第150.6話 月明かりに照らされて
夜番、それは周囲の警戒に当たる人を示し、冒険者達にとって旅をする上で常識の行動であるため俺達も同じように夜番をする。
基本交代制で俺達は十二人いるため、二人一組で六回に分けて夜番ができるだろう。
男子陣が風呂に入って俺が近くで薬品生成に精を出していると、ふとした切っ掛けで今日の夜番についての会話に転換していた。
「わ、私、夜番とかした事ありませんの。何か礼儀作法とかってありますの?」
「いえ、特に無いです、聖女様」
聞いてるだけでも分かる通り、シオンは聖女という特殊な環境にいるために箱入り娘である。
夜番の経験が無い奴も普通にいるけど、炊き出しとかしているなら経験があるはずだ。
「普段炊き出しとかしてたら経験あると思ったんだけど、珍しいね」
「お恥ずかしい限りですの。基本は教会員の方が夜番を担当してくださいますから、私には縁がありませんでしたの」
聖女の仕事はギルドと連携して来る教会員専用の依頼があり、それを熟すのが聖女の役割である。
七人もいるが、基本世界に散らばっている。
例外的にシオンだけは星都にいるそうなのだが、近々大聖女選定が行われるために全員が一同に会するそうだ。
(ここに来ても良かったんだろうか?)
何が理由でここに来ているのかは知らないし聖女は直接的な犯人ではないだろうが、間接的に犯人に利用されてる可能性も秘めてるため、まだ油断ならない。
催眠に掛けられているかは霊王眼では見通せないので、これも抜け穴の一つだ。
「順番とかって何か決まりがあるんですの?」
「特にありません。ただ、就寝時間の関係上、一番辛いのが二番目から真ん中辺り、というところでございますね。今回は十二人、つまり最低二人組で六回に分ける方式を取るのが普通でしょう」
その場合、一番辛いのは二番目と三番目か。
一番最初の人はそのまま起きてれば良いし、時間になったら交代すれば済むが、二番目三番目は短い睡眠の後に夜番をして再び就寝するという面倒な役回りとなる。
四番目五番目は一応だが十分な仮眠を取れるため、時間まで夜番をすれば良いだけだ。
「それか三人一組、四人一組で交代する方法もありますが、その場合は当然ながら個人の就寝時間が減ります。逆に夜番での負担も減りますから、こればかりは話し合って決めるのが妥当でしょう」
ダイアナの完璧な説明に、リュクシオンが納得して感嘆とした声を上げていた。
しかし追加で一つ言っといた方が良いだろう。
「因みにだが今回は状況が特殊だから、二人か三人別に分かれて、その上でお互いが知り合いでない関係でなければならない」
「アンタ……作業しながら聞いてたの?」
「並列思考は得意だからな」
粗方薬品を作り終えた俺は、一時的に作業を中断して聖女様に状況を説明した。
「地質調査をする理由は知ってるよな?」
「勿論ですの。島の作物が枯れたために、現在星夜島で発生している集団昏睡事件と関係があるかもしれない、そのための調査ですの」
そう、俺達は地質調査のために星夜島の森で調査をしているのだ。
しかし言葉だけでは説明しきれないくらいの複雑怪奇な問題がアルグレナーの両肩に伸し掛かっている。
俺の肩にも、か。
「この調査では不可解な点が幾つもある。互いに監視し合わなければならない状況でもあるって訳だ」
「ど、どういう意味ですの?」
「つまり、この集団昏睡事件の犯人が、この調査団の中にいるかもしれないって話だ」
唐突なるカミングアウトに全員驚きはしなかったものの、何処か神妙な顔付きとなっていた。
本当ならば言う必要は無いし、言うメリットよりもデメリットの方が圧倒的にデカいため、これで俺が標的にされた可能性がある。
しかし、結局後手に回ってしまうなら暴露した上で迎え討つ方が楽だ。
「こ、この中に……犯人がいるんですの?」
聖女様は周囲を見て疑心暗鬼となる。
互いに警戒を張っていれば俺も仕事が減るのだが、中々そうはいかないな。
「いる『かもしれない』、だ。正確な証拠は何一つ掴めてないし、だから俺達は互いに監視し合う状況下にいなければならない」
「お、仰っている意味が分かりませんの……」
「例えで引き合いに出すのは申し訳無いが、仮にカレンが犯人だったとしよう」
