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ギャラクシーノート

作者: 宮崎藤子

初めまして、宮崎藤子です。『人生には、【上り坂・下り坂・まさか!】がある』と言いますが、主人公に思いを重ねて、読んで頂けると嬉しいです。

彼女と別れた―――――。

何が原因だったのだろう。大事にしていたはずなのに…。

思考が停止してよく考えられない。彼女の言った理由らしき言葉がグルグルと頭を回ってはいるけれど、今ひとつピンとこなかった。

「…わかった…」

それを言うのが精いっぱい…

奈々子は先に席を立ち、後ろを振り返ることなく行ってしまった。紺色のコートと赤い傘を覚えている。もう何十年も前の事だというのにいつまでも鮮やかな記憶が俺の頭からいなくならない。

「そういえばあの時…雨降ってたんだっけ…。あの子は…どうしているだろうか…」

街行く肩ぐらいの髪の女性の後ろ姿を見ると彼女を思い出す。もうそんな年ではないのに…いつもあの頃の彼女を探してしまうんだ。

出張で名古屋を訪れた。何年ぶりだろうか。今でもあの喫茶店はあるのだろうか。アポイントの時間よりも早く名古屋駅に降り立った。

「確かここを曲がって、この辺…」

懐かしい記憶の断片を繋ぎ合わせる。【純喫茶 リバー オブ ヘヴン】

「あった。まだあったんだ…」

喫茶店の前まで来ると、中に店主らしき男がひとり。その扉を開ける勇気がでない。

『俺は置き忘れたトキメキに会いに来たんだ』

俺は意を決して、勢い良く扉を開けるとぶら下げている呼び鈴が大きな音をたてた。

「おお…お客さん…そんな勢いよく…待ち合わせか何か?…(キョロキョロ)お連れさんは来ていないようだけど…」

店内を見ると俺以外誰もいなかった。

「僕ね…昔、大学時代…ここ来てたんです」

「へ―…そうなの。どれどれ…」

マスターは掛けていた眼鏡を何故かおでこに避けて、目を細めながらジ――と僕を見てきた。

「ん?…何か…いたような…気がするな。兄ちゃんみたいな学生…」

「あのー…眼鏡外して見ても意味ないと思います…けど」

「ああ…これ…。眼鏡だと今の姿しか見えないから。少し見えなくして記憶で見てるのさ」

「そう…いうもんですか…。あのーまだ…やってますか。…日誌?【ギャラクシーノート】」

「おや、ノートの存在を知っているとは…じゃあ常連だ。元気にしていたかい?」

マスターは手を出してきた。俺もそうしなきゃいけないのか…と手をだして、握手した。

「はい。どうにか。何とか…無事生きています」

マスターから1冊のノートを手渡された。

「まだ…やってたんだ―…」

俺はそのノートをペラペラとめくりながら思い出していた。

「僕ね、彼女とここに来てたんですよ。デートはここで待ち合わせして…どこに行くか決めてから出るって」

「へー…そうだったのかい」

「彼女が僕を待ってる間、いつもノートに何か書いていた。僕が会計を済ませた後、マスターにノートを手渡していたから…。ある時、『何書いてたの?見せて…』と言っても恥ずかしがって見せてくれなかった…マスターに言っても『彼女がいいと言ったらね』とはぐらかされてしまって…別れてからもこの喫茶店の前を通ったけれどあれ以来、どうしても中に入ることができなかったんです。…昔のノートってありますか?」

年甲斐もなくはしゃぐ俺の様子にマスターは微笑んだ。

「ああ…この上の部屋に置いてるけど…一緒に探してみるかい?」

カウンターの中にいるマスターが近くに置いてあった引っ張り棒を取って、天井にあるつまみに棒を引っ掛けて、扉を開けると出て来た折りたたまれた階段を伸ばした。

「あのー…僕はどうしたら…」

「君は――…その扉の奥から2階に上がってくれ」

俺が2階に上がるとマスターがそこにいた。

「何か意味あるんですか?」

「ハハハ…遊び心だよー…。それとせっかちな性格でね。店を離れる時間を短くするためさ。ここら辺にあったはず…なんだが…あった!何年?」

「えーとー…確か…1977年」

「随分古いなー…おそらくこの辺だろうな」

ふたりは、積み上げた段ボールをひとつひとつ下ろして丁寧に探した。

「あのー…今まで、その【彼女】かそれらしい人が店に来たことはありましたか?」

「聞いたことないねー…」

マスターはノートを保管している段ボールを開けて、何年か確かめながら見て行く。俺はマスターが見たのを閉めて、元あった場所に片付けて行きながらノートが見つかるのを待つ。しばらく―――マスターが開けては、俺が閉めて、片付ける。その奇妙な連携が行われた。

「やっと見つかったー…。…はい」

「すみません、お手数かけました。…ありがとうございます」

そのノートは、湿気を含んで乾く工程を何度か繰り返されたのか波打って固まり、中の紙は、何なのかわからない珈琲色をしたシミがところどころ付いていた。俺の中では、色褪せない思い出も確実に、しかも少なくない時が経過したことを感じた。

…しばらく俺は、1977年のノートに目を通した。日付を入れてちゃんと書いてあったり、メモ?走り書きみたいなのもある。殴り書きこれは、よほど腹が立っていたのだろう…。色んな人の感情がそこにあった。

