男がどうしたものかと悩みながら、追加の酒を注文する声を背中に受けつつ、街の外まで歩く。
冷えた夜風が火照った顔に心地よい。ズシリと背中に感じる重みに頼もしさを感じながら、ゆっくりと拳を作り、開く。
「やっぱ、まだ本調子ともいえねぇか……」
並の男であれば、握手すれば骨が嫌な音を立てるような力を持ちながら、そう呟くサクスム。一度、前線を退いた彼の腕は、僅かな痙攣を繰り返していた。
剣士にとって、力と速度に並んで重要なのが技術である。背負った【土の魔剣】は、重く長く堅い。力が重要なのは勿論だが、斬撃が当たった瞬間の衝撃は速度で決まる。
そして、太刀筋は技術で決まる。何処に斬るか、如何に斬るか。極端に言えば、完全に振れていない剣等は鎧を棒切れで叩くのに等しい。弱点を見抜き、そこへ的確に刃を立ててブレずに振り切る事。剣士の腕と誇りは、その基礎に集中する。
「今の俺じゃ、力でしかマスターに勝ってねぇ……アイツの弟子に抜かれてるんじゃ、やってられんわな。」
今回の依頼。少しでも勘を取り戻す手助けになれば良いのだが。今の腕でも、かつてと同じ剣を振る。それが叶わねば、この男の誇りが許さなかった。
知り合いのツテを頼り、荒事の依頼を探すこと数件。奇妙な依頼を手に取りギルドに赴いたのが今朝の事だ。昼間から呑んでいたのは時間を潰す為。今から馬車に乗れば、仮拠点とする街まで夜には着く。
「おぅ、デカブツ。遅刻だ遅刻。」
「うるせぇやい、成金ヤロー。これみよがしに手持ち時計なんざ見せつけやがって。細けぇんだよ!」
「商売にはこういう小さい時間が大事なんだよ。そら、乗れ乗れ!」
「護衛してやんだから金は払わねぇぞ。」
「ケチくせぇ……とも言えねぇか。アレがなぁ……」
彼の呟いたアレこそ、今回の依頼のターゲットなのは承知している。森の木々が鏡面のように美しく切り取られた怪事件、そして目撃された不審者。
その捕縛ないし討伐━━もしくは勧誘。この依頼を見つけた時、近くにいたギルツと話した結果、魔剣士である可能性を相談していたのだ。
着いてくると言い張る彼を酒で潰し、単独行動に成功した。もし本当に魔剣士なら、素晴らしい技量の剣士と命の取り合いをするような打ち合いが出来る。かつての感覚を取り戻すのに、これ以上ない条件に思えた。
「頼むぜ〜、今回で終わりにしてくれよ? 馬車が両断された、なんて噂もあんだからよ。」
「そりゃ向こうさん次第だな。」
「お前、仕事はしろよ?」
「わぁってるよ、やるやる……」
「おい、寝るなよ。護衛だろ? おーい……寝やがった。」
どうせ争いの気配がすれば目が覚める。到着するまでのつかの間の休息を楽しむ事にした。
それは、あまりに突然だった。
争い? 殺気? そんなものは無い。ただ淡々としていた。まるで眼前にある死肉に齧り付くような仕草だった。
「おい、おいサクスム! 生きてるか?」
「なんとかな……寝相悪ぃのに救われるたァ思わなかったが。」
真っ二つになった馬車から、散乱した荷物を押しのけて外に出る。積荷が散々だと言うのに、真っ先に心配してくれるとは、お人好しな奴だと笑った。
強めにつき飛ばせば、ゴロゴロと転がる行商人。土を吐き出しながら立ち上がる彼の横で、地面がバックリと裂けていた。
「逃げろ。」
「言われなくても! 終わった後で飯奢れよ、来るまで待ってるからな!」
「分かった分かった、気が向いたらな。」
その前に生きて帰れれば、だが。崩れた幌の影から、痩せこけた人物が此方を伺っている。無手だ。
だが人間業とは思えないこの事象を起こしたのは、きっと奴だ。魔剣士か、【トガビト】か。どちらにせよ、何か得物があってもいい筈だ。
「よぅ、兄ちゃん。少しばっかり俺と話でもしねぇか?」
「…………ウせろ。」
掠れて嗄れた、人の言葉。年齢や性別さえ伺うことの難しい声、いや音。その人間が無造作に手を上げると、影が広がり……いや、違う。移動した。
まるで刀の様に、暗いところをそのまま切り出して動かしたような、日中の薄い黒。それを左手に持った奴が動き出す。緩慢だが、必要最低限を満たす為だけの最短距離の動き。
「シね。」
「うぉ!?」
近い。抜刀する間もなく潜り込まれた先で、無作為に振られた一手。腕を蹴り飛ばす事で強引に逸らしたそれが、サクスムの鼻頭を擦っていく。
斬られて分かる異様性。硬質な刃が肉を掻き分ける感触ではない。通過した場所が、自然に切離した。呆気なさすぎる死の気配に、全身が総毛立つ。
「間違いねぇな、お前さん。魔剣士か!」
「ナンのハナしだ? キえろ! キえろ! キえてくれ!!」
「あぁ、もう! 技もクソもありゃしねぇ。」
確かに的確、無駄の一切が削ぎ落とされた最速最小の一太刀。だが、それを矢鱈に継ぎ接いだのなら、ただ振り回すのと大差ない。
予測が効かない代わりに、誤魔化しやフェイントも無い。刃が立っていないのは、この魔剣の前には論ずる必要は無さそうだが。
「速さだけがいっちょ前なら、これでどうだ……よ!」
鞘を止めていたベルトを引きちぎり、背から肩に担いだ大剣を抜き放つ。無骨で、ゴテゴテしく、しかし荘厳。霊峰を思わせる威圧感が、頭上から振り落とされる。
「ぶっ飛ばせ、【土の魔剣】!」
叩き伏せた大地が隆起し、まるで隕石でも落ちたかのようにクレーターを作り出す。吹き飛ばされた人間が土埃を払いながら姿を探せば、巨漢は隠れる事など何も無いとばかりに仁王立ち。
爆ぜた土の一部が強固に纏わりついた魔剣は、抉り出した大地を持ち上げているよう。岩石にさえ見える刀身を引きずり、迫る。
「そおらぁ!」
「ぐっ……!」
引きずる勢いのまま、振り上げる。土を巻き込んで豪快に弧を描く刀身が唸りを上げ、対象を空へと打ち上げた。
着地の硬直に、更に増大した刀身が横凪に振るわれる。それは手に持つ影で両断し、一歩を詰める人物に、サクスムの巨体が迫る。タックルだ。
「随分と軽いんじゃねえのか?」
転がした人物の左手を踏みつけ、覗き込むサクスム。とりあえず話でも聞くかと考えた彼の耳が、ゾッとする気配と共に裂ける。
「……二本目!?」
「シぃねえぇ!」
先程より遥かに小振りだが、確かに同じもの。油断していた彼の首に迫るそれを、黒い刀身が防いだ。
「……マスター!」
「勝手に行っておいてこれは無いんじゃないか、サクスム。」
「そりゃ……面目ねぇな。」
新手の参入に、細身の人物が野生の獣のように距離を取り威嚇している。向けられた透明な黒の刀身に、ギルツが右目を閉じながら口を開く。
「【影の魔剣】か。本体は抜かないつもりらしいが……魔剣でも打ち合うのは得策では無いな。斬られるぞ。」
「今、受け止めたがな?」
「俺の執行と……守護は別だ。不変の規定が概念だからな。書いてあるぞ、読むか?」
「いや、良い。魔剣同士の上下関係ってやつかね……」
傍に浮かぶ【創世の記録】。魔剣を記し、内包する書物を示すギルツへそれを押し返し、構え直すサクスム。
彼の横に立ち、その剣をチラリと見たギルツが右眼を開眼して苦言を呈した。
「書物が無い以上、属性の魔剣は直せん。壊すなよ?」
「はいよ、マスタぁ!」
言うが早いか、力任せに振り上げられた魔剣が地盤ごとひっくり返したかのような衝撃とともに敵の魔剣士に迫る。
足場がそのまま襲ってくるような光景だが、陽の光を遮ったその一瞬、濃く大きな影が揺れズレて長大な一振となる。
そのまま横凪に一閃。迫っていたギルツごと斬る軌道で全てを切り伏せる。視覚外からの最速の一撃だが、それも開眼したギルツには見切れている。
「そこだ……!」
「ナンなんだ、おマエタチは!」
「回収人だ、その一振を貰い受ける。」
突き出される【執行の魔剣】に、振り上げた贋作の影がカチ当たる。身を捻り、紙一重で回避したギルツがそのまま魔剣を突き込めば、ジャラリと音がなり直剣が畝った。
何節にも別れた刃が、鞭のようにしなり影を絡め取る。当然、先端はかなりの速度で回転し、対象へと襲いかかる。
通常ではありえない挙動だが、剣先は確かに真っ直ぐに突き出され、腕を切り落とした。ドロリとした血液が垂れ、意識を手放した魔剣士がギルツへと倒れてきた。
「おい、マスター。ちと、やりす」
「死んでる。」
「ぎじゃな……死んだ?」
「あぁ。既に危険な状態だったのに、無理に動いていたのだろう。見ろ、出血がほとんど無い。」
「いや、異様だろ。流石に。」
小さな水溜まり程の血の跡。とっくに枯れ果てたそれを作り、それ以降は断面から血は垂れて来ない。動ける状態では無かった筈だ。
「魔剣に喰われたんだろう。影の魔剣は切離と隠蔽、停止の概念を司ると記されていた筈だ。体からの危険信号を全て隠蔽し、気力だけで動いていたんだろうな。渡るべきでない者へ渡った訳だ……ん?」
「どうした?」
「無い。」
「何が。」
「件の魔剣だ。」
殆ど骨のような遺体を探るが、見つからない。影を切離し、刀剣とするなど【影の魔剣】以外に見当は付かない。きっとある筈なのだ。
誰かに盗られるような間も無かった。持っていなかった等と、考えたくも無い。
「俺も探そう。どんなのなんだ?」
「柄の無い、片刃で細身の曲剣だ。他の言い方をするなら、聖柄の刀だな。」
「嬢ちゃんの【風の魔剣】みたいなもんか?」
「あれは舞踏にも使われるサーベルだろう。あれより肉厚で刃幅は短い。刀を見た事が無いか?」
「無いな。」
「剣というにはあまりに細く頼りなく見えるが、芸術だぞ、あれは。」
関係の無い方向に逸れていく話のように、捜索もどんどんと迷走していく。馬車の残骸や、【土の魔剣】が掘り返した地面など、探す場所は限られている。しまいには飲み込んだかと、遺体を切る切らないの話になってきた。
「だから、やめとけって。どんだけ飢えてようが武器は食わねぇって!」
「いや、もうここぐらいしか無いだろ。見つかりませんでしたで済むものでも無い。」
「どんだけ魔剣が欲しいんだよ。」
「野放しに出来るものか。魔剣の管理は代々、俺の一族の使命だ。」
「そんなもん捨てちまえよ。」
「断る。第一、危険でしかない。特に【影の魔剣】は、呑まれ易い一振だ。所有者がどうなるか分からん。」
「それは分かった、だから剣を置けよ。絶対ねぇから。」
二人の男が遺体を巡って騒いでいる。そんな時に、もっとも会いたくない人物の手が、ギルツの肩に置かれた。
「失礼、詳しい話を聞かせてもらっても?」
「え、衛兵……」
「まて逃げんなマスター、俺たち捕まるような事してねぇから。逆に怪しいからよ。」
魔剣が無い以上、誤解を解くのは半日を要する事になった。目撃者としてサクスムの友人が来てくれなければ、もう数日は缶詰だったかもしれない。
「しかし、不思議な話だな。消えた魔剣の謎ってか。本当かは知らねぇが。」
「嘘言ってどうすんだよ。お前も見たろう、真っ二つの馬車の傍に転がってた無手の死体をよ。んで? 贋作ってのはどういう意味だなんだ。」
「その通りの意味だ。【土の魔剣】で纏わせている岩塊に近い。【影の魔剣】は、魔剣の特性を付与した影を、切り出して剣にするんだ。」
「影って……物じゃねぇじゃん。」
「俺の土とは違うだろ、どうなってんだよ。」
「理解できない力を内包するから魔剣なんだ。」
目の前の肉にナイフを差し入れ、大きな一口に切り出したギルツが頬張る。リンゴの酸味とワインの香りが広がった。
「魔剣は所有者が力を使える。逆に言えば、その瞬間に持っていなければ力は使えない。サクスムの話じゃ、奴は剣を切り出したんだろ?」
「あぁ、それは確かだな。」
「なら確実に持っていた筈だ。」
「狸にでも化かされたんじゃねぇのか?」
「……化かされた、か。」
口の中の物を腹へと落とし、もう一度思い起こして行く。そして、まだ探していない所を思い出す。剣とともに、あの場から消えたもの。だが、今もここにあるもの。
「すまん、用事が出来た。失礼する。」
「おい、マスター?」
「伝票置いてけ〜、何かの縁だ。」
「ありがとよ、今度、家具でも一式買わせて貰うわ。おい、マスター! 待てって。」
追いかけるサクスムが周囲を見渡せば、街から出るギルツが見える。人には文句を言うくせに、単独行動の好きなクランマスターである。
「どこ行くってんだよ、こんな夜中に。」
「森だ。近くにあっただろう。」
「あぁ……そもそも依頼の内容はそっちだったな。」
「それは、恐らく別件だが。ここまで来れば良いか。」
右に比べ、明らかに短い左の袖を捲りあげ。瞑目したギルツの腕が淡く発光する。裂ける肉、割れでる骨、その錯覚と共に現れた書物。
白く輝く金縁に彩られた、漆黒の本。彼が彼である為の証であり、誇りであり、力。【創世の記録】と呼ばれる書物である。
「いつ見ても痛そうだな……」
「対価にしたこの腕に痛覚なんて高尚なモンは残ってないさ。それより、見つけたぞ。」
「あん、なにを?」
