第185話 そして全てが凪となる
それは悪夢などではない、ただの日常を写真みたく切り取ったような光景を、明晰な夢寐だと自覚しながら、第三者として俺は俯瞰していた。
周囲は真っ白い景色、あるのは一つの孤児院で暮らした時の数々の部屋と廊下、それから階段や玄関に続き、草木の生えた庭が白い空間とを境界線とする、閑静とした虚無の不思議世界だ。
その境界から先が無かった。
ただの空白。
その白い空間から情景ある庭へと境界線を越えて現れたのは、七人の見知った子供達。
景色も全体的に白く、緑色の草木でさえ淡い色をして、庭にしては敷地が広い。
(これは……記憶の中の孤児院、か?)
ここに幽閉される前は、白髪の少女と一緒に聖獣に乗っていたはず。
聖女の召喚した聖獣スノールナス、癒しの狐の尻尾に身体を埋ませて、心地良い太陽の光を毛布代わりとして、そのまま疲労困憊の脳が休みを与えた。
それが、現在に繋がっている。
あの孤児院にいる七人の子供達が、楽しそうに庭を駆け回っている。
そんな楽しげな様子を、俺は少し離れた場所に立って眺めていた。
一本の大きな木が、孤児院の横に生えていた。
その真下の日陰で何をするでもなく、日差しを浴びる彼等の笑顔を二度と壊さないよう、俺は彼等の一時を邪魔しないためにも大木に背中を預けていた。
「長閑だな……」
その呟きは風に乗って、遥か彼方へ。
揺れる草木も、そよそよと風に身を任せる。
自然の香り、安息の日々、絶えぬ笑顔、それはあの時、そこにあったのだと確かに認識させる。
世界は残酷だ、もう存在しない記憶だけの場所にまだ未練を携え、居場所を求めているのか。
(中に入ってみるか)
この夢が二度と見れない気がして、記憶で形成されただけの偽物でも、過去の遺産である焼失前の孤児院に、足を踏み入れた。
ギィィと錆びた音を響かせる樹木製の扉、その取っ手を引いて中に入る。
所々修繕された箇所が残されている。
孤児院を卒業した元孤児達からの仕送りで一定の資金はあったが、それでも貧乏だったのは間違いない。
「そう言や、ガロとフィーの奴、ここの壁に沢山落書きしてたっけ」
いつかの思い出、三人で一緒に怒られた出来事が、漠然と脳裏を過る。
ジャネットに三人正座させられ、何時間にも渡る説教地獄を体験したな、と今では優しい思い出だ。
フィーもガロも、説教に飽きて逃げ、その二人を追う母の構図が、一瞬見えた気がした。
けど、何処か三人楽しそうだった。
「……」
壁を撫で、そのまま廊下を抜けて食堂へ。
ドアを開けると、九人で生活するには少し広いテーブルと椅子が置かれていた。
使い古した椅子と机だ。
ここにも落書きがあるが、これは消されてない。
少し下手な龍と、それを討伐する御伽噺に出てくる勇者、そして勇者に守られるお姫様の絵だった。
「これ、誰が書いたんだっけ?」
もう九年近く前だ、覚えていない。
けど、何故か印象的で、深く心に残った。
食堂兼居間として利用されている場所、窓の外には七人の子供の遊ぶ姿と、それを離れて眺めるウォーゼフ、ジャネットの二人。
窓から目線を切り、食堂を後にする。
沢山の荷物が置かれてる物置きや、孤児院経営のための作業部屋、廊下の奥の扉を越えると一旦外に出て、屋根付きの通路の先に、礼拝堂がある。
その礼拝堂へと入ってみた。
俺が歓迎された時にはもう使用されず埃塗れとなっていた礼拝堂、豪奢な造りの背凭れ付き長椅子がある会衆席、神像が設置されている神を崇めるための祭壇、壊れて音の鳴らない朽ち果てたピアノ、窓ガラスも罅割れていて、風通しが良い。
そうか、ようやく全体像が見えてきた。
身廊をゆったりした歩幅で進み、最前列にある教会椅子に腰を下ろした。
近くに牧師席が設けられている。
