第16話 殺人者vs冒険者1
ノア達の開戦より、少し時間を巻き戻す。
深夜の二時を回る数分前、二人の人物が焚き火を囲い、今日で終わりを迎える試験についての振り返りを交えた会話を弾ませていた。
黄金色に煌めくハチミツの入った瓶が一つ、そして同じく鉄蟻の顎鋏が二枚、焚き火の近くに置かれていた。
何度も森を駆けずり回り、ようやく見つけた二つの素材は、焚き火を囲う二人の受験者によって採取された、試験の課題だった。
疲労が肉体に蓄積されているためか、どうしても歎息を抑えられない。
肺が溜まった疲労の息を追い出し、少女は困憊の精神を天体観測で癒す。
そこは、まるで天然のプラネタリウム、優美な炎の輝きと星団の煌めきが、二人を祝福するように流れ、十数時間後には試験終了を迎えるだろう。
「はぁ……それぞれ素材が見つかって良かったわね」
「あぁ、そうだな」
灰色の髪を乱す青年ニック、それから紫髪を弄る古代魔導師ルミナの二人が、真っ赤に燃え盛る火を見つめながら、呆然とした面持ちで語り合っていた。
ニックはクリークハニービーの月丹蜜を、ルミナはカッターアントの顎鋏を互いに時間を決めて探していたが、二人共、発見と採取に成功した。
しかし、手に入れるために軍隊蜂の巣を刺激したせいで、二人は必死に走って逃げたりもした。
大量の蜂に襲われて、命からがら逃げ切った二人は、その時の情景を思い出して、文句が飛び出た。
「アンタが蜂を刺激するからよ!!」
「それは悪かった。だが、あれは不可抗力だ。責められても困る」
蜂の巣の中に蜂蜜が入っているため、それを採取するためには蜂の巣に触れる必要がある。
クリークハニービーの習性は、巣を二つか三つ団子のように作って、そのうちのどれかが蜂蜜だけの巣となっているため、入り口は上に付いている。
その蜂の巣の中全てを蜜で満たして、それが月当たりの良い場所に置かれていると、上質で甘く、そして栄養満点の月丹蜜が採れるのだ。
だが、蜜を狙おうとすると、軍隊単位で襲い掛かってくる恐ろしいモンスターの一種である。
危険度として一匹程度ならEランク、しかし複数隊列を組めばランクは跳ね上がる。
「どれか分からなかったし、蜂蜜取れたんだからギャーギャー騒ぐな」
「やっぱ腹立つわね、アンタ……」
しかしすでに素材は入手したため、後は襲われないように周辺へと意識を向けるだけ。
バッジを奪い返される可能性も考慮に入れ、警戒だけでもしておく。
周囲を警戒していれば良いだけなため、精神的に楽だとルミナは思っていたが、この三日間を経験したニックとしては、少しだけ違和感を孕んでいた。
初日に感知した途轍もない殺意、人との遭遇率、そこから違和感は胸騒ぎへと進化を果たす。
本当にこれで良いのか?
警戒だけで大丈夫なのか?
森全体で何かが発生している、そんな予感めいた思考に一抹の不安に身震いした。
「どうしたのよ?」
「いや……遭遇した人数が少ないと思ってな。幾らウーゼ森林が広大だからと言っても、何回かは人と遭遇できると思ってる。だが俺達は最初の一組以外誰ともすれ違ってない、それも遠く離れた場所で、だ」
「偶然よ偶然、考え過ぎよニック」
本当に偶然だろうか、出会わなかったのは単に自分達の探索ルートと噛み合わなかっただけなのか、そう不安が押し寄せてくる。
初日に感じた悪意が、濃密な殺意の渦が、ニックの心中で引っ掛かり、掻き乱す。
六十人弱もいて遭遇したのが一組のみ、二人だけだったというのは流石に不自然だろう。
だが、試験は続行している。
試験官達側からの連絡が無いからだ。
(なら、あの悪意は何だったんだ?)