「件の一振だ。こんなところに……紛れてやがった。」
明らかに毛色の違うページを引き抜いたギルツの手の中で、文字が輪を描き質素な柄が出現する。引き抜かれた黒い……いや暗い色合いの剣は、その異様な雰囲気を感じれば、先の光景を見ていなくても分かるだろう。
「ソイツが【影の魔剣】か。」
「あぁ。所有者がくたばった瞬間に、俺の下巻に飛び込んで隠れたんだろうな。だが、俺を所有者とは認めてくれていないらしい……陛下に聞いた通りの堅物だな。」
「なんだ、意思でもあるみてぇに。」
「ある。魔剣士なら、感じたことは無いのか? ここぞという時に力がいつもより昂ったり、見放された時に言うことを効かなかったり……」
「あぁ、なんかムラがあるとは思ったが、あれはコイツがしてたのか……俺の体調かと思ってた。」
剣士となれば、己の肉体と技にこそ、誇りと責任の全てを掛けたくなるのだろう。ギルツも、一介の剣士としてその気持ちは分かる。
しかし、魔剣士の正当な後継者としては、魔剣の意思を尊重したい。この一振は、神様が世界を創りし奇跡、創世の力の再現。選定の意志くらいはあってもおかしくない、と思ってしまうのだ。
というのもギルツという男、あまり信心深くない。神様についても特別な感傷がある訳でもなく、会ったことの無い親程度の尊敬を向けているに過ぎない。一般よりは信仰心がある、といったところか。
「んで、どうするよ。」
「属性の魔剣である以上、下巻には収容できない。俺も所有者とは認められなかった……クランの面子で試してみるか?」
「マスターでダメなのに?」
「選定基準は俺も知らん。俺より優れた所を持つ奴らは居る。」
「そういうもんか。」
試しとばかりに一通りの型を取るギルツに、疼いたサクスムが斬り掛かるか、と考えている時だった。あまりに強い殺気。ゾッとした二人が、視線より早く、抜刀した剣を向ける。
剣の腹を強く殴打したのは、手頃な倒木。得物と言うにはあまりに大きく無粋なそれを振り回す腕力。それに圧倒され、自分の剣を取り落としてしまうギルツ。
「マスター!?」
「問題ない。幸い、記録は呼び出してあるからな。」
左に持った【影の魔剣】は地面に刺し、右手で新しく【執行の魔剣】を引き抜く。開眼して睨むギルツに、殴りかかってきた男が鋭い歯を見せる。
「怪しいヤツらだ……こんな時間にこの森へ、何の用事できたってんだ?」
「お前に関係があるか?」
「あぁ、あるな。どうせ奴の手先ってぇところだろうが、よ!」
疾い、そして重い。受け流せると思って受けたその一撃に、肩も膝も悲鳴を上げる。攻撃に転じる事を諦め、去なしきる事に集中したギルツの横へ、倒木が叩きつけられて土飛沫を上げる。
今ので仕留められない事は想定外だったのか、一瞬の停滞が流れる。ギルツの【刹那の魔眼】にこそ写る一瞬、その隙に翻した魔剣。
だが、後から動き出したというのに、男の蹴り足の方が早かった。振り上げられた脚は、剣より早く到達し、ギルツの腹を蹴り上げる。
「がっ……!」
「洒落くせぇ!」
軽く木の上まで跳ね上げられた彼が落ちる先に、男が走り寄る。それを拒むが如く競り上がった岩壁に、接近は叶わない。
「蹴ろうが殴ろうが壊れやしねぇ……なんだよ、こいつはよ!」
「うるせぇ奴だな。おいマスター、生きてるか?」
「死んでるように……見えるか?」
「死に体には見えたぜ。それよか、どうするよアイツ。」
「さぁな。俺としては、早々に帰りたいとこ」
ギルツの言葉が途切れ、二人の魔剣士を岩が押しとばす。切り裂かれた岩壁を蹴り飛ばしたであろう男が、ブラブラと刀を揺らす。
「コイツは良いなぁ……お前らのか?」
「魔剣が……応えた!?」
「訳の分かんねぇ事をくっちゃべってんじゃあねぇよ!」
「逃げるぞサクスム! 割に合わん!」
「魔剣は!?」
「監視で一太刀入れてから退く! 逃がしはせんさ……!」
新しく【創世の記録】から引き抜かれたのは、拳ほどの暗器。【監視の魔剣】と呼ばれるそれは、痛みを伴わない傷とともに監視の目を残していく。
「舐めたぁ口きくんじゃねぇ! 誰に一発かますってぇ!?」
乱雑に振り抜かれたそれが、辺りの木々をなぎ倒す。空気さえ斬られていく錯覚さえ襲う、無音の一太刀。贋作の比ではない。
距離を詰め続ける男は、鏡面と見まごう断面を作り続けていく。技も何もいらない、刃で斬っているのではなく、通過した場所を消している剣なのだから。
咄嗟に【土の魔剣】で受けようとしたサクスムを蹴り転がし、【執行の魔剣】で打ち合うギルツ。同じ片手だが、フィジカルは向こうの方が上らしい。押される事を察し、背に倒す剣に滑らせ、上に跳ね上げる。
「猪口才なぁ!」
「怒鳴らずに話せないのか。」
跳ね上げついでに下段、回転。足元への一閃を伸びあがった男は避けられない。もう、追えない。
「今だ、引くぞ!」
「取り返さねぇのかよ!」
「まだ早計だ、調べてからで良い。」
鎖状に伸ばした【執行の魔剣】が、男の魔剣を絡め取る。引き合う隙にサクスムの投げた【監視の魔剣】が突き立ち、ギルツの認識に男の情報が割り込んできた。
すぐに二つの魔剣を文献に戻し、走り去るギルツ。追うこともせず、男は手に持った魔剣を見つめて立ち尽くしていた。
一週間が過ぎた。調べてから、というギルツは何度も森に入り、土や木を調べ続けている。サクスムはと言うと、そういった調査や追跡は専門外だ。街中で剣を振りつつ、療養する。
「おい、サクスム。今日はこい。」
「あん? なんか見つけたのか。」
「まぁな。俺の個人的な行動になるからタダ働きだが、面白いぞ。」
「なら行くか。」
ベルトを新調した魔剣を背負い、肩を回して調子を確かめている彼の顔は、バッサリとした傷がまだ残っている。治りきらなかったようだ。
「んで、何があった?」
「今回の騒動の幕を上げた奴というか……上げさせられた、というべきだな。」
「ほ〜ん? 根拠は?」
「前例だ。」
「そりゃ確かなこって。」
歩いて街を出た二人が、森へとまっすぐに向かっていく。ギルツにはこの十日で慣れた道だ。
少し奥までは普通に入っていったギルツが、日当たりを確認しながら道を探し始めた。木々が高く、疎らな土地。つまり、枝を上に広く伸ばす広葉樹。
「お目当ては?」
「これだ。」
「なんだそりゃ、粘液か?」
「普段は糸になっているものを見るかもな。」
「……蜘蛛か。」
「あぁ、この量は異様だがな。」
「デカいのか?」
「それもあるが、それだけじゃないだろう。多分、際限のない回復だ。若返り続け、代謝が加速し、大飯喰らいになる。」
ギルツが指し示すのは、掘り返した土。その傍にある抜け殻。かなりの量であるものの、同じ模様であり、どれも風化していない。つまり、短期間に同一個体が脱皮した物。
なるほど、回復。短期間で何年分も身体が成長する故に、高速の治癒。それも不老となれば、成長を続ける。終わりが無く、大きくなり続ける。
飢餓に苦しむ者が、態々木々を斬っていた理由。蜘蛛の巣を張る怪物の住処を切り落とすためだったのだろう。そして追い出された蜘蛛は、痕跡を回収し【影の魔剣】の痕跡だけが依頼になった。
「んな種類がいんのか?」
「いてたまるか。おそらく紋様の力だ。」
「なんだ、そりゃ。」
「あぁ、そうか。こっちでは……【トガビト】で良いのか?」
「人じゃねえけど?」
「だから紋様と言ったんだ。俺もそれには詳しく無いが、概要は知っている。そうだろう?」
抜剣し、後ろへと振り向くギルツの視線には、木々が映る。その影から出てきた男に、ギルツは左の袖を捲り水平に上げる。
伸ばされた腕から肉を裂き、骨からえぐり出された書籍が浮き、開く。すぐに魔剣を抜きはなったギルツを見て、サクスムも警戒を一気にあげる。
「久しぶりだな、【魔狼】。」
「お前……今回も譲渡したのか。」
「君のように通りのいい名があれば、少しは格好も着くだろうにな。」
「おい、マスター。誰だコレ。」
サクスムの問いかけには、剣戟でもって応えられる。捻くれた黒いナイフ、真っ直ぐな白いダガー、二振りの剣がサクスムの肩を裂く。
一つの太刀筋と、無傷の一太刀。痛みとともに訪れる、強い脱力。霞のようだった黒いナイフの刃が、実体へと戻る。
「【奪取の魔剣】だ、何を取られた?」
「こりゃ……せっかく治りかけてたってのによ。戻されたな?」
「ご名答。君の回復に費やした時間を貰った。少し必要になってね。」
「だから戻ってきたか。」
「いや、本命は……彼だとも。」
男が視線を投げかけた先には、困惑しつつ【影の魔剣】をぶら下げる男。
「なんだってんだ、お前さんらはよ。ソレの仲間ってんじゃあねぇのかよ。」
「フラれたのだよ。君は如何かな? 我らとともに創世主を迎える気はあるかね?」
「あ〜……悪ぃな、カミさんは嫌いでよ。ついでに言や……アンタさんはもっと嫌いだね!」
「またか……魔剣士は血の気が多いな。」
斬りかかった男の一太刀を回避し、【奪取の魔剣】を突き出す。それを踏みつけるように蹴り落とし、右の拳を男の顔面に贈りつけた。
「痛いじゃないか。」
「あ? 壊れねぇのか。」
「人を評する言葉では無い、な!」
腕を斬りあげた勢いで半回転、逆の手に持つ魔剣でも斬りあげる。剣として用いた二刀の血を振るい落とし、更に畳かけようと突き出した魔剣が、岩壁に遮られる。
「よく分からんが、対象は決まったんだな!?」
「あぁ、奴は生かして帰す必要はない!」
「物騒な事だ。」
開眼したギルツが、【執行の魔剣】を振り上げる。二刀で受け止めた男が、曲芸師のように剣の上に逆立ちをし、ギルツの頭へ脚を落す。
左腕で受け止めた魔剣士は、魔剣を鎖状にして振り回す。畝る刀身が首に迫る中、男はそれを二刀で弾き落とし、一度の跳躍で樹上へ戻る。
「流石に三人相手は疲れるといったところか。」
「テメエ、降りてこい!」
あまりに速い一連の流れ、ついていける物では無い。ギルツが一呼吸入れたタイミングで合わせようと、振り上げた大剣をさ迷わせたサクスムが文句を叫ぶ。
そんな二人を素通りし、樹木へ肉薄する影が一つ。【影の魔剣】を構えた男である。無造作に一振、それが両断した木が倒れ、上にいる男は当然のように降りてくる。
その着地にあわせ、脚を振り上げる。風が唸りをあげるそれに、短剣を合わせた男が切り裂き、組み伏せる。
「並の人間では無い力だが、私には及ばないな。」
「何モンだ……お前……!」
「全人類で、もっとも神に近い男……かな。」
「はぁ? 気持ちワリィんだよ!」
振り払おうとするも、それが叶わない。打ち合ったギルツは、そこに働いているであろう力にゾッとするが、すぐに切り替える。
「サクスム、蜘蛛の前に奴を討つ。それと、勧誘の文句を考えておいてくれ。」
「あ〜……そうなるか。はいよ、仰せのままに、皇太子!」
「その呼び方はやめろ!」
駆け出したギルツの横を、迫り上がる岩石群が併走する。追い詰める執行の魔剣と、襲い来る大地。選択肢は「空中での迎撃」。
だが、人は飛べはしない。必然、跳躍となるが踏ん張りが効かない空中でギルツの剣は受けられない……はずだった。
「どうしたのかね? 不思議な顔だ。」
「宙に……立ってやがる!」
「なるほど、神に近いなんて宣うだけはあるな。」
「経緯はどうあれ、地に散った神の御力だ。ほんの僅かな破片でさえ、集めれば視認できる程度の欠片にはなろう。そう、私は既に、神の一部……その身の一端!」
「気味が悪ぃな」「気持ちワリィ」「怖気がする」
三者三様の感想を気にもとめず、男は二刀を逆手に持って構える。防御姿勢、三人を同時に相手するつもりらしい。
「おい、お前らはなんなんだ……なんで儂ン森にいる。」
「依頼だ。影の魔剣の回収と怪物の討伐。」
「異変の調査だったろ?」
「それは済ませた。連続して街から依頼を引き出したんだ。」
「何やってんのかと思えば……」
「答えになってねぇ!」
苛立ったのか近くの木を切り倒し、手応えが無くてスッキリしなかったのか、それを男へ投げつける。
跳躍して回避した男へ斬りかかった彼が、癇癪のままに喉を震わせる。
「フラフラしやがる死に損ないが獲物を荒らし! デケェバケモンが出てきて喧嘩して! そしたらお前がソイツを治して隠して! その次は分からねぇ二人組み! なんだってんだよ、最近はよ!」
「最初の件は知らんな。」
「最後の件以外無関係だ。」
どうも【影の魔剣】の出自は謎のままらしい。その噂を掴んだ男が、蜘蛛の怪物を作って寄越したのだろう。もしかしたら、もうとっくに紋様は回収し、始末しているかもしれない。
「これが事件を運んでくんのか? 血腥ぇだけの棒きれめがよぉ!」
「おい、止めろ!」
「消えろ、こんなもん!」
全力で投げ捨てられた【影の魔剣】は、空気も木々もものともせずに一直線に飛んでいく……人の投擲とは思えない。
