★閑話:レグナム西域帝国①
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「えと…勇者さんが死んじゃったっていうことですか」
レグナム西域帝国11代女帝サチコは、宰相にして魔導協会所属一等術師【死疫の】ゲルラッハに今にも泣きそうな視線を向けて言った。泣きそう、なのではない。もう今にもその両の眼からは涙が零れるであろう。
皇室直系の者に見られる濡れ鴉の如き真っ黒い髪の毛にサチコの身体の震えが伝播し、サチコの切りそろえた前髪がぷるぷると揺れている。
「は、はァ…いえ、確定事項ではないのですが…帝国占星院からの予知がつい先程あがりまして…。当代勇者の星が墜ちた、と。殺されたかどうかは定かではないのですが、まぁ…肉体的に死んだか、あるいは勇者として死んだかのどちらかでしょう…。し、しかし!その後、新たな白き星が天位へ収まったそうです。つまり、新たな選定は為されたと見て良い…と。た、ただ…」
ゲルラッハはテカる額に滲む脂汗を高級な絹のハンカチーフで拭いながら答えた。
まごうことなき少女であるサチコの、皇帝としての権威を恐れているわけではない。
今にも決壊しそうなサチコの涙腺を恐れているのだ。
ただ?とサチコは先を促させる。
ゲルラッハはため息混じりに続けた。
「ただ、そのう…光は地を未だ照らさず…と」
ぴ…と音が聞こえてきそうな表情を浮かべたサチコの目の両端に水滴が溜まっていく。
幼いとはいえ帝国の頂点だ。
勇者という存在の何たるかはサチコも理解している。
世が不穏である事も理解している。
魔族などという怖い連中が暗躍している世で、勇者が居なくなってしまったらどうなってしまうのか。
それを考えるとサチコは自身の身体の震えを止める事ができない。
サチコにはその年齢以上の聡明さがあった。
だが、それでも幼女と少女の中間程度の歳である。
心の強さまではまだまだタフとは言えない。
ましてやサチコは勇者という存在に憧れめいた理想を抱いていたのだ。
ゲルラッハは慌てて指輪を嵌めた拳に掌を当てて、空気中の水分を集めて生成した水の鳥を造り出した。
水の鳥は執務室を優雅に舞い、今にも泣き出しそうだったサチコが淡い笑みを浮かべる。
その笑顔を見てほっとしたゲルラッハだが、執務室を訪れた文官が持ってきた報告書を読むとその禿げ頭にバキバキと青筋を浮かべた。だがそれも一瞬で、サチコのほうを振り向いたときには好々爺然とした笑顔のまま口を開く。
「陛下、大変申し訳ありません。このゲルラッハ、少々お仕事がはいってしまいましてな。身の回りの事はアスリタへお申し付け下さい。アスリタよ、陛下を頼むぞ。少し長丁場になるかも知れん」
執務室の隅で控えていたメイド服の女性がハッと短く返事をする。
浅黒い肌のエルフェンだ。
◆◆◆
「毎度毎度!中央教会の内部統制はどうなっているのだ!不穏分子など皆殺しにしてしまえば良いではないか!薄汚い魔族に組した人類の裏切り者共などを何故のうのうと蔓延らせているのだ!穏健派?過激派?そんなものどうでも良いわ!大事なのはサチコ陛下の敵か味方かのみ!中央教会の不手際で裏切り者を自由にさせ、魔族の跳梁を許すのならば教会全てが敵じゃわい!」
執務室を出て暫く歩を進めると、ゲルラッハはおもむろに吠え猛り狂った。
怒りで頭部がタコのように赤く染まり、全身を覆う脂肪がぶるぶると震えている。
その手は隣を歩く侍女の尻を盛大に揉みしだいていた。
尻をもまれている侍女…アイリスはため息をつきながらゲルラッハを眺めた。
禿げ、デブ、怒りやすい、年寄り、背も低い、当然の権利のように女性の身体を触る男。
権力を嵩にきて身体を求めてくる事もある。
アイリスは何度もこのデブに抱かれた。
抱き方自体は優しいものではあったが。
とにかくこのゲルラッハという男は絵に描いた様な悪徳貴族なのであった。
だが魔族が人に化け、当時さらに幼かった今代皇帝、そしてその母を暗殺しようとした時、魔族とその呼応者…要するに人間の裏切り者達を相手取って皆殺しにしたのが彼である。
ヒト種の天敵たる魔族に何故呼応するのかという向きもあるが、人を超えた力、寿命をくれてやるといわれれば凡俗は容易く転ぶ。タチの悪い事にその呼応者は帝国の上級貴族の子弟であった。
