第39話 影鼠は壁を知らず、壁は鼠を忘れず
黒い体毛を持つ小鼠が、屋根裏部屋を這い回る。
ここはナトラ商会の屋敷であり、その屋敷内には無数の鼠が動き回っては、様々な部屋を見たりしていた。
時には使用人に見つかり、時には物を壊して注意を引いてから部屋に忍び込んだり、まるで人間のような行動をする小鼠達がいる。
「チュチュ」
操ってるのは全て俺、並列思考が必要となるが、今は何とかパンクせずに扱えてる。
本体は宿で休眠中、最近はずっと部屋に籠ってニートみたいになってるのだが、実際にはナトラ商会の屋敷での調査である。
今日は部屋に鍵掛けてずっと寝ているが、最近は人間よりも影鼠主体で動いてる。
リノの魔力操作訓練もあるので、後で少し時間を取るとしよう。
(何処だよ、ここ?)
ネズ公の視界を借りているのだが、その鼠の現在地が全然分からない。
四月三日から二週間、正確にはオークションが始まるまでに有益な情報を探し求めていたのだが、ナトラ商会にしては広すぎる。
それに有益な情報が殆ど出てこない。
「チュチュ」
声が出せない。
出せたとしても、そのような声しか出てこない。
しかし声には出せないのだが、この鼠は影を操れるために影文字によって文章を伝える事は可能、メチャクチャ便利な能力だ。
ただ、魔法であるが故に魔力は結構必要となる。
(ってか、もうオークション明後日なんだけど……)
今日は四月十三日、月曜日。
怪しいところが一切見当たらないので、俺がキース達ユグランド商会へと渡せる情報は、この屋敷の見取り図や、金庫の在り処、それから使用人の数や今度オークションで売りに出される品物とか、くらいか。
すでに一匹の影鼠が報告のためにユグランド商会へと向かったので、俺はこのまま探索を続行する。
(次はこっちを探ってみるか)
屋敷が広すぎるのだが、その屋敷を殆ど探し終えているため、残りの探せていない場所の探索をどうするか考えねばならない。
そこは魔法結界が張られているせいで、魔法体である影鼠が入り込めない。
入ろうとしても、その壁に手が触れた瞬間、鼠の手が弾かれてしまった。
「チュチュ……」
悪態吐いたとしても、客観的に見たら鼠がチューチュー騒いでるだけである。
どうしようかと考えながら腕を組み悩んでいると、廊下の先から一人の使用人らしき女性が衣類を運んでいるようで、こちらへと向かってきていた。
(丁度良い、身体を借りるとしよう)
この身体は二足歩行しにくいので、四足で地面を這って気付かれぬように女性を背後から襲う。
「チュウ!」
彼女の脳内へと入っていく。
そして主導権を奪って自由に女性の身体を動かす事ができるようになった。
(よし、これで何とかなるか)
結界の中へと入っていく。
目に見えない壁を超える事ができたため、この女性の身体から出るとしよう。
「あ、あれ? 私は何を……」
身体から出ると、その女性は周囲をキョロキョロとして何が起こったのだろうか、と困惑していたので、俺が身体を動かした事に関して覚えちゃいないだろう。
これで良い、結界の中に入りさえすれば先へと進めるからな。
結界魔法は外と内を隔てる壁を設定する。
そのため、その壁を通りさえすれば魔法効果も影響を及ぼさない。
(趣味の悪い美術品ばっかだな)
女から隠れるようにして曲がり角へと向かっていき、その廊下を歩いていく。
何故か、その廊下にだけ絵画やら彫刻やらが飾られており、その廊下の突き当たりも一つの絵画が綺麗な額縁に飾られていた。
しかし、その黒い絵画は闇のようであり、向こう側には何も無い一寸先が闇となっている。
(行き止まりか……)
怪しい。
行き止まりに魔法結界が張られている事自体可笑しいのだが、背後から足音が聞こえてくるため、さっきの使用人がこっちに向かってきているのが分かった。
ヤバい、そう思った時には大きな銀でできた甲冑の中に入っていた。
小さな影鼠だからこそ隙間から入れた。
隙間から様子を窺う。
「えっと、確か……四番倉庫よね?」
四番倉庫?
こっちには絵画やオブジェしか無いのに、倉庫とはどういう事だろうか。
何か仕掛け扉的なものでもあるのだろうかと思って使用人をジッと見ていたら、急にこっちへと首を向けてきて近付いてくる。
(気付かれたか?)