ギルツの【執行の魔剣】は審判対象にしか伸びていかない。斜め上へ飛んでいかれてはサクスムの【土の魔剣】も無力。そして男は……
「ぶっ潰れろぉ!」
「ぐ……!」
一瞬だけの隙。それを持って頭を蹴り潰されていた。建物程の高さから落下、地面を抉り埋まる衝撃。頭の中身はさぞシェイクされているだろう。
「うわ……死んだか?」
「蜘蛛から紋様を回収したなら、自分に譲渡しているはずだ。そら、立った。」
「この力……君は。」
呆れたように剣を構えるギルツを無視し、【奪取の魔剣】の刃を霞ませる男が目指すのは、一人。
「君の咎は、【鬼神の肢体】か!」
「キシーのシタイ? 誰が死人じゃ! わかんねぇ事ばっかくっちゃべる口だな!」
盛大にすれ違いが起きているようだが、それを気にするものは居ない。無知ゆえか低い危機感に、ギルツが動く。意地でも目の前の男に渡すべき物では無い。
鎖状に伸びた魔剣が霞となった黒剣を弾き、返すうねりが男を斬る。拳を【譲渡の魔剣】で、剣戟を脚で受け止め、男は再び地に落ちる。
それを待っていたのが、サクスムだ。馬鹿みたいな身体能力も、刹那を見据える魔眼もない彼は、ただ目を閉じて伺っていた。大地の振動を。一撃のチャンスを。
「っしゃぁ! 唸らせろ、【土の魔剣】!」
突き立てた剣先。それが遥か先、岩となって男の下から突き上げる。二刀で受け止める男に、ギルツが駆け寄り一閃。去なそうと試みる男だが、コンマ数秒を光陰とさえ捉えそうな時間感覚の中で僅かずつ変化する軌跡はそれを許さない。
力で押し返そうと判断するまでの数瞬があれば、十分だった。ギルツの左腕が引き抜いた【監視の魔剣】が、男の腹を深く裂く。
いつかのように、傷ごと切り離されないよう、キッチリと深く。何も傷つけない短剣の、何より確かな傷跡が残る。
「ほう……!」
「巣穴に帰るか、ここで朽ちるか!」
「あまりに愚かだな、私が我が身を信じるとでも? 私が信ずるものは……神だ。」
男が呟くとともに切り離した肉塊が、血とともに大地を染める。明らかな致命傷だが、男は不敵に笑う。
「さらばだよ、【魔狼】と【土の魔剣士】。」
男が呟いた瞬間、地響き。歩き去る男を追おうとするギルツ達の前で、地面が陥没していく。
「こりゃなんだってんだよ!」
「地中から何か来ている……!」
撤退の時間稼ぎを任せるくらいだ、何が出るか知らないが相応にはつぎ込んで居るはず。魔剣を構える二人の前で、地面が爆ぜる。
吹き出すのは水流、辺りを飲み込まんと渦巻いた洪水だ。
「ワ、儂の森が……」
「気の毒なことだが、諦めることだな。ここまで生態系が乱れれば、元のようには居られないだろう。」
「クソ、ホントにロクでもねぇな、お前さんら……」
一応、敵という判断は取り下げてくれたのか、襲いかかっては来ない。しかし、脅威が無くなった訳ではなく、木に突き立てた剣を握り、流されないように堪えるしかない。
「マスター、こっちに登れるか?」
「助かる。お前も来るか?」
「いや、先にヤロー潰すしかねぇだろうがよ。これ以上、儂の森で好き勝手させねぇや。」
彼の視線の先にあるのは、水中から濡れる事無く登って来た少年。笠の上に胡座をかき、こちらを見下ろす様は、気怠げでやる気が見られない。
「あれ、呼ばれたから来たのに……アイツ、何処にも居ないじゃん。」
「やぃ小童! 儂の森をこんなにしといて、何か言い残す事ぁあるか!」
「は? メンドクサ……黙れよオッサン。」
少年から無造作に投げられたのは、菱形の刃。柳葉飛刀と呼ばれる暗記であり、男を掠めたそれが水飛沫を上げて水面を貫いた。
「次は当てるよ?」
「こん餓鬼ぃ……!」
「煩いなぁ……耳に触るだろ。」
排除に動こうと言うのか。錫杖にしては太いそれが、少年によって引き抜かれた。仕込み刀……と言うには、杖より鞘としての側面が強いそれを、背中へと背負い直す。
少年の握る環状の飾り頭の着いた直刀。環首刀と呼ばれる武道にも使われるその剣に、ギルツが苦い顔をする。
「そうか……もう奴らに渡っていたか、【水の魔剣】は。」
「でもなきゃ、こんな事にゃなんねぇだろうよ。どうすんだ?」
「奴と魔剣の親和性が高すぎる。何故なのか知りたいが……命あってのものだろう。幸い、積極的に戦うつもりも無いらしいしな。逃げるぞ。」
「はいよ、道作れってこったな。」
撤退を始める二人の後ろで、男が少年とやり合っているらしい音が響く。時々飛んでくる大木が、何が起きているのか物語っている。
程々にして退くのか、どちらか死ぬまで続くのか……どちらにせよ、追われないのはありがたい。
「マスター、【影の魔剣】はどうする?」
「回収する……と言いたいところだが、もう隠れたかもしれん。簡単に探して見つからなければ諦めよう。誰かに使われていなければ、見つかりにくい剣なんだ。」
「意思があるって奴か。せっかく目の前にあるってのに、逃すことになるなんてな。」
「まさか投げ捨てられるとは思わなかったんだ。」
あの男、この森に住んでいるのだろうか。言葉の端々から、はぐれ者の気配がしていた。人が住める程度に街から近く、人が頻繁に来ない程度に奥深い。いい場所に居着いたものである。
それより、こうして離脱できたのならば二刀の魔剣士を追いかけたいのだが。場所が分からないのでは追いようがない。痕跡も全て押し流されてしまっただろうし、目的も分からないのでは予想も効かない。
「とりあえず、依頼は失敗だな。蜘蛛の討伐証明も出来ん。」
「あ〜ぁ。評判落ちるな、こりゃ。」
「まったくだ、無理を言って引き出したのにこの様とは……裏目に出た。」
嘆くギルツの肩を叩き、走るのを急かしながら挑発的に笑うサクスムが、前に回って顔を覗いてくる。
「でも引き下がるつもりもねぇんだろ?」
「無論だ。奴も魔剣も、全て逃がさん。俺は【魔狼】だそうだぞ?」
「マスターが自分でソレ言ってんの、初めて聞いたな。」
「そうか?」
存外に気に入っているのだろうか、その呼び名を。特に嫌がることもなく口にしたギルツに、若いねぇと呟いたサクスムの声だけが、森に落とされた。
水面が音に揺れることも無くなった森から、生き物の気配が消えるのに数分とかからなかった。
ガサリ、と揺れた草は踏みつけられ、赤みを孕んだ水によって濡らされる。水を滴らせる主は、しかしその重量を考えれば意外な程に小さかった。
とはいえ、それは森の生き物から見た話。彼の前に立つ小柄な女性からは、見上げる位置に頭があった。
「なんだ、お前さん……なにか、用かよ。」
「いえ、貴方が私の森に来たものだから……怪我をしているのかしら?」
「こんなモン、ツバつけときゃ治んだよ。触んな。」
「そう? でも私に貴方の言うことを聞く義務は無いの。」
「嫌な奴だな、オメーサンよ……」
顔を顰めたのは、目の前の彼女の発言からか、全身の痛みからか。
濡れ鼠となった男の体は、至る所に切り傷が刻まれ、幾つかの武器まで刺さっている。柳葉飛刀だ。それを撫でた女が、ボソリと呟く。
「華国の武器……」
「過酷なもんかよ、この程度。玩具だ、玩具。」
「国の名よ、野生児さん。」
「チッ、見下し、やがって、よ……」
限界を迎えたのか、途切れた意識と共に倒れる男を見下ろし、女性は踵を返した。
目が覚めれば、白磁の天井。飾り気の少ない部屋を、アーチ状の大きな窓が招く日光が照らしている。
「なんだよ、ここは……まるで人の住んでる場所みてぇな。」
「その通りよ、私、人だもの。」
「テメェ、さっきの女……! 何しやがった。」
「治療、清掃、拘束、悪戯かしら。」
「あ? クソ!」
腰から下は寝台に括り付けられているらしい。何本ものベルトは頑丈で、引きちぎるのは難しそうだ。
頭に乗せられた耳飾りを振り捨てて睨めば、大袈裟に肩をすくめる彼女は距離を詰めてきた。
「それで、貴方が私の庭に落ちてきた経緯は? 誰が荒らしてくれたのか、教えてくれる?」
「なんで儂がそんな事を。」
「貴方の利益にもなるから。やられっぱなしは癪じゃない?」
「……唐傘の童だ。妙な術を使って水を溢れさせやがる。蛸の腕みてぇに動かしてもきやがった。」
「へぇ……面白いじゃない。」
何が面白いのか、不快感を隠さないで怒鳴る男に、女性は帽子を投げて寄越した。
「貴方、私を手伝うといいわ。とりあえず、それでも被って少しは隣を歩くに相応しい格好をなさいな。」
「偉そうに。」
「……そうね、偉いもの。」
「はっ! 儂にはちっとも関係ないだろうがな!」
「命の恩人よ。」
「ほっときゃ起きてたんだよ。」
文句を延々とこぼしながら、頭にねじ込んだ幅広の帽子は、彼の獣のような目元を隠してくれる。天井が広がった逆三角の真っ黒な帽子を、堅苦しそうに動かして違和感を拭おうとする男に、女性が呼びかける。
「ねぇ、私は貴方をなんと呼べばいいと思う?」
「好きに呼びゃ良いだろうがよ。」
「何かあるでしょ? 愛称やニックネーム。」
「名前もねぇのに、ンなもんあるかよ。強いて言やぁ、マモノやバケモンだな。」
「なら、貴方の事はシュルトと呼ぶことにするわ。それでいい?」
「……まぁ、悪くねぇ。」
諦めたのか落ち着いたのか、帽子を弄くり回すのを止める。引っ張って緩んだベルトから足を抜き、男が立ち上がった。長身とは言えない高さの四肢に、ガッシリとした肉が着いたその身体。しかし、それよりも目立つのは無数の傷。そして重さ。
明らかに人の筋肉密度ではなく、見た目の倍程の重みを感じた先刻を思い出しながら、女性は一点に目を停めた。左の鎖骨、その少し下。
「【祝福】があるのね、貴方。」
「あん? 咎だったり紋様だったり【祝福】だったり……コイツはなんだってんだ。呪いの類じゃねぇのかよ。」
「国によって言い方は変わるでしょうけど、本質は同じよ。神の力の断片。」
「またカミと来たか……儂ぁ、そいつは気に食わん。」
「珍しいのね、この大陸において神様が嫌いだなんて。」
心底驚いた、といった顔の女性に対し、苦虫を噛み潰したような顔で男……シュルトは答える。
「お前さんみてぇなのには分からんだろうよ、儂みてぇな奴の事は。」
「そうね。それと、私はお前さんでは無いの。ちゃんとヘクサ様、と呼んでくれる?」
「ほ〜ん。聞かねぇ訛りの名だな。」
「名前というより、役目よ。貴方は剣、私は……魔女。」
「なんだ、お前さんも名無しの権兵衛かよ。」
鼻で笑ったシュルトに向けて、ヘクサと名乗った女性が反論しようとした時。扉が蹴られたような勢いで開かれ、大柄な兵士が顔を出す。
彼はシュルトを一目見ると、すぐにヘクサへと顔を戻した。
「いつまで、そうしているつもりだ。」
「さぁ、いつまでもかしら。」
「貴様……」
兵士が腰の剣に手を伸ばした途端、ふわりと視界を白が覆った。払い除けた途端。掴まれた左腕。見下ろした先には黒い制帽が見える。
何をするのかと疑問に思うまもなく、浮遊感。
「儂の前で……武器を抜くな!」
ベットの上に放り投げられ、立ち上がる前に頭を抑えられる。立ち上がれない、あまりにも……重く、強い。
「宣戦布告とみなすぞ、デカブツめが。」
「シュルト、収まって。彼は敵じゃないわ、私を脅そうとしただけのお茶目な子よ。」
「そうか、ほんなら儂には敵じゃろ。」
「もう、若い子ってなんで皆して血の気が多いの? 二人とも、私を怒らせるつもり?」
鼻で笑うシュルトの横で、兵士は大人しく剣を置く。拍子抜けというか、興醒めというか。彼も手を引かざるを得ない。
頭を離された兵士が立ち上がり、敬礼を取る。最初からそうすりゃ良いのによ、とのシュルトの呟きは無視される。
「【フランズヘクサ】、隊長がお呼びです。」
「今回の件?」
「えぇ、そうです。」
短い返答を返すと、後ろを確認する事も不機嫌を隠す事もなく、兵士は歩き出した。己の自由のままに生きるシュルトは、それを呆れを含んだ目で見送る。
「おい、ランとやら。何処行くんだ、アイツは。」
「ラン……私のこと?」
「へくさ、だのふらん……何とかだの、呼びにくいんだよ。こっちのが分かりやすい。」
「貴方の生まれの話?」
「知ったことか。はよ行け、着いてってやる。」
剣という役目、正しく伝わっているようである。満足気に微笑んだ魔女は、部屋を出た兵を追っていった。
「遅かったな、【フランズヘクサ】。」
「女の身支度は黙して待つものじゃなくて? 隊長さん。」
「それは失敬、して隣のチビは?」
「誰がチビじゃと!? お前さんらが高いだけじゃろうが!」
「我々は平均的だよ、訓練した男性としてはね。」
「儂だって並程度はあるわい!」
今にも掴みかからんとするシュルトの肩へ、そっと置かれた指が静止をかける。振りほどいてやろうと力を込めた彼だったが、それがヘクサであると分かり舌打ちをした。