単にバッジを奪うだけのために悪意を撒き散らすとは考えられず、強烈な悪意には少なからず殺人に対する快楽の感情が混ざっていたのを、分かっていた。
その殺気の種類を理解していた。
魔族と同じ、人を弄ぶ敵意が夜風に連れられる。
だからこそ、この森が如何に危険であるかは最初から覚悟しており、試験に臨んでいた。
しかしすでに今日で三日目の夜、何事も無く終われば良いものをと思い、消え入りそうな火に薪を焚べようとしたところで、誰かの息遣いが不規則に森奥より届いた。
「誰だ!?」
「ニック?」
腰の短剣を引き抜いて、聞こえてくる荒く乱れた呼吸音に警戒心を何段階か引き上げながら、茂みの向こう側へと切っ先を翳していた。
命の気配を感知する。
酷く憔悴しているのか、走行者は何かから逃げているような走り方で、暗闇から音だけが木霊する。
闇に支配された空間に足音だけが響くのは、ある意味緊張感が張り詰める。
得体の知れない何かが蠢いているから。
背面に控える少女を護衛する位置に立ち、奥から飛び込んでくる何かを待ち構える。
奥からガサガサと草を掻き分ける音が接近して、暗闇から火光へと脱出してきたのは、血塗れとなって怪我を患っている一人の受験者だった。
腕や足に怪我を負い、しかし無数にある浅い傷から血が大量に噴き出ている。
多量の出血によって意識も朦朧としているはずが、死からの逃亡に懸命となり、その受験者の男は焚き火を囲っていた二人に助力を求めた。
「た、助けてくれ!!」
溢れんばかりの涙腺を崩壊させ、満身創痍の肉体を必死に稼働させて、何とかこの休息地にまでやって来た男。
何かのモンスターから逃げているのか、そうルミナは奥へと視線を送り届けた。
しかし直後、その闇から飛んできたナイフに後頭部を貫かれて、名も知らぬ受験者は彼等の眼前で無惨にも死に絶えてしまった。
一瞬の出来事だった。
簡単に散った命が側で倒れ伏し、虚ろな目で少女の双眼を覗き込んだ。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「ルミナ!!」
動揺するルミナが一心不乱に逃げ惑うが、彼女の行動を必死に抑えて掻き回された精神の安寧を図り、そのために次への対処に出遅れる。
目の前で人が死んだら誰だって驚いてしまうものだが、ニックは酷く冷静となっていた。
心臓が鋼でできているのでは、そんな言い返しをする余裕も失い、少女は過呼吸となって惨状に吐き気を催す。
「落ち着け!!」
「だ、だって、ひ、人が――」
「自衛が最優先だ!! 怖がってる場合じゃない、冷静に状況を判断しろ!!」
無闇に動けば、ナイフの餌食となってしまう。
奥には何かがいる。
幸いな事に、その投擲位置らしき場所からルミナまでの間にニックという障害物があるため、敵がモンスターでなく人だった場合、最低二回は投擲物を投げなければ魔導師には当てられない。
自分でもそう解釈していたからこそ、ニックは自身を肉の盾とするべく、彼女の前に立っていた。
理不尽な暴力を、彼は酷く恐れ、許せなかった。
だから背負った直剣を掴み、殺気を浴びた肉体が震え上がり、奥歯を噛み違える。
圧倒的強者からの殺意が、絶望を引き連れる。
その絶望は、背後からだった。
「おやおや、良い声で鳴いてくれると思ったのに……残念だなぁ」
彼の予想とは裏腹に、ルミナのいる方角の茂みから一人の男性が現れた。
柔和な微笑みは、悪魔の形相だった。
殺意を鎧のように身に纏っている、赤髪をオールバックにした男を見た瞬間に、ニックは近くに落ちていた小石を投擲し、その顔面を狙った。
その男が如何に危険であるか、その身で体感したから。
危機感知は鋭敏となる。
それだけ殺意が濃密だからだ。
そして、その小石を払おうと男が右腕を上げたところで、その右腕に遮られた死角に肉体を隠して攻撃を仕掛けようとしていた。
小石を払う、その行為を誘発したニックに分があるかに見えた。
「ガッ!?」