速やかに、その甲冑の影へと潜り込んだ俺は、その場をやり過ごす。
「変ねぇ……誰かに見られていたような……」
危ない危ない。
視線に敏感だったとは、何という恐ろしい敵だろう。
この影鼠の身体は影の塊ではあるのだが、俺の魔力を原動力としているため、魔力探知されたら面倒な事になりそうだ。
この身体で使えるか分からんが、試してみよう。
(『ジルフリード流魔力制御術・陰絶』)
自身の魔力だけでなく、生命反応一切合切を完璧に遮断してから、気配を自然へと溶け込ませて、そこには何もいないように見せ掛ける。
謂わば隠密だ。
逃げるのに役立つと言われたので、一番最初にこれを習ったものだが、魔力操作の種類としては確か……支配型だったか。
(早く行け、ババア)
念が通じたのか、使用人がスタスタと行き止まりの方へと進んでいく。
まさか本当に隠し扉でもあるのかと考えて、今度は視線を合わせないようにして気配だけで相手を探る。
すると、とある場所に立ち止まった使用人の姿が忽然と消えてしまい、俺は甲冑から飛び出した。
「チ……チュチュ?」
突然消えてしまった。
静寂が辺りを包み込んでくる。
心音は聞こえないのだが、驚愕によって自分の感情が揺れているのが分かる。
驚きと困惑、その二つが混ざり合った不思議なものを感じられた。
(今はそんな事より……)
どうするか、だな。
ここの警備とかは緩かったので簡単に忍び込めたが、こういった魔法結界が張られているから、緩かったのかもしれない。
それか単に成り上がったばっかで金が無かった、か。
或いは他の事情でも――
「チュッ!?」
絵画から足が出てきたため、更に驚いて天井のシャンデリアへと影を引っ掛けて逃げた。
その絵画からは、人が二人出てきた。
一人はさっきの使用人、もう一人は……誰だ?
リノよりも高い身長、男が喜びそうな大きな胸や少しムチッとした身体、魔術師のような杖とローブを身に纏った一人の女性が出てきた。
顔は言うまでもなく美人、口紅とアイシャドーによってなのか、何処か妖艶さを持ってる。
(リノには無い魅力だな)
深緑色の髪を腰まで伸ばしていて揺れている、まるでメデューサみたいな女だと印象にあった。
あんなのがリノだったらと想像して、アイツはあのままが一番だと思い直し、余計な事を考えるのを止めて偵察を続行する。
「じゃあ、貴方はこれを七番倉庫によろしくねぇ」
「畏まりました」
女は使用人へと何かを手渡して、そのまま何処かへと行ってしまったので、別の影鼠達へと脳内指示を出して操作しておく。
これで、足取りは掴めるだろう。
念の為に三匹くらい忍ばせておこうと思って操作したため、何かしらの情報も持ってこれるだろう。
そして使用人は今度、七番倉庫という場所の絵画へと入っていった。
(……額は八つ、突き当たりを正面に右側が一番〜四番、左が五番から八番ってところか)
絵画と絵画の間には彫刻やら甲冑、武器や人間が助けを求めてるような石像なんかもある。
涙を流してるようにも見え、非常に精巧に作られているソレを見ながら、俺は四番倉庫らしき場所へと入ってみる事にした。
「チュ!」
シャンデリアから飛び降りて、そのまま絵画の中へと入ってみる。
結果、スルッと抜けて中へ入れた。
(さて、鬼が出るか蛇が出るか……)
薄暗い場所だな、そう思って俺は陳列されてる棚の方へと歩いていく。
ここが第四倉庫らしい。
物静かで誰もいないのだが、薄暗い方が俺としても助かるというもの、身を隠す場所が多くて助かる。
(ここに二匹くらい残しとこ)
影鼠から追加で、新たに小鼠を三匹生み出して、そのうちの二匹にポジションへと着かせた。
この倉庫に何があるか、ここの調査を開始する。
まずはこの部屋がどうなってるか、つまり何処の空間に存在しているのかを把握する必要があるのだが、もしもここが異次元で創り出したものだった場合、壁を擦り抜けたりできない。
絵画を壊されたら閉じ込められる。
(ま、影だし良いか、別に)
この鼠は謂わば分身、消されたところで俺に害が及ばないために大丈夫だが、そうなっては探索ができなくなってしまう。
もしも額を壊されたら四番倉庫は隔離されるという事になり、切り取られた空間へと干渉できなくなるという事なのだ。
壁へと移動する。
擦り抜けれるか、それともできないのか、それだけでも確認しなければならない。
「チュチュ……」
やはり無理だった、壁を擦り抜けられない。
つまり、ここは異空間に存在している倉庫、空間魔法が付与されてると見て良いだろう。
(ふむ……)
まずは考える前に調べよう。
中に何があるのか、さっきの使用人と謎の女が何をしていたのか、それを確かめねばなるまい。
三匹中一匹を七番倉庫に向かわせたので、結果は後で分かるだろう。
(ここら辺は基本、全部薬か?)
