Zazie
◇◇◇
ザジに親はいない。
彼は生まれてすぐ捨てられた。
酷い話だが、彼を孕んだ女はとある貴族家に仕えていた侍女だ。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、そのとある貴族とやらが侍女を無理矢理抱き、孕ませ、子供の存在を認知しなかったと言う事である。
侍女とてそれなりの家柄の者であった以上、醜聞の元となるような子供を育てるわけにはいかなかった。
当時、堕胎薬のようなものはあるにはあったが、母体諸共赤子を殺してしまえというような粗悪なものも珍しくなく、堕胎薬を使う事自体が大きなリスクといえた。
だからザジは生まれてすぐ殺される予定だったのだが、やはり自らの腹を痛めて産んだ子だ、侍女は密かにザジを郊外の教会の近くへ捨てた。名付けの札を持たせて。
Zazie。
それは自由という意味を持つ。
幼いザジを拾い育てたのは、中央教会のとある老神父だ。
とある都市、その郊外にある小さい教会を預かっていた優しいお爺さん。
それが老神父だ。
何か特別な活動をしていたわけではない。
一般的な教会業務を極々普通にこなしていただけである。
説法、周辺住民とのコミュニケーション、人生相談やら悩み相談やら…それなりに効果のある民間医療やらを施し、ちょっとした風邪の面倒なども見てやったり。
老神父は過激派だの穏健派だの、そんなものには所属していない。
この荒れた世で、民草には神という心の支えが必要だと思い神職を志しただけだ。
中央教会には水面下でバチバチと殺り合う過激派、穏健派の抗争に一切関わらず、ただ地に安寧があらんことを、と望んでいる者達だって当然いる。
便宜上これを良識派と名付けるが、彼らは数こそ多いが何か特別な力、異形とも言える意志の形、あるいは底なしの野望、宿望のようなものを持っているというわけではない。
しかし、彼らのような存在こそが過激派や穏健派より、より多くの民草の心を救ってきたのだ。
なぜなら真に民草へ目を向けているのは三派でも良識派だけなのだから。
少年期、青年期を教会で過ごしたザジもまたそうだった。老神父を父と慕い、よく学び過ごした。
平和とは何か、その答えは人それぞれである、としか言えないが、ザジが教会で過ごした日々はまさにその平和であった、と言えるだろう。
◇◇◇
しかし平和は恒久的なものではない。
いつかは破れる。
結局、何が悪かったのかといえば何もかも星の巡りが悪すぎた、と言わざるを得ない。
ある日老神父が行き倒れている男を助け、傷の手当を施したが、その男の素性がいわゆる悪魔崇拝者であった事は非常に運が悪かった。
彼に怪我を負わせたのが過激派の教会戦力であった事は非常に運が悪かった。
逃げた彼を過激派が諦めることなく追跡し続けていた事は非常に運が悪かった。
傷を負った彼に手当てを施した老神父の事を、過激派が邪教徒のスパイだと勘違いしてしまった事は非常に運が悪かった。もし穏健派ならばまだ会話が出来たのかもしれないが。
唯一の幸運は、“それが行われている間”、ザジ青年が街へ買出しに行っていた事だろう。
教会は郊外にあるため、生活に必要なものを定期的に買出しにいく必要があるのだ。
◇◇◇
教会へ帰ってきたザジ青年を出迎えたのは老神父だった。
ただし、四肢は切り落とされ、胴体、両の手足に杭をぶちこまれ、壁に貼り付けにされた老神父であったが。
ザジ青年は首を傾げる。
眼前の光景が全く理解できなかったからだ。
あるいは理解してしまえば終わる、心のどこかで分かっていて、理解へ至る思考の糸をザジ青年の本能が次々に切断していったからかもしれない。
だがそんな現実逃避は焼け石に目薬といった有様で、ザジはその聡明な頭脳で余すことなく老神父の惨死を理解してしまった。
幸いだったことがもう一つある。
老神父のショッキングな死に方はザジ青年の尊い何かを一瞬で破壊して、狼狽、混乱という無駄な時間を費やさずに済んだ事だ。
ザジ青年の尊い何かは破壊され、かわりにそこに“なにか”が入り込んだ。
それが何かはザジ青年には分からないが、なにかは言葉にならぬ囁き…啓示をザジ青年に齎した。
狂ってはならない
杭をみなさい
父の殺され方を確認しなさい
父が助けたという男の素性を調べなさい
周囲を見渡し、証拠となるものがないかを調べなさい
悪を為した者を突き止めなさい
父を殺したやり方と同じやり方で裁きなさい
ザジ青年はこれを法神の声だと考えた。
もちろんこの声は法神のものではないが。
この声はザジ青年自身の声だ。
ザジ青年の聡明さは彼が狂を発する事を許さなかった。
だが、この経験がザジ青年が法神を狂信する切っ掛けとなったことは言うまでもない。
◇◇◇
老神父を打ち付けていた杭の材質、彼の殺され方を調べれば自ずと下手人は分かる。
だがなぜ教会が老神父を殺すのか。
老神父が悪辣な異教徒だったとでもいうのか?
しかしザジ青年が知る限り、老神父が異教徒だった節はない。
となれば当然老神父が助けた男の素性に考えが及ぶ。
その男も老神父同様に惨い殺され方をしていたのだが、その死体を見てもザジ青年はなんとも思わなかった。
かつてのザジ青年は急速に崩壊し、新たなザジ青年が生まれていたからだ。
もってうまれた聡明さゆえか、ザジ青年は男がなにやら忌まわしい素性であったと仮定をし、老神父がその煽りを食って殺される羽目になった、とあたりをつけた。
だがそれを確かめるすべは、といえば…
◇◇◇
ある日、中央教会に新進気鋭の信者が入信してきた。敬虔な信仰心、聡明な知性、貴族の庶子という自己申告が正しいかどうかは分からないが、その優れた術的才能は瞠目に値する。
青年の名前はザジと言った。
◇◇◇
異端を憎む敬虔な信者ザジは、ほどなくして異端審問官に任じられた。
時折見せる異端への苛烈な姿勢、そして苛烈なだけではなく、道理を重んじる姿勢。炎と氷が共存するような特異な性質が穏健派の幹部の目に留まり引き抜かれたのだ。
それからというもの、異端審問官ザジは多くの任務をこなし、多大な実績をあげる。勿論成功ばかりではなかった。
異神討滅官…要するに、過激派版の異端審問官達との共同任務では敵邪教徒の罠にかかり、異神討滅官の者達は皆殺されてしまった。
ザジ自身はかろうじて逃げ出す事に成功した…と本人は供述している。
邪教徒達は卑劣にも異神討滅官達を拷問にかけた。
異神討滅官達の四肢を切り落とし、胴体と四肢を壁に打ち付けたのだ。
これは異神討滅官がよくやる殺り方である。
この時はザジにも任務の失敗を咎められ罰が下った。
だが、それ以降ザジが携わる任務に失敗はない。異神討滅官達との共同任務でも二度と罠にはまることはなく、至極穏便無事に任務を成し遂げていった。
とはいえ、失点もあったものの加点のほうが遥かに多かったザジは四等、三等、二等、と階梯を駆け上がっていったのだ。