だが全てを見透かされ、短剣の軌道スレスレに身体をズラした直後、殺人鬼は左手で短剣使いの首を掴み上げた。
素早い動きで、しかし手加減されている。
弄ばれている感覚がある。
苦しそうに藻掻くが、掴まれた左手の握力によって首が更に締め付けられ、意識が飛びそうになる。
危険だと判断するも、その握力から逃れられない。
「駄目だねぇ、死角から襲うんならもっと殺気を隠さなきゃ」
「は、はな……せ……グッ!?」
「ならば必死に足掻いてくれ! 君はそれだけの潜在能力を持ってるだろう!?」
まるで無邪気な子供のような笑顔を相手に向けて、握力を強めていく。
日常と化した殺人行為、相手の実力をまだ見ていないため、殺し屋の彼は興が乗らない。
首を締め付けられるために、酸素を吸収できずに呼吸困難となり、酸素が脳へと行き届かなくなったところで、二人は遣り取りの側から巨大な魔力反応を感知した。
渦巻く魔力が、魔導師から湧き上がる。
「そ、ソイツを解放しなさいよ!!」
大きな魔法の杖を掲げるルミナが、両足を震わせながら男へと魔杖の先端を向ける。
このままではニックを魔法防御の盾にされ、自分の魔法が直撃してしまう、それは相手も同じく予想しているため、人質たるニックという肉壁をルミナへと向けて魔法を耐える体勢へと入っていた。
だからこそルミナ自身、仲間に攻撃を当てないような魔法を選択する。
練り上がる魔力が、解放される。
「『荒れ狂う大海原』!!」
地面へと突く魔杖の動作により、彼女を中心に巨大な水色の魔法陣が出現し、そこから大量の水が同心円状に伝播していくよう波及する。
水が足元を通って、次第に水位が上昇していく。
この森はほぼ平坦なため、本来ならば水位が上昇する現象は発生しないが、彼女が全ての水を生成操作しているため、この周囲百メートル以内全てが特殊な水槽として、敵と味方を水牢獄へと閉じ込める。
「はぁぁぁぁぁぁ!!」
一部の水を操作して、巨大な水龍を形成したルミナは、超高水圧のブレスをニック目掛けて放った。
まるでレーザーのように、高水圧の水が撃ち込まれる。
しかし前面には仲間の肉体が壁にされている。
どういう意図かと、殺人鬼の男は様子を確かめる。
何なら、実際に当たってみる気概すら見せ、凶悪にも嗤っていた。
「仲間ごと、この僕を殺そうとするなんて――」
「曲がりなさい!!」
ニックへの被弾を避ける形で、彼の背中ギリギリのところで横へと曲がる圧縮された水は、更に男の腹部に直撃して吹き飛ばされていく。
貫通はせず、その衝撃で首から手を放した。
暗殺者は衝撃から慣性に従って、後方へと肢体そのものの勢いを止められず、木々を折りながら数十メートルに渡って吹き飛ばされたが、次第に衝撃は折れた木々に吸収されていき、勢いは自然と無くなった。
煙が巻き起こる中で、その男は煙の向こう側から何の異常も無いかのように装って立ち上がったのを、二人は輪郭として目撃していた。
無抵抗の相手なら、気絶する程度の威力だった。
しかし蹌踉めきもせず、怪我したと思わせない立ち振る舞いに戦慄させられる。
「き、効いてないの!?」
「ゲホッゲホッ……クソッ、何なんだアイツは……」
ルミナは自分の魔法が効かなかった事態に驚愕し、地面に転がるニックは、首を押さえて咽び、チラッと男の方へと視線を上げる。
赤い髪が水に濡れて固まっていたオールバックが解けており、朗らかな笑みに赤みが加えられて、子供のような無邪気な姿が異様に見えた。
二人が同時に瞬きした瞬間、立ち上がった場所から男が消えており、そして瞬間移動したかのように、ルミナの隣に現れていた。
「やぁ」
「「なっ――」」
仮に職業能力だとして、しかしそんな兆候すら見せなかったはずなのに、瞬き一つで数メートルの距離を空気すら叩かずに超えてきた。
明らかに何等かの絡繰りがある。
しかし人は、突然の状況に慣れていないと、その場で思考停止してしまう。
今回も、ルミナは殺人鬼の瞬間移動に、度肝を抜かれてしまう。