その中に見覚えのある文字を見つけた―――――

10月16日 今、彼を待っている。マスターがお水と一緒にノートを持ってきた。待ってる人に書いてもらうノートなんだって。照明が青といい、素敵なお店。今日は2回目のデート。初めてのデートでたまたま入って二人とも気に入った。彼が『次はここで待ち合わせしよう』って。早く来ないかなぁ…。Nana


「彼女…ココの照明が【青】って褒めてるなぁ……。マスター…何で青なんですか?」

「ああ…女性の肌がキレイに見えるんだってさ。常連のひとりが『ある結婚相談所が、見合いの待ち合わせ場所にココを使ってる』と教えてくれたよ」

「そうなんですかー…だから彼女も気に入ってたのかな」


11月23日 彼がいると毎日楽しい。日常が輝いてる気がする。大学も授業中もお昼のお弁当の時間も何しても楽しい。彼と会える日はもっと楽しい。彼も同じ気持ちだと嬉しいな。Nana


11月3日 晴れ 昨日家でオムレツ作ってみた。最近料理を頑張っている。いつか彼の家で作ってみたいな。Nana


11月10日 先週彼と見た映画、大学の友達に誘われて、また見に行った。もう一度見たいと思ってたのに結末が分かっているから、途中で寝てたみたい…。友達に怒られた。これからは別の映画にしよう…。反省…。Nana


俺は、時に吹き出しそうになりながら、ノートを替えて…彼女の筆跡を探す。

「夢中で読んでるところ悪いが…聞いてもいいかい?彼女とはどうして知り合ったの」

「…コンパで会ったんです。その場では連絡先を聞けずに別れて…。コンパの後、男だけで飲みに行った帰り、駅にいる彼女と鉢合わせたんです。それから…です」

「…運命だねぇ」

時が経つのを忘れて俺は、ノートを読み進める。

「まだここにいるかい?下で珈琲入れるけど…」

「はい、ありがとうございます。下に何冊か持って行っていいですか?」

「ああ…いいよ」

珈琲を淹れているいい香りが俺の鼻をくすぐる。彼女と俺の家で笑い合い、じゃれ合ったことを思い出しながら、マスターが淹れた珈琲を口にした。

「…楽しかったなぁ。本当に。…ずっと続いて行くと疑いもしなかった…」

「…そういうもんさ。若い頃の恋なんか。それでいて脆くって案外スパッと終わっちまう…。あの日々は何だったのか…ってね」

「……そうですねー…」

俺は、マスターの言葉を噛みしめながら、珈琲を最後まで飲んだ。

「マスター、僕も書いていいですか?」

俺は初めて、ノートに書く。


2月10日 橘 奈々子さん ご無沙汰してます。お元気ですか? 鈴木 緑郎です。君と待ち合わせしたこの場所を20年ぶりに訪れました。どうされていますか?お元気ですか?喫茶店を訪れて君にとても会いたくなりました。


書き終えると、マスターにお代とノートの上に名刺を添えた。

「もし、僕の書いたメッセージに気づいた人がいたら、僕の名刺にある連絡先を教えて下さい」

店を出た俺は、足早に仕事先へと向かった。


 私は、息子の手を引いて、名古屋に降り立った。初めて乗った新幹線にご機嫌だった。いつも車で帰省しているが、主人の都合で私と息子で帰ってきた。

「帰って来たなぁ…」

ふと、頭をよぎった。

―――彼は、元気にしているのだろうか―――

忘れようとしても頭の隅にこびりついて、スッキリしない。いつしか【彼】が私の理想の人になった。私が付き合う人は、いつもどこか彼に似た所のある人だ。タバコの吸い方だったり、笑い方だったり…その人の中に【彼】を見つけると決め手になった。私の主人もそうだ。

―――あの喫茶店…まだあるかしら?―――

母に『名古屋駅に着いたら電話するように』言われていたけど、到着時間を知らせるのを遅らせて見に行こうと思った。ウロウロしている私に連れられて歩き回る息子が不安そうに声を掛けた。

「ママ…どこに行くの?おばあちゃんは?」

「…ママ、急用を思い出しちゃった。付き合ってくれる?」

商店街を抜けて来たから…確かこの辺…

「あった!ここだ…」

「お母さん、入らないの?」

「そうね。入ろっか!好きな物食べよう」

「ヤッタぁ!」

店内に入って見回すと昔と変わらないインテリア…。思い出す【彼】。彼とはコンパで知り合った。その時は、連絡先を聞かれなかった。そのあと女の子達でカラオケに行った帰り、駅で偶然、彼と一緒になった。男の子達もあのあと別の所で飲んでいたらしい…。その話で盛り上がり、その場で連絡先を交換して、いつしか…付き合うようになった。彼とはデートの前によくここで待ち合わせをした。ここだけその時代にタイムスリップしたみたいに思える。