だが、何年も前に使えなくなったと聞いた。
自分以外の誰もいない、一人だけ世界に取り残されたような静寂が、耳朶に震える音が凪ぐ。
「……」
神聖なる場所は白い空間でしかなく、色が無い。
罅割れたステンドグラスから入り込んだ白陽光が埃によって軌跡となり、祭壇に祀られている壊れて一部欠けた像が、後光を纏うように輝く。
怒涛の日々から逸脱した、この白昼の夢。
多分まだ聖狐に搭乗したまま、割れた海の上を走っているはずだ。
(起きる気配が無いし、しばらくはここにいるか)
ソッと瞼を下ろし、長椅子に背中を預ける。
白く暖かな天光が入射角を上げて、この崩壊寸前の肉体に光が当たり始めた。
最初は足元から迫り、次第に膝まで到達し、垂れた腕や腹部にまで来て、射角は更に全身を包もうと上へ上へと上がり続け、最終的には漆黒色の髪の毛でさえも白光を熱と共に吸収していた。
安らぐ暖かな太陽の光。
壊れた壁から這い入っている蔦や草木の香りが、アロマのように疲れ切った肉体と精神を治癒させる。
(良い天気だ)
この何も無い日常は、もう永遠に手に入らない。
貧しかったし辛い経験もしてきたが、俺の残した思い出がここに集約され、凝縮されている。
ここは、俺にとって居心地の良かった場所だった。
帰る家だった。
静かで騒がしい日常が、俺は好きだった。
その老朽化した礼拝堂の扉が、錆びついた音を鳴らして誰かを歓迎した。
「ウォーゼフ、父さん……」
白い髪、白く立派な髭、黒い神父服を身に纏う姿は聖職者そのものだった。
一歩、また一歩と身廊に足跡を残す。
血縁ですらなく歳の離れた昔の父親が、最前例まで歩いてきたと思ったら、俺とは反対側の道を挟んだ長椅子に腰を下ろして見上げていた。
その目線の先は、壊れ欠けた神像。
有名な神様とかではなく、伝承や神話に載っていない認知されていない神様だ。
全体像は判別できないが、いつからか祀られていて、捨てられないからと置かれていた物。
男神のようで、記憶に薄っすらと残っていた神像は日光や隙間風で風化し、いつか完全に壊れていたはずだ。
それを、俺と父さんは一言も発さず眺めていた。
「『……』」
ここに住んでいた頃は、稀に一人こうして神像を見上げていたものだ。
彼も同じだったんだろうか?
精悍な横顔は、脳裏にあった記憶の一つだ。
それが夢で再現されているだけ、空虚な世界が白けていくような森閑とした聖堂に音も無く浸り、しばらくは疲労困憊の心身の快癒に努める。
呼吸音や心音すら聞こえない。
肉体に巣食う呪印の侵蝕率が約八割近く達しているが、生命龍によって抑制が成され、しかし強大化しつつある現状で超回復が生命維持のために足止めを担っている。
だから超回復を怪我に回す分が無くて、実質戦闘での負傷回復が致命的に遅れている。
この不思議な明晰夢では悪夢と違い、現実と同様に全能力が使いたい放題であるため、左目の霊王眼も意識して使えている。
この身体は現在疲労中だ。
セラを助けるためとは言え、彼女から強制的に呪詛の塊を影で取り込んだ。
それに右目の反動が体内に蓄積している。
それを今から治す。
生命龍スクレッドから預かった生命力の一部を超回復の異能に注ぎ込めば、回復機能が向上すると考えた。
ならば、早速実践してみよう。
体内の状況改善のために霊王眼を伏せ、異能の集中する部分へと生命力を集める。
(要領は魔力操作と同じ、だが………かなり、生命力の操作が難しいな)
魔力操作は何年も練習に次ぐ練習を重ね、流麗な操作ができるようになった。
しかし、これは非常に重たい。
全身のエネルギーを中心へと持っていく力が必要で、魔力操作よりも操り難い上、超回復に注ぎ込むために生命力が次第に抜けていく。