どんな経緯があれ、助かられたのには違いない。自分が下手な事をすれば壊してしまうかもしれない。大人しく引き下がるしかないのが腹立たしい。まるでこの女に首輪をかけられているようだ、と。
「相変わらず、男の目を集める事が得意なようで。うちの部下も失礼を。」
「不思議とそうなる、という意味では得意かもしれないわね、お陰様で。それで、今度は何なのかしら?」
「あれを見れば自ずと分かるさ。」
隊長と呼ばれた男が指し示したのは、水没した洞穴。この国の採掘場である。当然、作業が進むはずもなく、右往左往とする炭鉱夫達は仕事に取り掛かれないと怒鳴っている。
「昨日から水を汲み出せとうるさいが、当然そんな人員は無い。第一、人がバケツで運び出すなど足しにならん。炭鉱夫よりも近衛隊の数が多くてもな。」
「そう、それで私なのね。」
「そうだ。出来るか?」
「危ないから離れてて貰えるなら。」
「そうか、迅速に頼む。」
「努力はするけど、確約は出来ない。やったことは無いもの。」
「あぁ、言い方が悪かったな。迅速に仕上げろ、【フランズヘクサ】。」
それだけ告げると、隊長の腕の一振で兵達は引き上げていく。その動きを怪訝に思ったのか、周囲を見渡した鉱夫達も、彼女に気づくや否や散り散りに去っていく。
「偉いって感じじゃねぇな。」
「そう? 高品質な生活に、人を動かす権限。十分じゃないかしら。」
「儂の知ってるモンとは違いそうだ。」
「……貴方は逃げないの?」
「あン? なんで儂が尻尾巻くって逃げンのよ。儂は刀なんじゃろうが、傍に置くもんじゃろう。」
「…………そう、ありがと。でも下がってなさい、火傷するわよ。」
「はぁ?」
その場に座り込んでいたシュルトが、苛立たしげに顔を上げる。その視界に映りこんだのは、信じられない程の紅。
細身の刀身は頼りなく感じる程に鋭い。波打った刃が絢爛な柄から吹き出しているようにもみえる、杖にさえ思える片手剣。俗に言う、フランベルクという刺突剣である。
何処から引き抜かれたか、彼女の手の中にあるそれは、周囲の炎を指揮者の如く先導している。その様は……
「【フランズヘクサ】、か……」
「まだ下がってなかったの?」
「ハッ、この程度で」
「なら、今から下がりなさいな。」
金色の剣をサッと上へと振りあげれば、紅の世界は一瞬で蒼白する。唸るような低い音から、高速回転する金属のような高い音へ。安定し、そこかしこを舐めていた炎の舌は無くなり、鋭く一点を刺すように天を向く。
暑い、いや熱い。近くにいるだけだと言うのに、皮膚が栗経つようである。身体が沸騰するような錯覚さえ覚える中で、魔女は涼しげに洞穴を眺めている。
「刺し貫きなさい、【炎の魔剣】。」
手首のスナップで一回転、弓矢の如く引き絞られた剣が、一気に押し出される。それに追随するかのように絞られた炎が穂先を前へと向け、射出される。
入口を照らし、補強の柱や周囲の採掘道具を溶解させん勢いで侵入していったそれが、坑道の奥で炸裂し、凄まじいスチームが辺りに吹き出し、立ち込める。
「あと何度で中に入れるようになるかしら。」
「お前さん、熱くねぇのかよ。」
「慣れよ、こんなもの。それより、離れてなくていいの?」
「はん、こんなもの。」
焼けた鉄を掴みあげると、坑道の奥に乱暴に放り投げるシュルトが、得意げに掌を見せる。少し赤くなった皮膚は火傷とも思えるが、赤熱した鉄を持った痕には見えなかった。
頑丈、という言葉で済ませていいのだろうか。まるでタンパク質ですらないのではとも思える硬い肉に、撫でるように触れたヘクサが見つめていると、その手を強く握りしめられた。
「こそばゆいんだよ、止めろ。」
「ごめんなさい、興味深くて。放して?」
「もうすんなよ。」
開放された左手には、強く痕が残っている。一瞬、しまったとでも言いそうな顔をしたシュルトだったが、すぐに申し訳なさの見える表情を打ち消して文句を叫ぶ。
「それより早く終わらせろ。唐傘坊主を探してくれんだろ?」
「分かってるわよ、待ってなさい。」
「なんか手伝えねぇのか、暇なんだよ。」
「そうね……中に降りる時に手伝って貰うかもしれないわね。」
「なんで降りんだよ。」
「底の方に溜まったものを乾かさないと。酸欠には気をつけてね。」
首を傾げるシュルトに、自分が気を配っておこうと結論づけたヘクサは視線を外す。スチームの収まった洞窟へ、再び炎を送る為に。
熱された空気が坑道から吹き出し続け、辺りの気温がグッと上昇する。たとえ乾いたとしても、今日のうちに人が入るのは不可能に近いだろう。
「これ、中に入れんのか?」
「私なら。貴方は?」
「誰にモノ聞いてやがる。この程度なら問題ねぇ。」
「なら遠慮はいらないのね。」
先程と違い、投槍ではなく巨大な剣とした炎を洞穴へと差し向ける。この程度、の意味が理解出来ていないのかと怒鳴りそうになったが、ここでそんなことを言えば負けを認めるようなもの。釈然としない。
着いてこいと言うように、細く綺麗な顎で示す魔女の後ろを、覚悟を決めて歩いていく。近くにいるだけで青い炎は身を焦がすようだが、坑道に入ればその比ではない。
四方八方から閉じ込められた熱が乱反射し、彼の全身を襲う。逃げ場のない熱は高まり続け、調理器具もさながらの高音になる。
「こんな熱い岩は初めて踏むな。」
「そういえば裸足だったわね、履き物を用意しないと……」
「構わん、どうせすぐに壊れる。そんな事にかまけとる暇があるんなら仕事をせいや。」
「無理なら早めに言ってね? 本来、近づける事が異様なのよ。【祝福】にだって限度はあるでしょ。」
心配そうに振り返るものの、水溜まりに差し向ける炎が収まることはない。あまり長引かせたくないのだろう。
しかし、シュルトがここで引く性格かと問われれば、ほとんどの人が首を振るだろう。それを察しているからこそ、ヘクサも後ろを気にかけているのだ。
だが、帰れとは言わない。その理由が、少し歩けば蒸気の中に見えてきた。手動の昇降機である。
「ごめんなさい、これを動かせる? 私、身体が健全とは言えないから力仕事は控えてるの。」
「医者の不養生ってやつか。」
「私、医師だなんて言ったかしら?」
「薬の匂い、解けねぇ包帯と、それがすぐに出てくる家、穴ぁ空いてるとこの糸、これで違うってか?」
「違うとも言わないけど、独学よ。」
「まぁ良い。ソイツを動かしゃええんじゃろうが、退いとけ。」
怪我人に頼む事でも無いような気もするが、それはそれ。適材適所という物だ。現に、シュルトに任せたハンドルは軽々と足場を上げていく。
目の前まで上がったそれに乗り移り、台座の方にあるハンドルを回して降りていく。錆びたクレーンと、太いワイヤーだけが頼りの、所々腐った木片。大した高さでは無いとはいえ、こんなものに毎日乗っているのか、と憂いを帯びる。
「おい、ランよ。目の前の仕事に集中せぇよ、余計な事をやったとて、感謝があるとは限らんぞ。」
「どういう事かしら?」
「こんなもん直しとる暇があるんなら、唐傘坊主を探せっちゅう事じゃ。よっぽど、利になるじゃろうが。」
「そんなに急かさなくても、すぐに終わらせるわよ。」
奥へと歩を進めつつ、蒼く輝いている魔剣を溜まっている水へ差し向けていく。熱により高まった圧力が、坑道の中から湿気や熱気を追い出していく。
とても人が長く居れる環境ではないが、手っ取り早く水を引かせるなら熱するしかない。もっと地下から外の空気は流れているようで、すぐには息苦しくなってこない。
「どこまで行くんだ?」
「当面の間しのげれば良いんだから、奥まで進む必要は無いはずよ。そうね、次の分かれ道まで行けば現在の採掘ポイントと未開の地点があったはず。」
「よく分からん。どれくらいだ?」
「一人分のお肉に火が通るまで、かしら。」
「長ぇな。」
拳が焼けるのも構わず、壁を叩き始めたシュルトが何度も耳を当てている。怪訝な顔で見守るヘクサに、振り向いた彼が口角を上げた。
「奥、あるぜ。」
「まって、何するつもり?」
「要は水がねぇとこがありゃいいんだろうが。ならここだ。」
「鉱夫たちだってバカじゃないの、開かれてないのは理由があるわ。崩れるかも。」
「なんだよ、めんどくせぇな。」
「仕事ってそういうものよ。」
「まぁいい、なら崩れなきゃいいんじゃろうが。」
「ちょっと!」
その辺のツルハシを乱雑に岩壁に刺し始めたシュルトに、彼女は悲鳴に近い声をあげる。しかし彼女に彼が止められるはずもない。
言って止まってくれないのなら、身を守るしかない。坑道を支えている木枠の中でも、大きなものを選んで身を寄せる。その間に、シュルトはツルハシを刺し終えたのか、再び壁を叩いている。
「ここじゃな。」
「なにがよ!」
「叫ばんでも聞こえるんじゃ、喧しい! そのまま離れとけ!」
叫び返した勢いの止まらぬうちから、振り返って壁を殴りつける。硬い岩壁はビクともしない。もう一度、音が響く。再度、ツルハシから亀裂が走る。最後、向こう側へと落ちた。
暫くの後、くり抜かれた空洞に水音が大きく響く。涼しい空気があっという間に流れてきて、二人の肌から火照りを奪う。温まっていない、坑道と繋がっていない地下水のようだ。
「結構、深そうじゃ。ここに水でも流し込みゃ、早ぉ終わるじゃろ。」
「それは……そうね。でも熱湯よ?」
「この程度で火傷なんざせんわ。飛び込んで穴ぁ開けてくらぁ。」
「崩さないでね?」
「これぐらい慣れとる。寝床は探すより作る派なんじゃ。」
まったく説明になってないセリフを捨ておいて、勝手に飛び込んでいったシュルト。ヘクサが慌てて駆けよれど、暗い穴の底は見えない。
火で照らすか、いや熱してしまうかもしれない。そう悩む彼女の耳に、ようやく着水音が響く。この時間があれば、どれだけの距離を落ちただろう。水面は岩壁のようになっている筈だ……殴り崩していた彼に心配が必要かは、分からないが。
「大丈夫なのー!?」
叫んだ声は虚しく反響し、底の水に吸い取られたのか返ってきたのは僅かなもの。でも、返ってきた以上は底にも聞こえている筈だが。
彼の返答は無い。死んだか? そんな懸念が渦巻く中で、下の方から打撃音が響く。生きているらしい。
しかし、どうやって戻るつもりなのだろうか。穴を開ければ、場所によっては熱湯が流れ込み、その渦に焼かれながら飲まれることになるだろう。ハラハラと見守る中で、穴のそこで一際大きな音が響き、水音と熱波が閉所から吹き込んだ。
「きゃ!」
熱と圧力に後退り、顔を覆うヘクサ。彼女に出来ることはないが、それでも再び覗き込まずには居られない。
大量の地下水と混ざり、かなり冷えたらしいそれからは熱を持つ湯気は登ってこない。容易に覗き込めるものの、やはり暗がりしか視界には映らない。
再び声をかけようとした彼女の元に、岩に叩きつけられる金属の音が響いた。
「シュルト?」
「だあって集中させぇ! 暗いんじゃココは!」
どうやら手探りで凹凸を探し、ツルハシを突き刺して登っているらしい。後で弁償せねば、少なくとも二本は使い物にならなくなっているだろう。
どうやら無事と言うことで、このまま此処で待つことにする。とても人の動ける怪我ではなかったが、彼の心臓の上に刻まれていた【紋様】について考えれば不思議もない。
ヘクサにはアレについての知識はない、この国に【祝福】は例が少なく、研究が進まないのだ。しかし、あの力。それが【祝福】によるものなのは間違いない……筈である。
「そういえば……彼の出身って。」
低めの身長に独特な訛り、最初は華国に近いと思ったが、国の名前も知らないのは妙だ。この国でも無いのは確かだし、隣国は長身が目立ち言葉使いが近かったり、髪や虹彩を含めて薄い色が特徴の民族だった筈。
であれば、海の向こう……どうやって渡ったのだろうか。話を聞く限り、船が使える身分では無さそうだが。
「よっ、ト……どうだ、コレで終わるじゃろうが。」
「そうね……もう一段降りてみて、そこに水が無かったら、ね。」
「なんじゃ、終わらんのか。」
「当たり前じゃない、確認は大事よ。出来たって伝えて出来てなかったら、どうするの?」
「結果は変わらん。」
「準備が変わるのよ。さ、行きましょ。あ、あと使ったツルハシは持っていて。弁償しないと。」
「へーへー、仰せのままにぃ。」
拗ねた。想像した様にいかなくて拗ねた。
そんなシュルトの前を歩き、下の坑道が見える位置まで奥へ進む。段々と冷えてきた岩肌を踏みしめながら着いてくるシュルトが、ふと足を止める。
「……おい、探す手間が省けたようじゃぞ。」
「何を?」
「右の壁の中じゃ……来るぞ!」
叫んだシュルトが殴りつけるのと同時、僅かなヒビから吹き出た水圧がヘクサを吹き飛ばす。殴り壊された岩壁から、大量の水が現れ、シュルトを殴り飛ばす。
「あのさぁ……熱いんだけど?」
「餓鬼ィ……舐めたマネしやがって!」
「はっ! 足りない頭に必死こいて血を集めたって、水風船にしかならないよ。膨れる柔らかさも無い頑固頭だろうけどさ!」