「いらっしゃいませ」

マスターがお水とおしぼりを持ってきて、ノートとペンも置いた。

「はい、イイ子で待ってようね」

「お母さん…ごめん。ウンウン。はい…じゃあ、またあとで電話する…」

電話を終えると、息子はノートにらくがきをしていた。

「何にする?」

息子に尋ねたが、真剣に書いていて気付かない…。しばらくそのまま書いているのを眺めていたが、ふと気が付いた。

「ちょっと【それ】見せて」

息子は渋々…書いていた手を止めて、ノートを渡した。

「ごめんね。あ…このノート。懐かしい…」

私は、息子に手渡されたノートを見て、思い出した。何枚か前のページをめくると手が止まった。

「これ…………」

見た途端、私の中で衝撃が走って、脳より早く体が動いた。

「あのー…ここのこの人!来たの覚えてますか?私…昔ここに来てたんです…」

「そうかい…。ん?何かその話…聞いたような……あ、ちょっと待って!確か預かった名刺があったはず…昔来てくれていたっていう……」

カウンターの下やレジの辺りをゴソゴソ探っている。

「ん――――ないなー…どこやっちゃったかな…」

「あのー…私も書いていいですか?」

「もちろん!…ところでおふたりさん、メニューは決まったかい?」

「こうちゃん決まった?どれがいい…」

「こうすけはねー…」

息子はメニューを見ながらどれにしようか目を輝かせている。私は何を食べるかより、早くノートに書きたくてウズウズしていた。

「浩介は?」

「パンケーキとメロンソーダ!」

「それと、サンドイッチと珈琲で」

メニューを決めると、私はさっそくノートに書き始める。途中でマスターが珈琲のいい香りと共にオーダーしたものを置きに来た。書いていた手を止め、子供と一緒にほおばる。かつて同じ場所で、私の目の前にいた美味しそうに食べる人が、自分の子供に変わっていたことに、時の経過をしみじみと感じた。食べ終わると私は、またノートに書き出した。

「…できた」

「見せて」

「ダメ、内緒…」

「エ―――かきたいー」

「はいはい、わかった…」

私はノートを半分に畳んで、息子に渡した。


緑郎さん

 お久しぶりです。ノートにあなたの名前を見つけて、書いてみました。

私もお会いしたいです。7月7日 午後7時 この喫茶店でお待ちしております。奈々子


「ごちそうさまでした。また…来ます」

「…待っていますよ」

私は喫茶店を出た時、本当に彼に会える気がして、晴れやかな気持ちで子供と実家へ向かった。


あれから一年―――――マスターからまだ連絡はない…。彼女が今まで来たことはわからないと言っていたが、何故だか俺は―――――彼女と会えるような気がしていた。彼女は本当に今まで…あの場所に行っていないのか。

「…そんなに簡単に会えたりしないか…」

仕事の合間に缶コーヒーを飲んで、思いふけるとふと自分が笑えてきた。『柄じゃないな』会える保証もないのにえらく期待していたものだ…。窓の外は、景色が時と共に移り変わってゆくのに俺の心は―――相変わらずだ。

また名古屋へ出張が決まった。同期の工藤からだ。あと一押しで商談が決まりそうなので、一緒にクライアントへの説明に行ってくれとの要請。マスターから連絡もないのでその後、彼女は来ていないのだろう。工藤と取引先に向かう時に喫茶店の近くの商店街は通ったが、寄るのはやめておいた。

「やれやれ…やっと仕事が終わったな」

「ああ…どうにか納得してくれてよかったよ…」

「この後…どっか飲んで行くか?せっかく来たんだ。一杯やらないか」

「ああ…そうだな」

しょうがない…念のため(喫茶店)行きたかったが、付き合うとするか。

赤ちょうちんがぶら下がってる焼き鳥屋に行った。工藤の【オキ二】らしい…。

「…カンパーイ」

ジョッキに入ったビールを飲む、仕事がスッキリ終わった日のビールの味は格別だ。

「最近…どーだ」

「何をいきなり…。会社行って仕事して帰るか、仕事して飲みに行ってから帰る。そのどっちかしかないよ」

「家庭生活は?」

「んー…それなり?子供が成長していってるのが、唯一時が流れていることを感じさせてくれる…かな」

「夫婦生活は?」

工藤がいきなりヘンなコト聞くもんだから…焼き鳥のネギが食道じゃない方に入りそうになって、…どうにか堪えた。

「グッ。何聞くんだオマエはー…‼そんなの…オマエに答えれるか」

「なぁーんだ。つまんねーの…」

「はぁ?何言わせたいんだ。そういうオマエはどうなんだよー」

「…もう覚えてない。あいつ…口を開けば、家のローンだの、塾の夏期講習の金…いつまでに納めるだの…金の話ばっか。俺をふってもこれ以上出てこねぇよ。…このまま枯れちゃうんかな―…俺…。トキメクことこの先あるんだろうか…」

「俺らの年になると…どこもそんなもんさ。トキメキだの…そんなのはどっかに置き忘れてしまってるさ…」

「もう一軒…行くか?」

「いや…いい。今日は…。ホテル帰って、会社戻る前に報告書まとめないと…」

「そっか。じゃ、お疲れ。また近いうち来いよ」

「……来ないことを祈るよ」

俺は笑って、工藤と別れた。時間が遅くなったのでそのままホテルへ向かおうとしたが、やっぱり一応…喫茶店を覗いて見ることにした。するとそこに見慣れない年増の女がいた。