それはまさに、神業と差し支えない。
人が授かる職業という未知が、神秘を引き起こす。
その奇跡が、彼等二人を翻弄する。
身の危険を感じたルミナは杖を横に振るって物理的に男を突き飛ばすが、何のダメージも与えられなかった絶望が精神的に押し寄せてくる。
しかも非力な古代魔導師のスイングでは、大した距離を離せなかった。
「君達、まだまだ未熟だねぇ」
それが、殺人鬼ジャックの酷評だった。
辛辣に真実を述べる彼は、二人の子供に肩透かしを喰らってしまう。
全然駄目だ、気持ちが昂らない、と。
だから肺が萎むような空気の抜けた溜め息に、落胆を滲ませる。
「う、うるさいわね! あ、アンタ誰よ!?」
「あぁそうだった、自己紹介してなかった。僕はジャック、自由に呼んでくれて構わないからねぇ。えっと……名前、何だったかなぁ? 僕、弱い人の名前とかって、覚えるの苦手なんだよねぇ」
相手の名前を認知している方が末恐ろしいものだが、絶えず笑顔を顔面に貼り付けている殺人鬼が不気味に見えてしまったルミナは、次いで魔力を杖へと流していき、職業の力と詠唱で、古代魔法を発動させる。
古代魔法とは言っても、消失した魔法だけでなく、太古に使われていた属性別の極大魔法等も能力に含まれているため、彼女は強力な切り札を幾つも持っているのだ。
ここで出し惜しみする気も持ち得ず、臆病風吹かれる御心は道端に捨て置き、高速詠唱で一気に呪文を組み立て終えて、魔法を放った。
「『雷神の鉄槌』」
杖から迸る激烈たる巨人の雷轟が、ジャック目掛けて放たれた。
しかし敵影は霞のように消え移ろい、放たれた雷撃は近くの大岩へと衝突して七割近く穿ち、その余波が周囲へと伝播しただけ。
ドゴォォォォォォォン……
完成したクレーターの規模と威力に、ジャックは愉快そうに軽快な口笛を吹き、大層興味深そうな双眸でルミナという少女を視界に捉えた。
しかし、彼等二人共がまだ蕾。
戦況から潜在能力が芽吹く前段階だと推定し、職業を十全と行使できていないと判断した道化は、背中に翼でも生えたかと見紛う程の回避を、連続して射出される魔法を前に悉く披露する。
面白い魔法、しかし追尾機能も搭載されてない雷速の槍が、紙一重にヒラリと躱される。
「魔導師の君、面白い魔法を使うねぇ。でも、当たらなければ意味無いよ」
「う、うっさい!!」
大人と赤子くらいの力量差があるため、魔法を何百発と放ったところで、赤ん坊の実力は成熟するまでには結構な時間を要する。
魔導師は、何度も魔法を酷使する。
魔力がガリガリと削れていく。
古代魔法を操る赤ん坊は、まだ応用という知識を持たず、ただ魔法攻撃を免れるだけの大人にすら勝利できない。
だから未知の知識に対して、苛立ちと両頬を共に大きく膨らませる。
「何で魔法当たんないのよ!!」
「それは君が弱いからだよ」
「あぐっ!?」
刹那を縫って脇腹に力一杯蹴りを入れ、その攻撃を間一髪魔力でガードした未熟な魔導師は、バキバキバキと派手に体内で音を鳴らし、骨が何本か逝って蹲った。
脇腹を蹴られてしまい、内臓にも影響を与えて、呼吸も不規則で奇怪な音が口から漏れ出していた。
呼吸器官に異常が生じる。
「カヒュッ――ヒュゥゥ……ヒュゥ………」
肺から空気が抜ける音が、呼吸音として響く。
リズムが乱れ、痛みに奥歯が割れるかと思うくらいに噛み、痛みを殺す。
今まで一度たりとも感じる経験すら無かった、その耐え難い激痛に対して再度起き上がる行動すら取れず、決壊した涙腺が洪水を起こす。
その痛覚が神経を通い、脳を激しく揺さぶる。
だが現在は戦闘中、相手が手加減している今だから生殺与奪が生へ傾いているに過ぎない。
いつか殺される。
そう激痛と殺意の予想から強く警鐘が打ち鳴らされ、魔杖を松葉杖代わりに、朦朧とした意識の中で懸命に立ち上がろうと、藻掻き苦しむ。
手足に力が入らず、起き上がる事すらままならないルミナの怪我の様子を即座に理解したニックは、ジャックへと一気に詰め寄った。