適当に引き合いに出す。
彼女は口に含んでいたお茶を吹き出していた。
「ちょっ――何故小生なのだ!?」
「仮にだから、気にするな」
「気にするに決まっているであろうが!!」
この彼女の文句に反応していても時間の無駄なので、このまま例えを用いるとしよう。
「カレンが犯人だった場合、もしかすると同じパーティーを組んでるジュリア、それからダイアナの二人も共犯の可能性が浮上する。その場合、知り合い同士で夜番を担ったとしたら――」
「分かりましたの! つまりその時間帯は犯人が自由に行動できてしまう、という意味ですのね!?」
正解だ、流石は聖女様。
そう思っていると、先程の説明でカレンを引き合いに出すのではなく、俺が犯人だった場合で話せばより説明しやすかったなと思い返す。
いや、まぁ良いか、分かってくれたし。
今回の事件は生命龍が引き起こしたものだが、その裏には催眠術師の存在が見え隠れしている。
「互いに初対面だったり、或いは知り合いでなかった場合、周囲に目を向けていなければならない。知り合いだったら気にも留めない行動でも、あまり面識が無かったらどうだ?」
「あ、確かに不自然に映るね」
「そうだ。だから夜番では二人が最適だろう」
ただし俺の見解でしかないので、俺を信用できないと思った場合は容赦無く却下してくれても構わない。
単なる意見でしかない。
受け入れるも良し、切り捨てるも良し、どっちにしろ俺に不利益が被らないならば却下も承認も自由にしてれ、と言いたい。
「結局俺の意見でしかないからな。ここはしっかり話し合うべきだ」
夜番の指定人数が何人であれ、そこは些細な問題として処理できる。
しかし重大な問題点が一つある。
それは、犯人が催眠術師であるという事実だ。
全員の職業能力を少しは把握したが、催眠術に関連するようなものは無かったし、催眠術師は麻薬売買人でもあるために『麻薬』に関連する職業として現状『薬物師』が一番怪しい。
薬を作れるなら麻薬も可能。
事実、材料さえあれば麻薬を生み出せるし、大量の毒物を保有しているから怪しまれるのは当然だし、これも覚悟のうちだ。
(あの時、俺を睨んでた奴が一人だけいたな……睨む、つまり憎らしく思っている意味が行動に表れた訳だ。だったら奴は犯人じゃなくて、その犯人を追うために星夜島に来たってのか?)
もしそうなら、奴は俺を犯人だと思っているだろう。
俺が催眠術師かは関係無く、麻薬取引を行っている者として憎んでいるのかもしれない。
だが、そこにはどんな関係性があるのかが不透明であるため、寝首を掻かれないよう要注意だ。
「ディオ君、まるで熟練の冒険者ですの」
「……知り合いに色々教わったんだ」
冒険者の伊呂波を知り合いから学んだ。
それは勇者時代に出会った一人のエルフから、数々の技術を学んだ。
結局、ウォルニスだった頃は不器用なせいで慣れるのに時間が掛かったし、前世の記憶が蘇って初めて身体に馴染んだ感覚があった。
そのエルフが何処にいるかは知らない。
ソイツは教え終わった途端に何処かに姿を消したため、何処かでくたばってるかもしれない。
忌み子である俺に変わらず接してきた変態だったな。
「その知り合いとは?」
「誰から見ても分かる通り、変態なエルフだったよ」
「へ、変態……」
子供好き、と言えば良いだろうか。
俺達人種は奴にとって幼子に過ぎないのだろう、だからこそ奴の態度は変態そのものにしか見えなかった。
だから奴は苦手だが、しかし冒険者としては一流なのは認めざるを得ないだろう、不快だが。
「だった、とは?」
「何処にいるか知らないんだ。もう何処かで野垂れ死んでんのかもしれないし、まだ何処かで生きてんのかもしれない。ただそれだけだよ」
それだけだ、もう奴と関わったりもしないだろう。
それに奴とはもう出会う事もない、そんな気がする。
「じゃあ、その戦闘技術は? 誰から習ったの?」
「根掘り葉掘り聞いてくるな、お前等……半分は独学、もう半分は師匠に学んだ」
「さっき言ってたエルフの知り合い?」
「それとはまた別人だ」
師匠はミルシュヴァーナにいる。
今も国際指定災害魔獣を相手に戦っているのかもしれない。