当時帝国は第三次人魔大戦の傷痕がまだ残っており、貴族達にはより多くの制限、節制が求められ、それは貴族の子弟にも及んでいた。
生来思うがままに生きてきた彼等は強い不満を胸に抱く。
ともあれ彼等は宮殿のどこに誰がいるかをよく知っている。
当時、宮殿にいたサチコ以外の帝位継承権を持つ者は皆殺されてしまった。
近衛といった強力な護衛が魔族に殺されてしまい、抗えるものが居なかったのだ。
襲撃が夜間に行われたという事情もあり、近衛の数そのものが平時より少なかった。
とはいえ、近衛は強力な騎士だ。
真正面から向き合ったなら将級でもない魔族に遅れは取らなかったかもしれない。
だがその魔族が変身能力に長けた者であったという点は余りに残酷な偶然であった。
夜間ということで各要所へ散開していた近衛騎士達は、友人の、同僚の、あるいは上位者の姿に化けた魔族に次々暗殺されてしまう。
悪漢共はたちまちに宮殿を血の海に沈めていった。
その魔手は当然の如くにサチコにも伸びる。
異変に気付いた皇后は幼いサチコだけは護ろうと堅固な造りの部屋へ立てこもったが、魔族に扉をこじ開けられてしまった。
皇后がサチコを凶刃から護ろうとその身体で抱き締めるが、部屋へ雪崩れ込んできた逆臣達に引き離されてしまう。
だが逆臣達がサチコと皇后の喉に短刀をあてた時、短刀をかざしていた逆臣達の腕が腐れて落ちた。
魔族と逆臣達が驚き周囲を見渡せば、部屋の入口に肥った中年男性が立っていた。
帝国宰相ゲルラッハだ。
離宮で夜遅くまで仕事をしていたゲルラッハが異変に気付いた時には既に皇族の殆どが殺害されていたのだが、なんとかぎりぎりサチコとその母の救出には間に合った。
ゲルラッハは当時から怒りっぽい悪徳糞宰相として有名であったが、この時見せたゲルラッハの怒りは意外にも静かなものであったという。だが怒りとは一定以上に高まると、逆にそのナリを潜めるものだというのは有名な言説だ。
「逆臣共、サチコ殿下と皇后陛下から離れよ」
サチコと皇后の喉に短刀を当てていた者達は、豚が何するものぞ、とせせら嗤った。
豚、というのはゲルラッハの仇名だ。
「そうか」
ゲルラッハが発した言葉はただそれだけであった。
その声色は砂漠の如き乾いたなにかを想起させた。
しかしその砂漠を形作る砂の一粒一粒は触れれば爛れる毒の砂だ。
結局叛逆の徒共はたちまち全身の穴と言う穴から血を流して息絶える事となる。
魔族も同じだ。
魔族が魔法を使おうとしても、その舌は腐れ落ち音は声を為さない。
もし魔族がゲルラッハを侮らずにその潤沢な魔力で護りの魔法を使えばこうはならなかったかもしれない。
ゲルラッハの術は地に、そして宙に漂う極々微細な…小さくて目に見えない生き物とはいえない何かを活性化させる術であるというのは魔導協会の研究者の言葉だ。
実際どのようなメカニズムの術であるのか、ゲルラッハは決してその種を口にはしない。
とにもかくにもゲルラッハは幼いサチコと皇后の命を救った。
そして以降、ゲルラッハは皇后から篤い信頼を得た。
皇后はサチコにゲルラッハを篤く用いよと教育までしていた。
ゲルラッハもまた皇室には忠実であった。
ちなみにゲルラッハのそんな逸話をアイリスも知っていた。
逆臣とは言え貴族は貴族。
そして貴族とは強大な魔力を持つ恐るべき存在なのだ。
貴族はなぜ貴族たるのか?
なぜ平民より尊い存在なのか?
それは強いからである。
貴族が強い事は、貴族が貴族でいるための最低限の条件だ。
この価値観は西域のみならず、東域でもかわらない。
魔族との幾度もの戦争で培われてきた殺伐的価値観である。
そんな強い貴族を複数まとめて縊り殺し、そんな貴族よりずっと強い魔族をも歯牙にもかけなかった凄まじい魔術師。
アイリスは強い男が好きだ。
だからゲルラッハから慰みに尻をもまれようが、身体を求められようが嫌がらずに応じている。
先ほど尻を揉みだしたゲルラッハを呆れた視線で見つめていたのは、もむなら寝所ですればいいのに、と呆れていただけで揉んできた事に対しては特に思う所はなかった。
そんなゲルラッハはアイリスの形の良い尻をもみながら、西域、ひいては東域…いや、世界に迫る危機について思いを馳せていた。
(うむむ…人魔大戦は近い…教会は内輪揉めときては…帝国だけではどうにもならん。なればアリクス王国との接触を一層に密にしなければならぬ)