凡人の浅知恵だが、直接曲げるのではなく、中心に向けて円を描くように意識を極限まで集中させる。
「スゥ……」
深呼吸を反復させて超回復の機能を上昇、漏れ出た生命力を肉体に再定着させ、その余剰分も異能へと注ぎ込むために操作する。
だから渦を描くのが一番効率的である。
漏れた分を、そのまま軌道に乗せるだけで良いから、予め設定した量全部を余さず補完させる。
超回復を器とし、生命力の一部を納めるのだ。
無限に引き伸ばされた時間を圧縮し、一秒一秒を無駄にしない。
この操作を約一時間ずっと維持し続けた。
約一時間の集中力維持も困難となってきた頃、ようやく超回復が普段以上の力を発揮できるよう調整できたのを、肌で感知した。
何処となく身体が暑い気がする。
肉体の回復に能力を無意識使用してるためだろう。
横を見ると、いつの間にやらウォーゼフが礼拝堂から外へ出て行ったようだ。
(体内の生命力操作は一先ずできたか。外部干渉はまだできないから心配だったが、杞憂だったな……こんな簡単な方法も思い付かなかったとは)
これで、まだ錬金術が使える。
しかし一気に脱力感が襲ってきて、逆に疲れが出てきていたが、それも超回復で自然と完治に向かう。
ここは現実世界の肉体と精神を反映させた場所なのか、身体疲労が軽くなった気がした。
(少しは呪印も抑えられたかな?)
これで怪我しても回復速度が上がったはず、すぐ完治できるはずだ。
ここでは試せないため、後にしよう。
(それにしても……静かだな)
催眠術師が俺に干渉しているのは最早事実だろう。
しかし、この明晰夢は何処か不思議な雰囲気に包み込まれているようで、暖かな陽光が全身を安らぎに導いてくれるようだった。
風は伸びた髪を優しく揺り動かし、太陽の光は眩しく、記憶の中に残存する失った居場所はきっと、二度と叶わない願いの地。
いつまでも浸っていたい、俺だけの大切な思い出。
礼拝堂の古風な香りも、長椅子の冷たく硬い感触も、揺蕩う木々の囁きも、等しく郷愁を覚える。
「もう、九年近く経つのか……」
彼等が全員死んでしまってから、長くて短い時間だったように思える。
数々の困難が行く手を阻んだ、数多の逆境を一人で乗り越えてきた。
この約九年は、彼等から貰った時間だ。
空っぽな日々は扮飾され煌びやかとなり、しかし今この見えている世界は虚飾で、結局上辺だけの日常だったと灰色な世界が物語っている。
どれだけ繕おうとも、本質は変わらない。
どれだけ願おうとも、家族達は還らない。
ここに来て俺は実感する、この手でこの真っ白で清純とした日常を焼いたのだと。
その代償はあまりにも大きくて、それをつい最近まで忘れていた。
「……代償、か」
焼いた代償に九人の命を奪い、左脇腹の火傷が贖罪の証となった。
大きな火傷だ。
今まで気にしていなかったが、この諸島に来て、自分の犯した過去の記憶が蘇り始めて、だから俺は脇腹に手を添えて服を掴んだ。
妙な疼きがある。
呪印によって深刻化して侵蝕率も極めて高いため、痛覚は最早存在していない。
味覚と触覚を失い、残るは視覚、聴覚、嗅覚の三つのみ。
先程の超回復が現実に反映されているようなので、七月七日までは普通に過ごせるはず。
(離島に何かあるのは間違いないだろうし、今のうちに肉体と精神の両方を休めとくのが最適だろうな)
けれども、この世界に浸るのは時間が許しはしない。
この精神はもうすぐで現実へと意識を覚醒させ、明晰夢から脱却するだろう。
この色の無い穢されていない礼拝堂から退散して、通路を通って玄関口を開けて、俺は記憶から形成された九人の家族のいる白い箱庭へと出た。
ジャネットは洗濯物を外に干し、ウォーゼフは木工作業で孤児院の修理、残りの七人の子供達は駆け回って追い掛けっこをして遊んでいる。