「あ? ……なんだって良いんだよ!」
「皮肉も煽りも通じないなんて、バカって生きやすくていいね。」
「誰がバカじゃ、小童が!」
持ってきていたツルハシを投げつければ、少年が笠から飛び降りる。中華靴が岩を叩き、リズムを取りながらシュルトへと接近する。
舞踏のような不可思議な動きに、距離を測りかねたシュルトの第二投目は後ろの岩へと突き立った。無手になった彼へ、弧を描いた【水の魔剣】が振り上げられる。
「なんじゃ、やるんか!」
「オッサンが仕掛けてきたんじゃん?」
「オッサン言うなや!」
蹴り上げた脚が顎を狙うが、足腰だけで後方転回した少年には届かない。それどころか、その回転の勢いで切り上げられる。
着地した瞬間、横に回転する少年の一太刀がシュルトの腹を撫でる。そこまで侵入を許した彼だったが、切られても構うものかとばかりに前へ出る。
次の動作への繋ぎを、余計な力で妨害された少年の着地がズレる。僅かにたたらを踏んだ彼へ、シュルトの拳が入った。
「少しは反省せぇ、小童。」
「いったぁ……鞘が曲がったんだけど。これじゃ杖にも棍にも出来ないじゃん。」
「鼻っ柱じゃないだけ、ありがたく思ゃあええじゃろうが。」
切られた腹の血を拭えば、後からは僅かに滲むばかり。剣が過ぎたものだとは思えない負傷に、少年が顔を歪めた。
水飛沫と共に飛ばされた笠を被り直し、逆手に持ち直した魔剣を構えて口を開く。
「ねぇ、オッサンさぁ。本当に人間?」
「何が言いたいんじゃ、コン餓鬼ぁ。」
「だって、まるで妖魔……」
「黙れ、小童。」
遮るように投げつけられた岩の欠片は、砲弾と見まごう速度で後ろの壁を破壊する。錆び付いたような首を動かして後ろを見れば、砕け散った岩が笠に降り注いだ。
「あっは……怒っちゃった?」
「貴様が儂ン森めちゃくちゃにした時から、腹は据えかねとるがな!」
「うわ、来るな!」
この閉所では、水中の理が活きにいくい。足場があるのなら、空中だろうと水中だろうと、目の前の男は追ってくる。ましてや、ここは天井もある。
「流されて……よ!」
一振した【水の魔剣】は、地下の水脈から激流を生み出してシュルトへと導く。壁に跳び、当然のように少年の後ろに立った彼が、裏拳を放てば、それを曲がった鞘に乗せて去なし、流す。
その勢いと力を利用し一回転、柳葉飛刀を投げつけながら水流に乗って距離を取った少年を、炎が貫いた。
「そこまでになさい、少年?」
「東の魔女……! 僕に逆らう気?」
「君が最初に手を出したのよ?」
指揮棒や杖のようにフランベルクを振り回す彼女が、身の回りに炎を散らす。突き出された魔剣に従う炎が、一斉にその身を細めて少年へと飛んでいく。
突き刺さった炎という、有り得ない光景。水に乗って回避した少年の後ろで岩壁を炙り続ける炎の短槍。それを観察する間もなく、横から風切り音。シュルトである。
「蛙のように潰しちゃる、童!」
「あんなの潰したことなんて無いよ!」
振り上げた剣戟の軌跡を残し、地を滑走する水刃が放たれる。そのまま突っ込まんとするシュルトを見て、慌ててヘクサはそれを焼き払った。
拡散する蒸気が視界を奪い、熱が体力を消耗させる。その中から飛び出したシュルトが、ほんの少しの空中への停滞の後に、丸太のような脚を少年へと振り回した。
咄嗟に錫杖のような鞘で防ぐも、曲がったそれは今度は完全にへし折れ、衝撃を流しきれなかった少年と共に岸壁に飛んでいった。
「あれで潰れんか、頑丈な。」
「頑丈というより、上手いのよ。捕らえるのも苦労しそう。」
「水なくすんは、もう大丈夫なんか?」
「犯人を捕えないと続くじゃない。私も狙いみたいだし?」
魔剣を睨みつける少年に、ヘクサが挑発的に視線を流す。怒っている、彼女は。それを察して、シュルトを見て、少年は長く息を吐いた。
「【証持ち】と東の魔女、二人を相手に遊ぶ気は無いかなぁ。これも壊れちゃったし。」
「逃がすと思うとるんか、そんな棒切れ理由に!」
「いや、これ年単位で鍛えられた鋼の鞘だから? 魔剣用に誂えた一品だよ?」
なんで折れるかなぁ、とぼやきながら魔剣を一振した彼が笠を脱ぐ。裏返したそれに腰掛け、水流に乗って奥へと流れていく。
「何処へ行くつもり?」
「帰るよ、僕の任務は終わってるし、依頼以外のお仕事は程々にしないとね。オッサンもオバサンも、欲しい奴は別にいるし、せいぜい気をつければ?」
「ガキぃ!」
「オバ……」
ショックを受けているらしいヘクサを置いて、シュルトが走って追いかける。拾い上げた瓦礫やツルハシを投擲しながら水流の中へと踊り込む。
爆弾でも投げ込まれたように炸裂する水飛沫に、振り返った少年が眉根をねじ曲げて懐に手を入れる。また投げ道具でも来るかと身構えるシュルトの前で少年が舌打ちする。
「もう、残ってないか……」
「ネタ切れみたいじゃのぉ! 降りてこんかい!」
「お断りだよ。それよりいいの? この流れ、地下水脈に向かってるけど、溺れる気? 君は水泡の一つも作れない、水の中で生きられる訳ないのにさ。」
「……ちぃ!」
「あっはは、ザマーミロ。帰れよ、デクノボー。」
「くたばれクソガキ!」
腹立ちまぎれに叩いた水面が、飛沫を作る。背後の炎に照らされて影を少年に被せた、その瞬間だった。
なんの前触れもなく、端がズレて離れる笠。浸水し、沈む少年。水泡を作った所で、足場が無くては泳ぎ続ける必要がある。体力が持つ訳もなく、水流を止めるしかない。
「何したのさ、妖魔モドキ。」
「儂が? なんもしとらんわ。」
「そんな訳ないだろ、今……ヤバ。」
シュルトの後ろから吹き出した熱。その正体を目にしているであろう少年の額に、汗が滲んでいる。それはきっと、暑さのせいだけでは無いのだろう。
「出なさい、シュルト……その子、お仕置するから。」
「確認はどうするんじゃ。」
「あら、不思議なこと言うのね。溶けた岩なんて見ても何も分かるわけ無いじゃない。二度は言わないわ、走りなさい。」
刀が主を離れるなど、戦線から背を向けるなど、いつものシュルトならばしなかった。しかし、当の恩人の命令であると同時に、早鐘を打つ心臓が早く出ろと叫んでいる。
シュルトよりも早く駆け出していた少年の目の前で、蒼い炎が乱立して奥への道を塞ぐ。シュルトが駆け去ったすぐ後で、入口へ戻る道も炎に呑まれる。
「なにこれ……噂は本当だったってこと? 東じゃ僕みたいなのを作って」
「黙りなさい。」
振り上げられた炎の魔剣、それは少年の足元へ這わせた炎を吹き上げる。横へ転がり、宙返りし、三角飛びへ派生し、彼女の背後に回った少年が、四発目の噴火より先に剣を薙ぐ。
風を切ったその一撃が彼女の豊かな長髪をバッサリと落とし、首を切ることなく空ぶった。熱のせいか、蜃気楼か。距離感を違えたらしい。
すぐに第二撃へと繋ごうとする少年だが、足下の熱を感じて即座に後ろへと下がる。囲まれた炎が近づいており、自由が減っている事を、背に感じた熱で察する。
「少し……不味いかもね。」
この熱では周囲の水分も飛んでしまう。水の魔剣が力を発揮できる環境では無い。何も無い所から炎が発生する彼女が異様なだけなのだ。
認めるしかない、こと魔剣の親和性においては、彼女が上だ。炎に、神の欠片に愛されているのは、彼女なのだ。
だが、戦闘において自分は完璧だ。誰にも負けたことは無い、負けられない。僅かなミス、小さな不幸、失敗は全て死につながった。今、鼓動を打ち呼吸をしている事こそ、不敗の証拠。武器を持つ前から、魔剣を持つ前から殺し続けてきた証明。
それが、たかが魔剣一つに……
「負けて……たまるかぁ!」
炎に巻かれた戦闘のうち、向こうが生き残る可能性が高い場合のセオリーは速攻。熱は体力を奪い、呼吸を困難にする。時間が経てば不利になり、勝ったとしても死に繋がる。
足元は記憶と反響音で足場を認識、敵の動きに集中する。回避は最低限、恐怖と熱は無理やり心の奥に押し込める。飛ばされる炎の槍と噴火に服の裾を晒す距離だ。それ以外の全ての動作を接近に費やす。
あと三歩、炎の魔剣が振り上げられる。
あと二歩、噴火はこの身に受けて走る。
あと一歩、見えるは驚愕の顔と己の赤。
あと零歩。剣を振るう。勝った、僕の……勝ちだ。
外の空気は冷えており、清涼感と安堵に満ちている。洞窟の中がどうなっているなど、ここからは伺いしれようもない。
僅かに焼け唯れた己の素足と腕が、夢で無いことを証明している。距離が離れ、緊張が途切れ、少し頭が回った彼の中に混乱が戻ってくる。
「なんじゃい、ありゃ……炎を手繰るなんぞ、まさに魔女。ランのやつ、何者なんじゃ。」
少年の時は、最初に出会ったのが戦闘であり、そういう妖の類だという認識だったのか、驚きは少なかった。だがヘクサは違う、人だった。命を救われ、会話し、生意気を言い、悪戯をしかけ、寂しそうな顔を隠し、強がりを見せる。
ただの女だった。そこに居たのは、自らの役目に寄りかかるように生きている、一人の人間だった。そういえば、身体が弱いと言っていた。
「……帰るのにも、困っとろうが。」
近くの井戸から水を汲み上げて被り、鉱石を入れる箱の補強らしき鉄棒を握り、帽子を改めて深く被る。今なお熱波が放たれる奥へと駆け出し、あっという間に中腹まで辿り着く。
ハンドルを回す暇は無い、この高さならと飛び降り、壁へ鉄棒を押し当てて減速する。着地より早く壁を蹴り、奥へと進む。嫌な予感がする。
「……まるかぁ!」
「っ!」
少年の声、まだ生きているらしい。何度も吹き出し、飛び交う炎の音。炎の壁の向こうから聞こえてくる。
熱い、あまりにも。引き返さなければと頭では理解するが、足が動かない。何かは分からない、だが己をここへ縛り付ける何かがある。戦の気配か、血の香りか。とにかく、ここから離れられない。
「あああぁぁぁ!!」
絹を勢いよく引き裂いたような、声と言うにはあまりに甲高く聞き取れない悲鳴。ただ肺が潰れ、空気が喉を強引に震わせて飛び出したような、そんな声。
「ラン! おい、生きとるか!」
知ったことかと炎へ飛び込んだ瞬間、視界が開ける。数瞬の後に見えたのは、岩肌を伝う赤。
鼻と口から血を垂らす、火傷に塗れた少年。
そして、足元に転がる炎の魔剣と、それを握る主から離れた右腕だ。
「なんで……君が居るのさ。」
「坊主。はよ失せぇ。」
「は? ここまでやったんだ、何も収穫無しなんて」
「消えろ言うとるンが聞こえんのか、ドグサレがァ!」
吠えた彼が振り回した腕、それに反応するように岩肌へ亀裂が走る。いや、それは亀裂と言うにはあまりに綺麗で鋭い、横一文字に開いた裂け目。
「……あ〜、分かったよ。僕は帰る、すぐにでも。それで良いだろ? だからその腕を下ろしてく」
「黙って去ねぇ!」
「言われなくても!」
再度、腕を振るうシュルトの前で坑道が裂ける。水を抜くためにシュルトが開けた大穴へと踊りこんだ少年は、十数秒程後に水音を大きく響かせてた。
逃げられた、そんなことは今はどうでもいい。腕を抑えて呻く彼女が危険だ。少しも止まらなかったのだろう、あまりに美しく骨ごと両断された腕を拾い、ヘクサの元へ駆け寄った。
「おい、おいラン! 大丈夫か!」
「戻って……来たの? 危ないから逃げろって……言ったのに。命令違反、は……従者失、格ね。」
「戯けた事ヌカすんじゃねぇ、バカが! 主が刀より先に壊れてどうする、死ぬなよ。」
「とにかく、外へ……私の家なら、縫合出来るはず。貴方、手先は器用かしら?」
「医者は。」
「街の外れに居るけど……今日は買い物に出るって」
「言うとる場合かタコ助が!」
「た、たこ?」
ポカンとした表情を浮かべるのは、出血のせいか青白くなった顔。痛みは麻痺しているようだが、直に苦しくなって来るだろう。急がねばならない、自分は命を救われておいて、当の本人を見殺しにしましたなんて真似が許せる訳が無い。
担ぎ上げた彼女と魔剣を簡易的に括り付け、自由になった両手を確認して外へ走る。リフトを降ろす時間は無い、柱を両手両足でよじ登りそのまま坑道の外へと駆け出した。街の方向は兵士達が去っていた道がある。迷うような道で無いことを祈りながら、森の中を走り続ける。
「ん? おい何者だ、止まれ!」
「喧しい! おどりゃ目が着いとらんのか!」
「何のこと……【フランズヘクサ】!?」
「分かったら、どかんかい!」
「その方の医師なら此方だ、着いてこい。」
「すっトロい! 家の特徴だけ教えぇ!」
怒鳴りつけたシュルトが走る速度を見て、頷いた兵士が色と屋根の形を叫んでいる。聞き取れない、とりあえず勘で進み、街中を叫んで走った。買い物中の女医に見つかり、ヘクサの家に辿り着いたのは日が暮れた頃だった。
目が覚めれば、白磁の天井。見慣れた飾り気の少ない部屋を、アーチ状の大きな窓が招く日光が照らしている。