液体、粉薬、錠剤のそれぞれ入った薬瓶が大量に陳列されている。
その薬の色だけでは判別できないのが幾つもあるが、他にも薬の材料となる物が大量にある。
モンスターの目ん玉だったり何かの脳がホルマリン漬けにされてたり、剥製にされてるのもあるが、ここは俺にとっては錬金素材の宝庫だ。
ヤベェ、盗みたい。
盗みたい衝動が心の中で疼いてる。
ナトラ商会に黒い噂があるというのも本当なのかもしれないな。
(こっちは精力剤……んで、こっちは媚薬かよ……何でこんなの集めてんだ?)
とある棚には、そういった身体を興奮させる薬品だけでなく、医薬品の類いが多かった。
強精剤に媚薬、催淫剤、ホルモン剤、栄養薬、漢方、刺激強化薬、軟膏、鎮痛剤、他にも異世界特有の薬品とかも多くあった。
(スゲェな、これ全部集めたのか?)
製法はそれぞれ違うからこそ、一人で全て作れるとしたら凄腕の薬師という事だ。
しかし、あの女は魔術師っぽかったし、こんなにも多くの種類集めるのにも苦労した事だろう。
四番倉庫、つまりここは薬品倉庫という訳だ。
そして別の場所には医薬品ではなく、毒物の類い、つまり危険物が並んでる。
(カプラ毒に、アルポネ草、イーフィット神経薬、それに蟻炎酸にベルグリーンってキノコ……んで、こっちの棚はオリジナルの調合薬品が並んでるのか)
猛毒ばかりが目の前にある。
中には酸素に触れただけで気化して毒煙になったりするものもあったので、迂闊に触らない方が良さそうだが、動物から採取した毒、植物毒、菌類、調合薬、これら全てを集めて一体何しようってんだろうか。
俺は即座に、宿で寝ている本体から一匹の影鼠を創り出してユグランド商会へと送り出す。
何個かは違法薬物、違法毒物の類いだからな。
これも弱みの一つになりそうだが、まだまだ裏がある。
(ん? まだ棚が一つ残って――)
一番端っこの棚、遠くから見ると二メートルくらいの大きな瓶が幾つも並んでいる。
大きな薬瓶だなぁと思って棚を見た瞬間、背筋に悪寒が走った。
(ま、マジかよ)
そこに並んでいたのは、いや表現が違うな、そこに入れられてたのは……
「チュゥ……」
人間の死骸だった。
「あらぁ、可愛らしい鼠ちゃんだことぉ」
「ッ!?」
いつの間にか背後を取られてた。
現れたのは女、全くの気配察知にも気付かなかったし、俺は魔力を遮断して気配を周囲へと溶け込ませてるはずなのだが、何故か気付かれた。
このまま逃げるべきか、そう思ったのだが、これはチャンスなのかもしれない。
「チュ?」
ここは無垢な小鼠を演じてみよう。
小っ恥ずかしいが。
「ウフフ、どうやって入ったのか知らないけど……ここにいちゃ駄目よぉ」
手を差し出されたので、俺は感覚を別の奴に切り替えて隠れながら操っていく。
その女の手に乗った一匹の黒い鼠だが、それよりも女の目が怪しく輝きを放ったかに見えた。
深緑色をした瞳、少し淡く光ったように見えたので、恐らく魔眼か、あの色から考えると幾つかに絞り込めるが分からない。
だって、対象は俺の影で創り出した鼠だし。
「あら、可愛い」
丸くなって寝るフリをする。
職業の中には生物を操ったり、憑依したり、真似たり、色んな可能性が考えられる。
しかし、警戒した素振りが無かった。
よって、彼女は魔眼で意識支配したと見て良いだろう、俺は女の持つ魔眼について一つの答えを導き出す事に成功した。
(名前は『誘惑の瞳』、意識そのものを支配下に置く魔眼だな。珍しいな)
しかし、その魔眼は……
「さて、明後日からが楽しみねぇ。ウフフフ」
影鼠が連れてかれるが、まぁどうせ俺が解除すれば原形保ってられないだろうし、気付かれてはいないようなので放置しておこう。
それよりも、ここを閉じられる事は無いらしい、なので探索を続ける事ができる。
「えっと、あった……これこれぇ」
医薬品の棚へと向かっていき、彼女が棚から取り出したのは一つの薬品だった。
紫色をした薬、睡眠導入剤か?
