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28歳

作者: 山羊アンテナ木村

28歳。新卒で入った都内のセールスプロモーションの会社を辞めた。退勤は毎日23時を廻る。時折会社に4日間ほど泊まり込む。そんな勤務は少しずつ身体と頭にダメージを与えた。辞めると定収入が途絶えるのでバイトでつなぐ。学生の時にもやっていたテニスインストラクター。それだけでは厳しい。大学同期のKが家業のビルメンテナンス会社に入っていた。声を掛けてくれた。うちでバイトしないか?


新大久保にある小さな会社。少人数で現場を廻る。社名にビルメンテナンスとあるが、要は何でも屋だ。公共施設やスーパー、百貨店にポリッシャーとモップとワックス抱えて入る清掃、深夜に入る照明設備の交換。その中でも公園設備の清掃、草取りは楽しかった。屋外の作業は想像したよりも遥かに気持ちが解放される。


屋外での楽しさに気が付いた僕ら。仕事が終わると新大久保の小さな公園で飲むことにした。仕事が早く済めば午後2時から飲める。缶ビールを何本か買う。日はまだ高く、5月の風は気持ち良く頬を撫でる。屋外のビヤガーデンの盛況がよくわかる。街の活気ある喧騒が少し遠くから聞こえる。買ったばかりの缶ビールは表面にうっすらと水滴が着く。喉に流し込む。何にも代えがたい。


午後3時ぐらいになると近所の小学生が遊びに来る。そこに酒飲みがいるのもどうかと思うので、移動し更に小さな公園で飲みなおす。僕らは行儀良い酔っ払いなのだ。

(何回かその小学生達に野球の人数が足りないから加われというオファーがあった。今考えると中々肝が座った子たちだ)



ある時、Kが言う。

俺たち、28だろ、たまにはBARとか行ってみないか。あのビルの3階にBARあるんだよ。


BARって、俺たちが?そんな感じじゃないだろ、大体さBARってシャム猫抱えながら飲むんだろ?


それはあれだ、料亭でやるやつだ。


28歳とは思えぬ会話し、小汚い作業着で雑居ビル3階のBARの扉を開けた。

カウンターに6席、その後ろに4人掛けのテーブルが2つ。他に客はいない。木がふんだんに使われた柔らかい雰囲気。おしゃれと高級感がないまぜだ。シャム猫はいなかった。


立ちすくむ僕らにマスターがにこやかにカウンター席を勧める。


作業着で来たことを心底後悔する。Kを見ると腰で履いてるパンツを慌てて直す。ここで直すな。


僕らは動じているがマスターは動じず柔らかい笑顔でメニューを差し出す。


まるでメニューが読めない。いや、読めないのではなく、わからない。メニューに書いてある飲み物が何なのかわからないのだ。Kを見る。計量経済学のテストを受けている時と同じ顔をしている。


しかし、緊張度最高の僕にも理解できる飲み物があった。

「ジントニック」

Kは未だ計量経済学テストの真っ最中なので、代わりに頼む。

ジントニック2つ。


マスターが背の高い、少し大ぶりのグラスに氷、お酒等々をマドラーで混ぜる。我々の前に差し出された。一緒にナッツが出てくる。僕とKは同じことを考えていた。シャカシャカやらないんだ・・。


緊張が解けぬまま、ジントニックを飲む。

今までのジントニックは何だったんだ。爽やかさ、甘さ、それを十分に感じさせた後、引かぬように締める。

「なにこれ、旨い…」Kがつぶやく。僕も同じ気持ちだ。


ようやく緊張がほどける。美味しいお酒や料理は緊張感をうまい具合にほどく。僕は思うのだが、それなりのお酒や料理で緊張が解けない状況はさっさと帰ったほうがいい。


Kはさっき出てきたナッツを食べながら、これ、お通しですか?と聞く。

チャーム、これはサービスですよ。

サービスと聞いて、楽しくなる。Kはメニューを凝視している。後で聞いたらシェイクする飲み物が欲しかったらしい。

「テキーラサンライズ、ください」

残念。テキーラサンライズはシャカシャカしない。


濃いオレンジが混ざりあった素敵なお酒だ。思わず言う。綺麗な夕陽だ。即座にKが訂正する。日の出だ。


今考えれば、初めてBARに来た小汚い作業着の二人にマスターは随分良くしてくれた。平日ということもあり、客が我々以外いなかったともあるのだろうか。


Kのシャカシャカはダイキリで叶う。マスターにシャカシャカをせがんだからだ。シャカシャカするお酒ください。僕は美味しくて安いウイスキーをくださいと言う。二人して無茶苦茶なオーダー。僕はシングルモルトを頂く。草原の風の香りがする。ウイスキーでそんな風景が浮かぶとは。