玄関の扉を閉めて、その孤児院の大きさを視界に収めた。
ドアの上に、孤児院名が彫られた木製の看板がある。
その児童養護施設の名前、何故か掠れて読めない。
自ら封じた記憶の中に名前も隠れてるはず、しかし何故だか回顧不可能だった。
(思い出せない……)
その孤児院の名前がどうしても、記憶に引っ掛かって表出しなかった。
何という名前だったのか、記憶が抜け落ちている。
まだ、記憶の全てを開けていない。
人間の防衛本能、脳が記憶を改竄したり、一部の記憶を封じ込めたり、その過去の記憶の一部がこの孤児院の名前に繋がるのか。
それとも、事件に関係しているのか。
瞬きする間に、看板は塵となって消滅していた。
ここは夢の世界、何が生まれて何が消えても可笑しくない非現実空間だ。
「外側は何も無いのか……」
遊ぶ子供達の向こう側は、繁茂する雑草が無くなり、真っ白い空間だけが何処までも続いている。
世界を切り取った記憶の箱庭、俺だけがいない日常だった光景、この悪夢とは程遠い文字通りの白昼夢が、非現実的な幻想として俺は魅せられている。
いつまでも残りたい衝動が、心に燻っている。
一歩、玄関口から芝生へと踏み込む。
しかし次の一歩を踏み出す勇気を得られず、躊躇して芝生に着いた足を引き戻した。
(あの平穏だけは、壊したくないな)
ここが天国なら、まだ納得が行く。
呪印によって俺は寿命を迎え、死んでしまったのだと説明が付く。
死んだなら死んだで構わない。
この安寧の地を、俺の手で穢したくないだけ。
だが天国ではないのは、俺が一番よく知っている。
俺は彼等の命を奪った張本人だから、この穢れた魂が天国に行けるはずもない、だから明晰夢であるのを俺は知覚していた。
だが、ここは安寧ではなく、贖罪の地。
蘇る記憶の再現に過ぎないが、あの場所に俺の入る余地なんて無いのは明瞭である。
近くの大木に背中を預け、白妙の木漏れ日を受ける。
片膝に腕を置き、色の消えた空を見上げる。
不思議と、心が安らいだ。
七人の子供達は九年前から成長していない、まだ未成熟の身体を自由に動かして、走ったり、転んだり、地面に大の字に寝そべったり、自由気ままに振る舞っている。
楽しそうな一枚の風景画だ。
何て静かなのだろう、激動の毎日とは比べ物にならない程の安息の時間が、こうして訪れようとは。
「五日間連続で悪夢を見てたのに、急にこんな夢……」
ここで何かを考えるのは無粋か。
暫しの休憩に勤しもう、そうするのが一番最適な選択だろうから。
しかし、身体の呪印は消えずに残る。
痛みも疲労感もまだ、蓄積されたままだ。
精神の瓦解状態に関しても、竜煌眼の使用による反動からなのか暗黒龍に再構築してもらったからなのか、回復が適応されていない。
糸のように引っ張られ、ギリギリの状態。
恐怖の糸等はとっくに千切れている。
他の情緒も、後何本残ってるのやら……
精神だけでなく、肉体の回復も実は芳しくない。
超回復の機能向上には成功したが、左腕を捲ると呪印が炎のように前腕部まで達しているし、首筋や右下腹部、背中にも呪印が及んでいる。
これは、根本的な解決を意味しない。
機能向上で得られたのは、回復力と速度の上昇、呪印の抑制、そして並列で扱える利点だ。
これで、超回復を生命維持以外にも使える。
肉体の寿命が少しばかり伸びても、安心はできない。
霊魂にまで侵蝕を始めているのだから、これまた厄介なものだ。
(これはもう……色々と手を尽くしても無駄だな)
今の俺では、ここいらが限界だ。
錬金術でも呪印の解体はできない。
できてたら、とっくに試してたし苦しんでもいなかったはずだ。
俺の職業より呪印を施した者の職業の方が干渉力が強いから、反発を受けて競り負ける。
