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星々煌めく異世界で  作者: 二月ノ三日月
第四章【南国諸島編】
161/276

第152話 罪と罰2

 真っ暗な闇が広がっていた。

 手を伸ばしても、少し歩いても、闇の向こう側に壁なんて存在しなかった。

 ここが何処なのか辺りへと首を回して視界に映してみるが不明、手足を動かせているのだから自分が誘拐された訳ではないだろう。

 しかし、叫び声を上げても、地面に落ちていた小石を遠くへと投げても何も返ってこない。

 覚えているのは、夜番を終えてアルグレナーとユーグストンの二人にバトンタッチしたところまでだ。


「ここは……何処だ?」


 暗闇の先から風が吹いてきて、肌寒い空気が後ろへと逃げていった。

 地面は荒く、凸凹としている。

 歩きにくいが何とか歩けるだろうと思い、風の吹いていた方向へと自然と足を動かしていた。

 そちらに何かがあるような気がしたから。


(まさか、またスクレッドの固有空間……いや、奴のは真っ白い空間だったし、これはまさかゼアンの?)


 それにしては暗黒龍がいつまで経っても現れない。

 だから、ここが固有空間の中ではないと認識して、そのまま照らされない道を恐れずに突き進む。

 冷たい風だ。

 白い前髪が風によってフワッと浮いた。

 ずっと向かい風が身体に当たっているが、何処かに出口があるのかもしれない、そのために風の流れに逆らって歩みを止めずに足を運んだ。

 カツ、カツ、と足音だけが聞こえてくる。

 静かな闇の空間、充てもなく彷徨う。


「……」


 人間というのは、何日間も暗闇に居続けると精神崩壊を引き起こすとか起こさないとか、その結果はまちまちだと俺は思っている。

 その線引きは、人間の感情や精神的な脆さ、過去の記憶や性格、生活環境、様々な要因によってラインが設定され、その中で結果は変化するだろうが、大体は数日間の閉鎖空間で何も食わず飲まずだと極度の飢餓と脱水症状から、同時に死への恐怖心と外へ出たいというギリギリの精神による切望から、精神は瓦解する。

 昔は孤児院の奴等に『忌み子だから』という理由のためだけに、三日間ギリギリまで閉じ込められたりした記憶があったのを不意に思い出した。

 三日ギリギリで外へと出られたので、何とか生き延びれたのだが、あの時は本当にキツかった。


(静かだ)


 一寸先は闇、その諺通り何も見えないし、自分の手足すらも感覚がほぼ残っていない。

 手を握ってみても、それが本当に握れているのかも分からずじまいであり、自分の身体がそこに存在しているかも定かではない。

 自分が何処にも存在していないかのようだ。

 その感覚に囚われて、足が絡れて転んでしまった。


「痛っ……」


 地面に倒れて地面へと手を着き、石か何かで掌を切ってしまった。

 しかし、闇に紛れて地面すらも見えない。


(クソッ、何処だここは?)


 太陽が昇らない不思議な世界で、痛みを感じた。

 つまり俺は寝ている訳ではないのか?

 いや、眠る直前までは覚えているのだ、それ以降の記憶が無いから多分夢の中だろう。

 しかし痛覚がある、何故だ?

 魔力を常時広げているため、誰かに襲われたり攫われたりはしていないはずだが、もしかしたら全てが偽物で、催眠術を掛けられているのか?

 それが寝てる間の脳に作用して、こうした痛覚ありの夢を見ている、のか?


(記憶が曖昧だな……)


 深い睡眠を取っているのか、痛覚があるのに目覚める気配は無い。

 魔力を練ろうとしたが、何故かそれができなかった。

 錬金術も、精霊術も、影魔法も、何も使えない普通の人間に成り下がったようだ。

 しかし超回復だけは手元に残ったらしい。

 先程切った掌も傷が塞がっていた。


「ぇ……火だ」


 途端に大きな火が壁となって出現し、迫り上がった炎壁が辺りを照らしてくれる。

 四方のうち前方だけが火の道となって進めと言っているようだ。

 他三方は炎壁で遮られている。

 超回復があるのだが、その壁の向こう側に行くよりかは炎で示された道標を辿る方がよっぽど良い気がしたため、俺はその火の道を進んでいく。

 まぁ、炎道の両サイドも高い炎の壁に遮られてるから、結局逃げ場なんて有りはしない。


(熱すらも肌で感じるって……この空間は一体何なんだ?)