それだけネームドは強い。
いや、強すぎるものなのだ。
何度か勇者達が戦っている横にいたが、かなりの猛者ばかりだったなと思う。
(アイツ等、よくネームドに勝てたよな)
今の俺ならば、正確に勇者の戦力を特定できる。
恐らく奴はそこまでの強さを持っていない、だから興味も無い。
それに奴は魔族十二将星の一人に負けている。
だから奴が俺の邪魔さえしなければ関わりすらしないだろうと思う。
「半分が独学というのは、かなり凄いと思うのでございますが……」
「まぁしかし、俺が教わったのは魔力制御技術が殆どだったな。他にも武術とかも習ったが、そっち方面には才能が無かったんだ」
今も才能の欠片も存在しない無能ではあるが、凡人にだって辿り着ける境地というものがあるため、一年掛けて魔境で鍛え直した。
前世では古武術や体術を習って覚えてるし、この世界では剣術や武器術も習った。
他にも弓矢や槍術等は身体の動かし方や思い通りの動きをイメージして、それを身体で再現しているに過ぎない。
こんなのは誰にだってできるだろう。
俺なんかにできたんだ、才能のある人間ならば俺よりも上手くできるだろうし、だから羨ましい。
「ですが薬物師が名前通りの職業なら、非戦闘職ですの。武術とかは必要なんですの?」
「職業が全てじゃないからな。例えば魔法使いが近接戦闘の術を身に付けてたら脅威となるように、俺も近接戦で自衛できるくらいには鍛えたつもりだ」
職業で全てが決まったりしないから、魔法が使えないハンデを背負っているせいもあって、師匠が魔法指導を諦めて武術に専念した。
魔力制御の才能がからっきし駄目だったから結局は徒労に終わったが、今では何とか扱えている。
「その薬学の知識は?」
「本読んだ、それだけだ」
「職業を授かった時に脳裏に浮かばなかったの?」
確かに薬学分野の職業を授かったら脳裏にレシピとか知識が備わるという利点があるが、俺には理不尽にもそれが無かった。
当然だ、俺は錬金術師なのだから。
しかし暗黒龍との契約で、力の使い方が脳裏に浮かんで理解できた。
俺の場合、勇者パーティー時代に培った薬学の知識が今を生き繋いでいるだけ。
ジュリアには俺の能力の一端を見せてしまったし、彼女が聞いてくるのも理解できるが、返答に少しだけ困った。
「単に知識量が足りなかったから勉強したんだ……意味なんて無かったけどな」
少し眠気を感じたため、近くに置いていたバックパックからコーヒーのツールボックスを取り出して、それを手早く組み立てる。
アルコールストーブに五徳を付けて、ドリップポットに水を入れて湯を沸かす。
「何作ってんのよ、それ?」
ルミナの指摘に答える前に、コーヒーボトルの中の黒い粉をポケトルにセットしたフィルターへと入れて、沸いたお湯を注いでいく。
小さな泡が増えていく。
コーヒーの苦く香ばしい匂いが鼻腔を優しく刺激して、マグカップに注がれていく黒い水を眺める。
「コーヒーって飲みもんだ」
甘いのは好きだが、苦いコーヒーは時々飲みたくなる。
前世で、趣味の一つとしてキャンプをしていた頃があったが、その名残りでコーヒーセットを作ってみた。
マグカップに注がれたコーヒーを飲んで身体を温める。
眠気覚ましとしては、とても良いものだ。
「苦いな……」
「苦いのに飲むの?」
その言葉に、少しだけ硬直したのを自分でも感じた。
前に一度だけ、高校生だった時に聞かれた。
『乃亜くん、コーヒーなんて苦いの、よく飲めるよね〜』
懐かしい気持ちが込み上げてきて、その気持ちをコーヒーと一緒に胃へと流し込んだ。
もう、とうに昔の記憶のはずなのに彼女の笑顔が鮮明に映ったような気がして、不思議な気持ちが心中に渦のようにグルグル巡っている。
そして同じく寂寥感が姿を現す。
やはり俺はまだ『彼女』を忘れられないらしい。
少しばかり何気無い日常の記憶が蘇った俺は、昔と同じ言葉を自然と口に出していた。
「コーヒーは……『蒲公英』の味だから」
途端にズキッと頭に激痛を感じた。
「グッ――」
痛い、というには辛すぎる苦痛が脳を締め付けるような感覚で、持っていたマグカップを落としてしまう。
「ご主人様!?」
視界がチカチカして、平衡感覚が無くなっていき、自分を見失いそうになる。