「あれ…?」

「マスターなら用事で出てるわよ。…ちょっと店番を頼まれてしまって…何になさいますか?」

「ああ…じゃあ珈琲で。あのー…ノートどこにありますか?」

「ノート?何のかしら?…帳簿とか?お客さん…ひょっとして税務署の方?」

「いや、違います。いえ、いいですいいです。忘れて下さい…」

落ち着くために置かれた水を飲み干した。

『寄るんじゃなかった…』マスターがいないんだったら、彼女のことも聞けないし、ノートもどこにあるかわからないんじゃ…確かめることもできない。

「意味なかったな…」

ボソッと呟いて、窓の外を見た。

「みっちゃん、ごめんごめん…。長いこと店番させてしまって…」

勢いよく扉が開いて、マスターが帰ってきた。

「おや…いつかの…学生だったサラリーマン。元気してかい?」

「マスター、この方知ってるの?」

「ああ…昔っからの常連さん」

「そうだったのぉ。ごめんなさいねー疑っちゃって。よかったらおにいさん、今度わたしのお店にもいらして。サービスしますよ」

どぎついピンク色で刺されそうに尖った爪に名刺を挟んで俺に差し出すと、その女は去って行った。

「マスター!…ご無沙汰してます…。どなたなんですか?今の(ヒト)…」

「俺のコレ(オンナ)なーんつてな。今狙ってる女だよ」

「……お盛ん…なんですねー」

「ウソ」

「………」

どこまでがホンマなんだか…掴めない人だよな…。俺は愛想笑いをした。

「そうだそうだ。来たよ。君の待ち人!」

「ウソ…」

「ほら…」

マスターがカウンターの中からノートを取り出して、俺に見せた。

『7月7日の午後7時 この席で会いましょう』とノートに記してあった。奈々子のそのコトバは、時空を越えて、俺の心にすんなり入って来た。

「いつ来たんですか⁉」

「今年入ってからだよ。その時、君から貰った名刺を彼女に見せようとしたんだが…どうにも見つからなくてねぇー…参ったよ…」

「『参った』って…こっちがですよ!危うく逃すとこだった…」

「ハハハ…まぁまぁ…間に合ったからいいじゃないか」


 私は、あれから彼がノートを見てくれたか気になって毎日落ち着かなかった。会える保証は何もないのに7月7日が待ち遠しくて仕方なかった。ふと洗濯物を畳んでいる時、

「もし…彼と一緒だったら―――――今頃どうしていたのかな…」

言葉と一緒に涙が流れていた。

そもそも彼と別れてしまったのは―――――【誤解】だ。

私の友達が、街で彼が女の子と歩いているところを見た。

『友達が見たらしいよ』そう言って、彼に真相を確かめればいいのに『真実を知ったら終わってしまうんじゃないか』と思って聞けなかった。そんな気持ちを抱えたまま、彼と会っているのが辛くなって、私から一方的に『さよなら』を言ってしまった。卒業してから、彼と出会った時一緒にいた男の子に駅で偶然出会って、彼が、サークルの仲間と買い出しに行ったところを私に見られて【誤解】されたと思うと言っていたと聞いた。彼はその時は分からなかったけど、後で気づいたとその男の子に言っていたと。私はそれを聞いて、自分が浅はかで独りよがりで自分勝手な理由で彼を振ったことを悔いた。その男の子に彼の連絡先を聞いたが、卒業してから付き合いはないと言っていた。私は目の前が真っ暗になってしまった。謝りたいのにどうすることもできない。でも真相を知った所でいまさら…何と言えばいいのか…。私はそのことがいつも頭の中をグルグル回り、なかなか忘れられずにいた。そんな頃だった…会社の同僚である主人と出会ってからもいつもそのことが頭の隅から離れず、心配されたことがあった。どうすることもできないまま…2年後に結婚した。


7月7日―――今日はいよいよ彼女と会える日だ。それにしても…今日と言う日に限ってなんで朝からトラブル多いんだ⁉神様―――ひょっとして…邪魔してる⁉そう言いたくなる忙しさだ。

「やれやれー…」

今、午後2時半を回っている。社食で飯をかき込んで、水で一服する。

「よし!定時で上がれるよう…もういっちょ頑張りますか」

席に戻って、気合を入れ直してから仕事に取り掛かっていると経理の佐藤さんが俺に書類を持ってきた。

「この会食、このままでは経費で落とせません。趣旨を明確にして下さい」

「部長にこれで出しといてって言われたんだけどなー…明日じゃダメ?」

俺の中で一番可愛らしく子犬のような目で、佐藤さんを見た。

「ダメです」

『クッソー…冷静に返しやがった』

「…善処するよ」

佐藤さんに突き返された書類を手に取り、机に置いた。

「仕方ない…やるしかないか」

それからも雑用や業務をやっていた…すると気がついたら6時を回っていた。

「マズイ。行くしかない!」

仕事は明日もある…といいたいが、今のご時世それもわからない…。

奈々子のことは――――もうこんなチャンスは絶対に訪れないと俺にはいやでもわかる――――ずっと会いたくて、その時を待っていたから。だから俺は行くんだ。俺は、机の上の書類を重ねると、机の引き出しに全部入れて、駅へと急いだ。