 誰かの悪戯、な訳ないな。

 そんな馬鹿な真似する奴はきっと、催眠術師以外はいないだろう。

 だが、奴との接点は無いのだ。

 犯人が誰か判明していない現段階では、催眠術師の力なのかすら怪しくて未だ解答を得られない。


(道が続いてるし、進んでみるか)


 かなり先にまで行けるようだ。

 静寂が手招きして、こっちだよと誘っている。

 冷たい風にぶつかりながらも俺は道なりに進んでいく。

 だが歩けども歩けども、一向に目的地に着く気配すら無い道のりの先に何が待ち受けているのか、俺はその答えを見つけるために前だけを向いて先を探す。

 息苦しく感じるが、それでも俺は前へと行かなければならない。


「ハァ……ハァ……」


 歩き続けてきて何時間が経過したのか分からなくなってきたくらい、体内時計が狂い始めた頃に、その先に一筋の光が見えた気がした。

 無尽蔵の体力だと思っていたが、この空間では俺は人間に近付くようだ。

 超回復だけが身体に備わっている。

 左目も、右目も、精霊紋も、影も、魔力さえも、何もかもが使えないこの空間で、その先に見えた小さな灯火が希望の光に見えた。


『ヴィル』


 何処からか声が聞こえてきた。

 遥か昔に聞いた、そして二度と聞けなくなってしまった優しく、懐かしい声だった。

 道の先にいるのだろう、俺は灯火へと走っていく。

 脇目も振らずに足を回し、躓きそうになりながらも声の主の元に着いた。


「な、なんで……」


 真っ赤な髪を乱雑に下ろした一人の少女、僅か十歳の絶望を味わった身体に似合わない屈託無い笑顔が本来の特徴の、黄色に近いオレンジの瞳を持った子供だった。

 しかし顔に笑顔は無く、表情に色を持っていない。

 何故ここにいる?

 何で君がこんなとこに――


『ヴィル』


 ただ、彼女は俺の名前を何度も、何度も、何度も、俺の名前だけを連呼し続けていた。

 感情を瞳に、そして顔に映さず、彼女は一歩ずつ距離を縮めてくる。


『ヴィル』


 会いたかった気持ちと、会いたくなかった気持ち、罪悪感や悲痛な感情、希薄ながらも俺はそれ等を心の奥底で感じていた。

 燻っていた感情が音となって口から出てきた。

 

「何で君がここにいるんだよ……君はもうこの世にはいないはずだ……」


 そうだ、もういない。

 俺がこの手で……この手で……


「そうだろ? なぁ、フィー?」


 君はもう屍人だろう、何でここにいるんだ。

 夢であるのは彼女を目にした瞬間理解したが、それでも夢から目覚めない。

 このまま悪夢に囚われるのかと思っていると、彼女は小さな手で大きくなってしまった俺の手を取った。


『ヴィル……』


 彼女が何かを言いたそうにして、表情を和らげた。

 俺も何かを言葉に出そうとしたが、その刹那、彼女の身体は焼け爛れた醜いものと変貌を遂げて、焼けた音が耳朶を打った。




『何で私達を殺したの?』




 首を傾げ、溶けていく目が俺を射抜く。

 それだけで心が締め付けられるように苦しくなって、俺は喉元に引っ掛かった言葉を飲み込んでしまう。

 目を瞑って顔を背けたい衝動を必死に抑え付け、地面に転がって死に絶えている彼女の横を通り、小さな灯火を再び追い掛けようとする。

 しかし、右足首を誰かが掴んだ。

 フィーは左隣にある。

 それとは別の手が俺を引っ張ってきて、そこは底無し沼のように身体を沈ませていく。


『ウォルニス』

「は、ハクメイ……」


 純白な長髪と真っ白い瞳をした十歳くらいの男の子が、俺を沼へと引き摺り込んでくる。

 後ろから逃がさないぞと言わんばかりに強く抱き締められて、ミシミシと骨が軋んでいた。




『何故、我等の命を踏み躙った貴様が未だ生きている?』




 耳元で囁かれて、前に回された腕が俺の首を締めて殺そうとしてくるが、瞬間全身がバラバラに崩れ落ちて俺は間一髪助かった。

 幾つかのパーツに分かれて、焼け落ちている。

 手の震えが止まらない。

 全身が恐怖で可笑しくなっているようだ。

 怖い、辛い、苦しい、そう思っても誰も俺なんかを助けてくれないだろうし、俺は助けられる資格なんて持っちゃいない。

 ハクメイ、お前の言う通りだよ。

 俺は君達を踏み台にして生き残ってしまった。




『可哀想なウィル。私達の身体を弄んでおいて、一人全てを忘れたのです?』




 弄んだ、確かにそうかもしれない。

 彼女達の身体を無惨に扱い、それを俺は焼き捨てる結果にしてしまったのだから。


(……忘れやしないさ、ジーニー)