横に倒れそうになったところでユスティに支えられる。
頭が物凄く痛いはずなのに、何故か心がとても軽い気分だった。
「やはり体調が――」
「悪くはないよ」
それは本当だ。
頭が働かないだけで、気分が悪くなったりとかはしていない。
「ちょっ、どうしたの!?」
「だ、大丈夫でございますか?」
ジュリアとダイアナが心配そうな声を掛けて、俺へと駆け寄ってくる。
「気にしなくて良い……」
「か、回復しますの!」
「だから良いって――」
「何かの病気かもしれませんの! 放っておくと酷い目に遭うかもしれませんの!!」
放っておくと酷い目に遭うかもしれませんの、か。
考えが纏まらない、思考が分散していく、それは俺の記憶が一気にクリアになったからであり、そのお節介なところが昔の俺そっくりで変な気分だ。
「『クライセントの書第四章・聖者ノ神眼』」
彼女の瞳が青から金色に変化して、俺の身体を隅々まで凝視していた。
探知系、或いは診断、解析系統の能力か。
魔力とは違う何かしらの力が彼女の瞳に宿っているが、しばらくして不思議そうに眉を顰めていた。
目元のエネルギーが霧散して、聖女は妙な顔を近付けてくる。
「何も変化がありませんの」
「……そうか」
何処にも異常は見当たらないそうだ。
それは自分でも分かっていたが、それでも今は久し振りの感情が芽吹いていた。
嬉しい、そして……悲しい、と。
しかし絞り出された感情は消え、自分の感情がもう糸でギリギリ引っ張られているだけ、という不思議な感覚に見舞われた。
どうやら、今ので感情の糸に切れ込みが入ったか。
無茶すれば、精神の糸が切れて崩れ去るだろう。
「ご主人様?」
「あぁいや、何でもない。少し夜風に当たってくるから、片付けといてくれないか?」
「わ、分かりました」
嬉しい気持ちも、悲しい気持ちも、全てが風化していってしまう。
その気持ちを留めておくのは俺にはできない。
夜風に当たっていると、その二つの感情が流されて消えていってしまいそうになるから、この感情を胸に抱きたくなかった。
また、求めてしまうから。
また、その感情に縋りたくなるから。
グチャグチャの感情と記憶に振り回されながら、俺は海を目指して森の奥へと入っていった。
「……」
その時、俺はユスティから視線を向けられているのにも、全く気付きはしなかった。
森の草木を掻き分けていると、さざ波の音が少しずつ大きくなって聞こえてきた。
森の出口が見えた。
キャンプ地に近かったようだ。
出口より一歩先に踏み出し、大きな月が夜の地平線から出てきている景色が目に映った。
「今日は満月だったか」
切り立った崖の先端、俺はそこに足を着けた。
下を見ればかなりの高さで、落ちたら一溜まりもない岩礁地帯だった。
「君は今、俺を見てるのか?」
その崖に座って、夜空を一人見上げる。
もうこの世界で何度目の月夜を眺めただろう、星が見下ろす中で俺はもうずっと彼女を探していて、名前も顔も、彼女との会話も殆ど覚えていないはずだったのに、先程の言葉が切っ掛けとなった。
前世の彼女の名前だけ、ようやく思い出せた。
まだ顔までは思い出せていないけど、その笑顔と君の名前だけは呼び起こせたから、少し胸が軽くなった。
「昔っから君は、よく俺を振り回してきたよな」
行きたい場所へ行って、遊んで、笑って、楽しい日々に俺を巻き込んで、彼女が行くところには俺も同伴していたのだと記憶に蘇った。
水族館、映画館、レストラン、遊園地、ショッピング、観光名所、色んな場所に行った。
けど彼女は唐突に、蒲公英の綿毛のように空へと飛んでいってしまった。
「何で忘れてたんだろ……」
ずっと思い出したかった、ずっと知りたかった、それが変な形でようやく取り戻せた。
激痛の余韻はまだ残っている。
この激痛は彼女を忘れていた俺への罰の一つ、なのかもしれない。
「ハァ……情けないな」
彼女を忘れていた。
それを彼女に会ったら何と言えば良いのか。
「合わせる顔が無いな、全く」
寝そべって巨大な満月を眺める。
月のように綺麗な瞳をしていた、と思う。
忘れてしまったはずの彼女の顔が少しずつ輪郭を帯びていく。
けど、目の色は何色だっただろうか?