「私の……家?」
「目が覚めたんじゃな。アイツは引くほど薬を置いて帰ったが、お前さんの命にゃ別状はねぇとよ。だが暫くは寝てろ、なんか信用ならん。」
煩わしい記憶だとでも言うように顔を歪めるシュルトが、ポットから冷たい水をコップに入れて持ってくる。薬とともにそれを飲み、ヘクサは苦笑いを返した。
「あら、彼女は私の姉のようなものよ? ずっと……ずっと私を、見てきてくれた。」
「はん、そんなら急いで帰らんでもええじゃろうが。」
「……もしかして、私が寝てる間、ずっと心配してくれてたの?」
「儂は貴様がくたばったら困るだけじゃ! 誰がお前さんの事なんぞ……!」
「ふふ、そうね。ごめんなさい、遅れちゃったけど、あの子を探しに行きましょうか。」
立ち上がろうとしてふらついた彼女を押し戻し、何時もよりか幾分は気を使った声量で怒鳴る。
「阿呆か、おどれは! 寝とけ言うんが聞こえんかったんか。あんだけ血を流し、二日は寝とったんじゃけぇ、血が足らんし筋肉も衰えとる。動ける訳が無いじゃろうが。第一、繋いだばっかの右腕が動くとも限らん。」
「でも……そうだ、私の剣は?」
「儂じゃ不服か。」
「そういう訳じゃ無いけど、アレは特別なの。私の生きる力であり意味であり理由よ。」
部屋の中を見渡す彼女に、溜息を吐いたシュルトがベッドの下から魔剣を取り上げた。何処か記憶よりピカピカになったようなその剣を抱きしめ、小さな声で礼を零す。
困ったように顔を背けたシュルトが、帽子を深く押し込んで目元を隠し、部屋を出ていく。
「儂は少し小僧を探して来るわい。大人しゅうしとけよ、ラン。」
「ふふ。」
「なんじゃ、急に。」
「まだ慣れてなくて。親しく呼ばれるってくすぐったいわね。」
「…………ふん、そうじゃな。」
いつまでもクスクスと笑う主に背を向けて、早々に部屋を立ち去る。向こうもあの怪我で遠くまでの移動は困難な筈、魔剣を欲していた訳だし、きっとまだ近くにいる。
無論、報復の意味はあるが、何より危険だ。己も、ランも。気に入らない奴の思惑通りに気に入った奴が傷つくなど、面白くない事この上ない。
「とりあえず、あの坑道の奥でも探して見るのが早いかのゥ……熱くなくのぅとるとええんじゃがな。」
丸二日も経てば、地下水の影響もあって程々に冷えている筈だ。普通に歩いて行けるだろう。
先日より急いでいないせいか、朝に出たはずが日が下がり始める頃に坑道の入口へ辿り着く。道中には人が通った痕跡は無かった、隠されていては見つける自信は無いが、ついでの捜索ならこんなものだろう。
人が戻ってきている坑道に進んで行けば、当然のように止められる。
「その帽子、兵隊さんか? だが、制服じゃないようだが……」
「喧しい、邪魔をするな。」
「許可なく入る事は許されていない! 今は危険なんだ、【フランズヘクサ】が全て焼き払ってくれたせいで、奥は火山道みたいな有様でな、道がいつ崩れるかも分からん、補強が終わるまで入るんじゃない。」
「そんなに待てるか、儂は急いどるんじゃ。」
「おい! ……う、動かん。」
止めるどころか、体勢を僅かに変えることも出来ず、諦めた鉱夫がシュルトから離れる。すぐに仲間に伝え、入口を封鎖する頃にはシュルトは奥へ進んでいた。
少年が襲ってきた所へ戻ってきたが、彼が逃げた横穴から下は、暗すぎて何も見えない。よくこんな所へ飛び込もうと思ったものだと、自分の事を棚に上げて考える。
ここから奥は、地下水脈の入口が開いている筈だ。というか、彼が開けた。そこから逃げたのなら、そこを通って追うのが一番確実なのだが、息が続くか怪しいものだ。
「さぁて、どうしたもんか……」
水の魔剣とやらが、どれほどの加護をもたらしているのか知らないが、潜ることに関して己に劣るとは思えない。
それなら、遠回りをするしか無いだろう。熱湯が流れ込んで来たのだから、坑道の奥と繋がって居るはず。そこからなら、息も持つだろう。
なんなら、逃亡を一時的に中断したのだから、手近な坑道に逃げ込んでいてもおかしくない。其方から探してもいいだろう。
「とりあえず奥に歩けばええのか……奥ってどれじゃ。」
下に行く道はいくつかある。横に行く道も。開けた大穴がどれに繋がっているのか、判断が難しい。
溶け、焦げた臭いが多く、水や血の臭いはほとんど感じない。道を探る宛にはならないだろう。反響音を探ろうとにも、今回の目的は深い所ではなく開けた大穴。どんな形状で繋がっているのか分からないのに、宛にすることは出来ない。
「こういう時は……勘じゃろ。」
拾った石を全力で地面へ叩きつけ、飛んだ破片を見る。一番多く飛んで行った穴を選び、先へ進む事にする。あまりにも暗い道を半ば手探りに歩き、ザラついた岩肌を擦り、足を踏み出していく。
乾燥した岩肌というより、蒸発を伴ってボツボツとした岩が形成されている。彼女の炎は本当に凄まじいらしい。奥へは遠慮ない攻撃を加えていたのだろう。それが自分を気にしての事だと気づかないシュルトでは無い。腹立ち紛れに殴った岩壁が、ボコリと音を立ててくり抜かれる。
「やべっ、崩れんじゃろうな!?」
慌てて姿勢を低くして衝撃に備えるが、幸いな事にそこを柱とした力は少なかったらしい。揺れが止まり、向こう側を見る余裕が出来たシュルトが覗き込む。
暗闇だ。一切の光が無い。外れなのか、少年が居るのはさらに奥なのか、それとも彼に光は必要ないのか。どちらにせよ。ここで眺めていたって変わらないだろう。先に進むのがベストだ、違えば戻って来れば良いのだから。
「乾燥モンの肉もぱん言うのも持ってきとるきぃ、二〜三日くらい潜っとっても問題無いじゃろ。ランも起きとるなら自分の事ぐらい自分でするじゃろうし……」
手探りは変わらずだが、道が開けたなら進んでみるのが手だ。既存の道に潜んでいたのではすぐに見つかってもおかしくない。あれから何も聞いていないのだから、おそらく繋がってない道か水没した道に居るはずだ。
大穴をくぐって、右か左か。空気が湿った方は、僅かに右の方。引き返す方だが、下へ行く道なので奥で良いはずだ。隠れたい者は奥へ行く、森でも洞窟でも共通の心理だ。
「問題は、儂が泳げる時間じゃが……そんなに奥で無いとええの。」
慣れてきたのか、けっこう目が効いて来ている。水の中でも迷うことは無いはずだ、方向感覚には自信がある。崖から落ちようと濁流二流されようと、何となく方角が分かるのだ。ヘクサが居たなら、鳥の帰巣本能のようだと感心したかもしれない。
ぼんやりと歩き、その集中が途切れる前には足へ水が触れた。思わず足を引いてしまう冷たさが身体の芯に響き、潜るのを躊躇う。
「荷物がどうなるんかもあるが、身体が鈍るのが面白くないきぃの……こん中であの餓鬼と会っても殴れんぞ。」
どうせ遭遇出来る頃には、身体も芯まで冷えているだろう。向こうも無傷では無いだろうが、おそらく寒さに対する耐性は遥かに劣っている。一方的にやり込められては面白く無い。
流石に何度も相対し、容易な相手で無いのは理解している。だが、それで退くほど絶望的な差では無い……と思う。思っている。
今は向こうの錫杖も柳葉飛刀も無い。笠も破れているし、火傷も治ってはいないだろう。【水の魔剣】は脅威だが、確実にチャンスと呼べる状況。
「せめて火が欲しいもんじゃ。ランのように魔法でも使えればええんじゃがな。」
彼女の持っていた、炎のような魔法の杖のような刺突剣を思い出し、借りてくれば良かったかと今更に思う。だが、あのように言われては気まずくて居られたものでは無かったのも事実。
そういえば、あの少年も彼女も、魔剣と呼んでいた。もしかしたら、あの小僧も魔法使い……と関係ない思考を広げていると、ふと水面に振動を感じる。
こんな地下深く、外の日も餌も無い場所で生き物が居るとは考えにくい。己の生息域を出る変わった生命体……人を除いて。
「潜っとるんか、動かしとるんか……どっちでもええか、そこに居るんならのぉ!」
迷わずに飛び込んだシュルトは、振動が無くなる前にその方向へ泳いでいく。深い、想像以上に。
道になっているかと思ったが、どうやら巨大な空洞のようだ。しかし、不思議な事に振動は下から来ている。
突然の衝撃が襲い、壁に叩きつけられる。何が起きたか把握する前に、激流に流されて暗闇の中を掻き回される。体力の消耗と呼吸の消費を抑えるため、力を抜いて振動の元へ向かうチャンスを待つ。
何度目かの壁への衝突、偶然にも脆い所へ当たったらしく、崩れた岩が水流を乱す。その一瞬で蹴り出した岩が水底まで飛んでいき、追って壁を蹴ったシュルトも飛んでいく。
「痛っ! ……なんで水が無いんじゃ。」
「僕がここに居るからだ、頼むからここを壊すなよ。兵隊やアイツから隠れるにはうってつけなんだから。」
「餓鬼ぃ……貴様の頼みなんぞ、儂が受ける思うとるんか?」
「ここが壊れたり僕が気絶したりしたら、おっさんも溺れて死ぬと思うけどね。」
「その、おっさんっちゅうの止めいや。」
「何? じゃあ鬼ヤローとでも呼べばいい? とにかく大人しくしててよ、僕は傷を治してすぐにでも挽回しないと、居場所が無くなるんだから。」
焦燥と不安。かつて自分を支配していた感情が、少年から感じられる。嘘は無いようだが、挽回とは何をするのか。考えれば分かることであり、それを許すつもりは無かった。
敵意を感じた少年が、抜身のままになった魔剣をシュルトへと払い、水の腕をもって叩き飛ばす。しかし、その一撃の後が来ない。頭を抱えた少年が呻くばかりである。
「なんじゃ、終いか。」
「普通はこれでおわってるんだよ。クソ、限界が……近い……」
これで傷を治すなどと、良く言えたものである。むしろ、三日も持ったのが奇跡と言えそうだ。
懸念するのも馬鹿らしいと鼻で笑った彼が、小腹を満たそうと干し肉に齧り付く。その匂いに反応した少年が、バッと顔を上げた。
「もしかして、食べ物を持ってる?」
「あん? 見りゃ分かろうが。」
「こんな暗闇で何が見えるんだよ。それより、そいつをくれるならいい事を教えてあげるし、ここからサッと出してあげるよ。」
「お前さんをとっ捕まえに来たんじゃ、出てどうする。」
「良いの? 彼女、多分死ぬよ。」
「なに?」
そう言われれば俄然、気になる。どうせ食料程度なら、出るまで無くても問題ない。出るにも一日もあれば事足りる。
ならばと投げてよこした物を、ガッツく音が聞こえる。硬いパンに塩辛い干し肉だが、あんなに貪って水分は大丈夫なのだろうか……ダメだったらしい。
壁のように聳える水に顔を突っ込むという奇妙な光景を眺めながら、少年が喋れるようになるのを待つ。
「ふぅ……とりあえず、取引成立だね。」
「礼もなしか?」
「取引だし? じゃ、情報だ。あの街に二日前から男が潜んでる。リオという男でね、こいつは二本の魔剣と大量の【印】を持っているんだ。彼の目的は君の【印】と……炎の魔剣だよ、ついでに僕の命かな。魔剣の所有者が死んでた方が、彼個人は都合がいいようだからね。」
呆れたとばかりに鼻で自嘲しながら、彼は己の傷を撫でる。失敗したものはいらない、という事なのだろうか。
「なら、ランの奴も……!」
「それが東の魔女の事なら、そうだね。だって彼女、彼の為に動く気もないだろう? 理由があるなら、彼は間違いなく処刑を選ぶよ。いや、私刑かな。」
「どっちでもええ、はよ出せ。」
「はいはい。それじゃ、僕が教会に行って話をつけてくるまでに、あのいけ好かない傲慢ヤローに恥かかせてやってよね。」
「足止めが狙いか……ワシを騙したんか?」
「まさか。食べ物は情報に、移動は働きに。いい取引でしょ?」
水の魔剣を祈祷でもするかのように掲げ、少しの間瞑目していた彼が、シュルトに向き直ってニヤリと笑う。
「それじゃ、行ってらっしゃ〜い。」
「あ? おい、何を」
喋る途中に吸い込んだのは、空気では無く水。混ぜこぜに吹き飛ばされ、迷路のような空間を流され、吹き飛ばされたのは坑道の入口だ。高い月を見上げながら、周囲の喧騒を聞き流す。
「水だ、また吹きやがった!」
「やっぱり【フランズヘクサ】はしくじったんだ。まぁた水浸しだぜ、チクショー。」
「俺たちはどうすりゃ良いってんだよ……このままじゃ餓死にだ!」
「軍の決定は驚いたけど、正解だったってこったな。」
あぁ、最悪の展開らしい。森でコソコソと動き回っていたあの男が、リオという奴ならば。やりそうな手段が嫌にでも思いつく。時間は無いらしい。離れるんじゃ無かった、今更に考えても時間は戻らない。
行きの比では無い速度で森の中を駆け抜け、道を無視して跳躍し、人の少ない外壁を回り、止めてくる門兵を蹴り飛ばす。
駆け込んだヘクサの家は、やはり誰もいない。争った形跡さえ無いが、零れた温い水がそのままになっているのは、彼女らしく無い。数日の付き合いだが、その程度は分かる。