 今度は茶色いボブウェーブの髪の小さな女の子が沼から這い出て、俺の服にしがみ付いてくる。

 その虚ろな鈍色の瞳は俺の心を見透かしてくるようだ。


「夜の数だけ考えた……でも、思い出せないんだよ」


 俺の精神を防衛するための措置を脳が合理的に判断して、俺の感情の起伏を抑えるために忘れてしまったのだから、思い出せば当時のウォルニスはきっと壊れてしまっていただろう。

 それを理解しながら、俺は全てを思い出したかった。

 まだ先を思い出せていない、まだその先の真実を見ちゃいない。




『あづぃヨォ、ゔぃルぐぅん!!』




 嗄れた声が耳元で囁かれる。

 顔が焼けてしまったため、誰の声なのかは分からなかったけど、その呼び方で誰なのかは理解できた。


「ルネッタ……」


 身体の燃えている少女が、俺の首を両手で絞めてきて、喉が焼けていく。


「ァッ!?」


 強い力で抑え付けられて、俺は底無し沼に更に嵌まっていった。

 俺を恨んで、憎んでいる、そんな感情が向けられる。

 暗い暗いトンネルの出口を探しても見つからない。

 延々と続いているかのような錯覚感に苛まれて、抵抗する気力が失せてしまいそうになった。

 だが、その首を絞めてくるルネッタも、ハクメイやジーニーと同じようにバラバラとなってしまい、沼にボチャリと落ちてしまった。

 それが沈んでいくのを横目に、沼で必死に藻掻いて外へと出る。




『ウォルニス……何で俺達を置いて逃げた? お前のせいで全員、死んじまったじゃないか』

「ガロ……」




 俺の出た沼には、青色の癖っ毛の髪をした鼻に絆創膏を貼った青年が立っていた。

 俺に向けられる純粋な殺意、それを一身に受けて抗う気力がどんどん無くなっていく。

 他の遺体はすでに沼に沈んでおり、その中には焼けた院長とその妻であるラングナー夫妻、かつての俺の両親代わりの人達も物言わぬ骸となって半身浮かせて死んでいた。

 ここが地獄なのか?

 ここが俺の辿った先の末路なのか?

 もう、何が何だか分かりやしない……ここは本当に何処なんだ?




『君の焼いた孤児院はこの先だよ、ヴィル』




 あの小さな灯火が孤児院だったなんて、何て巫山戯た話だろう。

 出口に向かって突き進んでいるはずが、その光が絶望に続くトンネルの入り口だったとは皮肉も良いところだ。

 暗い緑色の髪に赤と黄色の目を持った懐かしき孤児院の同居人、忘れたくとも忘れられない顔の一つ、ディーシャンがそこにいた。

 指を差しているディーシャンが、孤独の道へと進めと俺に言っているような気がして、一歩を踏み出そうとした。


『行ってください、ヴィル君』

「イグニシア……」


 そして最後の一人、金色の長髪で、その髪の先が青くなっている少女が俺の背中を押してきて、彼女のオレンジ色の瞳が黒く禍々しく染まっていく様を俺はハッキリと見てしまった。

 その笑顔は作り物のようで、ピクリとも動かない表情が現実感を見せてくる。

 やはり全員死んだのだな、と。

 そう思った矢先、彼女は追い打ちを掛けるかのように冷たくて抑揚の無い淡々とした声を発し、広がっていた炎壁が狭まっていった。




『貴方の罪が……待ってますよ』




 瞬間彼女が視界から消えて、いつの間にか身体がバラバラに沼に浮かんでいて、虚ろで悲しげな目だけが俺を見てきていた。

 何処までも俺を呪っているぞ、と語ってくる。

 それが怖くて、恐ろしくて、堪らなかった。

 覚えているのは孤児院の子供達の顔、ラングナー夫妻の顔、そして俺が孤児院を焼いた事実、その三点だ。

 あの灯火へとゆったりと歩いていく。

 全員の先程の言葉が胸中で反芻され、そのまま吐き出してしまいたい衝動に駆られ、同時に人間の焼けた臭いが鼻腔を刺激してきて考えが纏まらない。

 悍ましい空間から早く出たい。

 その意思だけは確かだ。

 だから、ゆっくりとした足取りが徐々に速くなっていき、俺はその孤児院を目指して全力で駆け出していた。


「ハッ……ハッ……」


 息を切らしながらも長い道のりを走り続けて、そしてようやく俺は贖罪の記憶へと辿り着いた。

 モクモクという擬音が心の中で浮かぶくらい黒煙が噴き出しているが、しかしその黒煙すらも焼き滅ぼす勢いで激しく燃え盛る一つの小さな孤児院が、断崖絶壁の向こう側に建っていた。