何故そんなものを取り出す必要があるのだろう、気になってしまう。
(もしかして誰かに盛るのか?)
だとしたら誰に薬を盛るのだろう?
それに何故?
彼女の目的は何だ?
何故彼女は正体を隠そうとする?
疑問達が脳裏でブレイクダンス踊ってるようだ、ゴチャゴチャしてくる。
「さぁて……楽しみねぇ、シド君」
その笑みはまるで死神が笑っているかのような、そんな笑みだった。
それにシド、どっかで聞いた名前だ。
俺が記憶の中を探っていると、その薬を持って何処かへと行ってしまった。
(まぁ良い、とにかく今はこっちだ)
俺は棚の上から降りて、ズラッと並んだ巨大な瓶を一つずつ見ていく。
自分の首を絞めたり、或いは逃げようとしていたり、顔が潰れてるやつとかもあるが、全てホルマリン漬けにされた人族だ。
ナトラ商会、思った以上に闇が深そうだ。
流石にこれを見過ごすなんて事ができようはずもないため、どうするべきか、ここで選ぶ必要があるな。
(一、何も見なかった)
それだとユグランド商会へと提供可能な情報で、依頼クリアとならないかもしれない。
そもそも、そんな事関係無しに黙ってさえいれば良いのだ。
これは保留としよう。
(二、影に収納する)
それだと俺が盗んだ事になり、それによって犯罪者扱いされる可能性も孕むな。
これは駄目だ。
(三、逃げる)
逃げてどうする。
意味の無い行動を取ってるのと同義だが、それよりも他の部屋にも似たようなのがあるのかなと思ったので、更に分裂して七番倉庫以外に向かわせる。
(一応、キースには伝えとくか)
それが一番正しいだろう。
他にも幾つか選択肢があるが、このまま野放しにすると何か大きな事に巻き込まれてしまうような、そんな嫌な予感がした。
これ以上巻き込まれるのは御免だが、もっと御免被りたいのは、あの白い獣人の子を手に入れられない事だ。
実物を見た訳ではないが、少し気になっていたので、是非手に入れたい。
(さて、ここについてはこれ以上調べても無駄だな。一旦帰ろう)
二匹だけその場に残しておいて、俺は意識を元の体へと還元して目を覚ました。
リンクを切った俺の目の前では、リノが俺へと手を伸ばしてるところだった。
「何してる?」
「うひゃぁ!?」
派手に後退りしたせいなのか、ベッドから転げ落ちてしまった。
まさか悪戯でもされたかと思って水で鏡を作り出したのだが、別に何かされた訳でもないし、何をしようとして俺に跨ってたのか。
今では顔真っ赤になってるし。
毛布を剥いでベッドから出た俺は、未だへたり込んでるリノへと手を伸ばす。
「大丈夫か?」
「う、うむ……」
彼女の手を取り、立ち上がらせる。
何をしてたかは知らないが……いや、ちょっと変だ、何で彼女がこんなところにいるのだろう?
「お前、何でここにいんの?」
「何故と言われてもだな、もう魔力操作訓練の時間なのだが、出てこなくて入らせてもらった」
「いや、そうじゃなくて鍵はどうし……」
「……」
鍵が壊れてた。
魔力操作訓練によって身体強化を最初に覚えたリノ、馬鹿力で扉の鍵をぶっ壊したのが惨状として広がっている。
「おい」
「……はい」
「何か申し開きはあるか?」
「……いえ」
商会を探るのに熱中してたせいもあって、彼女に構ってられなかった俺の責任でもあるか。
「まぁ良い」
影鼠を創り出して、それをユグランド商会へと走らせておく。
まさか人間まで取り扱ってるとは、ナトラ商会が悪いのか、それともあの女独自で行ってる事なのか、少なくとも魔法結界だけでしか隠されてなかったので、使用人のババアは知ってるだろう。
見てはならないものを見てしまったが、調べなかったら明るみには出なかっただろうから、この情報をどうすべきか悩むな。
「何かあったのか?」
「あぁ、凄いの見ちまったよ」
「邪魔して済まなかった。しかしノア殿、貴殿何だか疲れてるようだな」
そうなのだろうか?