自身の身体で短剣を死角に、刃を振るう。
「『コンドラーク流短剣術・喰海』」
詰め寄ったと同時に大気を斬り裂く銀刃は、海が作り出す波濤のように揺蕩いを佩帯し、その不意打ちの下からの逆袈裟斬りがジャックの胸元へと直撃した。
避ける素振りを見せる瞬間を狙った、不意の一撃。
背中より倒れ伏した彼を目にした二人は、戦闘終了の安堵から武器を下ろそうとして、虚を衝いた攻撃によってニックの肉体が宙へと打ち上げられた。
隙を突かれた、しかし攻撃の軌道すら見えない。
「ガハッ!!」
「に、ニック!?」
ニックの顎を蹴り上げて宙へと吹き飛ばしたのは勿論、斬られ斃れたはずのジャックである。
蹴り上げられて身体が上下反転し、そのまま地面へと背中を強打して、強打時による衝撃が内蔵にまで響き、強制的に空気を全て吐き出してしまう。
気絶はしなかった。
強打による脳への震動が、辛うじて意識を保たせたからだった。
が、衝撃が予想以上に大きく、動けない。
内臓へとダメージを喰らったから。
相手を蹴り上げた直後、宙返りして少し離れた場所へと華麗に着地したジャックは、その場に無様にも倒れているニックを見下ろす。
その視線の原点たる瞳には、愉悦と憎悪という光闇を魔女鍋で攪拌したような感情の色が宿る。
「な、何故、だ……」
「あぁ、攻撃が当たったのに無傷なのかって? 簡単さ、僕は君の攻撃を食らっちゃぁいない」
服は血で汚れている、かと思いきや、一切の汚れが見当たらなかった。
真っ赤な鮮血は一滴たりとも、ジャックという殺人鬼からは零れなかったのだ。
つまり、刃が届かなかったのを意味する。
職業を携えた一端の剣士として、理不尽な強敵へと果敢に攻めるのも無駄だったのかと、動けぬ肉体を稼働させようと力を込める。
まさか目の錯覚だったのかと思って、ルミナが問い掛けようとした瞬間を置いて、フラフラと青年が胴体を起こして足を動かす。
立ち上がるため、膝に力を乗せるが、しかし途端に膝を着いてしまった。
「うっ……」
「あぁ、顎から脳へ衝撃を食らわせたから、無理に起きない方が良いよ」
息も切らしておらず、刃も受けず、柔軟な肉体による格闘術もお手の物で、実力の半分すら出していないジャックはまさに死の化身。
脳震盪を引き起こすニックは、立ち上がれない状況で後ろ髪引かれる思いに表情を歪ませる。
口惜しい念に駆られる。
魔族を殲滅する、その理念を掲げて旅をする彼だが、普通の人間にすら勝てない。
夢もまた夢だと、眼上の男の持つ異質な強さに『死神』を連想したニックは、悔しさに奥歯をガッと噛み締め、軋ませた歯より奥から言葉を絞り出した。
「な、何が目的だ……何で俺達を狙う?」
「あぁ、君達は単なる前座、本命は向こうで戦ってるんじゃないかな?」
自分達との戦闘を前座だと言われたが、その言葉が妙にしっくり来たニックは、本命が誰なのかと考えた。
思い浮かんだのはギルドマスターのラナン=ジルフリア、Aランク冒険者ナフィ、そしてパートナーが初日に突っ掛かった同じ受験生の青年だった。
しかし、黒髪の青年に関しては自分と同じ受験生であるため、可能性は薄そうだと考えて対象から自然と外し、ジャックを見据えた。
目的が不明すぎる。
単なる殺人快楽者かに見えたが、実際には何等かの目的を持って試験会場の森に潜んでいた。
「……もう一度、聞く……何が目的だ?」
頭がボンヤリとして意識も朦朧としているが、そんな中でも自分達の命が脅かされている現状では、聞かずにはいられなかった。
その目的次第では、自分達は殺されない。
だが、その代わりに本命たる人間達が戦闘に巻き込まれてしまう。
「君達には関係の無い話だよ」
その言葉を歯切りに、ジャックから笑顔という仮面が剥がれ落ちた。
曇った表情には単なる殺意しか残っておらず、ゴミを見るような冷たい蔑視が二人の心の臓を貫いた。
「正直ガッカリだね。もっと実力あるんじゃないかって思ったんだけど……期待外れだよ、全く」