 凄まじい熱量が、切り立った崖の反対側に位置している俺まで届き、頬を焼いていく。


「また……焼けてるのか」


 こんなのを見せて、俺にどうしろと言うのだろうか。

 崖の向こう側では、団欒とした思い出が小さな火種によって崩れていき、その思い出の下に彼等が静かに眠っているように感じた。

 炎に揺らめいて見えたのは、小さな自分の姿だった。

 無様に地に這い蹲り、大粒の涙が頬を伝う。

 手に握り締めた一つの短剣はすでに血に塗れていて、あの光景の先を思い出せずにいた。


「グッ――」


 途端に脳裏に激痛が生まれて、視界がノイズだらけとなって一つの情景が浮かんできた。

 それは彼等と過ごした楽しかったはずの日々、俺にできた初めての居場所が真っ赤な血で塗り潰され、虚ろな目をして欠けた身体を引き摺っていた彼等が、俺へと一歩ずつ迫ってくる。

 まるで誰かに見せられている(・・・・・・・・・・)ような感覚(・・・・・)に、これは記憶とは違う幻なのかと思った。


「い、今のは……」


 一瞬で不快感が押し寄せてきた。

 楽しかった日々が崩れ去っていく光景から、俺は罪悪感に押し潰されそうになった。

 何故忌み子なのだろうか、何故俺は世界から嫌われているのだろうか、黒い感情が表出しそうだ。

 教えてくれよ、皆……俺は生まれてきちゃいけなかったのか?


「……」


 しばらくはその燃え盛る孤児院をただ眺めていた。

 結末は変えられない、だから手を出さない。

 いや、そもそもの話、手を出そうと思っても並の身体能力となってしまったため、そちらへと行けない。


『これで分かりましたか? 貴方が、自分で、全てを壊したのですよ』


 背後にいたイグニシアへと身体を向けて、恐れていた質問を聞いてみる。


「……イグニシア、俺を恨んでいるか?」


 ずっと聞きたかったけど、ずっと聞けなかった言葉を俺は吐き出した。

 もう彼女達はこの世にいないから、もう二度と会えないのだから俺は夢であっても、恐れを抱いても、一人の少女へと質問する。

 そして返ってきた答えは残酷なものだった。


『貴方に出会わなければ今頃、私達は幸せだったでしょうね。けど、貴方が私達の幸せを奪い取って逃げた。恨んでいるかなど、愚問でしょう』

「……そう、だな」


 きっと彼女達は俺を恨めしく思っているだろう。

 そんなのは分かりきっていたさ。

 分かってたけど、俺のせいじゃないって、俺は正しい事をしたんだって、俺は間違っちゃいなかったんだって心の何処かで否定している自分がいた。

 だが、そんな心の防波堤も最早決壊してしまった。

 見て見ぬフリはできない。

 彼女が恨んでいる、そう言ったなら俺は恨まれて然るべしというもの。


『貴方のせいで全てが奪われた。その『罪』をよく見ておく事です。そして……全ての記憶を思い出した時、貴方はきっと――』


 彼女は何かを言い残す前に消えてしまった。

 俺を見つけてくれた存在、俺に優しくしてくれた存在、俺に色んなものを教えてくれた存在、その居場所という存在さえもが泡沫の幻想としてスルリと手元から零れて、そしてパチパチと火の粉を撒き散らしながら焼けていく。

 裏切られて、嫌われて、もうとっくの昔に枯れ果てていたはずのものが目尻から頬を滑り、温かな何かが零れ落ちる感触が脳に伝えられる。

 全ての記憶を思い出した時?

 そう言われても、封じてしまった過去を取り戻すのはかなり厳しい。

 錬成で無理に記憶を覗こうとしても、身体が拒絶してしまう。


「この先を……思い出せないんだ」


 どうしても、俺はこの先を思い出せない。

 思い出したいという意思とは対照的に、脳は思い出すなと本能で訴えてくる。


「喜びも、怒りも、悲しみも、もう殆ど残ってないはずなのに……」


 俺の心は希薄となっている。

 最近では味すらも感じないし、楽しいと思えるような出来事であっても、素直に楽しめない。

 偽物ノアがユスティをナンパした時も、俺を攻撃してきた時も、怒りは無かった。

 だけど、これは何だ?

