し し が
夜中の9時前。
佳奈は桃色のイヤホンを耳にはめ、スマホのとあるアプリを起動させる。
“マイラジ”。
そう名付いたアプリには、2通りの使用方法がある。
一つはユーザー自身が配信者となり、部屋を作ってラジオ風の配信ができること。
そしてもう一つは、その配信をリスナーとして配信者の話を聴いたり、コメントを書く等して楽しむことだ。
佳奈の楽しみ方は後者。
もうすぐ好きな配信者の配信が始まる。
「間に合った~!イムさんの生放送!」
佳奈がとある部屋に入室すると、男性の声でオリジナルの挨拶が行われていた。
カメラ機能で顔を映すこともできるのだが、この部屋では白い髪の青年のイラストが貼られている。
コメント欄もまた、オリジナルの挨拶で溢れていた。
“イム”という人物はマイラジで活動している男性配信者で、佳奈は彼の配信をよく聞いていた。
低いトーンだが優しい調子の声が魅力的で、話も聞きやすいことから、特に女性のファンが多い。
佳奈もまた、彼のファンの一人だった。
『今日“ミセド”で新作のドーナツ食べてきたんだ~。“ザクザク宇治抹茶”。ザクザクのやつと抹茶の、2種類のチョコが使われてるの。美味しかったよ。甘さと苦さって同居できるんだね~』
「あぁ~……ホントに良い声。イケボ。“ザクザク宇治抹茶”ね。明日食べ行こ!」
イムの楽しそうな声に、つい表情が緩む。
佳奈は彼が活動を始めた日から配信を聴いている、言わば古参ファンだ。
一番最初の配信では、イムの声は今より小さく、話の間が多かったが、声のお陰か可愛らしく思えた。
それからイムは何度も配信を続けるうちにトーク力も上がり、今では多くのファンを獲得できるまでに成長した。
佳奈からすると、彼が遠くの存在になったようで少し寂しさはあったが、推しが人気者になったことを嬉しく思っていた。
『リスナーのみんなは食べたかな?そうだ、ミセドのドーナツの中だと何が─────』
「………ん?」
急にイムの声が途絶える。
画面はそのままだが、“ザザザ……”と雑音だけが響いていた。
かなりのスピードで流れる筈のコメントも止まっている。
「えっ?なに?なんで聞こえないの?」
推しの声が聞こえなくなったことに、佳奈は眉をひそめる。
通信障害かと思い、退室ボタンをタップした。
しかし画面は変わらない。
不思議に思っていると、突然雑音が止んだ。
「えっ?」
佳奈はポカンとして、口を半開きにする。
治ったのかと思っていると……。
『し し が』
その三文字の言葉が、子供と機械音が混ざったような声で句切るように発音された。
「ひっ!!?」
佳奈は驚き、机の上にスマホを落とした。
それからまた雑音が鳴り………。
『────そうだね~。最近のドーナツ屋さんってチキンとかも売ってるんだね。甘いの多いからかな?』
画面が元の状態に戻り、イムの声も聞こえるようになった。
「戻った……?もう大丈夫……なのかな?」
異常があった間のイムの声は聞けなかったが、その後何事も無く配信は終了した。
推しの配信だったにも関わらず、この日は謎の声が気になって集中できなかった。
「佳奈!昨日のイムの配信聴いた!?」
「あ~うん。聴いたよ美音」
翌日学校の休み時間。
友人の美音が喰い気味に話しかけてきた。
彼女もまた、イムのファンの一人だ。
元々ラジオ事態に興味は無かったが、佳奈が布教した結果今に至る。
「ねぇねぇ!放課後ミセド行こ!新作の抹茶チョコのやつ!あれ食べたくなった!」
「うっ、うんそうだね。行こう行こう……」
「あれ~?佳奈どうした?なんかノリ悪くない?」
「……いや~、実はさ」
佳奈は昨日のことがまだ気になっていた。
「昨日配信聴いてたらね、急にイムさんの声が止まったの。スマホ壊れたのかなって思ったらさ、なんか怖い声で……その……“ししが”だったかな?そう言われたんだよね。その後ちゃんとイムさんの声聞けたんだけど、なんか、ずっと気になっててさ」
「“ししが”ってなに?」
「さぁ?てか美音は聞こえなかったの!?」
「いや全然」
「マジで?……じゃあ私だけ……?」
美音はいつも通り配信を聴けたようだ。
この謎の現象は自分だけに起こったのだろうか。
スマホが壊れたにしても、昨日のようなことが起こるとは思えない。
普段ならこういう類のことは無視しているが、何故か今回ばかりは不安でしょうがなかった。
「はぁ……今日も一日頑張った私!」
入浴も夕食も終え、佳奈はベッドに倒れ込んだ。
放課後食べに行った新作ドーナツは絶品で、美音と雑談しながら食べるのは楽しかった。
その後ミセド周辺で遊んだ後、今日もまたイムの配信があるということで早めに解散となった。
夕食の際は弟のサッカークラブでの活躍で家族で盛り上がり、楽しい食事となった。
「……怖がるだけ無駄だったかな………?」
こうして楽しく過ごした訳だが、結局おかしなことは何も無かった。
てっきり自分に何かが降りかかるものかと思っていたが、杞憂だったらしい。
今朝程は気にならなくなっていた。
「………あっ、イムさん!」
気づけば配信の時間になっていた。
佳奈は慌ててベッドから飛び起き、イヤホンを耳にはめ、マイラジでイムの部屋に入った。
イムはコメントを読んで無邪気に笑っているところだった。
「あぁ~……笑ってる声もイイ!」
いつものように佳奈の表情がゆるゆるになる。
自分もコメントを書き込もうと、スマホを操作しようとした。
しかしその途端、スマホの画面が暗転した。
配信の声も止まる。
「は?……え?………」
イヤホンを通じて聞こえてくるのは雑音だけ。
この状況を、佳奈はよく知っていた。
「なんで?また壊れた……?」
スマホを指で叩いても変化はない。
一度電源を切ろうとしても、何も変わらなかった。
そうしている間に、雑音が止まった。
そして少しの間の後、
『し し が』
再び子供の声と機械音が混ざったような声で、その三文字が伝えられた。
「まっ…また?」
昨日と同じように聞こえた不気味な声。
だが、そこから先は違った。
昨日通りなら勝手に雑音が戻ってきて、その後普通にイムの配信を聴けた。
しかし、今は何も聞こえなかった。
「えっ………えっ?………」
勝手に電源が落ちたのかと思い、起動させようとするが何も起こらない。
「………ッ!!?」
気づけば、背後からただならぬ気配を感じた。
何かが自分の後に……ベッドの上に立っている気がする。
佳奈は振り返ろうとしたが、それよりも早く何かに目と口を塞がれる。
それっきり、何も解らなくなった。
その頃、美音はイムの配信を楽しんでいた。
「あっ!……読まれた読まれた!やった!」
自身が書いたコメントをイムに読み上げられ、美音は有頂天になる。
明日佳奈に自慢しよう。
美音はやや興奮気味に、無邪気に笑った。
『大勢で何かするっていうの、楽しいよね。あはは。う~んと、じゃあ次は何の話を───────』
「……えっ?えっ?」
急にイムの声が聞こえなくなり、美音は思わず両手でスマホを抱えた。
「は?なに?スマホ壊れた?マジ最悪なんだけど!」
大好きなイムの声の代わりに聞こえてくるのは雑音。
それから少しの沈黙の後、謎の言葉が聞こえてきた。
『し し が』