7月7日がやって来た。私は、母に『同窓会』と言って息子を預けた。

「いい子にしててね。おばあちゃんのいう事ちゃんと聞いてね。じゃ、お母さんよろしくね」

「お店何て名前?駅前の飲み屋よねぇ?」

「う――んどうだったかなぁ…。佐紀と待ち合わせして行くつもりだから店どこか気にしてなかったわ」

「もう!こうちゃんに何かあったらどうすんの‼やっと生まれた大事なひとつ種よ⁉あなたはこうちゃんのお母さんなんだから浮かれてばっかりじゃダメよ!早めに帰ってきなさいよ、わかった?」

「ごめんー…重々わかってますって。今日だけ!今日だけだから」

お母さんはうるさいなぁ―…。お母さんは、孫の浩介を溺愛している。私が結婚して、なかなか子供が出来なかったからだ。私は、心のどこかで『主人が運命の人ではないから(子供が)出来ないのでは』と考えていた。出来るのを望む一方、出来ないと『やっぱり…』と思う自分がいた。主人も向こうの親も痺れを切らしていつ離婚を言い渡されるかわからない。だからと言って私から離婚を言えば、お母さんから何を言われるかわからない。『もし、主人から言われたら』うるさいお母さんも流石に文句は言わないだろう。その時私は―――堂々と【彼】を探そう。―――――結婚から13年、【浩介】ができた。子供が出来て嬉しかった。嬉しかったけれど…今度は、彼が(運命の人と)違った証明がされた瞬間であった。『私はお母さん』わかってるよ。わかってるの。私…。今日だけだから―――許して

私は振り切るように家を出た。日常からの解放感…。社会への責任もない…。子供でもない。親からもある程度大人として認められていたあの頃に戻ったような足取りで…。

「こんにちわー…」

「いらっしゃーい。何になさいますか?」

「あのー…来てからでもいいですか?」

「…お水とおしぼり置いときますね。…ごゆっくり」

窓の外を見る。青い光に照らされて窓に薄っすらと私の姿が映っている。

「やっぱり…老けたかな。大丈夫かなぁ…」

ワクワクし過ぎて忘れてた。もう私――――若くないんだった。

「あ―――子供の残り食べてないで痩せとけばよかった―…」

カランカラ――ン

ドアの呼び鈴が鳴るたび―――私は背筋を伸ばす。そして、違ったと分かると水を飲んで乾いた喉を潤した。今、時計は7時20分―――――

「お客さん…何かしましょうか…」

「すみません!あとちょっと待って頼みますから」

さらに15分…待っても来ないので珈琲を頼むことにした。

「はい、お待たせー珈琲。お連れさん遅いねぇー…」

私はマスターに愛想笑いを浮かべると、珈琲にフレッシュを入れた。もう何度目かドアのチャイムが鳴ってもそちらを見ることはなく、静かに待っていた。時折…目を瞑り、思い出と一緒に思いを巡らして『これでいいのだ。いいのだと…』無理やりに自分を納得させる。この珈琲を飲み終わったら『お母さんと子供の待っている家に帰ろう…』私は密かに決心していた。

その時だ、静寂を切り裂くようにドアを開ける音がしたのは、

「ごめん!遅くなって…」

昔に聞いたような懐かしい声―――――【彼】だった…。スーツを着て、髪も短くて、見違えるように大人になった彼がいた。

「よかった―――…。まだ居てくれて…もうてっきり帰ってしまったかと…。今日は、用事で早く帰ると言っていたのにドンドンドンドン俺に回ってきて、来れるか心配したよー…でも、間に合ってよかった」

俺は彼女に向かってとびきりの笑顔をした。

「元気そう」

「ああ…それだけは取り柄なもんで。奈々子ちゃんも昔と変わらないね…」

「どこが――!横に伸びる一方よ。子供の残したものももったいなくて食べてしまうの」

「…奈々子ちゃん…いいお母さんになったな…」

「何ソレー老けたって言われてるようなもんじゃなーい!全然嬉しくないよー」

彼女はやっぱりそのままだ。俺の心は嬉しくて柄になくはしゃいでいた。彼女は少し膨れて言った。

「もう若くないもの…」

「全然。今もすごく…キレイだ」

「どうしちゃったの⁉止めてよ―…。言われ慣れてないんだから」

照れて顔を赤らめている彼女は時を経ても可愛い。人として、目の前の相手を信頼して心を開く、子供のような天真爛漫さがあると改めて思った。

「ごめんごめん。ホントのことだけど、まぁいいや。あれから奈々子ちゃんはどうしてた?」

「就職活動、卒論、やっと卒業したと思ったら、入社して必死で…。あっ…戸田くんにあった!」

「いつ?」

「入社してからすぐ、かな…。駅で見かけて。それで―――――聞いた。女の子と歩いてたのは、サークルの買い出しに行っただけって。…【誤解】だってわかった。本当にごめんなさい!連絡取りたかったんだけど、連絡先消しちゃってたし…戸田くんにもわからないって言われて…。どうしたらいいかわからないし、早く仕事に慣れなきゃと必死で、どうすることもできないまま…ただ時間だけが過ぎて行ったの…」