 この頬を伝うものは何なんだ?

 それは分かっている、そして心から俺は何かを感じ取っている。

 だから、俺は消えてしまった彼女に話し掛けた。


「何故か……涙が溢れてくるんだ」


 小さな声だった。

 とても小さくて、息を吹き掛ければ消えてしまうような灯火で、俺は訳も分からずに涙を零し続けた。

 孤児院以外は何も無い空間、寂しそうな印象を受ける。

 これが俺の精神を反映していると言うのなら、この暗い世界全てが俺の根源であり、俺は孤独を味わって寂しいと思っているのか。

 だが、裏切りによって、俺は周囲と一定の距離で接している。

 それがこの崖を表しているのかもしれない。

 近付くな、とでも言うかのように。

 闇とは反対に、周囲には炎の壁が聳え立つ。

 そして孤児院も激しく燃えている……まるで、もうすぐで尽きてしまう俺の生命のように、そこにいる子供の頃の俺もいつしか消滅する。

 その子供が血に塗れた短剣を持っていて、それがジャネット母さんのものであるのはすぐに分かった。


「俺と関わったせいで……」


 俺は孤児院へと手を伸ばした。

 決して届きはしない想いを乗せて、それでも俺はまた彼等を裏切らなければならない。

 その苦しい想いに、俺は歯を食い縛る。


「皆、ごめん……でも俺はまだ、死ぬ訳にはいかないんだ」


 皆の命を踏み台にして、現世に繋ぎ止めてくれた生命を燃やして、まだしなければならない自分の使命のために、この命を使い続ける。

 だから死ねない。

 その想いが届いてか届かずか、炎の勢いが増して、建物が無惨な姿へ変貌を遂げる。

 俺は何もできない愚か者だ。

 力を手にしても、その大きな火すらも消せない無能で、手を伸ばしたところで彼等が帰ってくる、なんてのは絶対に有り得ない。

 それが現実だ。

 幾ら手を伸ばそうとも、幾ら願おうとも、人は決して過去には戻れないのだと、その当たり前の現実が俺の心をズタズタに引き裂いていく。


「ルネッタ、フィー、ガロ、ジーニー、ディーシャン、ハクメイ、イグニシア……」


 俺にとって、忘れてはならない名前だ。

 楽しそうに笑顔を浮かべながら俺の横を通り過ぎていく皆の姿が、その名前の順番の通りに駆けていく光景が、俺の目に映っていた。

 七つの名前が、孤児院の炎に蝕まれる。


「父さん、母さん……」


 その彼等に続いて、二人の懐かしい顔が俺を見ずに、小さな子供達の後を歩いていった。

 崖は音も無く埋め尽くされていた。

 その先、孤児院の前に辿り着いた彼等が全員振り返っていて、彼等は孤児院より燃え移った炎によって全身が焼けていった。


『『ヴィル』』


 その優しい二つの声が耳に届いた瞬間、孤児院の炎が完全に消えて、その炎から十個の墓標が出現した。

 そこには、全員の名前が刻まれていた。

 ウォーゼフ=ラングナー、ジャネット=ラングナー、ルネッタ、フィー、ガロ、ジーニー、ディーシャン、ハクメイ、イグニシア九人の名前が彫られている。

 しかし十個の墓標が立っている。

 最後の一つ、中央にある十字の墓は何故か文字化けしているせいで、読めなかった。


(俺の墓標か)


 随分と洒落た真似をしてくれるもんだ。

 全員の名前が刻まれていて、しかしまだ俺だけは生き残っている。

 だから、ここで一先ずの清算だ。

 一つ、やり残していた。


「……」


 すでに鎮火した後の孤児院に足を向けた。

 もはや廃墟と化した孤児院の焼け焦げた扉を押し、力を込めると金具が外れたのか壊れてしまい、前へと倒れて扉がデカい音を立てて地面に倒れた。


(懐かしいな)


 この孤児院は他よりも小さいが、それは俺が孤児院にやって来る前からそうだった。

 経営難だったらしい。

 廊下を通り、居間へと入った俺の目に映ったのは、小さな俺が何かを抱き締めていたところだった。

 黒焦げに焼けた歪な球体、それが何なのかは先程までの道で見てきたから、少年が抱き締めているものが崩れ去っていき、俺は少しだけ物寂しい気持ちになり、その黒焦げとなった骸に心の中で別れを告げた。


(さようなら……)