「月が落ち始めとる……朝になるかもしれんな。」
日が出れば人の動きが活発になる。何か行動を起こすにしても、邪魔が入りやすい。その前にヘクサを見つけなければ。
外壁すぐ側にある彼女の家から飛び出し、眼下に見える街へと駆け下りる。寝静まっている街を足音で蹂躙し、一つの家に辿り着く。あまり信用出来ないが、それは自分の少しだけ顔を合わせただけの勘に過ぎない。彼女の、ヘクサの信頼を信じるなら、手を貸してくれる筈だ。
「おい、おい医者! 何を寝とる! 起きろ!」
「なんです……? まだ、こんな時間じゃないですか。あら、貴方はあの子の所の。」
「お前、ランが何処か知らんか!」
「彼女ならあっちですよ。好きにしたらどうです?……私は、どっちに転んでも納得するしかないんですから。」
「……言われんでも、儂は自分のしたいようにするわい。お前さんみたいに諦めてやるのは苦手なんでな。」
「別に諦めてないですよ。あの子を作った時から、こうなる事は分かってましたし。元々が此方側なだけなんですよ、私は。それじゃ、二度と私の前に現れないでくださいね、あの子にもそう言って。それでは。」
逃げるように戸を閉めた彼女に、かける言葉を持っていない。そんな事より、今はヘクサの事だと意識を切り替えて、女性の示す方角を見る。
視認できる距離には何も無いが、近寄れば違いが分かるだろう。何故か、彼女の周囲は暖かく感じた気がする。その気温の変化を、感じればいい。
しかし、家の間を駆け抜けて行けば、すぐにその必要は無かったと悟る。人が集まっている場所が、目の前に現れたのだから。日が昇っていくその広場で、ゆっくりと男が立ち上がった。隊長、そう呼称されていたか。
「時は来た! 今日を持って五代目【フランズヘクサ】は役目を終え、次代を招く!」
そう叫んだ彼の後ろ、大きな柱。広場に急遽立てられたであろうそれは、日に照らされてその全貌をその場にいる者に見せつける。何の変哲もない木切れ、そしてそこに縛られ、吊るされる用済みの魔女を。
「しかし、初代の【クリークヘクサ】より延々と落ちていく炎の加護は、我らも見るに忍びない。故に、ここに革新を! 我等の新たな灯火、盛る戦火の始まりを!」
「協力しましょうとも、我らが戦友よ。」
芝居がかって頭を下げるその男を、シュルトは覚えている。二刀の魔剣士、リオ。彼の森に災いを持ち込み、私欲にまみれた、狂信的な神の信奉者。
彼の言う協力が何なのかは分からない。だが、これから起こることは予想が着く。見物人だろう街の人々を押し退け、投げ飛ばし、広場の中央へ突進する。
「おいラン、目を覚ませ! えぇい邪魔じゃ、おどれら、どかんかい!」
「来たか、駄犬め。」
広場の中央、処刑台とでも言うような舞台からも、シュルトの事が見えたらしい。騒ぎに気づいた隊長が、眉を歪ませて彼を見下ろした。
「止めるのは貴殿に任せよう。私は彼女から、炎からの友情と魔剣を貰い受けねばならないのだから。」
「終われば代われ、我等の国の処分は、我等が我等の伝統に則り行わなければならない。」
「好きにしたらいい、私は神の意思にさえ触れられればそれで良いのだから。」
「ふざっけんな、ヒョロ軽共! ランに触れるな! だぁ、退けって言うとるじゃろうが! 叩き潰されたいんか豆野郎共!」
淡々と進められる目の前の光景に、逃げる住民を押しのけ、迫る兵を投げ飛ばし、シュルトが進む。普通なら数秒で取り押さえられる光景だが、僅かでも前に進んでいる異様さに、より人々が距離を取る。
そんな場所へ、ヒラリと降りた隊長が剣を抜いて歩み寄る。あと十歩も歩けば間合いだろう。あと九、八、七、六──零。
あっという間に詰められた距離に、シュルトが反応しきれない。躱し損ねた斬撃が顔を斬り、顎から額へ斜めに皮膚を裂く。
「ほう、避けるか。チビ助。」
「痛いわタコが!」
血が鼻腔と片目を蹂躙するも、場所は覚えている。痛みも硬直も気合いでねじ伏せ、斬られた顔面を隊長の額へと叩きつけた。
とても人体とは思えない音がし、割れた額から血が迸る。互いに真っ赤に染まった顔から白い歯を覗かせ、上がる口角で笑い合う。
狂気、殺気、闘争心、敵対心、なんだって良い。ただ、底から笑いが込み上げてきて堪らない。生きている、死線に近づけば近づく程、今はそれを超えていないという事を実感する。戦人の呪いであり、才能であり、誉。
「面白い、シュルトと言ったか。手にかけた勇士として覚えておこう。」
「クハ、心底どうでもええわ、来るならこいや。」
軍人として、経験と修練と誇りを乗せて。
妖鬼として、天賦と暴力と畏怖を込めて。
互いの死を、己の死を、生者として見つめ合う瞬間。しかし、その間に割って入るのは、悲鳴。
ハッとしたように顔を上げたシュルトの視界に、ヘクサの胸に突き立てた黒い魔剣を抜く男の姿が映る。流血は無くとも、それが安堵に繋がらない事はあまりに明白。
「貴様ァ!」
「ふむ……残念だがここまでか。交代だ、神の遣いとやらにな。」
「まて、二人とも遊んじゃるわい! 儂はここじゃ、おどりゃ逃げずにかかってこんかい!」
「軍人として、私情より役目を果たすのみ。」
踵を返す隊長に殴り掛かるシュルトだが、その手は細く頼りない筈の腕に止められる。
「さて、あとは【鬼神の肢体】を貰おうか。」
「なんの……事じゃ!」
「おっと、想像以上の重さだ。少しばかり苦労するかもしれんな。」
「テメェ、本当に人間か?」
「言っただろう、神の一端だと!」
シュルトの拳を握る手の力を抜き、再始動したその力を使い一回転。その最中に振るわれた二刀が、シュルトの腹から胸にかけて傷を入れる。衣服が破れ、無惨な素肌が顕になった。
少し離れて着地した男は、恍惚とした表情で天を仰ぎ、民衆もシュルトも構わずに感情を叫んでいる。
「そう! 私こそ神の御力の受け皿! 記録? 御伽? 実に下らない! そんなものはあの方のほんの一片に過ぎないのだから拘る必要が何処にある! 私ほど相応しく忠実な者が居たか? あの御方の再臨や復活などきっかけさえあれば如何様にも成し遂げられる! 我々が後生大事に手を尽くす必要など」
「黙れ、喧しいわ!」
呆気に取られていたシュルトも、すぐに正気に戻り頭を掴んで叩き落とした。硬い石畳に跳ねた男の顔を、全力で蹴り上げる。
「ドタマァ……潰れんかい!」
周囲の建物などゆうに越し、舞い上がったリオに向けて傍に立っていた兵士の鎧をもぎ取って投げつける。
ひしゃげた金属に腰を抜かした兵士を離れた所へ投げ捨て、落ちてくる肉へ回し蹴りを放つ。近くの建物へ轟音と共に突っ込んだ彼を無視し、此方を見下ろす隊長へと走り出す。
「ランから離れぇ!」
「断る。炎の友は炎へと還す決まりだ。」
「頭ぁイカれとるんか! ランはまだ生きとるんじゃぞ!?」
「余所者が我等が伝統に口を出さないで頂こう。私が止めておく、やれ。」
部下に指示を出した彼が、剣を抜いて立ち塞がる。怒り心頭、乱雑に殴りつけた拳。それを剣で去なして前に出……ようとして押し戻される。
後ずさる彼の目の前で、石畳が破壊され、破片が周囲に飛び散った。鎧へと剣戟のような音でぶつかるそれは、ただの余波だと言うのに殺傷力さえ認められる。
あぁ、今までは加減されていたのだと、嫌でも理解するほどに。殺気は本物だったが、自分の肉体を守る意味か、それとも倫理観という抵抗感か。どちらにせよ、壊れすぎないように気を使われていたのだと。
「お前らは、アイツらと同じじゃ。訳の分からんものを後生大事に祀り上げ、儂の大事なもんを全部奪っていく、ただの悪鬼じゃ。この世から骨も残さず消したるけぇ、前に出ろや。」
「……それが、君の本性か。」
「こうさせるんは、誰じゃろうの。儂か? お前か? どっちでもええが……来んのなら儂から行くぞ!」
今度は威嚇では無い。大振りな先程と違い、的確に捉える為の速い拳。剣を合わせるが、瞬間的に開いた掌が刃を摘む。指が三本、ただそれだけだと言うのに、剣は動かなくなり、金属は悲鳴をあげる。
反対の腰に帯びた小さな剣を抜き、腕を斬りつける。力が弱まった瞬間を狙って押し込み、流れた血で滑らせた剣を引き抜いた。
「相変わらず小手先の器用な奴じゃな。」
「君こそ、人間とは思えん力と反応速度だ。素晴らしいよ。」
「知った……事か!」
勢いよく振った腕から、流れる血液が飛び散る。顔にかかるそれに、反射的に視界を閉ざす、その一瞬。
痛みはない。熱、とも少し違う。ただ痺れた。何も分からなくなるような酩酊感と、眠る寸前のような暗闇が強制的に叩きつけられる。顎を殴られたのだ、と遅れて気づく。
身体に染み込んだ受け身の技術がなければ、熟した果実のように頭が爆ぜていたかもしれない。そんな一撃。だが……
「ようやく、止まったのぅ!」
それも牽制に過ぎないらしい。興奮状態、闘争本能。獲物を見つめる飢獣のような顔が、視界に辛うじて映る。極限状態の集中力は、人知を超えるとは本当らしい。己を殺さんとする拳がよく見える。
否、それだけでは無い。その後ろから飛びかかる、血塗れた男も。二刀の魔剣を逆手に持ち、振り下ろす男。
「ほぅ、止めるか。」
「そんだけ殺気を振りまいとりゃ、嫌でも気づこうが!」
「これでも隠すのは得意な方なのだが、ね!」
気絶した隊長を足元に、人外どもの喧嘩が始まった。魔剣を持ち、多数の【紋様】を所持するリオが有利に思えるが、それは万全な時。頭を砕かれて僅かな時間で動き出したのだから、違和感を拭えなくて当たり前だ。
対してシュルトは高揚している。多少の疲労はハンデにもならず、切られた右腕の痛みも気にする程ではない。
それでも、空を駆け、風を読み、土と語らい、再生を続け、二刀を振り回す怪力のリオには届かない。人の身にはすぎる力がぶつかり合う広間に、遂に完全に顔を出した日が人々を照らしている。
「夜が明けたか……【鬼神の肢体】よ、私にも期日という物がある。そろそろ時間が近い、ここまで抵抗されるのは想定外だったのでな。本来なら、【炎の魔剣】とその親和性のみ頂く手筈だったのだから。」
「そうかよ、最高じゃなクソヤロー!」
「君の命を見逃す代わりに、早々に手を引いてくれないかな? この国の軍と私を纏めて相手にするつもりかね?」
「頷くと思うとるんか?」
「……あぁ、君が諦めてくれないのは、希望が残っているからかな? それなら話は早い。君が熱中している間に……ほぅら、手遅れだ。」
彼がほんの少し腕を動かせば、まるでそれに伴うように風向きが変わる。日照時間による山風の変化だ。
広間に新鮮な空気を届けたそれが、パチリと火花を爆ぜさせた。燃え崩れた木切れと藁。それが積まれたのは、広間の中央にある柱の下。
「ラン!」
「生命線の魔剣と体質を奪われれば、彼女は死にゆくだけの肉塊だ。大好きな炎で弔って貰えるのなら幸福だろう。」
「なんの事じゃ、ふざけるな!」
「理解せぬならば良い。しかし、彼女は助からない、君は追われる。今引くのなら、君は助かる。考えなくとも、これなら分かるかな? 力が劣るものには、選択肢が用意された幸運と慈悲を感謝する以外にないと思うが。」
「大概にせぇや、イカレ野郎。儂がそんなもんを飲み込むと思うとるんか!」
「仕方ない。遅刻は【鬼神の肢体】と君の命で帳消しにするとしよう!」
距離を詰める彼に、そんなことは構っていられないシュルトは石畳を殴り、ひっくり返す。粉塵や瓦礫で視界を阻む中、広場の中央へと走る。
「そこか!」
「うぉ!? なんで分かるんじゃ!」
多少は逸れていたものの、肉薄する事を叶えたリオが続け様に魔剣を振るう。力を使わず、ただの凶器となった二振りの刃は、シュルトの皮膚を傷つける。
滲む血は力む事で強引に止め、刃もお構い無しに腕を振り切った。片腕ぐらい犠牲に息の根を……その覚悟。しかし、シュルトの腕が舞う事も、リオの頭が砕け散る事も無かった。ただ、腕の影が差したリオの顔が、パックリと裂ける。
「これは……まさか!」
驚愕と脱力。頭骨まで到達するその傷は、リオの意識を奪いはせずとも前後不覚に陥れる。これ幸いと邪魔者を蹴り飛ばしたシュルトは、広場の中央の柱へと駆け寄る。
「ラン! おい、目ぇ覚まさんか!」
「と、止まれ!」
「じゃかぁしい! おどれ燃える前にすり潰したろぅか!」
「ひ……」
今しがた人体を破壊しつくしてきた凶鬼の恫喝に、怯んだ軍人は膝を着く。しかし、意識を保ち武器を向ける覚悟は立派、それが恐怖心による反射的抵抗であったとしても。
彼は押しのけるに留め、シュルトは燃え盛る山へと突っ込んでいく。その最中にある柱へと近寄る為に。
「おい、いつまで寝惚けとる! はよ離れんかい、燃やされとるんじゃぞ!」
ヘクサの肩に手をかけ、強く揺さぶるも返事はない。炎の中だと言うのに、それは驚く程に冷たく、細く、頼りない。魔剣と共に炎を振りかざしていた高潔な魔女の姿は、あまりに頼りない少女にしか見えなかった。