俺は彼女の言葉をしばらく黙って聞いていた。あの時、見つからなかった答えが、どうしても欲しかった答えが、今やっと…わかったよ。―――俺がもう一歩君に近づいていたなら…俺の隣は、君が居た未来が、あったのかも知れないのに―――


「このあとどうする?(出る?)」

俺が手で【行く】合図をしたけれど、彼女は首を横に振った。

「もう帰らないと…お母さんに子供を預けているの」

「そっか――…じゃあ連絡先…」

彼が胸ポケットから名刺入れを出して、彼女に名刺を差し出した。彼女は、名刺を手に取って、読み上げた。

「山陽株式会社 営業推進部 課長 鈴木緑郎 すごーい。出世してるね。すごく…頑張ったんだね…」

彼女は、名刺を自分の前に置くと指を滑らせてスゥ――――と俺の前に差し返した。

「(電話)…掛けたくなるから―――やめとく…。もう行かないと。来年もまた会える?この場所で…」

彼女はそう言って、俺に微笑んだ。俺は久しぶりに彼女を見て惚けてしまったのか、しばらくその場を動けずにいた。どのくらい時間が経ったのか

「マスター…俺帰るわ…」

「そうかい…。じゃあお勘定…」

俺は…彼女と喫茶店を出てからも一緒に居れると思っていた。昔と違わず喋れたこともあった俺は『ひょっとして…』と思っていたが…すっかり肩透かしにあった。


 毎年俺は、7月7日に定時で帰った。同僚は、結婚記念日か何かと思っている。

「あいつに急ぎの仕事頼んだって無駄だよ。毎年7月7日は早く帰るから」

「わたし、以前…鈴木さんに聞いたことあるんです。」

『結婚記念日ですか?』

『…まぁね。ナイショだよ』と言ってました。

「ここで言っちゃってるじゃん」

「いいんですって!いい話なんだからー鈴木さんの奥さん幸せですよねぇー…いいなー」

プルプルプル――――

「はい、三陽株式会社 営業推進部でございます。…鈴木ですか?失礼ですがどちら様ですか?…奥様⁉はい、もう帰りました」

「ひょっとして今の…課長の奥さんから?」

「そうです!噂をすれば。あービックリした―――。まさか奥様から電話があるとは思わないじゃないですか―――――でも今日…結婚記念日のわりに、旦那さんが定時で帰るの意外そうな感じだったんですけど…気のせいかなぁ。愛妻家の課長のことだからサプライズでプレゼント買いに行ってるのかもしれないですね」

俺は、会社でそんな会話が繰り広げられているのも、妻が俺の行動を不審に思っているのも知らなかった。

「あの人―――、今日早く帰るなんて…言ってなかったのに…」

警戒心を持たないくらい彼女との逢瀬に俺は―――浮かれていた。


彼女と会った。最初は下心のあった俺。いや、今もある!でも、どうもそんな雰囲気にならない。彼女は喫茶店の外では、会おうとしないから。付き合っている時は正直…ここまで強情?いや、芯が通ってるとは思わなかった。でも最近、俺はそれを楽しんでいる。【不倫】をしてないからと堂々としていられるのも悪くはないと思ってる。彼女の策略にまんまとハマってると言えなくはないが…。それは、彼女だから。俺は、彼女だったらそれに付き合える。本気でそう思っていた。そんな関係で4年が経過した頃…マスターも慣れたもんだ。

「またふたりに会えるの楽しみにしてるよ」

「じゃ、出ようか」

『ナイスぅー。マスター』

俺は心の中でマスターのアシストに感謝した。20数年ぶりに彼女の肩に手を置いた。緊張して肩に触れるか触れないかのギリギリを攻める。

「じゃ、私はここで…」

「えっ!そんなー…」

次の瞬間…俺の方に振り返った彼女の髪か唇かのどっちかが俺の唇に触れたような気がした。えっ!まさか。

「もう1回!」

俺は思わず彼女に言ってしまった。

「フフフ…またね」

彼女は、俺の横をするりと抜けて帰ってしまった。あーあ…またか。強引に行こうとしたら行けなくもないがそれで二度と会えなくなってしまったら…でも、未遂だけど前に進めた!この出来事は自分の中で揺るぎない自信となった。

「ヨシ!来年こそは―――」

今年の約束の日まであと4日、朝、会社に出勤したら、就業前に電話が鳴っていた。最初は、まだ始まってないから時間になってから電話を取ればいいやぐらいにしか思ってなかった。それにしてもさっきから…電話がよく鳴る。ヘンに思い、受話器を取ってみた。

「え、地震?いつ…今日⁉ニュース?見てない…ちょっと待って」

…工藤からだ。どうやら東海地方に大きな地震があったらしい。詳しくは7月3日 午前7時25分 名古屋を震源地とするⅯ7・5 震度7強 の巨大地震。通勤途中に起こったから俺は、そのニュースに気づけなかった。そう言えば…電車で携帯を見ながら何か言っていた人がいたっけ…。あまり気に留めていなかった。会議室に入ってプロジェクターに繋げているテレビを付けると見たこともないぐらい崩れはてた名古屋の街がそこに映っていた。