覚醒者と非覚醒者の違いだが、これも俺の持論込みの推測に過ぎないから、まだ詳細も判明せずで、俺も研究するべきだろう。
左腕の袖を元に戻し、微風に戦がれながら草木の囁きを子守り唄に、癖となっていた思考を放棄する。
「贅沢だな」
そう感想が口から出る。
こんなにも、心が休まる場所があるとは思ってもみなかったから。
しかし、やはり俺の居場所ではない。
いや、居場所であってはならない。
(もうここは……帰る場所じゃないもんな)
この記憶も、この希望も、全てをここに置いていく。
彼等が満足するならば俺は、汚れた命も、穢れた魂も、血塗られた未来でさえも、歩むはずだった彼等の未来を奪ってしまった責任を全うするために、捧げられる物は全て彼等に捧げよう。
それが罪滅ぼしにすらならない、細やかなる願い。
もしかしたら、願いすら烏滸がましいかもしれない。
これは願いとも言えない、ただの俺の我が儘。
俺は九年近くも生き存えた。
九人の命を奪って、九年の歳月を過ごすに至った。
皮肉なものだ、九人の命を燃やすかの如く俺は七月七日に死ぬのだろう。
今日を含めて残り九日、本当に俺は数奇な運命を辿っている。
リノの予知夢もあるし、神様の悪戯に嘲り嗤われているのが目に浮かぶ。
「あぁ、本当に皮肉なもんだよ」
自分が死ぬべきだ、そう思っても、俺は『彼女』を探さなければならない。
転生したはずの彼女を、かつての幼馴染みを。
最愛の彼女を、俺は見つけねばならない。
それが、俺と彼女の交わした最後の約束だから……
(そろそろだな)
意識が少しずつ朦朧としてきた。
自分を探すための旅を続ける必要があるが、それが終わったら俺はどうするのだろうと、軽薄となっていく意識の中、それが脳裏に過った。
違う視点から自身を俯瞰するために再度思考を働かせようとしたが、その瞬間、俺の足元に一つの赤色のボールが転がってきた。
真っ赤な、赤い血のような色。
形は真ん丸の、ゴム製品。
この世界に似合わない、唯一の色彩。
孤児院にあった一つのボールの、転がってきた先へと視線を上げると、そこには全員が笑顔を並べていて、彼等のうち一人が手招きして俺に呼び掛ける。
『ウォルニス! そんなとこに突っ立ってないで、こっち来いよ!!』
「ガロ……」
俺より癖っ毛の多い青色の髪、鼻梁にある絆創膏がトレードマークの元気一杯の少年、ガロが白い歯を浮かせて俺を呼んでいた。
懐かしい呼び方。
懐かしい声色。
懐かしい顔。
こんな光景、昔あったなと懐古の念に誘われる。
しかし呼ばれて腰を浮かし立ち上がっても、俺の身体は日陰に固定されてか、外へは出られない。
出られない、ではなく、境界線を踏み越えたくない、が正解だろう。
「駄目だ……俺は、そっちには行けない」
庭を埋め尽くす花が黒い日陰から白い空間の境目にまで咲いて、その先は真っ白な不毛の土地、黒と花畑と白の三つの境界、二つの境界線がある。
この境界線を踏み越えて、俺は皆の隣には立てなかった。
彼等の手を取り合う、そんな夢さえ叶わない。
俺は皆に酷い仕打ちをした、恩を仇で返した。
「許されざる行為だ。やっぱり俺は陰にいるのがお似合いだよ……お前等の隣に立つ資格なんて、最初から持っちゃいなかったんだ、ガロ」
日陰に立つ自分と、天国のような楽園に立っている七人の子供達、ここを飛び越えて彼等の元へ辿り着ける日は一生来ない。
袂を分かった、二度と会えない、そうする道を余儀なく選んだ。
だからガロ達の下へは行きたくとも行けなかった。
彼等の手を血で汚してしまう、そう思ったから。
伸ばしていた手は虚空を掴み、強く握った手に爪が食い込んで血が滲み出る。
「俺は……皆を犠牲にして生き残った。他所者の俺が、その幸せな世界を壊した」
九人の幸せな家庭に異物が混入した。