だがしかし、相手にとって俺が疲れてるように見えるのだとしたら、きっとそうなのかもしれない。
超回復は精神にも作用するので疲れてないと思うが、客観的に見ると疲れてるようだ。
目の下に隈でもできてたりして……
「明後日からオークションだ。少し休んだらどうだ?」
「そうしたいのは山々なんだが、依頼を引き受けちまったからな。最後までやり遂げるさ」
男が口にした約束事は絶対遵守する。
それに思うところもあるし、餓鬼共が昔の俺と重なって見えちまったからな。
「……何故そこまでする? 貴殿の行動理念は何処にあるというのだ?」
俺の行動理念か、根底あるのは自分の過去だろうな。
まだ自分の過去に囚われている人間の成れの果てが、この俺なのだ。
それを彼女に話したところで理解されるはずもない。
だから俺の行動理念は、俺の心の中に留めておく。
これは誰かに伝えたり、教えたり、そういう事をするものではない。
「行動理念ってのは大抵、判断材料の根本的支柱となるものが多い。特に過去に『何か』ある者は、その行動理念が呪縛となって絡み付いてくるもんだ」
例えば自分のせいで大切な人が死んだ場合、二度とそれが起こらないようにと心に縛りを掛ける。
強くなって全員を殺してやろう、悲しい思いだけは俺で充分、次こそは大切な人を必ず守ろう、等々、人によって異なる。
しかし、その根底にあるのは『その過去は絶対に忘れない』という鎖だ。
その鎖が心を縛る、その鎖が成長を止める、大抵は過去の呪縛に囚われて抜け出せない。
「お前にその呪縛を背負う覚悟はあるか?」
「そ、それは……」
即答できなかった時点で彼女に俺の過去を背負う資格は無い、それは彼女が本心を曝け出していない、俺も同じく彼女を信じていないから。
常時魔眼で真意を見極めているが、彼女は常に本心を語ってはいるが、心の内側までを見せてない。
俺達は互いに協力関係にあるだけ、彼女は精霊界へと行くために俺を利用し、俺はそれまで彼女の未来予知能力を利用する。
信頼関係を構築できてない一ヶ月半程度の関係だ、背負うも何も、だ。
「行動理念は自分の内側に仕舞っとくもんだ。お前も同じだろう?」
「……そうだな」
ならば、俺達は互いに深く突っ込まない。
精々、浅い部分にまで手を伸ばすだけ、それで救われる事は絶対に無い、それこそ互いに分かってる。
「済まない、どうやら相当疲れてるようだ、少し休むとしよう。息抜きにチェスでもやらないか?」
「チェスか、良いだろう。我は強いぞ?」
影からチェス盤を取り出して、テーブルと椅子を持ってきて、二人で対戦する。
これからの旅の、少しだけの休息だ。
過去の呪縛から解放されるために、それを願い、祈り、俺は兵士を前へと進ませていく。
後ろへと下がれない駒のように、自分の人生を重ね合わせて駒を奪い、奪われて、命のやり取りのように盤面を見据えて操作していく。
しばらくして、俺の動かした駒が彼女の王様を追い詰めた。
「……チェックメイト」
「ふぅ、どうやら我の負けのようだな」
駒を大半奪われ、向こうの駒も奪い、王の首へと刃を向ける。
何とか辛勝を掴み取った訳だ。
休憩は次第に終わりを迎え、現れるのは日常という皮を被った非日常、このチェスの盤面のように異世界を駆け抜ける日々がやってくる。
新たな出会いのために、俺は過去を胸に前へと歩みを再開させていくだろう。
そして俺は逃れられない運命に藻掻きながら、休息の余韻に浸る。
(もうオークション明後日か、楽しみだな)
窓から涼しげな突風が入ってきて、白い駒が一つ地面へと落ちていく。
その駒を掴み取り、拾い上げた。
「もう一戦、次はノア殿に勝つ!」
「……分かったよ、やるか」
彼女へと白い駒を返して、二戦目に入った。
互いに勝ち負けを繰り返し、次第に時間が経過して、休息を終えていく。
明後日からのオークション、ナトラ商会で見た物、それらが今後どう関わってくるかを考えながら、最善の一手へと駒を動かしていった。
ルールに従って黒い駒を動かし、日は巡っていく……
本作を執筆する上で、評価は大変なモチベーションとなります。
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