「これが…名古屋駅周辺⁉マジか…。ヒドイな…これ…。おい!お前は無事か⁉今どこにいるんだ?」

「今日は時差出勤だから、…まだ家だった。スゴイ揺れで目を覚まして一階に行くと食器棚が倒れていて、家族の無事を確認してから、一家で避難して近所の公民館にいる…さっき上司から連絡があって、『本社に無事を伝えろ』と言われたからお前に」

「そうか…大変だったな。取りあえず無事でよかった…。わかった。ちゃんと伝えとくよ。何か足りないものはないか?」

「も―…何が足りないのかどうしたらいいのか正直わからない。上に聞いても名古屋支社全員と連絡がついてる訳じゃないらしいんだ。今はまだどうしたらいいかわからないよ…」

混乱している工藤の言動は初めてだ。

「…いつでも連絡してくれ。俺でよければ力になるから。あと、みんなが出社してきたら状況を伝えとくよ」

連日、ワイドショーやニュースで名古屋の街の様子を伝えているが、駅や周辺の建物は壊滅状態になり、生き埋めになった被害者も大勢いた。日に日に死亡者数が増えて、戦後最大の災害と言われるようになっていった。我が社の名古屋支社も街と同様、壊滅状態なだけにシステムの復旧に支社支店またがって応援に行かなければいけない状態だ。7月7日も当然彼女との約束どころではなく、ただひたすら残業をした。心で彼女の無事を願いながら…。交通機関が復旧してから俺は折を見て、【リバー オブ ヘヴン】に行ってみた。建物が崩れていて中に入れそうになかった。商店街で手あたり次第に聞いたが、マスターが亡くなったという話は聞かなかったので、安堵した。それでも毎年あの場所に見に行くも【リバー オブ ヘヴン】が復活することはなかった。いつの間にか更地になっていて、マスターの行方はわからないままだった。いつまでも心で彼女を思いながら…どうすることもできないまま、ただ時だけが過ぎて行った。俺の心の中はいつまでも『…またね』と微笑んだ彼女がそのままいる。いつしか俺の子供達は大学生になり、社会人となって巣立って行った。そして、夫婦ふたりが家に残った。地震から7年…今年あの場所に行くのは―――――もうやめようかと思っている。


「これからは旅行も楽しまなきゃな。お前、イタリアに行きたいとか言ってたよな。行ってみようか」

「…そうね。昔行きたかったなー…家族旅行。でも、今じゃないかな」

「…仕事が忙しかったからなー…。今から色んなとこ行ってやれるよ」

「あなた…わたしが何も知らないとでも思ってるの?」

「何が…」

「7月7日、あなたいつも早く帰ってたそうね。まわりに【結婚記念日】だって嘘ついて」

「何のことだ…」

俺は頭の中で考えれるだけの言い訳を考えようとした。

「…(会社)まわりが勝手に誤解してるから早く帰れたらそれでいいと思って…敢えて言わなかっただけだ…」

「レシート…残ってたわ…。お店の住所が【名古屋】ってなってる。あなた毎年同じ日に名古屋に行ってたの⁉何で?」

「何でって…その日集まれる大学の同窓生で飲もうってなってて…」

「ほんとに⁉同窓会行ってたじゃない!あなた。それは?それとは違う同窓会って何?」

「……サークルとか同窓会だけでない付き合いもあるんだ。お前にはわからないよ…」

「それって…女なんじゃないの?違う?それ知ってからわたし…あなたのこと信じられなくなった。だからわたし…この日を待ってたのよ」

「違うよ!言ったら逆に疑うだろう⁉じゃあ、何で今までそれに関して何も言ってこなかったんだよ!それならそうと理由をちゃんと説明したよ」

「…言ったら…あなたはそこに行かなかった?」

 俺は随分…知らず知らずに妻を傷つけてきたようだ…。長年一緒にいたのに…家族としてしか俺は見てなくて…妻の女の部分を見ないフリしていた。妻は【オンナの勘】とやらで俺の心変わりを感じていたんだろうか。この日から程なく妻は家を出て行った。何度かやり直そうと話し合いをしたが、妻は取り合わず、数年別居をして子供たちの結婚を見送り、定年後、俺は独りになった。俺はこの家に残り、退職金の半分を妻に渡した。妻に家を渡すつもりだったが、『実家のある故郷に帰って店をやりたいから家はいらない』と言われた。妻の未来に俺の痕跡はいらないようだ。名古屋に行ってひとり暮らしをすることも考えたが、彼女に会える保証もない。それから数年が経ち、身の回りのことをするのが面倒になってきたため、老人ホームを探していた。ネットで検索していたら、三重県と奈良県の県境にある【ミルキーウェイ ヴィレッジ】という特別養護老人ホームを見つけた。あの喫茶店を思い起こす名前が気に入り、俺は入所することを決めた。荷物を整理してた頃、工藤が連絡をくれて、家に会いに来てくれた。

「おーい、生きてるかー?」

「おう…ぼちぼちな」

工藤が荷物をまとめるのを手伝ってくれて、ようやく家が片付いた。差し入れにもってきてくれた缶ビールで一杯やる。

「つまみ、俺が作るよ」

鶏ミンチを炒めてそぼろを作り、レタスで包むのと小松菜の胡麻和え、もろみキュウリ・・・どれもひとり暮らしになってから、作れるようになったものだ。昔…妻が作ってくれたのを見よう見まねで作ったら、不味くて食べれたものじゃなかったけど、今では食べれるまでになった。未だに味は―――同じにはならないもんだ…。