マスターの身のこなしは扉を挟んだ向こうとまるで別の世界だ。


二人で2万円ほど飲んで、食べた。オムレツ、サラダ、チーズ、そしてカツサンド。全て美味しかった。


一人1万円。当時の僕にしてみればとんでもない金額だ。しかし全くもって惜しくはなかった。本当に楽しかったのだ。あのマスターが僕らの人生を一段階すっと引き上げてくれた、そんな気がした。


そこで反省会を開く。


2万円。さすがにかけすぎだ。頻繁には行けない。何を削るかと考えた。

食事。美味しかったが僕らが満足するまで食べたらいくらかかるかわからない。ということでBARに行く前に牛丼屋で大盛りを食べることにした。


服装。小汚い作業着はマスターに少し申し訳ない。あのBARの雰囲気に合わない。この前は他に客がいなかったから良かったものの、扉を開けてカウンターにデカい男が二人で作業着はマズイ。まともな服を着よう。髭も剃る。


何日か後、その日の作業が終わり着替える。僕はチノパンにボタンダウンのシャツ、グレーのジャケット。Kは、紺ブレザーにレジメンタルのタイまでしている。

BARの扉を開ける。マスターが僕らを見る。一瞬間をおいてにこやかにカウンターに席を勧める。特に服のことは触れない。多分、喜んでる。


ここに来る前に牛丼大盛りを食べてきたので腹の準備は大丈夫だ。

前回と同じようにジントニックから始まり、Kはバカルディ、ダイキリ、ギムレット。Kはカクテルが気に入ったようだ。僕はマスターお勧めのシングルモルトを。


最低週に一度、平日に行くようになった。それも早い時間帯なので客はほぼ我々だけだ。マスターは僕ら自身には踏み込まず、お酒の説明を詳しくしてくれる。テキーラサンライズはローリングストーンズのミックジャガーが広めたとか。その時も客は僕らしかいなかったのでローリングストーンズの「女たち」を大音量でかけてくれた。ただ、BARの雰囲気とストーンズはまるで合わなかった。

僕らもマスター自身について特に聞いたりするような事はなかった。よくわからないが特にその必要はないと思ったのだろう。


Kの仕事に影響が出る。今まで作業着で営業に行っていたのだが、ジャケットスタイルで行く様になる。今までより少しだけ仕事が取れるようになったらしい。で、BARに出向く時は、タイをする。BARに向かうときのほうが正装に近い。僕はテニススクールの生徒さんから、柔らかく丁寧になったねと言われる。さっぱりわからなかったが、Kに言われる。マスターの物腰柔らかなものが移ったんだと。週に一度は必ずBARに通い、BARにいる間、ほぼマスターを見ているのだから。

他にもマスターの口癖が移る。素敵という言葉だ。マスターは良く素敵という言葉を使う。このお酒は素敵な由来がありまして、このお酒は素敵な映画にも登場しまして。素敵な水を使いまして、素敵な方々が造ったウイスキーでして。


収入から考えたら、安いとは言えないBAR通い。でもお酒が旨いだけではなかった。


僕は28歳、しかし、何者でもなかった。新卒で入った会社は中途半端な形で辞めた。この後どうなるかわからない。周りの28歳は社会の中枢に入り込んでいく。僕は、ただただ、呆然としているだけだ。Kは家業を継ぐべきなのか。しかしそれが果たして本当にやりたいことなのか、人生の幹としても良いのか、迷い、わからないでいる。10代の悩みでもなく、20代前半の悩みでもない。28歳。


そんな僕らをあのBARが一時でも僕らが考えるまともな28歳にしてくれたのかもしれない。



半年も過ぎただろうか。僕は付き合っている彼女がいる新潟に行くことにした。移住の忙しさでBARにも行けなくなった。


新潟に行く二日前、Kが飲もうと言う。しかしその日も雑事が舞い込んでいる。そう話すと新潟に行く当日の午後一はどうかと。大丈夫、行ける。場所は以前良く昼間に飲んだ新大久保の公園。飲み物などは全てKが用意してくれるらしい。


11月の良く晴れた日だった。誰もいない公園に行くとすぐにKがやってくる。紺のブレザー、レジメンタルのタイ、そして手には大きな紙袋。

中にはタッパーに入ったオムレツ、チーズ盛り合わせ、そしてカツサンド。


あのBARだ。


Kがマスターに事情を話すと、この時間に間に合うように作ってくれたそうだ。Kは透明なプラスチックのコップ、クーラーバッグから氷、そしてスキットルを取り出し琥珀色を注ぐ。


動けない。

Kは言う。早く飲めよ、薄まるぞ。

よく飲んでいた、マスターお勧めのシングルモルトだった。


Kが言う。


俺たち、外で飲み始めて、BARとか行ったけど、結局外だな。


僕は言った。


どれも素敵な時間だったぞ。



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