目の形はどんな形をしていただろうか?
鼻の位置はどの高さだっただろうか?
髪はどんな髪型だったのだろうか?
何も思い出せないけど一つだけ、昔俺が彼女の誕生日プレゼントに花の髪飾りを贈ったのを思い出した。
安っぽい髪飾りだった。
もっと高いものを選べば良かった。
しかし後の祭りとはよく言ったものだ、どれだけ願っても彼女とは会えなかったのだから。
「なぁ、君は何処にいるんだ?」
もし彼女がこの世界に来ているなら、会って何を話せば良いのかは想像すらできない。
きっと、会っただけで胸が一杯になって上手く喋れなくなるだろうから。
「何で俺の前からいなくなったんだよ……」
いや、分かっている。
いつかは離れ離れになる運命にあったのだと、気付いていながらも俺は彼女のために何もできなかった。
ただ一緒にお願い事をして、短い時間を一緒に過ごして、そして来てほしくない時が訪れて、俺達は唐突にお別れしてしまった。
「ご主人様?」
「ッ!?」
気配が自然に完璧に溶け込んでいたから、全く彼女に気付けなかった。
身体を起こして、背後にいた少女を目に映す。
「何故隠れていた?」
「いえ、それは……」
彼女の耳は、かなり鋭敏であるため、俺の呟いた全てが聴かれていたか。
怒る気はしなかった。
息を吐いて、心を落ち着かせる。
「まぁ良い、それより何だ?」
「あっと、その……し、心配だったので、つい……」
どうやら先程の頭痛で迷惑を掛けてしまったようだ、しかし心配はいらない、頭痛は引いているため、もう戻れるのだが俺はまだここで月夜を眺めていたいのだ。
それが伝わったのだろう、ユスティが隣に腰を下ろす。
どんどんと遠慮が無くなっていく彼女を見て、良い傾向にあると考える。
だが、今回ばかりは放置しておいて欲しかった、とも心の奥底で考えてしまう。
「誰を、お考えになっていたのですか?」
「……」
それを口に出す前に聞きたい。
「何で俺が『誰か』を考えてたと思ったんだ?」
「女の勘です」
女の勘とは、不思議なものだ。
不思議なものだが、セラよりかは誤魔化せる。
しかし何故か、誤魔化してはならないような気がした。
「即答か……女というのは、どいつもこいつも厄介な勘を持ってるもんだな」
「それで、誰を考えていたのですか?」
濁り無き眼が、俺の身体を射抜いた。
「昔の記憶さ……もう忘れてしまっていた、かつて俺が愛していた初恋の人を思い出してた」
彼女の瞳が揺れる。
唇を噛み、苦しそうにしている。
「特殊な環境にいたからか、不本意ながら昔の記憶の殆どを忘れてしまっていたんだ」
「それは……記憶喪失、というものですか?」
「どうなのかな。記憶喪失なのかもしれないし、当然の措置だったのかもしれない。けど、俺は遥か遠い過去の記憶を思い出したくて、できなくて、突然さっき少しだけ記憶が戻ったんだ」
僅かな記憶でしかないけれども、名前だけは脳裏に思い浮かんだ。
「ご、ご主人様は、その……その方に、お会いしたいのですか?」
震えた声が耳朶を打つ。
彼女は俺に依存しているから、他の女の人に俺を盗られるのが面白くないのだろう。
居場所を、借宿を、失ってしまうのが堪らなく恐ろしいのかもしれない。
「会いたかったよ。けれど、彼女はもう、死んでしまったんだ」
「ッ……ご、ごめんなさい、私、ご主人様に不快な思いをさせてしまいました」
「別に気にしちゃいない」
彼女が悪い訳でも、俺が悪い訳でもない。
誰のせいでもないからこそ、俺は彼女に対して不敬だとか文句も、不平不満も垂れたりしない。