孤児院の全てを、俺がこの手で打ち壊した。
二度と還らない場所が、記憶の中でだけ未だ失われずに形を保っている。
ここはもう、俺の帰るべき場所じゃない。
愛する者達はすでに、火葬された後だ。
彼等の遺品も無ければ、彼等の遺骨すら灰燼に帰して、墓には何も埋まっていないだろう、墓があればの話だが、きっと彼等の墓なんて用意されない。
俺達が孤児だから。
あの惨劇は、俺達が孤児だったから、俺達が望まれずに生まれたから起こった。
「ずっと、忘れてきた……ずっと、お前等の存在を否定し続けてきた」
忘れて生きる、それは彼等の存在を消していたという意味に取れる。
それは要するに、存在の否定に他ならない。
彼等の生きた証は、もう俺だけなのだから。
九年間、俺を見守ってくれた。
だからここまで生きてこれた。
何度も死にそうになったが、それでも彼等が俺の記憶に居続けてくれたから、きっと生き延びられた。
だから俺はまだ死ねない。
「あの時、路地裏で朽ちようとしてた俺を拾ってくれた、俺に食べ物を恵んでくれた、今でも感謝してる。皆、俺を潔く迎え入れてくれたから」
あの日、大雨が降っていた。
路地裏で大の字に倒れ、雨空に打たれ絶望に瀕していた自分に傘と手を差し伸べてくれたジャネット母さん、孤児院に連れていかれ、歓迎してくれたウォーゼフ父さんと七人いた子供達に、感謝の気持ちを持っていた。
その気持ちさえ、影に喰われた。
身体も、精神も、もう耐えられる限界まで迫りつつあるだろう。
超回復を強化しても、俺の運命は定まってるから。
「この気持ちも、この感情も……もうすぐで消えちまうだろうけど、二度と忘れたりしないから」
か細い糸で辛うじて繋がれてるだけ。
いつか切れて、何も感じなくなる。
怒りも、悲しみも、負の感情すら感じなくなる、その前に自分が誰なのかを見つけたい。
ただウォルニスの出生を探すのではなく、何故この世界に転生したのか、そして彼女を……前世で一緒だった彼女との約束を果たすために、俺はまだ死ねない。
皆が俺の死を望んでいたとしても、この諸島はまだ終着点ではない。
「俺はまだ死ねない……死ぬ時はきっと………」
それはきっと、全部解明した時だけ。
死に対して恐れは無いが、『彼女』と会うまでは俺は死ねない。
けど、もし会ったら?
日輪島に転生者がいる、もしかしたら俺の探してる彼女かもしれないが、会ったとして俺は何か感情が変動するだろうか。
この壊れかけの身体と心は、冷たくなっていく。
次第に何も感じない、ただの人形になってしまうんだろうか。
『もう、行くんですね、ヴィル君』
耳朶に優しく、俺の名を呼ぶ声が響いた。
一人、少女が境界線を踏み越えて、真っ暗な空間に立つ俺の眼前まで歩みを寄せてきた。
後一歩で、俺達の境界線は曖昧になる。
日向にイグニシアが。
日陰に俺が。
慈愛の笑顔、小さな手、今の俺の背丈の半分くらいしかないため、自然と膝を着いてしゃがみ込んだ。
彼女と目を合わす。
綺麗な橙黄色が、微少に動き揺らめいた。
そして、彼女は俺の頬に触れる。
『大きく、なったね』
「ッ……そうだ、お前達から奪った九年で、大きく成長したんだ」
皮肉には皮肉で返す。
彼女達が成長しない分、俺が成長してしまった。
その差が、膝を地に着ける結果だ。
『強くもなった』
「強くはないよ、俺は九年前と同じ、弱いままだ」
皆がいなければ、俺は何処かで野垂れ死んでいたはず。
生き繋いだのは、紛れもない彼等だ。
絶望から救おうとしてくれたけど、更なる絶望を俺が呼び寄せた。
謝らねばならない。
俺のせいで、皆が死んだのだから。
俺が彼等を……
『私達は生きてるよ』
「…ぇ……」
突拍子もない発言に一瞬息が詰まる。
生きている、本当に?