「うまそ、手慣れたもんだな」

「カンパーイ」

「来てくれてありがとう…。ひとりでしてもなかなかだな。オマエが来てくれて助かったよ」

「子供らは?…来てくれないのか?」

「…息子のお嫁さんは妊娠してるし、子供達の生活があるから…迷惑はかけられないよ。こんなオヤジじゃ…結婚した先輩として尊敬できないのかもな」

「最後まで面倒見てきたじゃないかー。親父なのにつまんないこと気にしてバカだよ。オマエは」

「…最期まで添い遂げられなかったからなー…負い目はあるよ。そうだ、俺…今度老人ホームに入ることにしたよ。ほら!ここ…」

俺は工藤に施設のパンフレットを見せた。

「何だってまたー…早いだろー…。結婚したらどーだ。誰かイイ人いないのか?」

「いたら(老人ホーム)入ろうと思わねーよ…。…誰かと生活して…また出て行かれたらと思うと…。もー渡すもんねーしな。誰が来るかよ…。お前は…幸せモンだよ。奥さん…大事にしろよ…気づいたらいなくなってるから」

「笑えねー…」

工藤…。俺は―――こんなに笑ったのは…久しぶりだよ。ありがとう…友よ。


 俺は数日後、30年俺の歴史を刻んでいたその家を出た。【新しい家】は、三重県と奈良県の山間にあるのどかな所だ。ちいさな駅から道のりを記した看板が立っていた。【駅から約2.8キロ】

「うー…ん。遠い…」

それでも俺は、下界からそこまでの距離を体感したくて、定期的に来る迎えのバスに乗るのを止めた。

「…すげーな。道から作ったんかな…」

途中で何度かめげそうになりながら、螺旋になっている車道を上がって来て、ようやく【特別養護老人ホーム ミルキーウェイ ヴィレッジ】に到着した。

「今日からお世話になります。鈴木です」

「鈴木さま。お待ちしておりました。お電話下されば迎えをよこしたのに――。お疲れでしたでしょう。さ、どうぞ」

さっそく中にある施設を案内されて、途中裏庭にある銅像の前に連れてこられた。

『ん?この顔―――どっかで見たこと――…あー!』

「こちらは創設者の明智光男氏。正式にはこの方の遺産と遺言で甥の明智昇氏が建てた施設です。創設者の方は、名古屋で【純喫茶 リバー オブ ヘヴン】をやっていたのですが、東海地震で喫茶店が倒壊し、再建しようとしていたのですが、体力的な問題で喫茶店を断念し、子供がいらっしゃらなかったので甥の昇氏に夢を託したそうです。昇氏が老人ホームを経営する夢を話したら遺産を相続して、施設の名前を【ミルキーウェイ ヴィレッジ】にして欲しいとの遺言があったそうなんです。

「…知ってます。俺、若い頃…そこの客だったんです」

「そうなんですか⁉それで!ここの施設を見学ナシで入所されたんですねぇー…。見学もされずに入所される方は、大変珍しいので印象に残ってたんですよ。あと…先月に入所された方も早くお決めになられたから同じ常連さんかも知れないですね。きっと、仲良くなれますよ。じゃあ、こちら食堂ご案内しますね」

俺は職員の話を特に気に留めず聞いていた。食堂は広く、清潔感のある空間だった。その奥に食堂と区切られている空間が―――

「これは―――」

「そうです。【純喫茶 リバー オブ ヘヴン】を再現した喫茶室です。地震のあと、使えそうなものは、再建のために取っておいたそうです。ほら、青の照明…懐かしいでしょ?」

「うわぁ…変わらないな。懐かしい…」

毎日ここで珈琲を飲めると思うと楽しみだ。この年でこんな楽しみに思える日が来るとは思わなかった。思い切ってここに来て―――『よかった』

広間に案内されると職員と入居者の自己紹介カードが壁一面に張られていた。

「鈴木さんのもここに張りますから、写真を撮りましょう。今までご覧になった中で、撮りたい場所はありましたか?」

「………………」

職員の言った言葉に返事を忘れるほど…俺は一人の女性の写真に釘付けになった。目じりにはしわが刻まれ、微笑むその口元には囲むような線があったが、その女性の瞳の奥には、最後に会った時のコケティッシュな面影が残っていた。間違いない!【彼女】だ。

「こ、この人は⁉」

「ああ…石倉 奈々子さん…。この方は旦那さんを亡くされて先月入所されたんですよ。まだ年齢的には鈴木さんと近くお若いんですが、ここの施設の名前を気に入られたそうで―――」

俺がボ――――とその写真に見入っていると質問に答えてた職員が不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。

「どうかされました?」

「いえ…なんでも、なんでもないです!」

と言いつつ…、俺は顔がにやけるのを押さえるのができなかった。

神様…俺の人生のエンディングにはっぴぃえんどを用意してくれて『ありがとう』


最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。たいへん嬉しく思います。わたくしは、主に恋愛小説を書いております。『恋愛を通して、生きること』を描いていきたいと思っております。これから宮崎藤子をよろしくお願いいたします。あとがきを最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

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