「な、何だ…と!?」
「この森にいた人達は三日間で殆ど殺しちゃったし、後は目的を果たすだけだねぇ。ここまで運悪く巡り会えないなんて、不思議なものだよ」
サラッと森の中で何が起こっていたのかを説明したジャックだが、その言葉を意味するのは、森で人と殆ど出会わなかった理由に対する解答だった。
突然配られた解答は、悍ましい真実が記載されていた。
六十四人いた受験生の中で、現在生き残っているのは現段階で戦闘中の自分達、それから本命たる場所にいる者達のみ、となる。
要するに、自分達が他の受験者達と殆ど遭遇しなかった理由は、ジャックという一匹の殺人鬼が森を駆けずり回って命を喰らっていたから。
職業を授かったばかりの者達を躊躇無く殺した、という事実が彼自身の口から零れたも同然だった。
それに、付近には助けを求めて逃げてきた男性が血の海に伏している。
無関係な人間を容赦無く殺せる人間、不気味を通り越して危険だ。
「まぁ、今回の依頼に関しては、成功しても失敗しても結局はどっちでも良いんだけどねぇ」
「ど、どういう意味だ!?」
「……そろそろかなぁ」
目線を切らして何処かを見ていたジャックだが、隙が無いためにニックは攻撃しようとしても、できない。
逆に瞬間的に細切れにされる。
ルミナが魔法を使おうと詠唱し始めていたのを制して、一切の攻撃を禁じた。
隙が無いからこそ、何もできない。
何を質問しても情報漏洩は見込めないだろう、目の前で余裕な態度を殺意に混ぜ込む、正体不明の暗殺者、こちらが口火を切れば、その口を封じるために殺害も辞さない可能性があると考えられる。
だから、ここでの選択肢は一つ。
「ルミナ……お前は逃げろ」
殺人者から距離が多少ばかり離れているため、小声で会話する。
「な、何言って――」
「俺達じゃ、アイツには勝てない」
それが事実だから、互いに何も言葉にはできなかった。
逃げなければ殺される、逃げたとしても逃げ切れるかはまだ分からない。
しかし、この場で殺害されるよりかは可能性としては、低かろうともある。
彼女はニックを見捨てて自分だけ逃げるのか、それとも見捨てずに戦うのかを考え、魔杖を構える。
「に、ニック、あ、アンタ逃げなさい……あ、アタシが、その……時間、稼ぐ……から!!」
「ルミ、ナ……」
「ん〜、二人の友情、健気だねぇ」
恐怖と腹部の鈍痛によって顔面蒼白となっており、手足や肉体が震えていた。
血反吐を口端から垂らし、激痛による涙で顔も他人に見せられたものではない。
女の子に守られて自分だけ逃げるのは、自身の矜持が許容できなかった。
それは最早人間として最低な行為だと考え、自分の頬と震える足を全力で叩き直し、精神を落ち着けさせて自身を律しようと試みる。
そして立ち上がる。
相手の殺意に気圧されそうになるが、自身の精神を統一して震えを止める。
(相手に気圧されるな……)
心を落ち着けて深呼吸する。
死なば諸共、もしも死ぬのならば相手を道連れにしようと考えて、持っていた短剣を納める。
仲間だけは見捨てない。
その仲間を助けるために、覚悟を決めて背負っていた剣へと手を伸ばし、そして柄を握り締めた。
「おや、背中の剣を使うのかい?」
「あぁ……足掻いても死ぬんだったら、アンタも道連れにしてから死んでやる!!」
体内の魔力が極限にまで高まっていく。
意識を剣、そして相手へと集中させていき、自滅覚悟で相手を殺すつもりで高みへと挑む。
「良いねぇ。若者はこうでなくちゃあね」
「その澄ました顔を歪めてやる!!」
ギリっと歯を食い縛り、鞘から一振りの剣を引き抜いて魔力を纏わせていく。
膨大な魔力を一点に集中させ、蒼白い閃光が夜の世界を明るく塗り染め、その光を携えて飛び出した。
「受けてみろ!! 今の俺が出せる最大奥義を!!」
「ハハハ!! 良いだろう! その決意に免じて受けて立とうじゃないか!!」
ジャックは武器も持たずに、重心を前へと逸らしてニックへと向かっていく。