何処かで皆が笑っているのか?
僅かな希望を抱いてしまった、この贖罪が消えるのではないかと思って。
しかし、そんな甘い考えは吹き飛んだ。
『君の中で、ずっと生き続けてるんだよ』
もう記憶の中でしか生きられない彼女達を、俺は一度ならず二度も殺した。
現実で、夢で、彼女達を殺した。
償いきれない贖罪が、俺の心を蝕んだ。
心の中で生きている。
記憶の中で笑っている。
何も知らず、ただ純粋に、彼等の命は俺の中でずっと時が止まったままだ。
『ヴィル君、私達のためにも、生きなきゃ駄目だよ?』
これはあんまりだ、そう言われては死ぬ訳にはいかないではないか。
俺自身が死ねば、三度目、彼等を殺めてしまうのと同義だから。
『だから……死なないでね?』
生に縛る彼女の微笑みは、慈愛に満ちていた。
あの悪夢で見た瞳の無い彼女とは大違いで、そのあどけない笑顔が、心を溶かしていく。
その笑みが、前世での彼女と重なって見えた。
けど、彼女は違う。
俺の探してる子は、まだこの異世界にいるはずだと、直感が疼いている。
『ほら、待ってる人がいるよ』
彼女が俺の背後へと指を差した。
待っている人とは一体誰だろうか、そんな陳腐な疑問しか出てこなかった。
答え合わせも兼ねて、振り返ってみる。
孤児院も礼拝堂も大木も消えており、俺の立ってる場所は真っ白な境界線の外側で、その白い地平線の先に一人のシルエット姿の少女がいた。
いや、年齢が分からない。
白い逆光によって、彼女の顔も見えない。
それなのにこの妙に張り裂けそうな胸の鼓動は何か、情緒が失われつつあるのに、感情の埒外にあるこの胸の痛みだけはハッキリと感じられた。
まさか本当に彼女なのか、俺は遠くへ右手を伸ばす。
その右手の薬指に赤い糸が蝶々結びで繋がれて、その細い糸が白光を背に立つ少女へと向かう。
「だ、誰だ……」
そう言葉にするが、もう分かっている。
ただ、光によって双眸は白けて見えない。
口元は大きく弧を描いて、仁王立ちしている。
シルエットの耳が長いため種族はエルフか、髪も背中下辺りまであり、高い身長に自信たっぷりの立ち姿、昔とは雰囲気も肉体も何もかも変わっている。
けど、何となく分かった。
そこにいるのが誰か、俺は彼女を知っている。
「運命の赤い糸……やっぱり君なんだな、君が、俺をこの異世界に連れてきた」
『……』
その少女は何も喋らない。
俺は彼女の元へ行こうとして、それでも罪悪感に後ろ髪引かれてイグニシアの方へ身体を向けるが、そこにはすでに誰もいなかった。
音も無く、風も震わず、追憶の場所は刹那の中で過ぎ去っていた。
夢の瓦解か、孤児院はもう出てこない。
そろそろ目覚めの時だ。
「会いたかったんだ、ずっと。けど……同時に会いたくもなかった。不思議だな、君に触れたいのに、この手で君を穢したくない」
血で汚れた姿を、この醜い姿を、君にだけは見てほしくなかった。
一歩一歩、彼女へと近付く。
本物かどうか、知りたかった。
彼女がこの世界にいるのかどうか、俺はずっと知りたいと思っていた。
「長い時間、待たせた……ようやく、君に会えるよ」
糸が手繰り寄せられ、その少女との距離が手を伸ばせば触れられる場所にまで到達した。
彼女の顔は、白けて薄くしか見えない。
けれど、笑っているのだけは伝わってきた。