「貫け、【炎の魔剣】。」
一言、それと共に異質の熱が腹を穿つ。
「始まりの炎とは、活動であり伊吹。生命の源流であるとも言える。やはり素晴らしいものだな、魔剣の力は!」
己の肩から霞のような白い刃を引き抜いたリオが、杖のような短剣を掲げて叫ぶ。【炎の魔剣】との親和性が、彼に動ける程の活力を与えたようだ。
「貴ィ……様ァ! それはぁ、ランのぉ、モンじゃあ!」
「まだ動くのか、これも【鬼神の肢体】の効力か……? 【刹那の魔眼】より余程に使えそうだな! やはり貰い受けるぞ、その力!」
「こんなもんで良けりゃ、幾らでもくれてやるわい! 貴様を壊せるなら……!」
魔剣を掲げるリオが貫くのもお構い無しに、肉薄したシュルトが拳を振り上げる。その身を包む炎よりも、今まさに眼前に迫る白い短剣よりも早く、目の前の男を打ち砕く。それさえ出来ればどうとでもなれとでも言うように。
しかし、その身が後ろへと引かれた。暖かく柔らかい物に。
『ダメよ、シュルト。ここで折れていい剣では無いでしょう、貴方は。』
「…………ラン?」
「バカな……この炎は私の物の筈……!」
熱くない、この炎は敵じゃない。空へと立ち上っていくそれは、魔剣によって出現した炎である。その筈なのに。
広間の人々が見上げるなか、シュルトを包んでいた炎は空へと立ち上る。朝日の光へと溶けていく中で、その場に集まる者達へ暖かな火の粉を振り掛けて消えた。
「培われた炎の親和性はこの身にあると言うのに……何か別の要因があるのか?」
「どうも……くたばってやる訳にはいかんようなったのぅ。」
「今更、逃がすとでも思うかね? 献上する予定であった魔剣と親和性、この身に受けた以上は取り出すのも惜しい。君の物で……代替としよう!」
再び炎の魔剣を振り回し、炎で辺りを囲むリオ。今度の炎は熱い、殺意と敵意を持ったリオの用いる戦火。
「悪いが……野郎に抱かれてやる趣味は無いんじゃ!」
周囲から一斉に迫ってきた炎は意識から締め出し、リオの元へと肉薄する。この炎を対処する方法は単純、気合いで耐えている間に魔剣を蹴り飛ばす。
だが、魔剣士がそんなことを許すはずも無く。懐のシュルトに短剣を突き出し、退いたその隙間に炎を吹き出させる。
詰めた距離がすぐに開けられた。その隙に宙を踏みしめたリオが高くへ登り、上から火焔の雨を降らせる。それは、この国の為もいる広場へ見境なく落とされ、辺りを肉と骨の焼ける臭いで埋めつくした。
「貴様……ランの剣でなんちゅう事しとる!」
「その彼女の依存染みた忠義に甘え、邪魔になれば衰える前に焼き捨てたのはこの国だ。君が怒る事か?」
「儂は貴様の性根が気に食わんと言うとるんじゃ! アイツの力を使うなら、アイツの気持ちぐらい汲んでやれ!」
「何故? やはり凡夫との会話など無駄か……神の破片となる身では理解に及ばん。」
「肉片に人間は理解出来んようじゃな!」
蹴り砕いた破片を投擲するが、炎の中で狙いが定まる筈もない。空へと消えていった瓦礫を後ろに、リオは三度【炎の魔剣】を翳して人々を見下した。
「そろそろ動けなくなってもらわねば、あまりにも大きな遅刻となってしまう。死ぬなよ、【鬼神の肢体】よ。」
空を覆いそうだった炎の雲が、ゆっくりと集まって一つの雫となっていく。攻撃が止んだ途端にシュルトの投げる瓦礫や軍人の矢がリオへと飛び交うが、彼の周囲を旋回する炎が作る陽炎が、その狙いを拙いものへと変えている。
宙を歩く彼が炎を指揮する度により小さく、眩くなる一滴。それがゆっくりと降下を始めた。圧倒的で暴力的な熱と共に。
「これが……始まりの力だ。」
髪の焦げるような熱波と共に、雫は地表に近づいていく。圧力に抗う者、逃げようと這いずる者、熱に項垂れる者、その全てを飲み込むように、落ちた雫が弾けた。
比べ物にならない熱、炎の波。石を焦がし、硝子を溶かし、木々を発火させ、金属を赤く染める。広場から街中へあっという間に広がったその炎は、地獄を顕現させたような街を作り出す……筈だった。
「生き……てる?」
「何があったんだ?」
「たしか、火に包まれて……」
炎が去った後で、口々に人々が声を上げる。降り注いだ火の粉、最期の魔女の願いを受けた者達が。
そんな物には目もくれず、目的の男を探す。今なお炎に包まれているその一角。そこで間違いなさそうだ。
「何度も女に庇われ……情けないと思わんかね?」
「別れの挨拶ぐらい、させろっちゅう事じゃろうが。もう済んだけぇ、待たしゃせんわ。こっからは儂も……棒振りじゃ。」
「それは……やはり貴様の手にあったか、【影の魔剣】!」
炎を払い立ち上がったシュルトが、冷水の滴るような、冷たく暗い輝きを持つ小刀をそっと上に振る。炎によって踊る影が切り取られ、その手に長大な黒刀が握られる。
「どうせ、何処までも着いてくるつもりなんじゃろう……なら戦禍だろうが、地獄だろうが共に行ったるわい。代わりに力ぁ貸せや、黒いの。」
「さて、どうでるか……まずはその力と親和性、見せて貰おうか。」
「知ったことか。失せぇ、余所者が!」
振り上げた黒刀は押し寄せる炎を断ち、広がる勢いを止めた。更に横薙ぎに一閃、それは炎を消し、広場を静寂へと導いた。
「停止の概念……そこまで引き出すとはな。」
「高みの見物は終いじゃのぅ!」
「な!?」
投げた、贋作だが魔剣を。緩い曲線さえない直刃の影を、槍のように。空を蹴って避けるリオだが、そこへ第二射が飛ぶ。
魔剣の使い捨て、正しく神への冒涜を体現する行動。リオの神経を逆撫でにするそれを、シュルトは一向に辞める気配は無い。
「貴様ァ……!」
「はっ! 何をキレとるんじゃ、理解に及ばんのぉ!」
「もう教皇など知った事か……貴様はここで断罪する!」
炎を纏う刀剣をシュルトへ叩きつけんと宙を蹴る。急降下した彼は、その勢いのままに細身の剣を突き出すが、シュルトは剣を構えるでもなく睨みつける。
何をしようと、このまま貫く。それを可能にする力があると、リオは確信があった。故に、矢を置き去りにするようなその突進は、シンプルだった。
「その心臓、貰い受ける!」
「貴様にくれてやるモンは欠片も無い!」
胸にその刃が届くのと同時だった。骨へ到達する前に、振り上げられた脚が腕を砕く。魔剣を警戒していたリオには、注意の外からの攻撃。
それでも、魔剣を手放さないのは流石と言ったところか。すぐに迸る炎が身を守るように広がるが、それで止まるシュルトではない。
「ぶった斬れぇ!」
「この中を突っ切るか……!」
振り下ろされる【影の魔剣】の一撃、受ければ魔剣でさえ切り落とされる。シュルトの豪腕から繰り出される一撃に、紙一重の回避は危険しかない。回避一択になった以上、大きく距離をとるしかない。
だが、すぐに距離を詰めてくる。攻撃へ転じる余裕が無い。運に恵まれた一撃では、例え武器での一撃でも大した効果を見込めないだろう。
「厄介な……【鬼神の肢体】と【影の魔剣】を相手にするには、【炎の魔剣】では足りないか。やはり光……撤退しよう。」
「逃がすと思うとるんか、ボケナスがぁ!」
「ぐ……っ!」
斬り飛ばされた片脚が、目の前を舞う。制帽の下から覗く獣のような目、舞う血飛沫と釣り上げられた口角。
「【獣鬼】め……!」
「はっはぁ!」
返す刀が迫る圧を間近に感じ、本能的に左手にある魔剣を合わせる。それを簡単に両断する……筈だった。それが【奪取の魔剣】で無ければ。
その権能は【紋様】や【咎】、【呪い】、【祝福】、【証】……各地で呼び名の違う神の一片を奪うこと。
魔剣の力とは、その原初であり、根源。【影の魔剣】は全てと言わずとも力を奪われ、全てを断つ力が僅かな拮抗を生んだ。
受ける事が出来れば、数多の【紋様】を持つリオには反撃が出来る。シュルトの圧倒的な暴力を逸らし、出来た隙間に潜り込む。
「燃え尽きろ!」
「うる……せぇっ!」
迸る炎、ズタズタに切り裂かれる肉、焼ける匂い。波打った【炎の魔剣】の刃は、傷を広げ痛みを与える為の剣。だが、それでも鬼は止まらない。
苦し紛れとも言うにはあまりに致命的な蹴りが、人間と言うにはあまりに特異なリオへ突き刺さる。へし折れ、遥かに吹き飛ぶ様は死体にしか見えないが、どうせ数分で動き出すだろう。逃げられた、といったところか。
「くっそ、血ぃ流しすぎたか……」
青い顔と怠気を訴える身体は、毒を受けて水に押し流され、川を流れたあの時を思わせる。だが、今は助けてくれたヘクサはもう……いない。
よろけるように歩き去ろうとするシュルトだが、すぐに兵隊が彼を取り囲む。
「【炎の魔剣】も、【フランズヘクサ】も、隊長も……全ての仇を取らせて貰う。」
「剣とランはあの男じゃろうが。ソイツに誑かされたんも、そこで延びとるタイチョー言う奴じゃろうが。」
「それでも……それでも我々は!」
振り上げた拳を下ろす当てがない。この惨状の中の興奮と、戦人の性質が彼らをそうさせるのだろう。好きにすればいい、と諦めのように【影の魔剣】を放り捨てて拳を握る。
どうせ、あの血腥い棒切れは勝手に着いてくる。なら、殺したい奴にだけ抜けばいい。今は……自分も昂りを収めたいだけだ。
「遊んじゃるきぃ、来いやデカブツども。」
知らない天井、白い清潔感のある天井。
彩りのあるガラスを透過して入ってくる光は、時刻が夕暮れに近いのを告げている。
「起きましたか? 驚異的な回復力ですね。」
「アンタは……ランの。」
「もう違いますけどね。あの剣が無い以上、次の魔女を作ることもありませんし……」
「はん、貴様らのやり方なんぞ興味ないわ。愚痴なら他所で吐け。」
制帽を探して深く被るシュルトに、呆れたように目を向けて女医がため息と共に零す。
「反逆罪に問われますよ、そんなことしたら……まぁ、感謝してます。あの子が私に頼み事なんてしたの、初めてでしたから。」
「あん?」
「貴方の事を頼む、と。中途半端になっちゃうから、と。」
「……抵抗せんかったのか、ランは。」
「まぁ、あの子にとってはこの国は全てだもの。自分よりも大事なんですよ、そういう風に育ててきたので……他でもない、私が。」
「じゃけぇ、愚痴なら他所で吐け。」
鬱陶しいとばかりに手をヒラヒラとするシュルトに、冷めた目を向けて彼女は衣服を放り投げた。
「今までの着流しでは目立ちますから、軍服の予備でも着といてください。後は適当にどこへでも行けるでしょう? まったく、なんであの子はこんな人の事……」
「ええわ、そんな硬そうなもん。儂は目立とうが構わん。」
「私が構うんですよ。街中で貴方が行方不明になった理由、私が匿ったからですよ? それとも私の事殺したいんです?」
「そりゃ……いや、すまん。着替えるきぃ、それよこせ。夜にでもこの街から離れるわい。」
「えぇ、是非そうして下さい。」
服を投げ渡すと、もう話す事は無いとばかりに彼女は一角を指し示した後に部屋から出ていった。壁際を見れば、非常食と路銀が袋に詰められて置かれている。持っていけ、ということらしい。
空いたスペースに血と泥を拭き取られた着物を押し込み、投げられた服を着る。格好だけで言えば、この国の軍人と遜色は無い……身長以外は。
舌打ちを一つ零して、乱雑に座り込んだベッドが大きく軋む。この国には数日しかいなかったが、多くのものを貰った気がする。日が暮れるまでは少しあるが、出歩く訳にもいかない。
「……ラン。お前さんは、それで満足じゃったんか。」
答えなんて、聞かなくても分かっている。だが問いかけずには居られなかった。彼女にはこの国があったが、シュルトには己と彼女しかいなかったのだから。
「まぁ、零れたモンに引っ付いてても何もならんか。それより、儂に喧嘩うりおった気色悪ぃ奴にヤキ入れちゃらんとな。」
探すまでもなく、放り捨てた筈の物が傍にあるのを感じる。これがある限り、きっと災禍から逃げられない。
ならば、突っ切る方が良い。逃げ隠れるより、正面から全て叩き伏せる方が早いのだから。狩られる前に狩る、実に単純だ。
夜に動くのなら、一眠りしておこうか。起きたばかりだが、好きに眠れるのは少ない特技の一つだ。英期を養い、隣の国にでも入ってから考えれば良い。
堅苦しい制服を脱ぎ捨て、馴染んだ流浪者の格好に戻って数刻。遠くに見える国境の山が、傘を被っているのが確認出来る。
「こりゃあ、一雨来るのぅ……どっかに洞穴でもありゃええが。」
じきに嵐になる。それは天気か、情勢か。どちらにせよ、切り開くだけである。制帽を深く押し込み直し、まだこの胸に炎があるのを再確認する。
暫くは、この鼓動を止めるつもりは無い。ただ喰らいつくだけの命も、名前を貰えば意味が生まれる。それを見つけて、果たすまでは。
「棒振りとして生きていくのは、奴らのようでちと不満じゃが……血は争えんっちゅう事かの。」