彼女は死んだ、俺も死んだ、結局二人で過ごした人生は俺にとっては短いものであり、そして彼女と死別してからの人生は酷く憔悴した、退廃的な毎日を過ごした。
彼女がいない世界を生きるのは辛かった。
何日も何年も何十年も、彼女のいない人生を過ごしたが、それは身を切るような苦痛だった。
「俺は彼女のいない人生を何十年と過ごしてきた。それは楽しい日常と乖離していた。苦しくて、辛くて、そして俺も、道半ばで死んでしまった」
「え?」
「好きな人がいない世界というのは、モノクロにしか見えないものだ」
辛くて失った悲しみを抱えて、最後には真実に気付いてしまう。
「でも、失ってしまったものは二度と元に戻らないのだと、その真実に気付いてしまった」
「……」
「気付いた時、彼女がいなくなったのが現実なんだって受け入れた。受け入れてしまったから、俺は……」
そして、俺は転生した。
彼女が全てだったから、それだけ彼女を愛していたから、失った時の悲しみを抱えきれなくて俺は沢山泣いた。
涙が枯れた頃には、数日が経過していた。
転生して、彼女を思い出して、もしかしたら彼女は俺と同じように先に転生したんじゃないか、という淡い期待もしたけど、グラットポートで英雄ノアとして名前が広がっても彼女は会いにきてはくれなかった。
俗世から離れた生活をしているのか、それとも知っていて会いにこなかったか、それか彼女はこの世界に転生していなかったのか……
「って、何でユスティに話してんだろ、俺?」
彼女になら何でも話せてしまう、そんな雰囲気を持っている。
隣を見ると、少女の目尻からキラキラと月明かりに反射して涙がポロポロと落ちていた。
「私もご主人様と同じ気持ちでした」
「ユスティ……」
「私も両親を失って、とても悲しかった。愛する家族が私の支えだったんです。そして両目が光を閉ざして暗闇に迷い込んだ時、私の世界は真っ暗なのだと思いました」
辛い過去、辛い経験、俺達は何処か似ている。
最初、彼女と出会った時もそう思った。
「けど、そうではありませんでした」
「え?」
「光はあったのだと、今では思います。ご主人様から頂いた光が私に居場所をくれたんです。だから――」
夜空から顔をこちらへと向けた彼女の唇が、後数センチでこちらの唇に届くくらいの密接した距離となって、大きな目と視線が交差した。
そして恥ずかしそうにして、彼女がバッと後ろに飛び退いた。
いつの間にか、泣いていたはずの彼女の涙が、止まっていた。
「す、すみません」
謝られても困るが、黙秘をすると更に気不味い空気となりそうだったので、咄嗟に返答する。
「いや、良いさ」
頭の靄が急に晴れてパニックになってただけだった。
今も生きているのが辛いが、それでも俺は死んではならない。
この世界で俺は沢山の人に酷い事をしてしまったから。
「俺は……何のために生きてるんだろうな」
「へ?」
「いや、何でもない」
そう、忘れてくれて構わない。
単なる過去の、俺のつまらない日常の話だ。
何のために生きているのかを知りたいから旅に出た。
俺はどうして一人生き残ってしまったのか、俺の居場所は何処か、ずっと彷徨い歩いている。
この月明かりと波の音が遠い彼方へと届くように、俺は小さく祈る。
俺は再び皆の場所へと戻る。
彼女も月を背に、俺の後ろを従者のように付き従う。
(君の名前、もう二度と忘れないから)
だから安心して見守っててくれ。
俺は彼女の名前を胸中に隠して、皆のいるであろう場所へと帰ったのだった。
本作を執筆する上で、評価は大変なモチベーションとなります。
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