彼女が何かを口にするが、音は一切響かず、この空間そのものが会話を拒絶して、俺達は何も会話できずに向き合っていた。
彼女の口が動く。
読唇術で、何とか彼女の言葉が読み取れた。
――会いたかった…………
そう言って、彼女は首に手を回して抱擁する。
ずっと抱き締めたかった、温もりを感じたかった、こうして生きてて良かったって思いたかった。
けど、心が凍り付く。
身体が冷えていく。
会いたい気持ちも、会えた喜びも、消えてゆく。
残されたのは過去の贖罪に対する罪悪感、そして希薄化した後悔だ。
何も感じなくなる絶望が呪印の効果を増大させて、左腕に根付く呪印が全体を飲み込み、幾何学な紋様が広がって皮膚の肌が完全に黒くなった。
左手の爪先までが、呪印によって漆黒に染まる。
温もりを感じられない身体が、この冷え切った心が、呪印に蝕まれる。
胴体も、左胸から右肩にまで侵蝕を始め、幾何学な形をした呪印が更に根を張る。
「会いたかった……はず、なのに………何で、何も感じないんだ?」
まるで凪のように、心に波紋一つ立たない。
嬉しいはずなのに、喜びを噛み締めるはずだったのに、その気持ち全部が時の彼方に置き去りにされる。
そして彼女は、抱擁を解いた。
同時に世界が崩壊を始める。
ピキッと空間に亀裂が入り、自分が現実世界で目を覚まそうとしているようだと、俺は見上げていた視線を下に戻して彼女を見た。
彼女はただ、笑みを浮かべていた。
その彼女の腕が持ち上がり、俺の頭を撫でてくる。
「君は……やっぱり、昔と変わんないな」
話せない彼女の唇が動いた気がしたが、読み取ろうとした時にはもう、口が閉じていた。
四文字、何かを言葉にしたようだ。
けれども、その四文字は凪に消えた。
空間が割れ、世界が崩壊して夢と現実の区別が付かなくなって意識も曖昧化しているため、もう夢に意識を縫い止めるのには限界が近い。
(また、会えるよな?)
少女は俺の心を読んだのか、首を縦に振り、そのまま透明になって消えた。
白い空間が割れて暗転する。
世界が暗闇に支配される。
そして足元も瓦解して、やがて俺は重力に従って自由落下を始めたが、身体は動かず、意識ももう途切れてしまいそうだった。
その朦朧とした意識の中で最後に目にしたのは、暗闇の中に輝く一等星、あの幸せな白い世界だった。
白い光へと手を伸ばす。
重力に逆らって光へと翳した手は、またもや何も掴めなかった。
自我が夢から追放される。
この諸島の事件を幕引きにするため、俺は幸せで暖かだった夢を去る、そこは俺には勿体無い九人だけの孤児院での日常だから。
そして、この糸に繋がれた最愛の人は、きっと現実世界にいるから。
さようなら、かつての追憶の家族達……
さようなら、過ぎ去りし時の我が家……
孤児院で過ごした思い出全てを置いていき、安らかなる永りを願い、俺は過去の記憶から脱出する。
音が消えて、心に揺らぎも感じなくなった。
(あぁ、静かだ……)
目を瞑り、世界に溶けゆく意識に身を委ねる。
さようなら、と別れの言葉を置き去りにして、俺は不思議な白昼の夢から現実へと抜け出した。
そして、全てが凪となって、消えてゆく。
本作を執筆する上で、評価は大変なモチベーションとなります。
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