 絶望に打ち拉がれていたウォルニスは、少ししてから立ち上がり、所持していたナイフを首元へと持って自決しようとする。

 絶望から逃げるために、命を絶つ気でいる。

 短剣を握る手は微かに震え、恐怖と後悔の混じった表情から、当時の俺はこんな顔をしていたのだろうかと疑問に思って彼の手首を掴んだ。


「死んだら駄目だ、ヴィル……」


 自分で自分を止めるだなんて、不思議な悪夢だ。

 この先、俺がどうなるのかは俺だけが知っている。

 ここで死ぬのは許されない。


『何故だ? 死んだらもう、そんなにも苦しまなくて済むじゃないか』


 確かにお前の言う通りだよ、ウォルニス。

 死ねば全てが楽になる、死ねば苦しい気持ちを味わわずに済む、しかしそれは『逃げ』でしかなくて、何のために皆は俺を恨んでまで生かしたのか、それを知る前に死んでしまっては本末転倒だ。

 だから俺は、心の未熟な自分へと言葉を被せる。


『もう、苦しまずに――』

「違う……逃げてるだけだ。それはお前も気付いてるだろ? だから俺達はこの苦しみを背負って生き恥を晒し続けてるんだ」


 たとえ夢だったとしても、この夢にはケジメを付けなければならない。

 彼等に報いるための、贖罪の一つの形として。

 彼等は俺を絶対に許さないだろう、けれども彼等の人生を奪ってまでして生き残った者には責任が付き纏う。


『生き恥晒してどうなる? 結局は何も変わってないじゃないか』


 それは、俺の傷を抉る言葉だった。

 ズキッと左脇腹の下に隠れている火傷の痕が、言葉に反応して疼いていた。


「……あぁ、そうだな」


 疼きを抑えるためにギュッと服を掴んで堪える。

 孤児院を焼いてできた生涯消えないきず、それがこの大火傷である。

 皮膚は爛れ、内臓は焼け焦げ、生きているのが不思議なくらいだ。

 しかし奇跡でも何でもない、罰を受けて死ぬという道へと逃げないよう運命がそうしたに違いない、そうずっと思ってきた。

 罪と罰は払いきれていない。

 だから俺は当然のように生き残る。

 生き恥を晒しても結局変わっていないが、変わるために生き恥を晒しているのではない。


「一人こうして生き残ってしまった罪を、他人を犠牲にしてしまった罰を、俺は一生涯掛けて受け、償い続けなければならない」


 それが俺に許された人生だ。


「何者にもなれず、何者にも認められず、俺は他人を犠牲にしてまで生き延びた意味をずっと彷徨いながら探し続けるんだ」

『それが俺達の……罪と罰なのか?』

「あぁ、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、死ぬ事だけは絶対に許されない。だから生き恥晒すのも厭わず、何度も地獄の中で生き続けてるんだよ、ヴィル」


 俺の罪と罰は俺だけのもの、地獄を巡り歩いて、まだ俺は何のために生きているのかを見つけていない。

 だから俺は立ち止まりはしない。


「それに……遥か昔に一つ、約束したんだ」


 俺が生きなければならない理由、その根源は前世にあった。

 もう幾度となく思い出そうとして、結局はできなかった一人の少女との約束を果たすために、俺はこの世界を彷徨い歩いている。

 会えるかも分からない、会えないかもしれない、それでも苦言を呈するのはお門違いだ。

 俺は……それを言う資格すら持ち合わせていない、ただの咎人なのだから。


「もう名前も顔も忘れちまったが、前世で俺の唯一の親友だった彼女と約束したからな、絶対に見つけるって」


 もしも彼女がここにいたら、きっと怒るだろうなぁ。

 何で名前を忘れたんだ、とか言って。

 でも、やっと君の名前を少しだけだけど、思い出せたんだよ。

 それを口に出すのは恥ずかしかったから、俺は言葉にはしなかった。


『それを彼等が許すと思うか?』


 パッと部屋が明るくなった。

 部屋全体が血生臭く、壁や天井にも大量の血痕が撒き散らされていて、その血が床に倒れている九人の俺の家族のものであると思考が結び付く。

 そして子供の俺が血に塗れたナイフを持っている。


『お前が潔く死んでいれば、他の九人はこんな無残な姿になる事は無かった。お前がいたから、彼等は散らす必要のない命を犠牲にした。お前がこの家に来なければ、七人の栄光ある未来は閉ざされなかった。全てお前が招いた結果だ。お前だけが好きな子と再会して幸せになるってのは間違いじゃないか?』