得物すら手にせずに、むざむざ斬られに向かうような蛮行のはずなのに、形相には恍惚とした不気味な愉悦感が仮面となって張り付いていた。
ゾクっとした。
死神の鎌を首元へと添えられているかのような、そんな恐怖が思考を鈍らせる。
「『コンドラーク流真剣術・空墜』」
振り上げた剣を力の限り振り下ろした。
その輝きの一撃が、ジャックの身体を頭から足先までを真っ二つに斬り裂き、その瞬間に全体的な動きがスローに観測されて、接近してきている殺人鬼が一刀両断されたのが確認できた。
今度こそ手応えを感じて、敵を斃したと脳裏が神経で感触を貪った。
人を殺した感触は魔族と大差なかったが、しかし感情的には少し変化があった気がした。
だがこれで勝利だ、殺してしまったのだ、そう思った。
「ニック!!」
「ぇ――」
敵を排除したという事実から、空気張り裂ける大声によって現実へと引き戻され、取り返しのつかない事態になっていたと理解した。
だが、その理解は一瞬で脳裏を真っ白に塗り染める。
いや、真っ白に綺麗さっぱり消えたと言い換えるべきか、反転した視界には、赤い大小様々に命の雫が大量に埋め尽くされていたからだ。
斬られた、と認識した時には地面を赤く彩り、そこへと飛び込んだ。
「グッ……ガッ――」
深々と胸部を斬り裂かれてしまい、空中へと身体が浮き上がり、地面を連続してバウンドしていった。
内部に衝撃が加えられ、何度も傷口に激痛を与えていくのだが、慣性は止められない。
手にしていた直剣も全部折れてしまい、使い物にならなくなっていた。
剣も戦意も根元から折れてしまった。
斬られ、血を流す。
「な……な、ぜ………だ?」
世界は広大である、だから自分よりも実力のある強敵がゴロゴロいるのだと、理解させられる。
そもそも、どうやって自分の攻撃を避けたのか、視界の端に入った凶悪さの増す嗤う表情の男を目に、自分の脳裏に疑問符が発生した。
職業という未知があるが、しかし戦闘経験はそこまで豊富ではないから、相手の実力、そもそもジャックは職業すら殆ど使用してなかったために理解できない。
「僕は手品師、身代わりを作るのだって簡単なのさ」
一体いつの間に分身体を製作したのだろうかと、ニックは思考を働かせる。
視線を一切逸らさなかったはずが、それでも分身へと攻撃してしまった失態は帳消しにならず、何故気付かなかったのかと熟考するが、激痛がそれを鈍らせた。
重苦しい痛みによって額を地面へと押し付けて、必死に堪え続ける。
身体に刻まれた斬撃痕は生々しく血を噴き出しており、自身の服と地面を真っ赤に染め上げて、命をどんどんと削っていく。
流れてゆく血が、徐々に体重を軽くする。
「ハァ、ハァ……ケホッゲホッ」
「ニック!!」
口からも、ポタポタと血が落ちていく。
朦朧としていたが、一瞬でも緊張感が途切れたら気絶してしまうと、無意識下でその意識を統制する。
怪我によって体力がガリガリ削られている事態に、ルミナは回復魔法を駆使して癒そうとするも、死への恐怖から上手く言葉を紡げない。
ガタガタと震えて、奥歯が連続して鳴り続けた。
「に……に、げろ……」
身体から力が抜けていき、もう立つ気力も、剣を握るための握力すらも残っていない。
精々、今回限りのはずのパートナーであるルミナに言葉を授けるのみ、それでも彼女は腰を抜かして逃亡も図れない状態となっていた。
「さて、もう君達に興味無いし、僕も依頼された標的のとこに行きたいから、死んでもらおうか」
「ぃ…ぃ、ゃ……」
死神が少しずつ歩みを寄せてくる。
陽炎のようにユラユラと、まるで影を掴ませず、小さな足音が徐々に大きく二人の耳朶を打っていく。
そしてニックの真横に立ち、何処からともなく取り出した針を片手に振り上げて、小者へとせめてもの情けに暗器を振り下ろそうとして、三人にとって予想外な人物が間に立ち塞がった。
「『重闘拳/破剛』!!」
「うっ……」