「……」


 俺がいたから、彼等は死んだ。

 そうだ、俺はそれを知っている。


『一人だけ助かろうと九人もの人間を見殺しにしたのか? 一人生き残るためだけに七人の命を弄んだのか?』

「ッ……」


 違う、そう何度目かも分からず考えた言葉を外へと放り出そうとしたが、言葉が出てこなかった。

 俺はそれだけ過ちを犯したのだから、少年の言葉を否定してはならない。

 俺が九人の命を見殺しにして、自分が生きるために七人の命を、その身体を弄んだ。


『答えてみろよ、ヴィル』


 ナイフが地面に落ちて、金属音が響いた。

 同時に胸倉を掴まれて引っ張られる。

 その射殺すような鋭い黒瞳を向けてきて、俺は言葉を詰まらせる。

 その剣幕と雰囲気は、かつての落魄れていた頃の俺だ。

 世界に疎まれて憎んでいた頃の自分が、そこにいる。


『俺は……俺達は……何のために生き残った?』


 今はまだ、その答えを手に入れてない。

 何のために生き残ったのか、それは俺を生かした者にしか知り得ないだろうし、生き残った代償として彼等を失っただけの価値が俺自身にあるのか、まだそれを証明しきれていない。


『唯一の居場所を自らの手で焼き払って、九人の命を犠牲にして逃げた。逃げて逃げて逃げ続けて……』


 傷だらけの身体を持った青年へと成長した少年が、俺の眼前に仁王立ちする。

 目の前に鏡があるみたいだ。

 ただし、瞳の色だけが黒いままだった。


『生き残ってしまった意味を探し続けるために、この地獄で生き続けなくちゃいけないのか?』


 確かに俺にとっては生きにくい世の中だ。

 地獄と言い切るのも頷けるし、これが俺の深層心理ならば的を射た発言に相当する。

 だから、俺はこの地獄で生きなければならないのだと肯定する。


「……そうだ」


 苦い経験なら何度もしてきた、地獄ならとうの昔に渡ってきた。

 この地獄(げんじつ)は死ねば終わる。

 しかし、死は『逃げ』である。

 だから俺は地獄を生き続けなければならない。

 一人生き残ってしまった罪を、彼等を犠牲にしてしまった罰を生涯掛けて背負い続けて、たとえ身体を傷付けようとも厭わず、前に進み続ける。


『死ぬよりも辛いんだぞ?』


 あぁ、知ってるよ。


『後戻りできないんだぞ?』


 それも、知ってる。

 九人の命の償いのために、俺はこんなところで死んではいられない。

 だから運命に抗い、予知夢に挑み、この決められた道を打ち壊さなければならない。


「きっと俺は幸せになれやしない。九人もの命を見殺しにしておいて一人だけ幸せにはなれない。だから俺は一人罪と共に生きるよ」


 それが俺の覚悟である。

 この苦しみは俺だけのものだから、他人には絶対に背負わせたりしない、俺が彼等を背負わなければ意味が無くなってしまうから。


『……それで良いのか?』


 あぁ、良いよ。


「良いんだ、これで」


 これは、俺の一生を決める覚悟だ。

 彼等が許すなら俺は本当の意味で自由を得られるだろうけど、それは俺が許さない。

 俺は一人薄情に生きはしない。

 罪にしっかりと向き合って、自分の人生を決める。


「だから皆とは少しの間だけ、お別れだ」


 倒壊した孤児院は煤だらけで今にも二階が崩れてきそうではあるが、そんな壊れかけの孤児院の壁には巨大な穴が空いており、壁の外側に向けて俺は言葉を発する。

 穴の外側に見えるのは、十字架の墓標達だ。

 九人の命が宿る十字架の墓にサヨナラを告げる。

 また戻ってくるよ、絶対に。

 心中に念じて外に出ると、焼け落ちた孤児院も、そこにあった墓十個も、全てが消えていた。

 代わりに俺の左目が急に熱を持ち始めて、墓標のあった場所に九人の魂が見え、それが空へと何処までも舞い上がっていった。

 俺を拾ってくれた恩を仇で返してしまい、本当に申し訳ない。

 けれどアンタ達の温情があったから、俺はここまでやって来れたんだよ。


「ありがとう、皆……俺、行くよ」


 墓標を一瞥して、いつの間にか消えていた炎の先、一寸先の闇へと歩き始めた。

 背後には後光が差している。

 今なら光に向かう道へと引き返すチャンスでもあるだろうが、俺には照らされた道は少し眩しすぎるので、だから自らでは決して光へは進めない。

 あそこは孤独な人間の居場所じゃない。

 と、何かが俺の右腕を通り抜けた気がした。

 不思議な感覚が腕を擦り抜けていく。


(ん? 気のせいか?)


 まぁ良いか、どうせここにいても時間の無駄だ。

 闇が俺を呼んでいる、だから俺はそちらへと歩いていこうとした。

 まさに丁度その時だ、誰かの大きな声が耳朶に残った。


「ノア君!!」


 ハッキリと知らない声が木霊したから、その声のする背後へと身体を向けるが振り返っても誰もおらず、しかし確かに呼び止められたのは間違いなく、耳の奥に今でも名前が響いている。

 ノア君、誰かがそう呼んだ。

 その声は全くの別物のはずなのに何処か懐かしく、俺は後ろ髪引かれる想いで闇の向こう側へと歩く。

 呼び止めてくれた誰かには申し訳ないが、俺は闇の中で生きると決め――


「ぇ……」


 俺の右手の薬指に、か細い糸が巻き付いていた。

 暗闇の中でも淡い光を携えて、その赤い糸が腕を引っ張ってくる。

 暗闇へは行くなと言われているみたいだ。

 けど、暗闇の方から無数の手が伸びてきて俺を包み、全身を闇へと持っていかれる。

 俺は光へは行けない。

 行ってはならない。

 その自らが定めた戒めを破るのは自分にはできない、だから俺は赤い糸を凝視しながらも身体の力を抜いて、暗闇へと引き寄せられていく。


『そうですよ、ヴィル君……貴方は決してこの世界に生まれてきてはならなかった。光の道に進めば絶対に周囲を不幸にする』


 強烈な害意が俺の耳元で囁かれ、彼女の言葉が幻影を見せる。

 リノ、ユスティ、そしてセラ……彼女達が血塗れになって倒れている姿が見えた。

 チクリと胸が痛む。

 その荒野の先には、一振りの黒刀を携えている俺の後ろ姿も見えた。

 彼女達を踏み台に俺だけが生き残った世界線、それを見せられている。


『そう……貴方がいるから、貴方が関わるから、彼女達も私達のように人生を奪われる』


 背後にいたイグニシアが両腕を肩から前に回して、抱き締めてきた。

 黒く空っぽな視線が、後頭部に突き刺さる。

 顔が寄せられ、彼女の目や口内が真っ黒となっていた。

 その彼女が俺を縛って離さないため、それは一つの呪縛として心を完全に拘束され、俺の身体は暗澹とした宵闇の世界へと引き摺り込まれていく。


『ヴィル君……貴方は生まれてきてはならなかった。貴方に価値なんて、無いのだから』

「イグニシ――」

『貴方が関わって殺してきた数多くの人が、その闇の中で貴方を殺そうと憎しみを膨らませて待ってますよ』


 嬉しそうに、空っぽの目元が形を歪ませる。


『さぁ、行きましょう……アハハハハハハ!!!』


 彼女は俺のせいで、俺が彼女の言葉通り関わってしまったせいで壊れてしまった。

 その笑い方を俺は知らない。

 朗らかに笑う君を知っていたから、イカれた嗤い声がより暗闇に木霊する。

 もしかしたら彼女も俺の生み出した幻影でしかなく、その彼女は壊れかけた俺の精神を現し身として具現化したものでしかないのかもしれない。

 その歪んだ心を体現した彼女は、大気を劈く声を出しながら俺を闇へと誘った。


(ここは……寒いな)


 彼女の壊れた嗤い声だけが闇の空間に響き、俺の意識は朧げとなる。

 悪夢から現実へ浮上する合図だ。




『アハ ハハハ  ハハ  ハハハ ハ!!!』




 意識が覚めるまで、俺はずっと彼女の口から出ていた聞きたくもない雑音を耳にしていた。

 そして朦朧とした視界が途切れ、俺はまた現世へと戻される。

 次第に耳も遠くなっていき、手足も動かない。

 全てを感じなくなったところで俺は現実という名の地獄を再び味わうため、彼女をこの悪夢に残し、地獄の業火に焼かれに舞い戻る。


「イグニシア!!」


 息も絶え絶えに、彼女を呼んで身体を起こした。

 そこにはもう、彼女の姿は無かった。

 汗塗れの身体は痙攣し、妙にリアルな夢を俺は見ていたのを覚えている。

 右薬指にあった赤い糸は消え、微睡みから俺は目醒めた。

 そして今日、また新しい一日は闇を抱える俺すらも呑み込むくらいに清々しい程の晴天に満ちており、テントから出ると涼しげな風が背中より前へ走っていく。

 彼等が、アイツ等が風に乗って俺の中から消えてしまったような気がして……

 寂寥感からなのか罪悪感からなのか、俺は訳も分からずにそっと涙を零していた。






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