避ける暇を与えない強烈で重量級の攻撃をガードしたジャックだったが、拳撃を繰り出した女の一発が重たく、後ろへと跳躍して威力を殺した。
茶色い髪に目元には隈のある眠たげな表情をした、今回の試験官でもあるAランク冒険者、『剛腕』の二つ名を授かった女、ナフィが現れた。
颯爽と登場した彼女が両拳を構えて、敵対者へと警戒しながら、背後で死に絶え絶えの二人を観察する。
「テメェ等無事…か……いや、その状態だと案外無事じゃなさそうだな」
後ろを振り向いた事で二人の様相を把握したため、腰のポーチからポーションを取り出して、予備動作無しでニックへと直接振り掛ける。
その突然の行動に慌てふためく戦士は、急な行動に対して怒りを向けていた。
するならすると、言ってほしい。
そんな内情を抱えていた。
「うわっぷ!? テメェ何しやが……ぽ、ポーションか」
「上級だぞ? 後で金払えよな〜」
身体に受けた傷が塞がっていき、深かったはずの斬撃痕が完璧に完治した。
薬師等の薬剤関連の職業者達が作成している中で、稀に上級ポーションが完成したりするが、その高価な妙薬をぶっ掛けられて命が救われたため、何だか扱いが雑なような気がすると、ニックは無駄に思考が割かれた。
しかし、上級ポーションは手に入る確率がかなり高いため、高額で取引されたりもしているので、一本で数十万もの金額となる。
ニックは払えるだけの金額を持ち得ていない。
「んで、森の中で新人殺し回ってる殺人鬼野郎ってのはテメェだな?」
「その呼び方は是非とも止めてもらいたいなぁ。僕はジャック、僕は単に人を殺すのが好きなだけだよ」
「うるせぇ変態野郎。オレが駆除してやるぜ!!」
好戦的に突っ込んでいくナフィを止められず、ただ戦闘を見守るしかなかった。
「好戦的な人、僕は好きだねぇ」
「テメェに好かれても……嬉しかねぇよ!!」
肉体に纏わる魔力が、振り抜いた拳の威力を上昇させたのを、ジャックは身を以って体感した。
両腕をクロスさせて、その顔面を守った。
しかしながらミシミシと骨軋む音が聞こえて、足を地から浮かせ、敢えて衝撃の方向へと跳躍してパンチの勢いを上手く消した。
「野蛮だねぇ。左腕が使い物にならないじゃないか」
「折れてんのに余裕だなテメェ」
その言葉通り、ジャックの左腕が折れているのか、プラ〜ンと垂れていた。
かなりの激痛に苛まれているはずなのに、笑顔が崩れないという異質の表情は、三人の心情を揺さぶった。
人は防衛本能によって異質なものを排除しようとする傾向にあり、これは不安や恐怖を無くすために行う集団心理の一種だが、一つの異質なものは冒険者である彼等自身に恐怖を与えるものだ。
この場合は、痛みによって顔が歪むのではなく、笑顔を絶やさずにいるという醜怪な表情が、彼等の常識という防衛本能が働かせたのだ。
「気味悪りぃな、テメェ……」
「あぁ、ありがとう」
「褒めてねぇよ!!」
感情がコロコロと変わっているのは敵ではなく味方、という謎の光景にニック達は奇妙に映った。
互いに殺されかねない状況で、頭のネジが外れているのはジャックなのか、それともナフィなのか、もう剣士の青年には分からなかった。
(コイツ等は化け物だ……)
今浮かべた感想が、彼の本心だった。
そして自分が何もできずに足を引っ張っている、悔しくて堪らなかった。
自責の念に苛まれて、立ち上がろうとする青年に気付き、剛腕を携える少女が格好良く青年達に覚悟を放った。
「安心しな。ひよっこを守るのはオレ達上級冒険者の仕事なんだ。仮にオレに何があろうとも……絶対にお前等を守ってみせる!!」
上級冒険者としての矜持のために、格上の相手にでも挑戦していく後ろ姿と覚悟の言葉は、二人の瞳に、耳に、そして記憶に焼き付いて、離れる事は無かった。
長い夜が朝焼けへと動き出すように、進む時の流れに乗るように、二人の強き者達は合図するまでもなく、同時に相手に向かって飛び出した。
その戦場では最早、殺すという目的のために踊る二人しか存在しなかった。




